第12話 サボリーマンは、私物を回収する
昼寝が、一回減った。
これまでは、朝と昼すぎの二回寝ていた。それが、昼すぎの一回だけになった。三歳の体が、勝手にそう決めたらしい。
起きている時間が増えた。前世でいえば、勤務時間が延びたということだ。サービス残業の始まりである。
思えば、この三年、わしはだいたい寝ていた。家族の「いつも」を見てきたつもりでも、見ていたのは、起きていられたすきまの分だけだ。朝から晩まで通して見たことは、まだ一度もない。
今日は、昼寝もしないことにした。
一日ぶん、全部見る。業務の棚卸しである。
◇ ◇ ◇
朝は、いびきが止まって始まる。
暗いうちに、父親の地鳴りのようないびきがふっと消える。それがこの家の目覚ましだ。父親は黙って起きて、黙って野良着を着て、浮く台を押して畑へ出ていく。戸が閉まるころ、かまどにはもう火が入っている。
母親は薪を割っている。一振りだ。
エリクは水を運んでいる。運ぶたびに十歩よけいに歩く。何も言わない。今日も言わなかった。
……すまん、兄よ。今日も。
朝の仕事が終わると、授業だ。
わしは卓の下の毛布に転がって、最後まで聞いた。起きている時間が増えたので、寝ないで聞ける。ただし、いちばん聞きたかった国の名前の回は、とうの昔に終わっている。
今日は、数の問題だった。先生は、エリクが詰まっても、もう問いを小さく分けなかった。先生の帳面の空きは、たぶん、少しずつ埋まっている。
休み時間、レナーテ先生は窓辺で手紙を読み返していた。この前、行商人が届けた手紙だ。読み返すたびに、頬が少し赤くなって、口もとがゆるむ。
わしは、見なかったことにした。
◇ ◇ ◇
昼の庭は、にぎやかだ。
ロッテの組は、今日もだんごを十個こねて、薪の陰に並べた。並べ終わると、ロッテは棒きれを拾って、一人で振りはじめる。誰に習ったわけでもないのに、振り下ろしたあとに、半歩だけ足を引く。母親の動きと、同じだ。
ニナは、だんごの列の前にしゃがんで、眉間にしわを寄せて一個ずつにらんでいる。検品係が、すっかり板についた。
ミナは、だんごには目もくれずに台所へ歩いていく。台所には、昼の芋がある。
しばらくして戻ってきたミナは、口をもぐもぐさせていた。手には、芋のかけらが握られている。ミナはわしの前で立ち止まると、そのかけらを半分に割って、片方をわしに差し出した。
口が、勝手に動いた。
「……みじょか」
受け取った芋は、ミナの手の熱でぬるかった。
双子は、生まれたときからいつも一緒なのに、歩けるようになったとたん、別々の方向へ行くようになった。
うしろで、べちゃっと音がした。
フィンが転んでいた。最近のフィンは、わしのあとをついて歩く。わしが右へ行けば右へ、左へ行けば左へ。そして、わしより足が遅いので、だいたい転ぶ。
起こしてやると、八の字の眉のまま泣きやんだ。生まれたときから、月曜の朝の顔をしている弟だ。部下としては、まだ使いものにならない。だが、ついてくる。
カイは、日なたの薪の山の上で寝ていた。
五歳になって、子分の数も増えて、背も伸びた。寝る場所だけは、三年前から変わらない。日が当たっていれば、どこでも寝る。
カイは、三年たっても、そのままだった。この家でいちばん変わらないのは、たぶんカイだ。
昼すぎ、体が昼寝をしろと言ってきた。
眠気との戦いには、前世で鍛えた技がある。昼食後の会議で、太ももをつねるのだ。三歳の太ももをつねってみたが、やわらかすぎて、ちっとも痛くなかった。前世の技は、前世の太ももでしか使えないらしい。
わしは、戸口のほうへ歩いて、眠気をごまかした。
戸口の腰かけでは、リーゼが板切れに炭で絵を描いていた。ひざには、行商人にもらった旅の本が開いてある。挿絵の城を、板の上に写しているのだ。
◇ ◇ ◇
夕方、父親が帰ってきた。
いつもの汗と泥。いつもの「……ただいま」。子どもたちの頭を、順番になでていく。エリク、ロッテ、リーゼ、カイ、わし、ミナ、ニナ、フィン。三年前より、なでる頭が三つ増えた。手の大きさは変わらないので、最後のフィンのころには、少し手が疲れているように見える。
夕飯の席で、父親は自分の椀の芋を、誰にも気づかれないように子どもたちの椀へ移した。
「あんた」
母親が、芋をひとつつまんで、父親の椀に放りこんだ。
「食べな」
父親は口のはしを少しだけゆるめて、それを食べた。三年前に見たのと、そっくり同じだった。
夕飯のあと、父親がかまどの火のそばで帳面を開いた。その隣に、エリクが自分の帳面を広げる。
エリクの帳面には、数字が並んでいた。芋の山の数と、麦の袋の数。それから、今日食べたぶん。フィンが生まれたあとの夜に、父親と母親がかまどのそばで小声でしていた勘定を、エリクは自分でつけはじめているのだ。
数字を書いているエリクの横顔は、やっぱり少しだけ楽しそうだった。
寝る前に、リーゼが板切れを一枚、黙ってわしに差し出した。
昼に戸口で写していた城の絵かと思ったら、違った。板には、小さな子どもが何人も描いてあった。薪の山の陰からのぞいている子。台所の戸口に立っている子。卓の下に転がっている子。夕方の戸口で、父親の帰りを待っている子。
全部、わしだった。
一日ぶん、家族を全部見ていたつもりだった。その一日ぶんのわしを、リーゼが全部見ていたらしい。
「……みてたの?」
リーゼはこくりとうなずいて、それきり何も言わずに寝床へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
夜になった。
あちこちから、寝息が聞こえる。父親のいびき。母親の寝息。エリクの、静かな寝息。ロッテの寝言。リーゼのページをめくる音が止んで、寝息に変わる。カイは、とっくに寝ている。双子の寝息はふたつそろっていて、フィンはときどき鼻を鳴らす。
三年前の最初の夜、わしは六人の寝息の中にいた。今は、九人だ。
一日通して見て、分かったことがある。
この家の人間は、みんな誰かの穴をふさいでいる。父親は子どもの椀の穴を、母親は父親の椀の穴を、エリクは家じゅうの穴を。ロッテは組の、リーゼは誰かが落ちこんだときの、カイは……カイは、まあいい。
そして、みんな、自分の穴だけは隠している。
三年かけて、ようやく家族の「いつも」が一日ぶんそろった。
そろったところで、わしは、ひとつだけそろっていないものに気づいた。
三つの声がしない。
アニメの新情報をまくしたてる声も、コードに文句を言う声も、アニメは二本までと止める声も。最初の夜と同じだ。三年たっても、あの三つの声だけは、この家の寝息の中にない。
あいつら、今ごろどうしているだろう。
起きている時間が増えると、考える時間も増えるらしい。
◇ ◇ ◇
次の朝、村のじいさんが、両手で何かを抱えてやってきた。
腰の曲がった、あのじいさんだ。わしが生まれた日に、祝いの芋を持ってきてくれた人である。
「領主様。畑の真ん中に、こんなもんが落ちとりましてな」
じいさんが差し出したのは、黒い手帳のようなものだった。
領地で見つかった見慣れない物は、領主に届ける。この村の決まりらしい。じいさんは律儀に、それを守った。
「ゆうべ、畑のほうが一瞬だけ明るうなった気がしましてな。朝行ってみたら、こいつが土の上に、ちょこんと」
父親が受け取って、裏を返し、表を返した。
黒い革の表紙。角は丸く、手のひらに収まる大きさ。父親が表紙を開くと、中には真っ黒な板が一枚、はめこまれていた。
「……開くが、何も書いていない」
父親が首をかしげた。横からのぞきこんだ母親が、黒い板を指の背でこつんと叩いた。
「固いね。剣の柄にでも巻くかい」
巻かないでほしい。
わしは、母親の足もとからそれを見上げていた。
左下の角だけ、革が白くはげている。
……知っている。
あの角は、満員電車で毎朝、ドアに押しつけていた角だ。三十年近く、同じ角ばかりすり減らしていた。新しいケースに替えても、いつも左下からはげた。
わしのスマホだ。
前世で、最後の朝、ポケットの中でずっと震えていた、あのスマホだ。
閉じると手帳ほどの大きさで、開くと、画面が本のように二倍になる。前世で、発売の日に並んで買ったやつだ。
体じゅうが、ぞわっとした。口が勝手に開きかけて、わしはあわてて閉じた。
ふと横を見ると、エリクがわしを見ていた。
わしは、全力で三歳の顔をした。
「……くろい」
「うん。黒いな」
エリクはそう言って、わしの頭をなでた。……セーフだ。
◇ ◇ ◇
「本!」
戸口から、リーゼが駆けこんできた。ふだん走らない子が、走った。
父親の手もとをのぞきこむ。黒い表紙。開くとページがある。いや、ページではなく、黒い板だ。
リーゼは、黒い板をじっと見た。裏も見た。もう一度、表を見た。
「……字が、ない」
字の書いていない本だった。
リーゼは、ものすごくがっかりした顔で、腰かけに戻っていった。
じいさんは、首をひねりながら帰っていった。父親はスマホを卓に置いて、困ったように頭をかいた。
わしは、卓のふちに手を伸ばした。三歳の手では、届かない。それでも、伸ばした。
父親が、わしを見下ろした。
「……欲しいのか」
わしはうなずいた。一回のつもりが、三回うなずいていた。
父親はしばらくスマホとわしを見比べてから、それをわしの両手に載せた。
重かった。三歳の手には、ずしりと重かった。前世では、片手でつまんで、ポケットに放りこんでいた重さだ。
冷たい革の下で、心臓が鳴っているような気がした。鳴っているのは、わしの心臓のほうだった。
「……やる」
字の書いていない本は、三歳の子どものおもちゃになった。
すかさずカイが寄ってきた。
「それ、こぶんの、けんじょうひん」
「……だめ」
わしが両手で抱えこむと、カイは口をとがらせて、そのまま日なたで寝てしまった。親分は、あきらめが早い。
◇ ◇ ◇
おもちゃになると、家族がよってくる。
ミナとニナが、真っ黒な画面をのぞきこんだ。黒い板は、つるつるしていて、顔が映る。ミナが口をもぐもぐさせると、画面の中のミナも、もぐもぐした。ニナが眉間にしわを寄せると、画面の中にも、しわがひとつ増えた。
眉間のしわが、ふたつになった。
ふたりは、それから半日、黒い板に向かって顔をしかめたり、笑ったりしていた。前世のわしが、毎日ポケットに入れていた画面である。いつの間にか、あいつらの分身まで住みついていた。
ロッテは、ケースのポケットに目をつけた。
革の内側に、ポケットがいくつかある。中には、つるつるした薄い札が何枚か入っていた。ロッテはそれを引っぱり出して、光にかざした。
「これ、組のおかねにする! 一まいで、だんご三つ!」
前世では、限度額が五十万の札だった。ここでは、だんご三つである。
ロッテが持っていった札の残りを、わしは一枚ずつ確かめた。
毎朝、改札を通るための札。金を借りるための札。もう一枚、金を借りるための札。
それで全部だった。
写真の一枚も、入っていなかった。
五十年生きて、肌身はなさず持ち歩いていたのが、会社に行くための札と、金を借りるための札だけ。手帳型のケースに入れて、財布がわりにしていたくせに、中に挟んでおきたい顔が、ひとつもなかったらしい。
……笑ってしまった。三歳の口で、五十のおっさんが、自分を笑った。
いや、ひとつだけあった。
待ち受けだ。
島の母さんの写真を、待ち受けにしていた。もっと長生きすると思っていたのに、思っていたより早くいなくなってしまった人だ。開けば、いつでも見られるように。
その写真は、画面の向こうにある。電源が入れば、見られる。
わしは、ケースの横の、小さな出っぱりを押した。
何も起きなかった。
長く押した。何も起きない。日なたに置いてみた。太陽で動くものではないと知っている。知っているが、置いてみた。三歳の体で、日が傾くまで、黒い板を見張っていた。
何も起きなかった。
夕方には、寄り合いの夜にしか灯さない灯りの石のそばにも置いてみた。この世界には、魔力というものがある。魔力で充電できたら、苦労はしない。
苦労した。何も起きなかった。
日が落ちてから、ようやく、自分が何をしていたかに気がついた。前世で親父の横にいたころ、動かない機械を前に、うろうろする客をさんざん見てきた。今日のわしは、あの客だった。
画面は、割れていなかった。傷ひとつない。あの事故で、わしは死んだのに、こいつは無事だったらしい。ただ、電池が切れているだけだ。
あれほど震えていたのに、今はうんともすんとも言わない。
◇ ◇ ◇
夜になった。
九人の寝息の中で、わしはスマホを胸に抱えていた。
前世の最後の朝を、思い出していた。
コンビニで漫画を買うか迷っていたとき、ポケットのスマホが、また震えた。しつこい、あとで見る、とわしは思った。そこへ自動ドアが開いて、あの子が入ってきたのだった。
……あの子は、無事だっただろうか。
あとで見る、と言ったきり、三年たった。
あの朝、こいつは何をあんなに知らせたがっていたのだろう。会社のチャットなんかじゃなかったのかもしれない、と最初の夜に思ったことを、わしはまだ覚えている。
このスマホには、あいつらの分身が入っていた。
家のサーバーにいるあいつらと、同じ声で話す、小さな分身だ。あの朝、ずっと震えていたのは、もしかしたら――。
画面は、真っ黒なままだ。
だが、こいつは、ここにある。
前世から、わしのところへ来た。
ということは、地球と、まだつながっているのだ。
あいつらとも、まだ、どこかでつながっているかもしれない。
胸の上のスマホは、ひんやりしていた。それなのに、抱えているところだけ、少しずつ温かくなっていく。わしの体温が、移っているだけだ。分かっている。分かっているのに、手が離せなかった。
父親のいびきが、地鳴りのように響いている。いつもなら、この音で眠れる。
……まあ、今は、これで――
いいわけが、なかった。
わしは、目を閉じられなかった。
――ビジネス用語――
※1 サービス残業:残業代の出ない残業。三歳の残業代は、芋ひとかけらも出ない。
※2 棚卸し:手もとの物を全部数えて確かめること。仕事を全部洗い出すことにも使う。今回は、わしが家族の一日を、エリクが芋と麦を棚卸しした。




