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婚約破棄と、花と後悔のソリチュード  作者: m


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3/3

花の幸福


「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」



 そうリネットが告げた時の、まるで思いもかけないことを聞いた、という彼の表情を思い出す。

 もう何年も、彼と婚約者として接していたはずなのに、思い出すのはその時のことばかりなのだった。

 

 けれど思えば、ちゃんと彼と向き合って、そうして何かを伝えたのは。

 その時が、初めてだったかもしれない。


(恨み言の一つくらい……言っていれば)


 何かが、変わっていたのだろうか。


 今朝届けられたばかりの、白い封筒の表面をそっと指で辿る。

 かつて、幾度となくもらった、詫びの手紙で見慣れているフェリクスの文字をなぞって、リネットは一人、辺境の自室で独りごちた。


 この感情に名前をつけるとしたら。

 それは多分、後悔なのだと思いながら。

 



 もう何通目かになるフェリクスからの手紙に、リネットはずっと、返事を返せないままでいた。


 明るい日差しの差し込む、昼下がりの居間のソファに座って、暖かな湯気の立つ茶を前にしていても、そのことが、頭の隅の方でずっと引っかかっている。


 リネットは顔を上げると、目の前で、ゆったりと茶を飲んでいる銀の髪の美丈夫を見つめる。

 一年前に自分の夫となったギルクリストは、辺境伯として忙しい政務の合間を縫って、日に一度は必ず、こうして自分との時間を作ってくれている。


(……このお茶)


 口に含んだ茶の香りに、ふと懐かしさが蘇った。

 その香りは、この辺境の地から遠く離れた、王都でよく飲まれている茶の香りだった。


 目を瞬かせるリネットに、ギルクリストが楽しそうな笑みを浮かべながら、


「リネットにも懐かしいだろう?この味が、久しぶりに恋しくなってな。知り合いに送ってもらったんだ」


 それは確かに、かつて、王都にある学院に通っていたというギルクリストにとっても、懐かしい味に違いない。


 けれど、多分。


(きっと、私のため)


 彼はおそらく、リネットの憂いに気付いている。


 元よりリネットも、元婚約者であるフェリクスの、ヒース伯爵家から届く手紙のことは、必ず彼に報告するようにしていた。 


 けれどギルクリストからは、何かを尋ねられるようなことは無かった。

 でも、それは決して無関心なのではなく、自分を待ってくれているのだということが、何故かリネットにもちゃんと分かるのだった。


(……不思議ね。フェリクス様のことは、ずっと、何も分からないままだったのに)


 

「ギルクリスト様にも、後悔なさることはございますか」


 穏やかにこちらを見つめている夫に、気づけばそんなことを尋ねていた。


 言ってしまってから、なんて馬鹿な質問だろうと思う。

 後悔のない人間なんて、いやしないだろうに。


「勿論、あるさ」


 そんな唐突な質問にも、さして驚くこともなく、ギルクリストは答えてくれる。

 浮かべる笑みは、初めて出会った時から変わらない、温かな笑みだった。


「後悔を抱えて……その答えが出ない時、どう、されますか」

 

 それはギルクリストへの問いというより、リネット自身に向けた問いなのかもしれない。


(あの婚約を終わらせたのは、私なのに)


 そうしてこんなにも遠い場所に、逃げて来たのは自分なのに。



「そうだな。私ならとりあえず、飯にする」 

 

 夫のそんな言葉に、リネットは思わず目を瞬かせた。


「お食事、ですか?」


「ああ、温かなスープと、骨付きの肉がいい。口に熱い物を咥えて、難しいことを考え続けられる者は、そうはいないだろう?ナイフで肉を削いでいる時もそうだな。大事な客人の言葉だって頭に入ってこないくらいだ」


 確かに、言われてみればそうかもしれない。

 特にこの辺境でよく口にする、筋の多い肉を噛んでいる時や、熱々のスープをいただく時に、他のことを考えている余裕はないかもしれない。


「かつて、幼い私の命を救ってくれた叔父上は、ずっと後悔していた。私の父であった辺境伯とその妻であった母を、救えなかったことを」


 ギルクリストが幼い頃に、この地に起こった悲劇のことは、リネットも聞いて知っている。

 

「後悔と絶望はよく似ている。叔父上は、武人としてとても強い人だったが……その絶望から、逃れることが出来なかった」


 青い目が、どこか遠くを見つめながら言葉を紡ぐ。

 かつてそんな悲劇があったことなど嘘のような、温かな日差しに包まれた明るい居間で。 


 この自然の厳しい過酷な地で、若くして辺境伯を継いだ彼が経験してきた、数えきれないほどの選択や決断。

 そこには当然、後悔だってあるだろう。

 その青い目に映るのは、遠く失われてしまった大切な者たちへの、彼の数多の後悔なのかもしれない。


「リネット、私の妻に、僭越だが、一言だけ助言をしても?」 

 

 振り返ったギルクリストが、一瞬前の空気を払うようにして、おどけるような口調で問うてくる。


「私の手はこの通り、二本しかない。だから剣を握ったら、もう片方で君の手を取るだろう」

 

 隣から彼が伸ばしてきた左手が、リネットの右手をそっと包んだ。

 武人としても有能な彼の手が、無骨で温かなことをリネットはもう知っている。

 

「けれどもし、目の前に領民の子が倒れていれば、私はその子供を優先するかもしれない」


「はい、わかっています」


 それは婚姻前に、最初にギルクリストから告げられた言葉だった。

 彼が背負うものが、そういったものであることを、理解してリネットは嫁いだのだ。


「どんなに鍛えても、腕を生やすことだけは出来そうになくてな。私の力で守れるものなど、本当に僅かでしかない。けれど幸い、私は一人ではない」


 話している内容は、酷く厳しいものなのに、繋いだ手と、彼の明るい笑みを見ていると、深刻さなどどこかに行ってしまうようだった。


「信頼できる者達もいるし、領民達も皆、逞しい。いざという時には、戦えない者達も、逃げる術を心得ている。だから私一人が、全てを背負う必要はない」


 自分を見つめる青い瞳は、この屋敷の向こうに広がる、雪を戴いた山々と同じ色をしている。


「ベルンがよく言っているだろう?植物は水を与えるだけでは育たないのだと。日が当たればいいというものでもないらしい。それがどんなに強い苗だろうとな。未だによく、ベルンにそう諫められる。だからリネット、あまり気負いすぎないように」


 いずれ義弟となる、ギルクリストの妹の婚約者である植物好きの青年を思い出し、リネットも思わず微笑んだ。


「ありがとうございます、ギル様」

 

 婚姻して一年、彼の名を呼ぶのはまだまだ面映い。

 けれど、少しでもこの感謝が伝わればいいと思う。


 握られた手は体温の高いギルクリストの熱で、暑いほどだった。

 その手が、言葉が、リネットは一人ではないのだと、そう教えてくれている。



 この地に来て、まだ間もない頃だった。

 

 辺境に来たばかりのリネットを、ギルクリストも領民達も皆、日々、様々にもてなそうとしてくれていた。

 ギルクリストの前の婚約者が、この地に馴染めず、婚約が破談になったことも、きっと尾を引いていたのだろう。


 狩りで獲れた獲物や、貴重な果実、可愛らしい野花。

 このヴォルフェンの珍しいもの、美しいものをとりどりに、リネットのためにと、持って来てくれたのだった。


 その日は確か、野いちごだった。

 女性や子供には、立ち入らないように言われている森の入り口あたりにある茂みで、ギルクリストが自ずから摘んできてくれたのだった。


『お兄様は最近、お義姉様ばかり優先するんだから』


 ギルクリストの妹であるコーネリアが、彼と同じ銀の髪を揺らしながら、そう不満そうに呟いた。

 後で聞いた話では、夏の初めに採れるその野いちごは、コーネリアの子供の頃からの好物であるらしい。


 早くに両親を失ったこの兄妹が、二人、支え合って生きてきたのだということは、新参者のリネットの目にも明白だった。

 ずっと、若くして辺境伯となった兄を妹が支え、少女ながらに剣を振るう妹を、兄が可愛がって来たのだろうということも。


 だから、リネットとしては、コーネリアの気持ちは尤もだと思ったのだ。

 突然現れた、まだ他人でしかない自分が、彼女の居場所を奪ってしまうようなことはあってはならないと。


 それはリネットの心に薄らと蟠ったままの、あのピンクブロンドの少女を思い起こさせた。


 けれど、そんな時だった。


『リア、義兄上がリネット様を優先するのは当然だよ。だって逆に、僕がリネット様に最初にこれを渡したら嫌だろう?』


 そう言ったのは、コーネリアの婚約者であるベルンハウトだった。

 そうして、手に持っていた麻袋を、コーネリアに手渡している。


『はい。今日の僕の戦果を、君に』


 受け取ったコーネリアは、ベルンと袋を見て、次いでリネットや兄の方に目をやって、


『そうね、ごめんなさいお兄様、お義姉様。お義姉様は、お兄様の奥様になるのだものね。お兄様の一番でなくちゃいけないわよね』


 そう言って、兄に似た顔で気恥ずかしそうに笑ったのだった。

 

 その時、リネットの心に浮かんだのは、以前の婚約のことだった。



 ずっと、後悔していた。


 何か、もっと上手く、出来たのではなかっただろうかと。

 

 病弱な従姉妹ばかりを優先するフェリクスに、その不安や不満を、ちゃんと伝えればよかったのかもしれないと。

 もっと親身になって、彼の従姉妹のロザムンドの身の振り方を、一緒に考えればよかったのだろうかと。


 彼の気持ちを、試してみたこともあった。

 けれど、そうして勝手に期待して、勝手に落胆することになっただけだった。

 

 だからリネットは逃げたのだ。


 婚約者の振る舞いに、悲しくなったり、期待したり、憤ったり、不安になったりする自分を持て余して。

 そんな自分を見つめることに、ただ、耐え切れなくなったのだ。


 ちょうどその頃、婚約者が辞退したばかりの辺境伯の婚姻に名乗りを上げたのも、高位貴族としての使命感や義務感などでは決してなかった。


 ただ父であるダーシモン伯爵に、ヒース家との婚約を反故にする対価として、提示できるような家であればどこでもよかったのだ。 


 リネットだけは知っていた。

 自分がただ、一方的に一つの関係を終わらせて、この地へ逃げてきただけだということを。

 

(ローズへの手紙だって、決して、彼女のためなんかじゃなかった)


 ただ、リネット自身の、後ろめたさのためだった。



 けれど、ベルンとコーネリア、彼らを見守るギルクリストや領民達を見て、初めて気が付いたことがある。


 リネット一人が、あの関係を変えようとしたって、きっと駄目だったのだということが。


(花は……水と光と、大地と、色々な要素がないと、美しく咲くことはない)


 もしもあの頃、正直にフェリクスに不満を訴えて、ロザムンドを遠ざけてもらっても……それは、何の解決にもならなかっただろう。

 体調を崩す従姉妹に付き添うために、リネットとの約束を反故にする息子を、伯爵夫人が諌めている様子はなかった。


 見舞いに訪れた伯爵家で、ロザムンドを囲む、どこかよそよそしい使用人達に違和感を覚えても、まだ爵位を継ぐ前の後継の婚約者にしか過ぎない自分に、何ができただろう。


 あるいは婚姻後、フェリクスが爵位を継いだ後なら、ロザムンドの行く末を彼と二人で、彼女の希望も聞きながら、相談することができたのだろうか。


 けれどその為にリネットが、ただ、“今”を耐えればいい、ということではきっとなかった。

 

(私一人が、どんなに水を注ぎ続けても、きっと駄目だった)


 そのことが、ようやくわかった。


 乾いた大地に、水が染み込んでいくように。

 リネットの心にも、ようやくそれがわかったのだった。



 けれどそう気づくことと、後悔しないこともまた、別なのではあった。




 整然と並んだ、緑が連なる畝の脇で、黒髪の青年が子供達に囲まれている。

 近付いていくリネットに気付いたベルンが、立ち上がって出迎えてくれる。


「お仕事中ごめんなさいベルン。折角だから、皆でお茶をと、ギルクリスト様が。皆で何をしていたの?」

 

 しゃがんでいる子供達の手には、タンポポの綿毛が握られている。


「畑の周りを掃除がてら、皆で飛ばしていたんです。良かったらリネット様もどうぞ」


 子供達が我先にと、握りしめていたタンポポを、リネットに手渡してくれる。

 どうやら畑の周りの雑草を、農夫の子供達と掃除していたらしい。

 “雑草”、と呼ぶと、


『この世に、“雑草”という名の草はないんですよ、リネット様』 

 

 そうベルンに叱られるので、言わないように気をつけている。


「せーのっ」


 子供達が思い思いに吹き合って、白い綿毛が周囲を舞っている。

 リネットも久しぶりに、手の中の綿毛に息を吹きかけてみる。


 ちょうど山間から吹き付けてきた初夏の風が、畝の間を巡って、爽やかに綿毛を空に舞い上げていった。


「……こうしてバラバラになるのに、どこかでまた、集まって咲いたりするのね」

 

 道の脇に、まだまだ寄り集まって咲いているタンポポの黄色い花たちに、ふとそんなことを思う。 

 飛び立つ時はバラバラになって、けれどまた、どこかの地で、互いに出会うこともあるのだろうか。


 それがもし、一つの、花の幸福であるなら。

 

(人も、同じかしら)


 一つの関係を諦めて、一人になって。

 故郷から遠く離れた地で、新しい家族を得た自分のように。


 皆、幸福になるために、別れて、また出会うのかもしれない。



「ベルン!お義姉様!迎えに来たわ。お兄様がお待ちかねよ」


 明るい声が響いて、駆けてきた馬からコーネリアが軽やかに着地する。

 頭の後ろで高く結えられた銀の髪が、光を受けて美しい。


 剣の訓練中だったのだろう、軽装を纏ったコーネリアは、生き生きとしていて、よく似合っている。


「迎えに来たってリア、馬が一頭だったら、一人乗れないじゃないか」


「あら、大丈夫よ。後ろに乗ってもらうのはお義姉様だもの」


「ええ……僕だって疲れてるのに。そうだ、僕がリネット様と一緒に乗ればいいんだよ」


「何ですって?お兄様以外の男性となんて、駄目に決まっているでしょう!」


 コーネリアの率直な言い回しは、貴族令嬢としてはいささか、時に遠慮もなく響く。

 けれどそれが、いつも一歩引いてしまうリネットにとっては心地いいのだった。


 そしてベルンも、大人しそうな見た目とは裏腹に、必ず言い返してみせるのが、何とも小気味いい。


 息の合った二人の掛け合いを聞きながら、いつか自分も、こんな風にギルクリストと話す日が来るのだろうかと思う。


(ギル様ならきっと、笑って受け止めてくれるでしょうね)


 元々の性格なのか、培われた器なのか。

 自分の夫は、出会ってからずっと、リネットに甘いのだ。


 それが少し、物足りないと言ったら……、罰が当たるだろうか。


「じゃあ聞いてみましょう。ねぇお義姉様。お義姉様は私達のどちらと同乗なさいます?」


 自分を見つめる二対の瞳に、リネットは思わず瞬いた。

 いつの間にか、そんな展開になっているとは。


 瞳も髪色も、全然似てはいないのに、まるで姉弟のように息の合った二人に、思わず笑ってしまう。


「そうね、では私が一人で乗って、二人はゆっくり帰って来るのはいかがかしら?」


 これならリネットが、馬に蹴られることもない。



『お義姉様も言うようになったわよね』


 なんて言うコーネリアの楽しそうな声を背に、二人を残して馬を駆る。

 

 乗馬も、王都にいた頃は、ほんの嗜み程度だったのが、ここへ来たら、そんなことを言っていられなくなった。

 ここでは、屋敷の敷地内の移動ですら、馬に乗らなければ日が暮れてしまうだろう。


(フェリクス様の手紙は……次回から、送り返させてもらおう)

 

 彼の手紙には、このまま返事を返さないでいようと思う。

 実は今度、一年ぶりに王都に行く予定があるのだが、ギルクリストにも伝えて、会わないで済むように。


 彼らとリネットの人生は、もう、わかれてしまった。

 今の自分には、この地で覚えなければいけないことや、やるべきことがどれだけでもある。


 だって、リネットの手は二本しかないのだ。


 そして近い将来、この手でこそ、守らなければいけない大切なものが、きっと出来るだろうから。



 けれどそのことを、後悔する日もきっとあるだろう。

 

 どうすればよかったのかと。

 嘆く時がまた、来るかもしれない。


 そんな時は温かなスープを飲んで、その温かさに感謝するのだ。

 

(自分の面倒を、自分でみるって、きっとそういうこと)


 それは決して、一人で全部、背負い込むということではない。

 

 ギルクリストやコーネリアや、ベルンのように。

 彼らの隣を、リネットも自分の足で、歩いて行きたいから。



 影など一つもない、からりと晴れた畦道を、馬の背に乗って駆けて行く。

 まだまだ続く青い葉の波が、一面に薄紫の花に覆われる季節は、もうすぐそこまで迫っていた。


 この地に嫁いで、まもなく一年になる。

 あの風景が、こうしてまたリネットに巡ってくる。 

 

 屋敷の向こうに連なる、雪の残った青い山々を臨みながら、自分の居場所がもう、この辺境にあることを感じて。


 リネットは心から、この地で、微笑んだのだった。



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