第16話 サボリーマンは、長男の業務を引き継ぐ
エリクのいない朝は、空っぽの水がめで始まった。
いつもなら、父親のいびきが止まるころには、水がめの縁まで水が来ている。誰も頼んでいないのに、エリクが運んでおくからだ。二年前にわしが水がめをかまどの隣へ動かしてから、エリクは毎朝、家の中を十歩よけいに歩いた。それでも何も言わなかった。
その十歩ぶんの水が、今朝はなかった。
母親が、空のかめをのぞきこんだ。背中では、ネルがこぶしを口に当てて寝ている。
「……ああ、そうか。エリクはいないんだったね」
「あたしがやる!」
ロッテが、寝床から跳ね起きた。
「エリク兄ちゃんのぶんは、ぜんぶ、あたしがやる!」
そう言うなり、桶をつかんで外へ飛び出していった。寝間着のままだった。
それから三日、ロッテは本当に全部やろうとした。
水を運んだ。走って運ぶので、かめに着くころには半分になっている。薪を運んだ。一度に抱えすぎて、戸口で全部落とした。夜は弟妹を寝かしつけようとして、歌った。
「ねんねー、ころりー、ねんねーよー!」
ネルが起きた。双子も起きた。フィンは八の字の眉のまま、天井を見上げて泣きだした。
声のでかさは、四年たっても変わっていなかった。
ほかの仕事も、どこかしら抜けた。卵を取りに行けば、ミナとニナがどちらがかごを持つかで取り合いになって、卵が二つ割れる。薪の数を数えるのはカイの役目になったが、カイは二十の手前で、数がどこかへ行ってしまう。
「じゅうはち……じゅうきゅう……じゅうじゅう……あれ?」
カイの数は、薪の山の前で、毎晩ふりだしに戻った。
父親は、エリクから受け取った帳面を、夜ごとに開いていた。太い指で一字ずつ書くので、エリクの三倍はかかる。
四日めの夕飯で、ロッテが椀を持ったまま寝た。
母親が、匙を置いた。
「エリクのぶんは、みんなで分けな。ひとりで背負うもんじゃないよ」
それから、わしを見た。
「アインも、もう五つだ。何か持ちな」
……来た。
その春、わしは五つになっていた。これまで家の仕事は上から順に片づいていって、わしのところまで降りてくる前に、だいたいエリクが拾っていた。拾う人がいなくなれば、仕事は下へ転がってくる。転がってくる先に、わしがいる。
このままでは、朝寝と昼寝がなくなる。
属人化である。
ならば、見える化すればいい。
◇ ◇ ◇
次の朝、わしはリーゼの袖を引いた。
「リーゼねえちゃん。エリクにいちゃん、かいて」
リーゼは首をかしげて、それから炭のかけらを持って、板切れに向かった。
リーゼなら、毎朝のエリクも見ていたはずだ。
描きあがった板切れを見て、わしは息をのんだ。
水がめに水を運ぶエリク。薪を運ぶエリク。卵のかごを持つエリク。双子を寝かしつけるエリク。一枚の板に、エリクの朝が全部並んでいる。しかも、ちゃんと順番どおりだ。
イアナなら、三日エリクを見張って、手順を全部書き出していただろう。リーゼは、それを炭一本でやってのけた。
あとは、アサインするだけだ。
ただ、五歳の三男が仕事を割り振れば目立つ。目立てば、仕事が増える。割り振るのは、いつだって親分の役目である。
わしは庭に出て、ロッテの袖を引いた。
「ねえちゃん、おけ、ふたつ、もてる?」
「もてる!」
ロッテは桶を両手に一つずつ下げて、井戸とかめを往復した。両手がふさがっていると、走れない。走らなければ、こぼれない。かめは、昼前に縁まで満ちた。
次は、カイだ。
わしは薪置き場の柱に、石で横の線を一本引いた。エリクが毎晩数えていた薪の数を、積んだ高さに直しておいたのだ。
「カイにいちゃん。ここまで、とりで、つくれる?」
「とりで!」
カイの目が光った。砦である。秘密基地である。カイは数えるのをきれいにやめて、線の高さまで、薪をきっちりと積みはじめた。数えなくても、線まで積めば、ちょうど一晩ぶんになる。
双子は、ふたり一組にした。かごはひとつ。行きはミナが持ってニナが拾い、帰りは交代する。ふたりでひとつのことをしていれば、ふたりは取り合わない。生まれた日から、かごひとつにふたりで寝ていた子たちだ。
フィンは、わしの後ろをついて歩く係にした。もともと、そうしている。
そして、わし自身には、寝かしつけを割り振った。
寝かしつけとは、横になって床を叩くことである。親父の仕事場のリズムを鳴らせば、まわりから寝ていく。叩いているうちに、わしも寝る。寝ても、誰にも叱られない。仕事中に寝てよい仕事は、前世にはひとつもなかった。
完璧な割り振りだった。
リーゼには、もう一枚ずつ描いてもらった。桶をふたつ下げたロッテ。砦を積むカイ。かごを持つミナと、拾うニナ。それから、横になって目を閉じているわし。戸口の柱に並べてかければ、字の読めない双子でも、自分の番が分かる。
ロッテが、柱の前で胸を張った。
「あしたから、これで回すからね! 親分の命令!」
その日の夕方、薪は線の高さで止まり、卵は一つも割れなかった。夜、わしが床を叩きはじめると、ネルとフィンと双子が寝て、わしも寝た。
「ロッテが、しっかりしてきたねえ」
母親が、感心したように言った。
ロッテは、照れくさそうに鼻の下をこすった。
わしは、柱の板切れの、目を閉じている自分の絵を見上げた。この家でいちばんラクな仕事を、親分の命令で、正式にもらったのだ。
◇ ◇ ◇
新しい先生が来たのは、それからひと月ほどたった、よく晴れた日だった。
託児所から帰ると、家の前に、見たことのない浮く荷台と、馬車が一台止まっていた。寄り親様の家のものだという。レナーテ先生の代わりを探してくれたのは、寄り親様だったらしい。
荷台には、先生の荷物のほかに、麦の大袋が二つと、塩漬けの肉がひとかたまり積んであった。
「娘が三年世話になった礼だそうで」
御者のおじさんが、汗をふきながら言った。
母親が、あきれたように笑った。
「世話になったのは、こっちだってのに。あの人は昔から、くれすぎるんだよ」
御者のおじさんは、手紙も一通持ってきていた。母親が封を切って、声に出して読む。
「『春の巡察のついでに、そっちへ寄る。孫が、クローベルの三男坊に会わせろとうるさくてかなわん』……それから、『わっはっは』だってさ。笑い声まで書いてあるよ」
「アイン、もてもて!」
ロッテが、わしの背中をばんばん叩いた。
わしは、袖を握って離さなかった小さな手を思い出して、背中が冷たくなった。
そのとき、馬車から、若い女の人がひょいと降りてきた。
二十代の半ばくらいだろうか。袖をまくって、髪を布でまとめている。旅の荷物より先に、前掛けが目に入った。もう締めている。
その人は、出迎えたわしら家族の前に立つと、両手を前で重ねて、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ!」
……ん?
家族全員が、首をかしげた。来たのは、向こうである。
その人は顔を上げて、はっとして、耳まで赤くなった。
「し、失礼しました。宿屋の娘なもので、つい……。ハイディと申します。王都の宿屋で育ちました。今日から、ロッテさんとリーゼさんのお勉強を見させていただきます」
挨拶が終わると、ハイディ先生は家の中をぐるりと見回した。
そして、自分の荷物をほどく前に、ひとつだけ聞いた。
「お布団は、どちらに?」
◇ ◇ ◇
その日の午後、家じゅうの寝具が外に出た。
洗濯ひもにかかりきらない毛布は、柵にかけられた。柵にもかかりきらないぶんは、父親の浮く台に載せられた。
父親が畑から帰ってくると、自分の台の上で、毛布が日に当たっていた。
「……台が」
「すみません、お借りしています。日の当たり方が、ちょうどよくて」
父親は、しばらく台と毛布を見比べた。それから黙って、鍬を肩にかついで家に入った。
毛布のあいだから、スマホがこぼれ落ちた。夜はいつも、わしが寝床に持ちこんでいるのだ。
ハイディ先生はそれを拾って、首をかしげた。それから、洗濯ひもの端に、ていねいに引っかけた。
「お荷物も、お日さまに当てておきますね」
それは、とうの昔にわしがやった。
ハイディ先生は、毛布をひっくり返して回るあいだに、食卓の席も並べ替えた。
母親は、かまどにいちばん近い席。ネルのかごを、すぐ横に置ける。父親は、戸口にいちばん近い席。朝いちばんに出ていって、泥だらけで帰ってくる人だからだ。カイは父親の隣で、食べながら寝ても父親が支えられる。双子は、向かい合わせではなく隣どうしにした。
「お客さまが十人いると思えば、なんてことありません」
ハイディ先生は、にこにこして言った。
「お客って、あんた。ここの家庭教師だろう」
「はい。なので、お客さまのお世話は、ついでです」
母親が、ぶはっと吹きだした。
わしの席は、壁際の隅だった。
背中に壁がある。もたれれば、そのまま寝られる。
……なぜ、分かった。
「アインさんは、どこでも寝られる方だとお見受けしましたので」
ハイディ先生は、わしの前に椀を置きながら言った。
「いちばん、もたれやすいところにしました」
着いてから、まだ半日である。半日で十人の客の癖を見て、席を決めた。前世で泊まったどのホテルにも、ここまでしてくれる人はいなかった。
◇ ◇ ◇
夕飯の途中で、ハイディ先生の目が、戸口の柱に止まった。
リーゼの板切れが、並んでかかっている。
「あの絵は?」
「当番!」
ロッテが、匙を振り上げた。
「あたしが決めたの。エリク兄ちゃんがいなくなったから、みんなで分けたの」
「まあ」
ハイディ先生は立ち上がって、柱の前まで行った。一枚ずつ、じっと見る。
「よくできた割り振りですね。この絵は、どなたが?」
リーゼが、小さく手を挙げた。
「では、割り振りを組んだのは?」
「あたし!」
「そうですか」
ハイディ先生は、うなずいた。うなずいたまま、まだ柱を見ていた。
「宿ではね、割り振りを見れば、誰が組んだか分かるんですよ」
楽しそうな声だった。
「組んだ人の仕事が、いちばん軽くなるので」
……耳が痛い。段取りを組む人間は、だいたい自分にいちばんラクな仕事を振る。どこの世界でも、同じらしい。
ハイディ先生の指が、板切れの上を順番にたどっていく。桶をふたつ下げたロッテ。いちばん重い。砦を積むカイ。重い。かごの双子。軽いけれど、ふたりがかり。
指が、最後の一枚で止まった。
横になって、目を閉じているわし。
卓が、しんとした。
ハイディ先生が、ゆっくりと振り返った。その目が、壁際の隅の席に向いた。
わしは、芋を両手で持って、五歳になりきった。何も知らない五歳である。五歳は、何も組まない。
「……誰が、組んだんです?」
二度めの問いだった。今度は、わしの顔を見て聞いていた。
「アインは、寝かしつけ!」
ロッテが、卓を叩いた。
「いちばん、むずかしいの! アインが寝ると、みんな寝るんだから。あたしが決めたの!」
ハイディ先生はしばらくロッテを見て、それから、ふっと笑った。
「……そうでしたか。寝かしつけは、宿でもいちばん難しいお仕事です」
先生は席に戻った。戻るとき、もう一度だけ、わしのほうを見た。
わしは、芋をのどに詰まらせた。
◇ ◇ ◇
その夜、わしは寝かしつけの仕事をした。
日に当てた毛布は、ふかふかだった。顔をうずめると、お日さまの匂いがする。床を叩くと、ネルが寝て、フィンが寝て、双子が寝た。カイは、叩く前から寝ていた。
わしも、寝かけた。
そのとき、灯りがひとつ、寝床のあいだを回ってきた。
ハイディ先生だった。宿の夜の見回りのように、一人ずつ寝顔をのぞいて、はみ出した手足を毛布の中に戻していく。ロッテが蹴飛ばした毛布をかけ直し、リーゼの胸の上で開いたままの本を、枕もとにそっと置く。
最後に、わしのところに来た。
先生はしゃがんで、わしの毛布のはしを、肩まで引き上げた。
「寝かしつけの係さんも、お疲れさまでした」
小さな声だった。それから、もっと小さな声で言った。
「……おやすみなさいませ」
灯りが、離れていった。
わしは、毛布の中で目を開けた。
この家で、わしの仕事に「お疲れさま」と言った人は、初めてだった。いや、前世を合わせても、たぶん初めてだ。
「……あかん。ええ宿や」
惚れたのは、これで三度めだった。五歳である。
枕の下に手を入れると、スマホが指に当たった。夕方、洗濯ひもから外してもらったのだ。
あたたかかった。半日、お日さまに当たっていたのだ。
……あたたかい?
前に、試したことだ。分かっている。それでも、いちおう横のボタンを長押ししてみた。
黒い画面に、お日さまの匂いの毛布にくるまって、にやけている五歳児が映っていた。
スマホは、今日も震えなかった。
――ビジネス用語――
※1 属人化:仕事のやり方が、その人の頭の中にしかないこと。今回は、水がめも薪も卵も寝かしつけも、エリクの頭の中。
※2 見える化:頭の中や手もとにしかない仕事を、誰にでも見える形にすること。今回の見える化は、リーゼの炭一本の絵。




