花の幸福
「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」
そうリネットが告げた時の、まるで思いもかけないことを聞いた、という彼の表情を思い出す。
もう何年も、彼と婚約者として接していたはずなのに、思い出すのはその時のことばかりなのだった。
けれど思えば、ちゃんと彼と向き合って、そうして何かを伝えたのは。
その時が、初めてだったかもしれない。
(恨み言の一つくらい……言っていれば)
何かが、変わっていたのだろうか。
今朝届けられたばかりの、白い封筒の表面をそっと指で辿る。
かつて、幾度となくもらった、詫びの手紙で見慣れているフェリクスの文字をなぞって、リネットは一人、辺境の自室で独りごちた。
この感情に名前をつけるとしたら。
それは多分、後悔なのだと思いながら。
もう何通目かになるフェリクスからの手紙に、リネットはずっと、返事を返せないままでいた。
明るい日差しの差し込む、昼下がりの居間のソファに座って、暖かな湯気の立つ茶を前にしていても、そのことが、頭の隅の方でずっと引っかかっている。
リネットは顔を上げると、目の前で、ゆったりと茶を飲んでいる銀の髪の美丈夫を見つめる。
一年前に自分の夫となったギルクリストは、辺境伯として忙しい政務の合間を縫って、日に一度は必ず、こうして自分との時間を作ってくれている。
(……このお茶)
口に含んだ茶の香りに、ふと懐かしさが蘇った。
その香りは、この辺境の地から遠く離れた、王都でよく飲まれている茶の香りだった。
目を瞬かせるリネットに、ギルクリストが楽しそうな笑みを浮かべながら、
「リネットにも懐かしいだろう?この味が、久しぶりに恋しくなってな。知り合いに送ってもらったんだ」
それは確かに、かつて、王都にある学院に通っていたというギルクリストにとっても、懐かしい味に違いない。
けれど、多分。
(きっと、私のため)
彼はおそらく、リネットの憂いに気付いている。
元よりリネットも、元婚約者であるフェリクスの、ヒース伯爵家から届く手紙のことは、必ず彼に報告するようにしていた。
けれどギルクリストからは、何かを尋ねられるようなことは無かった。
でも、それは決して無関心なのではなく、自分を待ってくれているのだということが、何故かリネットにもちゃんと分かるのだった。
(……不思議ね。フェリクス様のことは、ずっと、何も分からないままだったのに)
「ギルクリスト様にも、後悔なさることはございますか」
穏やかにこちらを見つめている夫に、気づけばそんなことを尋ねていた。
言ってしまってから、なんて馬鹿な質問だろうと思う。
後悔のない人間なんて、いやしないだろうに。
「勿論、あるさ」
そんな唐突な質問にも、さして驚くこともなく、ギルクリストは答えてくれる。
浮かべる笑みは、初めて出会った時から変わらない、温かな笑みだった。
「後悔を抱えて……その答えが出ない時、どう、されますか」
それはギルクリストへの問いというより、リネット自身に向けた問いなのかもしれない。
(あの婚約を終わらせたのは、私なのに)
そうしてこんなにも遠い場所に、逃げて来たのは自分なのに。
「そうだな。私ならとりあえず、飯にする」
夫のそんな言葉に、リネットは思わず目を瞬かせた。
「お食事、ですか?」
「ああ、温かなスープと、骨付きの肉がいい。口に熱い物を咥えて、難しいことを考え続けられる者は、そうはいないだろう?ナイフで肉を削いでいる時もそうだな。大事な客人の言葉だって頭に入ってこないくらいだ」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
特にこの辺境でよく口にする、筋の多い肉を噛んでいる時や、熱々のスープをいただく時に、他のことを考えている余裕はないかもしれない。
「かつて、幼い私の命を救ってくれた叔父上は、ずっと後悔していた。私の父であった辺境伯とその妻であった母を、救えなかったことを」
ギルクリストが幼い頃に、この地に起こった悲劇のことは、リネットも聞いて知っている。
「後悔と絶望はよく似ている。叔父上は、武人としてとても強い人だったが……その絶望から、逃れることが出来なかった」
青い目が、どこか遠くを見つめながら言葉を紡ぐ。
かつてそんな悲劇があったことなど嘘のような、温かな日差しに包まれた明るい居間で。
この自然の厳しい過酷な地で、若くして辺境伯を継いだ彼が経験してきた、数えきれないほどの選択や決断。
そこには当然、後悔だってあるだろう。
その青い目に映るのは、遠く失われてしまった大切な者たちへの、彼の数多の後悔なのかもしれない。
「リネット、私の妻に、僭越だが、一言だけ助言をしても?」
振り返ったギルクリストが、一瞬前の空気を払うようにして、おどけるような口調で問うてくる。
「私の手はこの通り、二本しかない。だから剣を握ったら、もう片方で君の手を取るだろう」
隣から彼が伸ばしてきた左手が、リネットの右手をそっと包んだ。
武人としても有能な彼の手が、無骨で温かなことをリネットはもう知っている。
「けれどもし、目の前に領民の子が倒れていれば、私はその子供を優先するかもしれない」
「はい、わかっています」
それは婚姻前に、最初にギルクリストから告げられた言葉だった。
彼が背負うものが、そういったものであることを、理解してリネットは嫁いだのだ。
「どんなに鍛えても、腕を生やすことだけは出来そうになくてな。私の力で守れるものなど、本当に僅かでしかない。けれど幸い、私は一人ではない」
話している内容は、酷く厳しいものなのに、繋いだ手と、彼の明るい笑みを見ていると、深刻さなどどこかに行ってしまうようだった。
「信頼できる者達もいるし、領民達も皆、逞しい。いざという時には、戦えない者達も、逃げる術を心得ている。だから私一人が、全てを背負う必要はない」
自分を見つめる青い瞳は、この屋敷の向こうに広がる、雪を戴いた山々と同じ色をしている。
「ベルンがよく言っているだろう?植物は水を与えるだけでは育たないのだと。日が当たればいいというものでもないらしい。それがどんなに強い苗だろうとな。未だによく、ベルンにそう諫められる。だからリネット、あまり気負いすぎないように」
いずれ義弟となる、ギルクリストの妹の婚約者である植物好きの青年を思い出し、リネットも思わず微笑んだ。
「ありがとうございます、ギル様」
婚姻して一年、彼の名を呼ぶのはまだまだ面映い。
けれど、少しでもこの感謝が伝わればいいと思う。
握られた手は体温の高いギルクリストの熱で、暑いほどだった。
その手が、言葉が、リネットは一人ではないのだと、そう教えてくれている。
この地に来て、まだ間もない頃だった。
辺境に来たばかりのリネットを、ギルクリストも領民達も皆、日々、様々にもてなそうとしてくれていた。
ギルクリストの前の婚約者が、この地に馴染めず、婚約が破談になったことも、きっと尾を引いていたのだろう。
狩りで獲れた獲物や、貴重な果実、可愛らしい野花。
このヴォルフェンの珍しいもの、美しいものをとりどりに、リネットのためにと、持って来てくれたのだった。
その日は確か、野いちごだった。
女性や子供には、立ち入らないように言われている森の入り口あたりにある茂みで、ギルクリストが自ずから摘んできてくれたのだった。
『お兄様は最近、お義姉様ばかり優先するんだから』
ギルクリストの妹であるコーネリアが、彼と同じ銀の髪を揺らしながら、そう不満そうに呟いた。
後で聞いた話では、夏の初めに採れるその野いちごは、コーネリアの子供の頃からの好物であるらしい。
早くに両親を失ったこの兄妹が、二人、支え合って生きてきたのだということは、新参者のリネットの目にも明白だった。
ずっと、若くして辺境伯となった兄を妹が支え、少女ながらに剣を振るう妹を、兄が可愛がって来たのだろうということも。
だから、リネットとしては、コーネリアの気持ちは尤もだと思ったのだ。
突然現れた、まだ他人でしかない自分が、彼女の居場所を奪ってしまうようなことはあってはならないと。
それはリネットの心に薄らと蟠ったままの、あのピンクブロンドの少女を思い起こさせた。
けれど、そんな時だった。
『リア、義兄上がリネット様を優先するのは当然だよ。だって逆に、僕がリネット様に最初にこれを渡したら嫌だろう?』
そう言ったのは、コーネリアの婚約者であるベルンハウトだった。
そうして、手に持っていた麻袋を、コーネリアに手渡している。
『はい。今日の僕の戦果を、君に』
受け取ったコーネリアは、ベルンと袋を見て、次いでリネットや兄の方に目をやって、
『そうね、ごめんなさいお兄様、お義姉様。お義姉様は、お兄様の奥様になるのだものね。お兄様の一番でなくちゃいけないわよね』
そう言って、兄に似た顔で気恥ずかしそうに笑ったのだった。
その時、リネットの心に浮かんだのは、以前の婚約のことだった。
ずっと、後悔していた。
何か、もっと上手く、出来たのではなかっただろうかと。
病弱な従姉妹ばかりを優先するフェリクスに、その不安や不満を、ちゃんと伝えればよかったのかもしれないと。
もっと親身になって、彼の従姉妹のロザムンドの身の振り方を、一緒に考えればよかったのだろうかと。
彼の気持ちを、試してみたこともあった。
けれど、そうして勝手に期待して、勝手に落胆することになっただけだった。
だからリネットは逃げたのだ。
婚約者の振る舞いに、悲しくなったり、期待したり、憤ったり、不安になったりする自分を持て余して。
そんな自分を見つめることに、ただ、耐え切れなくなったのだ。
ちょうどその頃、婚約者が辞退したばかりの辺境伯の婚姻に名乗りを上げたのも、高位貴族としての使命感や義務感などでは決してなかった。
ただ父であるダーシモン伯爵に、ヒース家との婚約を反故にする対価として、提示できるような家であればどこでもよかったのだ。
リネットだけは知っていた。
自分がただ、一方的に一つの関係を終わらせて、この地へ逃げてきただけだということを。
(ローズへの手紙だって、決して、彼女のためなんかじゃなかった)
ただ、リネット自身の、後ろめたさのためだった。
けれど、ベルンとコーネリア、彼らを見守るギルクリストや領民達を見て、初めて気が付いたことがある。
リネット一人が、あの関係を変えようとしたって、きっと駄目だったのだということが。
(花は……水と光と、大地と、色々な要素がないと、美しく咲くことはない)
もしもあの頃、正直にフェリクスに不満を訴えて、ロザムンドを遠ざけてもらっても……それは、何の解決にもならなかっただろう。
体調を崩す従姉妹に付き添うために、リネットとの約束を反故にする息子を、伯爵夫人が諌めている様子はなかった。
見舞いに訪れた伯爵家で、ロザムンドを囲む、どこかよそよそしい使用人達に違和感を覚えても、まだ爵位を継ぐ前の後継の婚約者にしか過ぎない自分に、何ができただろう。
あるいは婚姻後、フェリクスが爵位を継いだ後なら、ロザムンドの行く末を彼と二人で、彼女の希望も聞きながら、相談することができたのだろうか。
けれどその為にリネットが、ただ、“今”を耐えればいい、ということではきっとなかった。
(私一人が、どんなに水を注ぎ続けても、きっと駄目だった)
そのことが、ようやくわかった。
乾いた大地に、水が染み込んでいくように。
リネットの心にも、ようやくそれがわかったのだった。
けれどそう気づくことと、後悔しないこともまた、別なのではあった。
整然と並んだ、緑が連なる畝の脇で、黒髪の青年が子供達に囲まれている。
近付いていくリネットに気付いたベルンが、立ち上がって出迎えてくれる。
「お仕事中ごめんなさいベルン。折角だから、皆でお茶をと、ギルクリスト様が。皆で何をしていたの?」
しゃがんでいる子供達の手には、タンポポの綿毛が握られている。
「畑の周りを掃除がてら、皆で飛ばしていたんです。良かったらリネット様もどうぞ」
子供達が我先にと、握りしめていたタンポポを、リネットに手渡してくれる。
どうやら畑の周りの雑草を、農夫の子供達と掃除していたらしい。
“雑草”、と呼ぶと、
『この世に、“雑草”という名の草はないんですよ、リネット様』
そうベルンに叱られるので、言わないように気をつけている。
「せーのっ」
子供達が思い思いに吹き合って、白い綿毛が周囲を舞っている。
リネットも久しぶりに、手の中の綿毛に息を吹きかけてみる。
ちょうど山間から吹き付けてきた初夏の風が、畝の間を巡って、爽やかに綿毛を空に舞い上げていった。
「……こうしてバラバラになるのに、どこかでまた、集まって咲いたりするのね」
道の脇に、まだまだ寄り集まって咲いているタンポポの黄色い花たちに、ふとそんなことを思う。
飛び立つ時はバラバラになって、けれどまた、どこかの地で、互いに出会うこともあるのだろうか。
それがもし、一つの、花の幸福であるなら。
(人も、同じかしら)
一つの関係を諦めて、一人になって。
故郷から遠く離れた地で、新しい家族を得た自分のように。
皆、幸福になるために、別れて、また出会うのかもしれない。
「ベルン!お義姉様!迎えに来たわ。お兄様がお待ちかねよ」
明るい声が響いて、駆けてきた馬からコーネリアが軽やかに着地する。
頭の後ろで高く結えられた銀の髪が、光を受けて美しい。
剣の訓練中だったのだろう、軽装を纏ったコーネリアは、生き生きとしていて、よく似合っている。
「迎えに来たってリア、馬が一頭だったら、一人乗れないじゃないか」
「あら、大丈夫よ。後ろに乗ってもらうのはお義姉様だもの」
「ええ……僕だって疲れてるのに。そうだ、僕がリネット様と一緒に乗ればいいんだよ」
「何ですって?お兄様以外の男性となんて、駄目に決まっているでしょう!」
コーネリアの率直な言い回しは、貴族令嬢としてはいささか、時に遠慮もなく響く。
けれどそれが、いつも一歩引いてしまうリネットにとっては心地いいのだった。
そしてベルンも、大人しそうな見た目とは裏腹に、必ず言い返してみせるのが、何とも小気味いい。
息の合った二人の掛け合いを聞きながら、いつか自分も、こんな風にギルクリストと話す日が来るのだろうかと思う。
(ギル様ならきっと、笑って受け止めてくれるでしょうね)
元々の性格なのか、培われた器なのか。
自分の夫は、出会ってからずっと、リネットに甘いのだ。
それが少し、物足りないと言ったら……、罰が当たるだろうか。
「じゃあ聞いてみましょう。ねぇお義姉様。お義姉様は私達のどちらと同乗なさいます?」
自分を見つめる二対の瞳に、リネットは思わず瞬いた。
いつの間にか、そんな展開になっているとは。
瞳も髪色も、全然似てはいないのに、まるで姉弟のように息の合った二人に、思わず笑ってしまう。
「そうね、では私が一人で乗って、二人はゆっくり帰って来るのはいかがかしら?」
これならリネットが、馬に蹴られることもない。
『お義姉様も言うようになったわよね』
なんて言うコーネリアの楽しそうな声を背に、二人を残して馬を駆る。
乗馬も、王都にいた頃は、ほんの嗜み程度だったのが、ここへ来たら、そんなことを言っていられなくなった。
ここでは、屋敷の敷地内の移動ですら、馬に乗らなければ日が暮れてしまうだろう。
(フェリクス様の手紙は……次回から、送り返させてもらおう)
彼の手紙には、このまま返事を返さないでいようと思う。
実は今度、一年ぶりに王都に行く予定があるのだが、ギルクリストにも伝えて、会わないで済むように。
彼らとリネットの人生は、もう、わかれてしまった。
今の自分には、この地で覚えなければいけないことや、やるべきことがどれだけでもある。
だって、リネットの手は二本しかないのだ。
そして近い将来、この手でこそ、守らなければいけない大切なものが、きっと出来るだろうから。
けれどそのことを、後悔する日もきっとあるだろう。
どうすればよかったのかと。
嘆く時がまた、来るかもしれない。
そんな時は温かなスープを飲んで、その温かさに感謝するのだ。
(自分の面倒を、自分でみるって、きっとそういうこと)
それは決して、一人で全部、背負い込むということではない。
ギルクリストやコーネリアや、ベルンのように。
彼らの隣を、リネットも自分の足で、歩いて行きたいから。
影など一つもない、からりと晴れた畦道を、馬の背に乗って駆けて行く。
まだまだ続く青い葉の波が、一面に薄紫の花に覆われる季節は、もうすぐそこまで迫っていた。
この地に嫁いで、まもなく一年になる。
あの風景が、こうしてまたリネットに巡ってくる。
屋敷の向こうに連なる、雪の残った青い山々を臨みながら、自分の居場所がもう、この辺境にあることを感じて。
リネットは心から、この地で、微笑んだのだった。




