第18話 引き継ぎ書〈エリク視点〉
寮の水がめは、ぼくが起きるころには、いつも空っぽだった。
町の学校に上がって、ひと月めに気づいたことだ。寮には男の子が八人いて、誰も水を運ばない。みんな、誰かが運ぶと思っている。そして、その誰かは、いつのまにか、ぼくになっていた。
家にいたころと同じだった。まだ暗いうちに目がさめて、さめたら水がめを見てしまう。見てしまったら、運ぶしかない。
母さんの口ぐせを思い出す。
――エリクは、手がかからない子だからね。
手がかからない子は、手を出す子になる。十一になって、ぼくはようやくそのことに気づいた。
学校の授業は、読み書きと計算と、この国の決まりごとだった。いちばん楽しいのは、計算の時間だ。数は、ぼくの前でほどけて見える。三ケタの足し算も、帳面の写しまちがいも、ほどけた糸の中に一本だけ色の違う糸が混じっているように、すぐ分かる。
ふた月もすると、先生は寮の食べ物の帳面を、ぼくに預けるようになった。小麦が何袋、塩が何壺、芋がいくつ。
寄り親様は、ときどき寮をのぞきに来ては、帳面をつけているぼくの背中を叩いた。
「わっはっは! また帳面か! おまえは帳面ばかりつけとるな!」
叩かれると、字がよれる。でも、寄り親様が来た日は、寮の夕飯に肉が出る。
困ったのは、夜だった。
寮の夜は、静かすぎた。父さんの地鳴りのようないびきがない。ロッテの寝言も、双子のそろった寝息も、フィンが鼻を鳴らす音もない。寮の八人ぶんの寝息は、家の十一人ぶんより、ずっと小さかった。
最初のひと月、ぼくは静かすぎて眠れなかった。いびきがうるさくて眠れない、という話は聞いたことがあるけれど、いびきがなくて眠れないという話は、聞いたことがない。
休みの日には、町の本屋に寄った。
レナーテ先生の店だ。正しくは、先生の旦那さんの店だけれど、棚の並びも、値札も、店を開ける時刻も、全部先生が決めている。旦那さんは、店の奥の椅子で本を読んでいて、たいてい客に気づかない。
「みなさん、お元気ですか」
先生は、ぼくが行くたびにそう聞いた。それから、ときどき、こうも言った。
「アインさんは、どうしていますか。床の席で、いちばんよく聞いていた生徒でしたから」
いちばんよく聞いていたのは、ぼくのはずだ。ぼくの家庭教師だったのだから。そう思ったけれど、言わなかった。先生が冗談を言うところを、ぼくは見たことがない。
帳面をつけていないときは、もう一冊の帳面を書いていた。
家の仕事の、引き継ぎの書きつけだ。
ぼくが家でやっていたことを、全部書き出しておく。朝いちばんの水。水がめは二年前からかまどの隣にあるので、井戸から運ぶと十歩よけいにかかる。なぜ動いたのかは分からないけれど、母さんの手が速くなったので、そのままにしてある。薪は、毎晩二十四本。それより少ないと、朝のかまどが足りない。卵は、鶏小屋の奥の巣から先に取る。双子は、片方が泣くともう片方も泣くので、寝かしつけるときは同時に背中を叩く。
書いても書いても、終わらなかった。ひと春で、帳面の半分が埋まった。
行商人が町に来るたびに、家へ届けてもらおうか迷った。でも、父さんは字を読むのが遅い。母さんは、読む暇がない。ロッテは、三行めで寝る。
結局、書きつけは一度も送らなかった。
ぼくがいないあいだ、あの家は回っていないはずだ。夏に帰ったら、この書きつけを渡して、一から教え直そう。そう思って、毎晩一行ずつ書き足した。
春の終わりに、巡察から帰ってきた寄り親様が、寮の戸口で言った。
「クローベルのところは、えらく回っとったぞ! わっはっは!」
ぼくは笑って、お礼を言った。寄り親様は、いい人だ。気を使ってくださったのだと思った。
◇ ◇ ◇
夏の休みに、寄り親様の馬車に乗せてもらって、家に帰った。
着いたのは夕方だった。ネルがつかまり立ちをしていて、双子がフィンの両手を引いていて、母さんが「おかえり!」と言った。
その夜は、ほとんど眠れなかった。明日の朝から、どこから手をつけよう。書きつけを、頭の中で何度もめくった。
まだ暗いうちに目がさめた。
家の誰よりも先に起きる。ぼくの、いつもの朝だ。そっと寝床を抜けて、水がめをのぞいた。
縁まで、水が来ていた。
……あれ?
ゆうべのうちに、誰かが満たしておいたらしい。
薪置き場に回ると、薪がきっちり積んであった。柱に、石で横の線が一本引いてあって、薪はちょうど、その線の高さで止まっている。
数は、数えなくても分かった。数が、ほどけて見える。
二十四本。
ぼくが毎晩数えていた数と、同じだった。
朝になると、もっと驚いた。
ロッテが、桶を両手に一つずつ下げて、歩いて井戸を往復していた。ロッテが歩いて水を運ぶのを、ぼくは初めて見た気がする。ミナとニナは、かごひとつをふたりで持って、卵を一つも割らずに戻ってきた。夕方には、カイが「とりで!」と叫びながら、線の高さまで薪を積みはじめた。
戸口の柱には、板切れが何枚もかけてあった。
リーゼの絵だった。桶をふたつ下げたロッテ。砦を積むカイ。かごを持つミナと、拾うニナ。いちばん上の一枚には、ぼくがいた。水を運ぶぼく、薪を運ぶぼく、卵のかごを持つぼく。ぼくの朝が、順番どおりに並んでいる。
ぼくがひと春かけて書いた引き継ぎの書きつけと、同じ順番だった。
「ロッテが、しっかりしてきたんだよ」
母さんが、うれしそうに言った。
「親分だもん!」
ロッテが、胸を張った。
ぼくは、うなずいた。ロッテは、本当にしっかりしてきたのだと思う。思うのだけれど、数が、ほどけて見えてしまう。
ロッテは、ぼくが毎晩薪を何本数えていたか知らない。数えているところを、見ていたことがないからだ。カイは、二十から先がまだ怪しい。リーゼは絵を描いたけれど、仕事を分けるのは得意じゃない。父さんと母さんは、朝から晩まで、畑と家で手がふさがっている。
それに、この割り振りは、ぼくの書きつけより、よくできていた。
ぼくの書きつけは、ぼくがやることを書いたものだ。全部、ぼく一人でやる前提になっている。柱の板切れは違う。ロッテの力、カイの砦好き、ふたりなら喧嘩しない双子。一人ひとりのできることに、仕事のほうを寄せてある。
ぼくには、こういう割り振りは思いつかなかった。全部、自分で拾えばいいと思っていたから。
じゃあ、誰が。
毎晩、ぼくが帳面に薪の数を書きこむのを、ずっと横で見ていたのは、誰だ。
ぼくは、ゆっくりと振り返った。
アインが、卓の隅で芋をほおばっていた。壁にもたれて、目が半分閉じている。
……まさかな。
三度めだった。一度めは、手のケガが治ったあと。二度めは、帳簿の写しまちがいを指でつつかれたとき。
アインは、ぼくの視線に気づいたのか、気づかなかったのか、壁にもたれたまま、こっくりと舟をこいだ。
その夜、寝かしつけの時刻になると、ぼくはいつものように、双子の背中に手を伸ばした。
「にいに、ちがう」
ミナが、ぼくの手をよけた。
「アインにいにの、とんとんがいい」
ニナが、眉間にしわを寄せて言った。
ぼくの手は、行き場をなくして、宙に浮いた。ひと春いないうちに、寝かしつけの係が替わっていたらしい。
アインが、床に寝転がった。
それから、手のひらで床を叩きはじめた。トン、テン、カン、カン。トカン、カン。どこで覚えたのか分からない、変な調子の音だ。
ネルが寝た。フィンが寝た。ミナとニナが、そろって寝た。カイは、叩く前から寝ていた。
そして、アインが寝た。
叩いていた手が、床の上で止まっている。口が半分開いて、よだれが垂れていた。
ぼくは、思わず吹き出した。
なんだ。やっぱり、ただの寝るのが好きな子だ。寝かしつけの係が、寝るのがいちばん好きな子に回ったのだ。たぶん、それだけのことだ。
そういうことに、しておいた。
◇ ◇ ◇
夏の休みは、あっというまに終わった。
ぼくは、ほとんど何もしなかった。何かしようとすると、もう誰かがやっていた。水を運ぼうとすれば、ロッテに桶を取り上げられた。
「エリク兄ちゃんは、お客さま!」
新しい家庭教師の、ハイディ先生の決まりだという。帰ってきた家族は、お客さまとしてもてなすこと。
客になったのは、生まれて初めてだった。少しだけ、寂しかった。それから、ずいぶん、ほっとした。
町へ戻る前の晩、ぼくは引き継ぎの書きつけを開いた。
ひと春かけて書いた、ぼくの朝。もう、要らなくなった書きつけだ。帳面の後ろ半分は、まだ白いままだった。
寝床のアインは、黒い変な本を抱えて、まだ起きていた。ぼくはその枕もとに、帳面を置いた。
「……字の練習にでも使え」
アインは目をまるくして、帳面とぼくの顔を見比べた。それから、両手で受け取って、黒い本と一緒に抱えこんだ。
紙は、この家ではとても高い。リーゼは、父さんの土産の白い紙の残りの二枚を、まだ大事にしまったままだ。あとで、リーゼに恨まれるかもしれない。
夜中に、目がさめた。
窓から青白い月の光が差しこんでいて、その下に、アインが座っていた。ぼくの帳面を膝に広げている。
ぼくは、寝たふりをして見ていた。
アインは、黒い変な本を月の光にかざして、横のところを指で長く押した。じっと見て、それから小さく息を吐いた。炭のかけらで、帳面に何かを書き足す。そして、黒い本と帳面を抱えて、寝床にもぐりこんだ。
寝息が聞こえはじめるのを待って、ぼくはそっと起きた。
アインの腕のすきまから、開いたままの帳面がのぞいている。白かった後ろ半分の、最初のページだった。
黒い四角の絵が描いてあった。その下に、小さな絵が縦に並んでいる。お日さま。光る手。石。雲と稲妻。どの絵の右にも、×がひとつずつ付いていた。
左に、何をしたか。右に、どうなったか。
ぼくの帳面のつけ方と、そっくりだった。
……字の練習には、なっていないな。
いちばん下の行には、月の絵が描き足してあった。その右にも、まだ炭の粉のついた×が、ひとつ。
アインの変な本は、今日も、うんともすんとも言わなかったらしい。




