第7話 百年では足りなかった
今から約900年前。
ヤータンは、残された時間が僅かであることを悟っていた。
「私も、老けたものだな」
鏡に映る、老いた男。
すっかり白くなった髪を撫で、わずかに口の端が緩む。
「お揃い、ですね」
視線をすっと脇にずらす。
壁に飾られた肖像画の中で、白髪の魔女が静かにこちらを見つめている。
黒のドレス。 透き通る青い瞳。
戦場で初めて出会った、あの日から。
片時たりとも、忘れたことはない。
いつか彼女の隣に立つべく、生涯努力を重ねてきたが。
廊下に並んだ、いくつもの肖像画。
少女から老婆に至るまで、伝え聞いた彼女を元に、絵師に描かせた特注品。
それらをやさしく愛でながら、突き当たりの書架へ向かう。
ガコン。
棚がずれて、地下へ向かう階段が現れた。
地の底から溢れるように、冷たい空気が足元を流れていく。
(平民としては――幸せな人生なのだろうな)
硬い石段を踏みしめながら、ヤータンは己の軌跡を振り返った。
この国で、魔力の乏しい平民の寿命は五十ほど。
百を超えてなお歩ける老人など、そう多くはない。
おかげで周囲は、ずいぶん丁重に扱ってくれる。
(害のない、金払いの良い老人だからな)
掠れた笑いが、乾いた唇から零れた。
少年期に徴兵され、幾度も死線を潜り抜けた。
魔力は人並み以上、術師未満。
若い頃こそ戦働きで名を上げたが、今は恩給で静かに暮らすだけの老人。
――そういうことになっている。
この国では、生まれ持った魔力はすべて、国に徴収される。
魔力の少ない者は下層民。 就ける仕事も限られ、重く苦しい労働を押し付けられる。
逆に、秀でた魔力を持つ者は、「術師」として徴用される。
国に絶対服従する代わりに、術師は国民から“納税”された膨大な魔力で、強大な力を振るうのだ。
「幸い、私は術師でない。ただの上級国民だ」
ぽつりと呟く。
術師は栄誉ある存在だ。 だが同時に、国に飼われる犬でもある。
――その点、こちらは自由が利く。
カツン、カツン。
暗がりを、一段ずつ下りていく。
背後で扉が閉まった。 瞬間、世界が完全な闇に包まれた。
「点灯」
指を軽く振ると、壁際の燭台へ順々に火が灯った。
淡い光は、狭い通路のはるか奥まで続いている。
カツン、カツ――
やがて通路は、唐突に開けた。
地下とは思えぬほど広大な空間。 宙に浮かぶ燭台の群れが、ぼんやりと闇を照らしている。
石畳の上には、細長い箱が幾つも並んでいた。
そのひとつへ歩み寄り、蓋へ指先を触れた。
淡い光の線が走る。
カチリ。
ひとりでに蓋が横へずれた。
「百年。百年では足りなかった――」
箱の内部では、水面が静かに揺れていた。
その下に沈むのは、人影。
私はそっと手を浸す。 冷たい。
肘の辺りまで沈めると、水の底の指先へ、自分の指を重ねた。
「あなたの隣に立つために――」
ヒヤリとした感触の中、指先に力を込めた。
パキリ、と中指の指輪が砕ける。
同時に、足元、壁、天井から。黒い闇が押し寄せた。
ねっとりとした黒が、手を、足を、身体を覆っていく。それは――「脱税」した魔力。
「次の百年こそは」
既に、国内屈指の術師級の魔力は持っている。 だが、まだ足りない。
"最強ババア"の隣に立つには。 あまりにも、足りないのだ。
黒に染まった身体から、急速に力が抜けていく。
ガクリと木箱へ寄りかかり―― 意識を完全に、"この肉体"から解き放つ。
どさり。
老いた男の身体が、床へ崩れ落ちる。
そして。
――ばしゃり。
水音と共に、年若い男が身を起こした。
いや。 少年、と言うべきか。
「ふう……うまくいったな」
試みに、濡れた全身を乾かしてみる。
問題ない。魔力操作もこれまで通りだ。
「せっかくの白髪が――残念だな」
倒れ伏した老人の亡骸。 そして、水面に映る黒髪の自分。
長い年月を重ねてようやく得た白髪は、失われていた。
――"彼女"と同じ色だったのに。
「まあ、染めれば済む話か」
小さく笑う。
「待っていてくださいね」
私は必ず。
あなたの隣へ辿り着いてみせるのだから。




