第11話 サボリーマンは、売り場を組み替える
三歳の春が来た。
芋が一人分足りないと言われた冬は、母親の仕留めた魔物の肉で越した。白い毛の魔物は、あのあと二頭来て、二頭とも肉になった。母親いわく、冬の魔物は脂がのっていてうまいらしい。魔物の側からすれば、来る家をまちがえたとしか言いようがない。
わしは、少ししゃべれるようになった。
「ぼく」と言う。口に出すたびに背中がかゆい。
しゃべれるようになると、お手伝いが回ってくる。歩けるようになったときと同じだ。
わしの係は、母親に呼ばれたら行く係だった。
「アイン、ひしゃく」
「アイン、焚きつけ、もうちょっと」
「アイン、フィンの布、取っとくれ」
一日に、三十回は呼ばれる。そのたびに、どこにいても飛んでいかなければならない。昼寝の途中でも、だ。
呼び出しの当番である。この家の当番表には、わしの名前しか書いていない。一歳のとき、寝ながら当番をしていたのが懐かしい。今は、寝ることすらできない。
……これは、なんとかしなければならない。
◇ ◇ ◇
わしは、母親を見張ることにした。
母親の「いつも」を、夕飯の支度ひとつぶん、最初から最後まで数えてみた。
母親は、かまどの前で芋を煮る。水が要ると、戸口の水がめまで歩いていって、ひしゃくでくんで、かまどへ戻る。焚きつけが要ると、薪の山を崩して細い枝を探す。見つからないと、わしを呼ぶ。
かまどと水がめのあいだを、夕飯ひとつで二十三往復していた。
前世の言葉でいえば、動線が悪い。人が仕事のあいだに歩く道すじのことだ。前世の会社でも、使う道具がいちいち遠くに置いてある現場は、だいたい残業が多かった。
水がめが戸口にあるのは、エリクが井戸から水を運びこみやすいからだ。それはそれで、筋が通っている。ただ、水を使うのは、運ぶ人より、煮る人のほうがずっと多い。
水がめは、かまどの隣にあるべきなのだ。
問題は、どう動かすかだった。
三歳の体では、水の入った水がめは動かせない。それに、いきなり場所が変わったら、母親は落ち着かなくて元に戻すだろう。
だから、少しずつ動かすことにした。
毎朝、エリクが水をくみに行く前の、からっぽの水がめを、わしは両手で押した。わしの足のうらひとつぶんだけ、かまどのほうへ。
次の日も、足のうらひとつぶん。その次の日も。
焚きつけのほうは、わしの係なので簡単だった。薪の山のいちばん上に、細い枝から順に並べておく。母親は手を伸ばすだけで、要る太さの枝が取れる。
◇ ◇ ◇
ひと月たった。
水がめは、かまどの隣に来ていた。
一度だけ、危ない朝があった。半月ほどたったころ、母親がひしゃくを持ったまま、水がめの前で立ち止まったのだ。
「……この水がめ、こんなとこにあったかね」
わしは、焚きつけを抱えたまま固まった。
「ずっとそこだよ」
水をくんできたエリクが、桶を傾けながら答えた。毎朝そこに水を注いでいる本人が、そう言うのだ。
「そうかい」
母親は首をひねって、それきり何も言わなかった。
結局、わしが動かしていたことには、誰も気づかなかった。
母親は、毎日こう言うようになった。
「今日は、調子がいいね」
夕飯の支度が、日に日に早く終わる。カイが「かあちゃん、はやい!」とはしゃぎ、母親は首をひねって、わしの頭をなでた。
「あたし、若返ったかね」
若返ってはいない。動線が短くなって、生産性が上がっただけだ。ただ、母親があんまりうれしそうなので、黙っておくことにした。
呼び出しも減った。ひしゃくは手の届くところにあるし、焚きつけは上に並んでいる。わしが呼ばれるのは、一日に三回ほどになった。
ひとつだけ、気がかりがあった。
水がめが戸口から遠くなったぶん、エリクは水を運ぶたびに、家の中を十歩ほど余分に歩いている。何も言わずに、だ。
母親の往復は、一日に六十回減った。エリクの道のりは、水を運ぶたびに十歩増えた。差し引きすれば、全体最適としては大きな得だ。
……すまん、兄よ。
◇ ◇ ◇
浮いた時間で、わしは昼寝をするはずだった。
ところが、その日の昼すぎ、母親が見たことのないことをした。
座ったのである。
昼の片づけを終えた母親が、まだ日の高いうちに、卓について白湯を二つ入れた。ひとつを、授業を終えたレナーテ先生の前に置く。
「先生も、たまにはお座りよ」
「では、お言葉に甘えて」
母親が昼間に座るのを、わしは三年で初めて見た。
わしは卓の下の、いつもの毛布に転がった。目を閉じる。今日こそ昼寝だ。
「町から、手紙が来たんだってね」
母親の声がした。
目が、開いた。
「はい、父から。……また、縁談の段取りを組んでいるそうで」
「段取りは、自分で組むんじゃなかったのかい」
「そのつもりです」
先生の声が、少しだけ小さくなった。
母親が、白湯をすする音がした。
「おや。誰か、いるのかい」
「……まだ、内緒です」
卓の下から見上げると、先生の耳が赤かった。
……誰や。誰なんや。
まずい。わしは焦っている。
「アイン、昼寝しな」
母親の足が、卓の下のわしを軽くつついた。
「……ぼく、ねむくない」
ねむい。本当は、ものすごくねむい。だが、ここで寝たら、わしは一生後悔する気がする。
「あたしもね、嫁に来る前は――」
母親が言いかけたところで、奥でフィンが泣きだした。母親は「はいはい」と立ち上がって、行ってしまった。
先生の内緒も、母親の嫁に来る前の話も、宙ぶらりんのまま残った。
母親の浮いた時間は、先生と白湯を飲む時間になった。わしの浮いた時間は、そのまま盗み聞きの時間になった。
前世でもそうだった。仕事を減らして時間を浮かせると、たいてい別の仕事が入ってくる。……今回入ってきたのが盗み聞きなのは、前世とは少し違うが。
昼寝のための工夫が、昼寝をつぶした。
◇ ◇ ◇
「行商人が来たぞー!」
村の子どもの声が、道を駆けていった。
ロッテが鶏を放り出して走り、カイがそのあとを転がるように追いかけた。リーゼは双子の手を引いて、二人のあとを歩いていく。
わしは、自分の足で歩いていった。
赤ん坊のころは、母親の腕の中から見ていた。今日は、三歳の足がある。
広場に、見覚えのある馬車が止まっていた。わしは荷台の横にしゃがみこんで、下をのぞきこんだ。
車輪が、四つあった。赤ん坊のころにのぞいたときと同じだ。
……自分の足でのぞいても、やっぱり浮いていなかった。
「やあやあ、奥方様! おや、また増えましたね」
荷台の横から、ひょろりと背の高い男が顔を出した。日に焼けた顔に、人のよさそうな笑いじわ。来るたびに言う、決まり文句らしい。
「この前のふたりに、もうひとりね」
母親がフィンを抱き直しながら言うと、行商人は指を折って、それから目をまるくした。
「……奥方様。あっしが来るたびに、増えてやしませんか」
◇ ◇ ◇
この日は、荷が多かった。
行商人は、荷台の横の板を倒して、そこを売り場にしていた。塩の小袋、針の包み、布、ひも、ガラス玉、蜂蜜の飴の壺。それが、荷台の上にごちゃっと積んである。
村じゅうのおかみさんたちが、荷台を囲んだ。
困ったのは、みんなが欲しいのは塩と針なのに、それが荷台の奥のほうに埋もれていることだった。手前にあるのは、飾りひもやガラス玉ばかりだ。おかみさんたちは手前の品をかき分けて塩を探し、見つからないと「塩はどこだい」と行商人に聞く。行商人が荷の山を掘り返す。そのあいだ、うしろの列は一歩も進まない。
わしは、母親のうしろで列に並んでいた。
日なたは暑い。眠い。母親の番は、まだずっと先だ。
それに、荷台の上の散らかり方が、どうにも落ち着かない。
前世のわしの実家は、島の何でも屋だった。屋根の雨もりから排水まで、頼まれれば何でも直しに行く仕事である。学生のあいだは、学校から帰ると親父の軽トラに乗せられて、現場の手伝いをさせられた。道具の散らかった荷台を見ると、今でも手が勝手にうずく。
親父の荷台には、決まりがあった。いちばんよく使う道具は、手を伸ばせばすぐ届くところ。それから、頼まれていない仕事の道具も、一つ、すぐ出せるところに積んでおく。ついでの頼みごとは、たいてい、仕事が終わって代金の話をするときに来た。
一つ頼んだ人は、ついでにもう一つ頼むけん。
親父の口ぐせだった。
わしは列を抜けて、車輪に足をかけ、荷台によじのぼった。前世の親父の軽トラの荷台と、だいたい同じ広さだった。
「アイン、売り物にさわるんじゃないよ」
「いいんでさあ、奥方様。坊ちゃん、お手伝いですかい」
行商人は笑って、好きにさせてくれた。子どもの遊びだと思っているのだろう。
わしは、塩の小袋をひとつずつ抱えて、倒した板のふち、いちばん手前に並べた。その隣に、針の包み。布はその奥。
それから、蜂蜜の飴の壺と飾りひもを、行商人が座って品物と交換をするひじの横へ運んだ。
三歳の手では、一往復に一つしか運べない。それでも、二十往復もすると、荷台の上はすっかり変わった。
◇ ◇ ◇
列が、動きだした。
おかみさんたちは、荷台の前に来るなり塩をつかむ。探す手間がないので、すぐに行商人の前へ行く。芋や干し肉と、塩を交換する。
「あら。前は、芋三つでひと袋だったじゃないか」
「すいやせん。東の海で、また国どうしがやりあったとかで、塩の船が減ってるんでさあ」
芋が、一つ増えていた。どこの国の話かは知らないが、値上げだけは、ちゃんと荷台の上まで届いていた。
そこで、ひじの横の飴の壺が目に入る。
「……ついでに、これもひとつ」
「あら、このひも、いい色だね」
一つ頼んだ人は、ついでにもう一つ頼む。親父の言ったとおりだった。
昼前に、塩が売り切れた。
行商人は、からっぽになった塩の箱を見下ろして、首をかしげた。
「おかしいな。いつもは夕方まで残るんですがね。飴まで、こんなに出るなんて」
それから、荷台の上のわしを見て、ぽんと膝を打った。
「坊ちゃんは、福の神でさあ!」
おかみさんたちが、どっと笑った。母親も笑って、わしの頭をなでた。
「福の神なら、うちの畑にも来てもらわにゃ!」
いつのまにか来ていた声のでかいおやじが叫ぶと、母親はわしをひょいと抱き上げた。
「うちの子は、貸さないよ」
福の神ということになった。
福の神の中身が窓際のおっさんだとは、誰も思わない。それでいい。中身を知られたら、ありがたみが減る。
ロッテとカイは、わしが赤ん坊のころと同じ取り引きを持ちかけていた。
ロッテは、卵を二つ抱えている。
「これと、あめ、こうかん!」
「嬢ちゃん。その卵、奥方様にお断りしてきやしたか」
ロッテが固まった。母親のほうを振り返る。母親が、にっこり笑っている。
ロッテは卵を抱えたまま、鶏小屋のほうへ走っていった。
カイは、ふところからひからびた虫を出した。
「これと、こうかん。こぶんは、けんじょうひん」
「親分。子分の献上は、一度きりでさあ」
行商人はひからびた虫をつまみ上げると、あの日と同じように、そっとカイのふところに返した。
それから行商人は、レナーテ先生に手紙を一通渡した。
「先生、町からでさあ」
先生は手紙を受け取ると、礼を言って、すぐに家のほうへ戻っていった。足が、いつもより少し速かった。
……また、手紙か。
◇ ◇ ◇
荷物をまとめる段になって、行商人がリーゼを手招きした。
「嬢ちゃん。こいつ、覚えてますかい」
行商人が荷台の奥から出したのは、一冊の本だった。表紙がふやけて、角が波打っている。
挿絵のある、旅の本だった。わしが赤ん坊のころ、リーゼが息もしないで見つめていた、あの本だ。
「去年の秋に、雨に降られちまいましてね。売り物にゃならなくなった。今日の福のお礼に、嬢ちゃんに」
リーゼは、両手で本を受け取った。ふやけた表紙を、指でなぞる。
それから、小さな声で表紙の字を読んだ。
「……たびの、き」
自分で読んだ。
あの日は「これ、なんてよむの」と行商人の袖を引いていた子が、今は誰にも聞かずに読んでいる。レナーテ先生の授業を、戸口の腰かけで二年聞いてきたのだ。
リーゼは本を胸に抱いて、何も言わずに、行商人に深く頭を下げた。
家の本は、五冊と一枚になった。
四冊から五冊。家の資産が、二割五分増しである。
わしの頭の中の「リーゼに本を」という予定が、ひとつ片づいた。
……いや、正確には、片づいたのは行商人の在庫だ。わしの予定は、まだ頭の中に積んである。濡れていない本を、いつか。
その夜、リーゼは、かまどの火のそばで旅の本を広げていた。ページをめくる音が、ずっと続いていた。
聞いているときはめくらない子が、読んでいるときは、めくり続ける。
……まあ、今は、これでいいか。
わしは、目を閉じた。
――ビジネス用語――
※1 生産性:かけた手間に対して、どれだけの成果が出たかの割合。母親の生産性は、水がめを足のうらひとつぶんずつ動かして上がった。
※2 全体最適:一人ひとりではなく、全体の得がいちばん大きくなるようにすること。今回は、母親の六十往復と引きかえに、エリクが十歩ずつ損をしている。




