環珠、どうして先ほどから同じところを見ているのですか?
劉明珠でございます。
環珠が、今日は妙にそわそわしております。
本人は隠しているつもりなのでしょうけれど、母親の目というものは、そう簡単にはごまかせません。
「姉上、環珠を見すぎではありませんか?」
「あなたは自分の右手を見なさい」
「なぜです?」
「また鼻へ向かっております」
「本当ですね」
「他人事のように言わないでください」
娘は何かを気にして落ち着かず、妹は鼻をほじろうとして落ち着かない。
同じ落ち着かないでも、ずいぶん違うものですね。
さて――今日は、環珠が何を考えているのか、少し見守ることにいたしましょう。
宮中からの使いが「陛下がお召しです」と告げた瞬間、呂子文殿は一度だけ目を伏せ、それから静かに立ち上がりました。
娘の縁談で、相手の殿方が皇帝に呼び出される。
どうしてこうなったのでしょうね。
「すぐに参ります」
子文殿がそう答えると、肇も席を立ちました。
どうやら一緒に宮中へ行くつもりのようです。
環珠は何も言いませんでしたが、先ほどまでより子文殿の姿をよく見ております。
「兄上も行かれるのですか?」
「俺が話をした以上、放り出すわけにもいかないだろう」
「そうですね」
返事は平静でした。
けれど、子文殿が部屋を出るまで視線がついていったことには、本人だけが気づいていないのでしょう。
和珠は気づいております。
もちろん玉珠も――と言いたいところですが、こちらは自分の鼻先を見ていました。
「玉珠」
「はい?」
「何をしているのです?」
「考えております」
「鼻を見ながら?」
「考える時は、なぜかここへ手が行くのです」
行かせないでください。
私は妹の手首を押し戻しながら、玄関へ向かう肇たちを見送りました。
子文殿は出る前に環珠へ向き直り、礼をします。
「では、行ってまいります」
「はい、お気をつけて」
たったそれだけでした。
それなのに環珠は、門が閉じてからもしばらく同じ場所に立っております。
「環珠姉上」
和珠が呼ぶと、環珠はようやく振り返りました。
「何?」
「もう行ってしまいましたよ」
「見れば分かります」
「では、どうしてまだ――」
「和珠」
私が名を呼ぶと、和珠は口を閉じました。
先日の注意を覚えていたようです。
けれど、その顔には「言いたい」と大きく書いてあります。
娘が二人いると、片方が黙っても片方の顔がうるさいのですね。
環珠は、子文殿が呼び出された理由を聞き返しませんでした。
聞かなくても分かっているのでしょう。
元仲様は本当に、顔を見るだけで済ませるおつもりなのか。
私はそこだけ少し疑っております。
あの方は幼い頃から肇たちと顔を合わせてきましたし、文烈様のこともよく知っています。
だからこそ、娘の相手となれば、何も聞かずに帰すとは思えません。
もっとも、それを環珠へ言えば余計に気にするでしょうから、口には出しませんでした。
最近の私は、黙っているだけで周囲から不思議がられます。
昔は文烈様が先に動きすぎたので、私が止める役だっただけなのですけれどね。
◇ ◇ ◇
子文様が宮中へ向かわれてから、私は落ち着かなくなっていた。
先ほどまで目の前にいた人が、今は陛下の前にいる。
それだけのことなのに、何を聞かれるのだろう、きちんと答えられるだろうかと、考えなくてもよいことばかり浮かんでくる。
陛下は兄上とも親しく、父上のこともよくご存じだからこそ、父上の娘を迎えたい男として子文様がどう見られるのか、余計に気になった。
曹家の娘だから近づく人なら嫌だと思っていたのに、曹家の娘であることをまったく意識しない人も、それはそれで不自然だ。
子文様は、その両方を避け、父上の娘だと分かった上で、それだけでは足りないと言った。
だから私は、もう一度話してみたいと思ったのだろうか。
自分でもまだ答えは出ないけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
『環珠殿は、文烈様の娘である前に、環珠殿なのでしょうから』
あの言葉は、ずるいと思う。
私が一番聞きたかったことに、こちらが望んでいた以上の答えを返された。
嫌ではなかった。
むしろ――
「環珠姉上」
考えかけたところへ和珠の声が飛んできて、私は顔を上げた。
「何?」
「さっきから同じところを見ています」
「見ていません」
「見ていますよ」
「では、何を考えているのですか?」
答えられるわけがない。
母上なら、このあたりで助けてくださるだろうかと思って横を見ると、何も言わず茶を飲んでいた。
助ける気はないらしい。
しかも、ほんの少し口元が笑っている。
「母上」
「何です?」
「今、笑いましたか?」
「いいえ」
「笑いました」
「和珠と同じことを言うのですね」
何だか悔しい。
叔母上を見ると、こちらは鼻へ指を伸ばしかけて母上に手首をつかまれていた。
……今は頼れそうにない。
私は諦めて、もう一度座り直した。
子文様は悪くなかった――けれど、そんな言い方では足りない気もする。
まだ一度話しただけなのだから、今はもう一度話してみたいと思うだけでいい。
それなら先ほど兄上にも言ったし、それ以上は、まだ考えなくてもよいはずだ。
◇ ◇ ◇
肇が戻ったのは、日が少し傾いてからでした。
一人です。
環珠が真っ先に立ち上がりました。
「兄上……子文様は?」
ずいぶん早いですね。
本人も気づいたのでしょう。
言ってから一瞬だけ口を閉じました。
肇はそこをからかいませんでした。
「呂氏の滞在先へ戻った。陛下との話も終わったぞ」
「そうですか」
環珠は座り直しましたが、今度は肇の顔を見ています。
私も聞きたいことがあります。
「それで、元仲様は何と?」
「母上、その前に一つだけ」
「何でしょう?」
「陛下はまず、環珠の考えが変わっていないか確かめろ、と仰いました」
「ええ」
そこは元仲様も変わりませんね。
肇は環珠へ向き直ります。
「その上で、子文殿とも話をされた」
「何を話されたのですか?」
「そこまでは全部聞いていない。ただ、家のことや、今回の話を本人がどう考えているのかは尋ねられたそうだ」
「元仲様は、子文殿に何と?」
私が重ねて尋ねると、肇は思い出すように間を置きました。
「父上の娘だからといって、必要以上に構えるな、と。環珠が自分で会いたいと言ったことも伝えました」
「そこまで?」
「はい、すると陛下は、『ならば朕が決める話ではない』と」
「それはそうでしょう」
「そのあとで、『だが、ここまで見ておいて何も進めぬのも妙だ。お前が纏めろ』と仰いました」
ずいぶん元仲様らしい言い方です。
自分で口を出しておきながら、最後はきちんとこちらへ返す。
それなら最初から見なくてもよかったのでは、と申したら、きっと笑われるのでしょうね。
環珠が息を整えました。
「では……」
「陛下のお言葉を、そのまま言えば、『もうよい。纏めろ』だ」
部屋が静かになりました。
最初に口を開いたのは玉珠です。
「何を纏めるのです?」
「縁談です」
「散らかっていたのですか?」
「そういう意味ではありません」
本当に、どうしてこの妹は大事なところで別の道へ行くのでしょう。
肇が額を押さえ、和珠が笑いをこらえます。
環珠だけは笑っておりませんでした。
「陛下が、本当にそう仰ったのですか?」
「ああ……ただし、陛下が決めるという意味ではない。お前が嫌ならここで終わりだ。だが、お前が嫌ではなく、こちらでも調べ、向こうも本人の意思を確かめているなら、いつまでも周りで眺めている必要はない、と」
肇と纂が調べ、環珠と子文殿が会い、今度は自分まで顔を見たのです。
元仲様としては、もう十分だとお考えなのでしょう。
「子文殿については?」
私が尋ねると、肇は少し笑いました。
「少なくとも、陛下の前で逃げ出さなかったことは評価しておられました」
「そこですか?」
「『文烈なら、もっと怖かったぞ』とも」
「比べる相手を間違えておられます」
亡くなってからまで縁談相手を威圧するのはやめてください、文烈様……
環珠の口元にもようやく笑みが戻りました。
肇はその様子を確かめてから、声を落とします。
「環珠、もう一度聞くぞ。嫌なら止める。陛下が何と言おうと、そこは変わらない」
「……はい」
環珠は膝の上で手を重ねました。
誰も急かさず、いつもなら口を挟みそうな和珠まで黙って待っております。
しばらくして、環珠は顔を上げました。
「止めなくていいです」
その返事を聞いて、玉珠が自分の右手を見ました。
「止めなくてよいのですか?」
「あなたの話ではありません」
私は鼻へ向かおうとした手をつかみました。
「姉上、今、止めましたよ?」
「あなたは止めます」
「環珠はよいのに?」
「何と比べているのですか」
肇が吹き出し、和珠もとうとう笑いました。
環珠まで肩を揺らしております。
これで少なくとも、話を次へ進めることだけは決まりでしょう。
私はそう思っていたのですが、環珠が笑いを収めたあと、肇へ向き直りました。
「兄上」
「何だ?」
「話を纏めるということは、また子文様とお話しすることになりますよね?」
「ああ、そうなるな」
環珠は一度だけ視線を落とし、すぐに顔を上げました。
「では、次はいつお会いできますか?」
肇が止まりました。
和珠の目が輝き、玉珠の右手まで鼻の手前で止まります。
私も、すぐには言葉が出ませんでした。
……環珠。
思っていたより、ずいぶん良い感じなのではありませんか?
劉玉珠でございます。
今日は、なぜか皆さまが環珠の顔ばかり見ておりました。
私も見てみたのですが、いつもの環珠です。
「姉上、どこか変わりましたか?」
「玉珠には分からなくて結構です」
「そうなのですか?」
「その代わり、自分の右手を見なさい」
言われて見ますと、鼻のすぐ手前まで来ておりました。
危ないところでしたね。
「何が危ないのです?」
「姉上、心を読まないでください」
環珠のことは、まだよく分かりません。
ですが、皆さまが妙な顔をしていたことだけは分かります。
さて――次は、誰がいちばん妙な顔をするのでしょうね。




