第9話 サボリーマンは、予算会議を盗み聞く
「こぶん、ちゃんとやってるか」
「はい、親分。ただいま授業中です」
窓わくに顔をのせたカイに、レナーテ先生が真顔で答えた。カイは満足そうにうなずいて、どこかへ走っていく。初日に「こぶんにする」と宣言したのを、先生は律儀に受けているらしい。
先生の授業は、すぐに家の「いつも」になった。
朝の仕事が終わると、エリクが表の部屋の卓につく。先生が帳面を開く。昼の芋が煮えるころに、授業が終わる。雨の日は、午後もある。
わしの席は、卓の下の床だ。
父親が柵の余りの木を削って作ってくれた積み木を、わしは床に並べて遊んでいる。遊んでいるふりだ。耳は、ずっと卓の上に向けている。
最前列ではない。だが、先生の声はよく聞こえるし、誰にも気づかれない。それに、前世の会議室のどの席よりも寝心地がいい。
授業料は国持ちで、わしはもぐりなので、さらにタダである。
授業を聞いているのは、わしだけではなかった。
戸口には、リーゼがいる。先生に借りた本をひざに広げて、読んでいるふりをしている。ふりだと分かるのは、授業のあいだ、ページが一枚もめくられないからだ。
窓の外には、カイがいる。ときどき窓わくに顔をのせて、子分の先生をじっと見張っている。
ロッテは、毎朝一度だけ戸口に顔を出す。
「けんのはなし、きょうはする?」
「今日は、数のお話です」
「……ふうん」
そして帰っていく。剣の話が出る日を、ロッテは毎朝待っている。今のところ、一度も出ていない。
◇ ◇ ◇
その日の授業は、お金だった。
先生は、小石と木の実を卓に並べた。小石が銅貨で、木の実が銀貨の代わりらしい。本物の金貨の代わりには、黄色い花が一輪置いてあった。
「銅貨が百枚で、銀貨一枚。銀貨が百枚で、金貨一枚です」
わしは積み木を並べながら、頭の中で前世の値段に置きかえた。
銅貨一枚は、行商人の飴がひとつ。前世の駄菓子屋なら、百円くらいだ。なら、銀貨一枚は一万円。高い。だが前世でも、画集はそのくらいした。
つまり、リーゼに本を、というわしの頭の中の予定は、一万円の買い物ということになる。今のわしの財産は、積み木とがらがらだけだ。前世のボーナスがサーバーに消えたことを、今ほど悔やんだことはない。
金貨一枚は、百万円。前世のわしの手取りの、三か月と少しだ。
……窓際の手取りを物差しにするのも、どうかと思うが。
「では、エリクさん。銀貨が三枚と、銅貨が五十枚。銅貨にすると、何枚ですか」
エリクの手が止まった。
卓の上の小石と木の実を見比べて、口を開いて、閉じる。答えが出てこない。卓の下から見上げると、耳が赤くなっていくのが見えた。
先生は答えを言わなかった。そのかわり、問いを小さくした。
「銀貨一枚は、銅貨何枚でしたか」
「……百枚」
「では、銀貨三枚なら」
「……三百枚」
「そこに、五十枚を足すと」
「三百、五十」
エリクの顔が、ぱっと明るくなった。
先生は何も言わずに、黄色い花をエリクの石板の横に置いた。正解のしるしらしい。エリクは七歳にして、初めて金貨を手にした。花だが。
「……先生が、小さくしてくれたから」
エリクがうつむくと、先生は首を横に振った。
「小さくしたのは先生です。でも、三百五十を出したのはエリクさんです」
エリクの耳が、また赤くなった。さっきとは、違う赤だった。
わしは、積み木を持ったまま固まっていた。
前世の言葉でいえば、切り分けだ。エリクが止まっていたのは、足し算ではなく「銀貨三枚は銅貨いくつか」のところだった。先生はそこだけを、ちゃんと見つけた。
前世のわしの上司は、ここで「全部やり直せ」と言う人だった。
それにしても、エリクの顔だ。
数の授業のときのエリクは、少しだけ楽しそうだ。字の授業のときより、ほんの少し。本人は、たぶん気づいていない。
先生の帳面の、三年目の空き。あそこに入るものが、わしには少しだけ見えた気がした。
◇ ◇ ◇
次の日、卓の下に毛布が一枚、たたんで敷いてあった。
戸口には、小さな腰かけがひとつ置いてあった。
誰が置いたのか、誰も言わなかった。リーゼは黙って腰かけに座り、いつものように、めくらない本をひざに広げた。わしは黙って毛布の上に転がった。
先生は、こちらを一度も見ずに帳面を開いた。
もぐりの席まで、段取りに入っていたのだ。
……あかん。これは、あかんやつや。
わしは、卓の下で三度めの恋に落ちた。同じ人にである。
その日の午後は雨だった。
雨の日の午後は、先生いわく「お話の時間」だ。字も数もやらずに、先生が知っているこの世界の話をしてくれる。わしがいちばん待っていた時間である。
雨の音が、屋根を静かに叩いていた。毛布はやわらかい。腹は、昼の芋でいっぱいだ。
前世の、昼食のあとの会議室よりも、条件がそろっている。
戸口に、ロッテが顔を出した。
「けんのはなし、きょうはする?」
「今日は、神さまのお話です」
「……かみさまって、つよい?」
「とても」
ロッテは帰らなかった。リーゼの腰かけの隣の床に、どっかりと座りこんだ。
「では、始めましょう。この世界には――」
先生の話の三行めで、わしは先生の横顔に見とれていた。
話すとき、先生はときどき、耳に髪をかける。一回。二回。……数えはじめたら、止まらなくなった。
気がつくと、雨はやんでいた。
卓の上は片づいていて、先生とエリクの姿もない。わしは、ずっと目を開けていた。開けたまま、先生の横顔だけを見ていた。
神さまの話は、聞きそびれた。
先生が髪を耳にかけた回数なら、十一回だ。
戸口の腰かけでは、リーゼがまだ本をひざに広げていた。今度はちゃんとページをめくっている。その足もとで、ロッテが大の字になって寝ていた。強い神さまの話でも、剣が出てこないと眠くなるらしい。
神さまの話は、たぶんリーゼが全部聞いた。
この家でいちばん物知りなのは、いちばんしゃべらない子だ。そして、それを聞きたいわしは、まだしゃべれない。
◇ ◇ ◇
卓の下の席で授業を聞いているうちに、わしは二歳になった。
歩ける。走れる。ときどき転ぶ。しゃべるほうも、少しずつ増やしている。ただし、増やしすぎないように気をつけている。エリクの目は、まだ油断できない。
そして、母親の腹が、また大きくなっていた。
この家では、母親の腹が大きくなるのは季節のようなものらしい。春が来て、夏が来て、母親の腹がふくらむ。誰も驚かない。わしだけが毎回、今度はひとりか、ふたりか、と考えている。
その日の昼前、母親は芋の鍋を火にかけてから、エリクに言った。
「産婆のばあさまを呼んできな」
八人目ともなると、段取りが違う。
◇ ◇ ◇
奥の部屋に、産婆のばあさまと、おかみさんたちが入っていった。父親は畑から走ってきて、戸口で手を洗って、そのあとに続いた。
わしら子どもは、庭に集められた。今度は、レナーテ先生がいる。
先生は木の下に子どもたちを座らせると、いつもの授業の声で言った。
「では、今日の問題です。この家の子どもは、今、何人ですか」
ロッテがまっさきに指を折った。
「エリク、あたし、リーゼ、カイ、アインちゃん、ミナ、ニナ。……七人!」
「正解です。では、そのまま待っていてください。答えが変わるかもしれませんので」
カイが「なんで?」と聞き、エリクが「……もうすぐ分かる」と答えた。リーゼは黙って、双子の手を片方ずつ握っていた。
授業の声というのは、ふしぎなものだ。奥の部屋から母親のうなる声が聞こえても、先生の声のほうが先に耳に入る。子どもたちは誰も泣かなかった。
奥の部屋から、泣き声が上がった。
「八人!」
ロッテが叫んだ。
それから、全員が黙った。
誰も何も言わないのに、全員が同じことを待っていた。二つめの泣き声だ。去年の雨の日を、この家の子どもはみんな覚えている。
……来ない。
まだ、来ない。
「八人で、確定です」
先生が言うと、全員がいっせいに息を吐いた。ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でもよく分からない顔をしていた。
かまどでは、芋がまだ煮えていなかった。
◇ ◇ ◇
母親は寝床の上で、小さな包みを抱いていた。
「ほら、あんたたち。弟だよ」
それから、戸口に立つ父親を見上げた。
「あんた。名前」
父親は、天井を見上げなかった。
「……フィン」
すぐに出た。おかみさんたちが「おや」という顔をした。
「考えといたのかい」
「……ああ」
双子のときに、よほど懲りたらしい。
「いいじゃない! フィンだよ、あんたたち!」
この台詞を聞くのは、わしは三度めだ。
「こぶん、ふえた!」
カイが寝床のまわりを跳ねまわった。四歳になって、子分の数え方だけは誰よりも早い。
エリクがわしを抱き上げて、寝床のそばに下ろしてくれた。
弟は、しわくちゃだった。眉が八の字に下がっていて、口がへの字で、どこか疲れた顔をしている。生まれたばかりなのに、もう何かに疲れている。
……前世の、月曜の朝のわしにそっくりだ。
前世の三十年近い会社勤めで、わしには一人も部下がいなかった。今世では、二歳で弟ができた。赤ちゃん役も、おにいちゃん役も、ロッテのおままごとの中だけの話だったのに、ここから先は本番だ。
わしが寝床のふちにしがみついていると、隣に小さな頭がふたつ並んだ。ミナとニナだ。一歳になって、よちよち歩けるようになったばかりのふたりが、わしのまねをして、ふちにぶら下がっている。
ふたりは、しわくちゃの弟をじっと見ていた。
それから、そろって口を開いた。
「「みじょか」」
部屋が、しんとした。
「……どこの言葉!?」
母親の声が、家じゅうに響きわたった。起きているときに言うのは、二度めだ。
「アインのがうつったんですね」
先生が帳面に何か書きつけながら言った。母親はフィンを抱えたまま、天井を仰いだ。
「うちの子は、最初にそれを言う決まりでもあるのかい」
双子の最初の言葉は、ふたりそろって「みじょか」になった。
わしのせいである。この一年、毎日言っていたので。
すまないとは思っている。
だが、みじょかもんは、みじょかけん。許せ。
◇ ◇ ◇
それから数日たった夜、わしは目をさました。
かまどのそばで、父親と母親が小声で話している。フィンは母親の腕の中で寝ていた。
「……麦が三袋と、少し。芋は、あの山だけだね」
母親が、指を折っている。
「冬まで、一人分足りないよ」
「……俺が減らす」
「あんたが減らしたら、誰が畑をやるんだい」
父親は黙った。母親も黙った。かまどの火が、ぱちんと鳴った。
前世の会社でも、予算の会議はいやというほど出た。足りない分は、来期に回すか、誰かのせいにして、だいたいそれで終わった。
この家の会議には、来期も、せいにする誰かもいない。あるのは、芋の山と、冬だけだ。
前世のどの予算会議よりも、切実だった。
次の日の夕飯で、わしは動いた。
母親はフィンに乳をやりながら、片手で椀を持っている。乳を出す人は、誰よりも食べなければいけない。
母親がフィンのほうを向いたすきに、わしは自分の椀から芋をひとつつまんで、母親の椀に入れた。
二年前、父親がやっていたのを見て覚えた手だ。
……うまくいった。誰も見ていない。
そう思って顔を上げると、母親が自分の椀から芋をひとつつまんで、そっと鍋に戻すところだった。今わしが入れた、その芋だ。
……戻すな。
母親が鍋から目を離したすきに、今度は父親が、自分の椀の芋を鍋に戻した。父親がフィンをのぞきこんだすきに、エリクが、自分の芋を鍋に戻した。
全員が、自分だけがやっていると思っている顔をしていた。
夕飯が終わって、母親が鍋をのぞきこんだ。
「おや、今日は芋が三つも余ったね」
父親は目をそらし、エリクはうつむいた。わしは、全力で二歳の顔をした。
誰も、何も言わなかった。
次の朝、余った芋は芋がゆになって、全員の椀に入った。わしの椀にも、父親の椀にも、エリクの椀にも、ゆうべ戻した芋がちゃんと帰ってきた。
結局、誰の椀の芋も、ひとつも減らなかった。
前世の予算会議より、よほど平和な結末だった。
分析結果に、追記。
リーゼ。聞いているときは、ページをめくらない。
エリク。数を数えるときだけ、少し楽しそう。本人は知らない。
わし。起きていても、意識が先生のほうに行っていれば、聞いていないのと同じである。
芋。全員が自分の分を削るので、なぜか減らない。
フィン。生まれた日から、月曜の朝の顔をしている。
ミナとニナ。最初の言葉は、みじょか。わしのせいだ。
芋は、冬まで一人分足りない。
それでも、この家で足りないのは、たぶん芋だけだ。
……まあ、今は、これでいいか。
わしは、目を閉じた。
――ビジネス用語――
※1 切り分け:うまくいかないとき、どこで止まっているかを小さく分けて、一つずつ確かめること。今回、切り分けたのは先生。止まっていたのは、銀貨と銅貨の両替のところ。




