「病弱な幼馴染が心配なんだ」と私との約束を全て破った婚約者様へ。その幼馴染、ただの仮病ですよ。
エドウィン様が約束を破るのは、いつも同じ言葉から始まる。
「すまない、リアーナ。ユリアンヌの具合が悪くて」
今日は私の誕生日だった。
けれど今、私の目の前にいるエドウィン様は、申し訳なさそうに眉を下げながら決して翻ることのない決定事項を告げている。
「ユリアンヌが高熱を出して医者を呼んだんだが心細いと泣いていてね。彼女には僕しかいないんだ。わかってくれるだろう? リアーナは強いから」
強いから。
その言葉を、今年だけで何度聞いただろう。
「ええ、もちろんですわ」
もちろん。もちろんですとも。
仕立てたばかりのドレスの裾を握る指先に力がこもった。でもそれだけだ。泣いたりしない。
だって私は——強いから。
侍女のマリーが、私が一人で戻ってきたのを見て息を呑んだのがわかった。
「リアーナ様」
「大丈夫よ、マリー。もう慣れたもの」
紅茶のカップを持つ手は震えていなかった。
本当に、慣れてしまった。
§
思い返せば、兆候は婚約当初からあった。
エドウィン・サンベルク侯爵家嫡男。
金色の髪に澄んだ碧眼。社交界の花形で誰にでも優しい完璧な紳士。
私——リアーナ・グレイヴェル伯爵令嬢との婚約は、家格の釣り合いも良く周囲からは「お似合い」と祝福された。私自身も穏やかで心優しいエドウィン様のことを慕っていた。
けれど婚約から半年もしない頃、彼の幼馴染であるユリアンヌ・ミルフォード男爵令嬢が王都に出てきた。
「リアーナ、紹介するよ。僕の幼馴染のユリアンヌだ。身体が弱いから、力になってやりたいんだ」
初めて紹介された時のユリアンヌ嬢を、私はよく覚えている。
銀色の髪に透き通るような白い肌。線の細い身体。見るからに儚げだった。
「初めまして、リアーナ様。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
おずおずとそう言ったユリアンヌ嬢に、悪い印象は抱かなかった。
むしろ応援したいとさえ思った。一人で王都に来るのは心細いだろう。エドウィン様が気にかけるのも当然だ。
そう思っていた時期が確かにあった。
私の心を大きく砕いたのは二日ある。
一つは、私はユリアンヌ嬢のお見舞いに行った日だ。
エドウィン様が「君が来てくれたらユリアンヌも喜ぶ」と言うから、花束を持って彼女の借りている屋敷を訪れたのだ。
「リアーナ様、わざわざありがとうございます。ごめんなさい、エド……エドウィン様のお時間をいつもいただいてしまって」
「いいのよ。エドウィン様は優しい方だもの。あなたが元気になることが一番大切だわ」
本心だった。この時は。
けれど、帰り際に廊下で聞こえた声に私は足を止めた。
ユリアンヌ嬢付きの侍女が、もう一人の使用人と話している。
「お嬢様、お見舞いの方がお帰りになった途端にお元気になられて。さっきまでのお顔が嘘みたい」
「いつものことでしょう。エドウィン様がいらっしゃる時だけ咳が出るんだもの」
くすくすと笑う声。
私は聞かなかったことにした。
だって、確信がなかったから。
使用人の噂話で人を疑うのは、伯爵令嬢としてすべきことではない。そう自分に言い聞かせた。
もう一つは、学院の卒業記念舞踏会の夜。
これだけは、と思っていた。卒業は一度きり。最初のダンスは婚約者と。それが社交界の慣例であり、この日ばかりは流石のエドウィン様も——
「リアーナ、本当にすまない」
舞踏会の会場で開始直前に告げられた。
「ユリアンヌが血を吐いたと連絡が来た。命に関わるかもしれない。僕が行かないと——」
エドウィン様は私の返事を待たずに走り去った。
私は一人、会場の隅に立っていた。
誰もダンスに誘ってくれなかった。婚約者のいる令嬢をダンスに誘う殿方はいない。
どれくらいそうしていただろう。
「壁の花にしておくには惜しい。よければ一曲」
声をかけてきたのは、一人の男性だった。
黒髪に、深い紫紺の瞳。なにより目を引く長身。学院では見かけない顔だった。
それが、アレクシス・セルケルシュタイン辺境公爵との出会いだった。
後から知ったことだが彼は学院の卒業生として来賓に招かれていたのだという。
「ありがとうございます。でも私、婚約者がおりますので」
「ここにいない婚約者に義理を立てる必要があるのか?」
「では、一曲だけ」
差し出された手を取った。
その夜、彼は一曲だけ踊って去っていった。
こう言った出来事の他にも、沢山の約束を破られ続け現在。
私の誕生日から、三日が経った。その間、彼から埋め合わせの提案はなかった。
なので「大事な話がある」という旨の招待状をエドウィン様に送った。
「リアーナ? 改まってどうしたんだい。大事な話って——」
「婚約を解消していただきたいのです」
エドウィン様が固まった。碧眼が見たことない輝き方をする。
「は?」
「婚約の破棄を、お願いに参りました。父上には話を通しております」
「待ってくれ。何を言ってるんだ!」
「ユリアンヌ嬢のことが心配でいらっしゃるのでしょう? 婚約者の義務に縛られていては、看病にも専念できませんわ。どうぞご自由になさってください」
「違う! ユリアンヌは友人で、ただ心配なだけで!」
「ええ、存じておりますわ」
私は微笑んだ。
「ですから、エドウィン様の重荷を下ろして差し上げたいのです。私という婚約者がいるのに他の女性の元へ通うことに、きっと心を痛めていらしたでしょう?」
「リアーナ」
「もうお辛い思いをなさらなくて済みます。ユリアンヌ嬢のお傍に、思う存分いてさしあげてくださいまし」
エドウィン様の顔が蒼白になった。
「待ってくれ。考え直してくれないか。僕は確かに至らなかった。でも、これから改めるから! だから!」
「改められるのですか? 明日ユリアンヌ嬢が倒れても、私を選べますか?」
沈黙。
エドウィン様は答えなかった。まあこれが答えとも言える。
「お答えいただけないのですね」
私は立ち上がった。
「婚約破棄の書類は、こちらで用意いたします。エドウィン様はご署名くださるだけで結構です。社交界には『双方合意の円満解消』と発表しますのでサンベルク家のお顔は潰しません」
「リアーナ……!」
「どうか、お幸せに」
振り返らなかった。
応接室の扉を閉めた瞬間、涙が一筋だけ頬を伝った。
それが、エドウィン・サンベルクへの最後の涙だった。
§
婚約破棄の噂は、社交界を瞬く間に駆け巡った。
「伯爵令嬢の方から破棄を申し出たらしい」
「男爵令嬢に負けたんですって」
「気の毒に。でも、次のお相手は難しいでしょうね」
そんな囁きが聞こえてくる中、父のもとに一通の手紙が届いた。
差出人はセルケルシュタイン辺境公爵家。
「リアーナ。セルケルシュタイン公爵家から、お前との婚姻の打診が来ている」
「……セルケルシュタイン?」
辺境公爵。
国境を守護する要衝を治める名家。当主は若くして家督を継ぎ、辺境を見事に統治しているという。
「それって冷酷で知られる方では」
「冷酷かどうかは会ってみなければわからん。少なくとも書面は極めて礼儀正しい。領地経営の手腕は本物だ。お前さえ良ければ、会うだけ会ってみてはどうだ」
断る理由がなかった。
正直、婚約破棄直後の私に申し込みが来ること自体が驚きだった。しかも公爵家から。
顔合わせの場に現れたのは、あの夜の人だった。
卒業舞踏会で、壁の花だった私を一曲だけ踊りに誘ったあの人。
「あの時の」
思わず声が漏れた。
「覚えていたか」
「あ、失礼しました。あの、なぜ私に?」
「壁の花にしておくには惜しいと言った。あれは社交辞令ではない」
直球すぎる言葉に、不覚にも頬が熱くなった。
「辺境は不便で退屈だと聞きます。都の令嬢が嫁ぐには厳しいかと」
「不便なのは事実だが退屈かどうかは人による。少なくとも、約束を破る婚約者に待たされる退屈よりはましだと思うが」
容赦がない物言いだ。
でも嫌ではなかった。
「お話をお受けいたします」
§
辺境での暮らしは都とは違った。華やかな夜会はない。流行のドレスを着る機会もない。
代わりにあったのは、広大な穀倉地帯と素朴だが温かい領民。穏やかな日々を送っていた私のもとに、思いがけない便りが届いたのは、嫁いでから半年が経った頃のことだった。
差出人は、レイチェル・アッシュフォード伯爵令嬢。王都の社交界に顔の広い私の友人だ。
『リアーナ、大変なことが起きたわ。ユリアンヌ・ミルフォードの病気が仮病だったことが発覚したの』
手紙を持つ手が一瞬だけ止まった。
レイチェルの手紙には、事の経緯が詳しく書かれていた。
きっかけは、ユリアンヌ嬢が通っていた薬局の主人の告発だった。
ユリアンヌ嬢が定期的に購入していた「薬」は、実際には軽い催吐剤と肌を蒼白に見せる粉末——つまり、病気を装うための道具だったのだという。
薬局の主人は長年黙っていたが、ユリアンヌ嬢がエドウィン様との交際を公然と見せびらかすようになったことで良心の呵責に耐えかね、医師会に報告したらしい。
医師会が調査に動き、ユリアンヌ嬢の主治医が偽の診断書を発行していたことまで明るみに出た。
『エドウィン様は真っ青な顔で、ユリアンヌの屋敷に乗り込んだそうよ。そしてユリアンヌは泣き叫んで、全ては「エドウィン様に傍にいてほしかっただけ」と白状したんですって。社交界は大騒ぎ。サンベルク侯爵家の面目は丸潰れ。正直に言うけど、ざまあみろって思ったわ。あなたがどれだけ我慢してきたか、みんな知ってるもの』
私は手紙を折りたたんで引き出しにしまった。
「何の手紙だ」
執務の合間に茶を飲みに来たアレクシス様が聞いた。
「王都のお友達からです。元婚約者の話でした」
「ほう」
「ユリアンヌ嬢の病気が仮病だったそうです」
アレクシス様は紅茶のカップを口元に運んだまま、表情ひとつ変えなかった。
「知ってたか?」
「確信はありませんでした。でも疑わしいとは思っていました」
「確認しなかったのか」
「確認してどうなったでしょう。私が告発すれば、嫉妬に狂った婚約者が病弱な少女を陥れようとしていると映ります。エドウィン様もそう受け取ったでしょう」
アレクシス様はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「損な性分だな」
「よく言われます」
「でも、おかげで私は幸せだ」
え?
アレクシス様は紅茶を飲み干して立ち上がった。
「キミをもらえたからな」
それだけ言って執務室に戻っていった。
残された私は、空になったカップと自分の赤い顔を見比べてどうしたらいいかわからなくなった。
この人は、こういうことを不意打ちで言うから困る。
§
後日談をひとつだけ。
レイチェルからの手紙によれば、エドウィン・サンベルクは侯爵家の跡取りを弟に譲り辺境の修道院に入ったという。ユリアンヌ・ミルフォードは社交界から完全に締め出され、どの家の門も開かれなくなったらしい。
そして。
『ねえリアーナ、あの「氷の公爵」が領民の前で奥方の手を引いて歩いていたって噂が流れてきたわよ。辺境では「うちの公爵様はいつから溺愛公爵になったんだ」って話題になっているそうじゃない。いいわね、幸せそうで。今度遊びに行くから覚悟なさい!』
手紙を読んで思わず笑ってしまった。溺愛だなんて。
「何を笑っている」
「いいえ、なんでも」
窓の外では辺境の短い秋が暮れていく。心がホッとする温もりがここにはちゃんとある。
【了】




