環珠、何回見ようが急に別人にはなりませんよ
劉明珠でございます。
娘が朝から何度も鏡を見るようになると、母親というものは、何も言わずとも察してしまうものですね。
もっとも、本人は平静を装っております。
「母上、どこか変ではありませんか?」
「先ほども聞きましたよ」
「念のためです」
「何度見ても、急に別人にはなりません」
横で玉珠まで鏡を覗き込みました。
「私はどうでしょう?」
「まず右手を下ろしなさい」
「顔ではなく、そちらですか?」
「鼻へ向かっておりますからね」
娘は鏡を気にし、妹は鼻を気にする。
どうして私の周りには、放っておけない者ばかりなのでしょう。
さて――今日は、誰がいちばん落ち着かないのでしょうね。
肇が宮中から戻ってきた時、私は玄関先で顔を見ただけで、だいたい察しました。
あの子は昔から、面倒な話を持ち帰る時だけ妙にきちんとした顔をするのです。
「元仲様が、子文殿の顔を見たいと?」
「はい」
やはりですか。
環珠が隣で目を見開きました。
「陛下も、ですか?」
「一度、顔くらい見ておこう、と仰せでした」
環珠は黙りました。
和珠は事情を理解しようとしているのでしょう、兄と姉の顔を交互に見ております。
「環珠姉上のお相手は、兄上たちにも見られて、陛下にも見られるのですね」
「そうなりますね」
「大変ですね」
「和珠」
「はい?」
「今、少し面白がっていませんか?」
「面白がってはいません」
否定するには、目が輝きすぎておりますよ。
その横で玉珠まで神妙に頷きました。
「環珠は大切にされておりますね」
「そこだけ聞けば、たいへん美しい話ですね」
「違うのですか?」
「大切にされすぎて、相手の方が逃げ出さないか心配になってきました」
玉珠は「なるほど」と言いながら右手を上げました。
「納得しながら鼻へ向かわないでください」
「まだ届いておりません」
「届かせる気だったでしょう?」
「姉上は細かいですね」
「あなたが大雑把すぎるのです」
肇がとうとう笑いました。
環珠もつられて口元を緩めます。
これなら、皇帝まで出てきたことで必要以上に固くならずに済みそうです。
「陛下のことは、今は気にするな」
肇が環珠へ向き直りました。
「まず子文殿と会って、お前自身がどう思うかだ。陛下が何と仰るかは、その後でいい」
「……はい」
返事はしっかりしております。
先に「会いたい」と言い出したのは環珠自身なのですから、ここで私まで背中を押せば、かえって邪魔になるでしょう。
私は黙って茶を飲みました。
それを見た肇がこちらを見ます。
「母上は、何も仰らないのですか?」
「またですか?」
「いえ、その……」
「あなたも環珠も、自分で考えているのでしょう。でしたら私は、茶でも飲んでおります」
肇は何とも言えない顔をしました。
どうやら私は、黙っているだけで家族を不安にさせる母親になってしまったようです。
◇ ◇ ◇
呂子文殿が曹家の屋敷を訪れたのは、それから数日後でした。
朝から和珠が環珠の周囲をうろついております。
「姉上、その髪で行くのですか?」
「そうよ」
「髪飾りは?」
「これでいいわ」
「もう一つ付けた方が――」
「和珠」
私が呼ぶと、和珠はぴたりと止まりました。
「あなたが嫁ぐ時には、好きなだけ髪飾りを付けなさい」
「まだ先です」
「ええ、だから今は環珠の頭を飾り台にしないでください」
和珠は口を尖らせながらも離れました。
環珠は鏡を見たあと、こちらへ振り返ります。
「母上」
「何です?」
「本当に、これでよいでしょうか?」
「先ほどから三度は鏡を見ていますね」
「それは……」
「四度目を見ても、急に別人にはなりませんよ」
環珠が困ったように笑います。
まだ幼さの残る娘ですが、今日はいつもより背筋を伸ばして見えました。
そこへ玉珠が顔を出します。
「環珠、とてもきれいですよ」
「叔母上、ありがとうございます」
「もう少し胸元を――」
「玉珠」
「まだ最後まで申しておりません」
「最後まで聞く必要がないから止めたのです」
環珠が吹き出しました。
和珠まで笑います。
玉珠だけが、なぜ止められたのか分かっていない顔をしております。
この妹は、空気を読めないのではありません。
読んだうえで、なぜか別の方向へ歩いていくのです。
「叔母上は、今日は同席なさらないのですか?」
環珠が尋ねました。
「私は?」
玉珠が自分を指します。
「はい」
「してよいのですか?」
「駄目です」
「姉上が答えるのですか?」
「私が答えます」
玉珠は不満そうでしたが、ここで同席させたら、縁談の話より先に鼻の話になる未来しか見えません。
ほどなくして、来客を知らせる声が届きました。
環珠の表情が変わりました。
緊張はしているのでしょうが、逃げようとはしておりません。
私はその横顔を見て、立ち上がりました。
「行きましょうか」
「はい」
◇ ◇ ◇
呂子文殿は、先に通された部屋で待っておりました。
肇も同席しています。
私と環珠が入ると、子文殿は立ち上がり、まず私へ、次に環珠へ礼をしました。
「本日は、このような場を設けていただき、ありがとうございます」
声は落ち着いております。
こちらの家格に押されて萎縮している様子もなければ、逆に取り入ろうとして愛想を振りまく様子もありません。
私は挨拶だけ返し、環珠の隣へ座りました。
肇も口を挟みません。
さて、ここからは二人で話していただきましょう。
――と思ったのですが。
誰も口を開きません。
子文殿は環珠を見て、環珠も見返しているのですが、どちらも何か言おうとしては止めております。
このままでは、最初に仲良くなるのは二人ではなく、卓の上の茶でしょうね。
それでも私は助け舟を出しませんでした。
環珠が望んだ場なのですから、黙るのも話し始めるのも本人に任せます。
やがて環珠が息を整えました。
「呂子文様」
「はい」
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
環珠は子文殿の顔をまっすぐ見ました。
「今回のお話は、呂氏の方々が望まれたことなのでしょうか。それとも、子文様ご自身も望んでおられるのでしょうか」
肇の視線が動きます。
私も子文殿を見ました。
いきなりそこですか。
けれど、聞きたいことを後回しにして愛想笑いを続けるよりは、環珠らしいのでしょう。
子文殿は意外そうに目を瞬かせましたが、すぐに答えました。
「家から話が出たのは事実です。ただ、私も話を聞いてから、環珠殿と一度きちんとお会いしたいと思いました」
「なぜです?」
「私の知らぬところで、婚姻の話が決まっていくのは嫌だったからです」
環珠が小さく息をのみました。
「私もです」
返事は早かった。
「私も、家同士の都合だけで決められるのは嫌でした」
子文殿はそこで初めて笑いました。
「でしたら、その点は同じですね」
「そうですね」
環珠の声から、先ほどまでの固さが抜けます。
私は茶へ手を伸ばしました。
ここまでは、悪くありません。
もちろん、一度話しただけで相手のすべてが分かるほど、人というものは親切にできておりません。
ですが、少なくとも二人とも「家から言われたので座っております」という顔ではない。
それだけでも、今日会った意味はあります。
「環珠殿は、この話が進むとしたら、何を一番気にされますか?」
今度は子文殿の方から尋ねました。
環珠はすぐには答えませんでした。
考えてから、ゆっくり口を開きます。
「私が曹家の娘だからではなく、私自身を見ていただけるかどうかです」
私は思わず娘の横顔を見ました。
ずいぶん真っ直ぐに言いますね。
子文殿は、言葉を選ぶようにわずかな間を置きました。
「……難しいことを仰います」
「そうでしょうか?」
「はい、私は今日ここへ来るまで、曹文烈様の娘に会うのだと何度も考えておりました」
環珠の眉がわずかに寄ります。
けれど、子文殿は続けました。
「ですが、それだけでは足りないのでしょうね」
「足りないと?」
「環珠殿は、文烈様の娘である前に、環珠殿なのでしょうから」
今度は私が黙る番でした。
なるほど。
少なくとも、耳当たりのよい言葉だけを並べる人ではなさそうです。
父の名を意識していたことも隠さず、そのうえで今ここにいる環珠を見ると言う。
肇を見ると、こちらも子文殿から目を離しておりません。
兄として、同じところを見ているのでしょう。
環珠はしばらく子文殿を見つめたあと、静かに答えました。
「では私も、呂氏の方だからではなく、子文様ご自身を見るようにいたします」
「お願いします」
二人の間に、ようやく自然な笑みが浮かびました。
私は茶を口へ運びます。
今度こそ、冷める前に飲めました。
◇ ◇ ◇
話が一区切りすると、子文殿はいったん別室へ案内されました。
環珠はその背を見送り、見えなくなったところで息を吐きます。
「緊張しましたか?」
「しました」
「ずいぶん素直ですね」
「母上が後で分かることですから」
なるほど。
娘の方が私の扱いを覚えてきましたね。
「それで、環珠はどう思った?」
肇が尋ねます。
環珠はすぐには答えませんでした。
「まだ、分かりません」
「うん」
「でも、もう一度お話ししてみたいとは思います」
肇はそれ以上追及せず、私も何も言いませんでした。
今はそれで十分でしょう。
ところが肇は、今度はこちらへ向き直りました。
「母上は?」
「何がです?」
「子文殿をどう思われましたか?」
「あなたまで聞くのですか?」
「参考までに」
「悪くはありませんでしたよ」
「それだけですか?」
「その言葉、最近よく聞きますね」
私はため息をつきました。
「環珠がもう一度話したいと言っているのでしょう。それ以上、今の私に何を言わせたいのです?」
「いえ……」
「まさか、『母上も気に入りました』とでも言えば安心するのですか?」
「そこまでは」
「では、十分でしょう」
肇が苦笑します。
そう話しているところへ、廊下の向こうから足音が近づき、家の者が部屋の入口で止まりました。
「肇様」
呼ばれた肇が振り返ります。
何かを告げられた瞬間、表情が変わりました。
「どうしました?」
私が尋ねると、肇はこちらを見ます。
嫌な予感がしました。
こういう時の嫌な予感は、家族と長く暮らしていると妙に当たるものです。
「宮中から使いが来ました」
「……何の用です?」
肇は一度だけ息を吐きました。
「陛下が、子文殿をお召しです」
私は目を閉じました。
元仲様。
本当に見るのですね。
劉玉珠でございます。
今日は、姉上がいつも以上に平然としておりました。
こういう時は、たいてい何かございます。
「姉上、何か隠しておりませんか?」
「隠しておりませんよ」
「では、なぜそのようなお顔を?」
「あなたの右手を見ているからです」
「またですか?」
「またなのは、こちらの台詞です」
気づけば、指が鼻の近くまで来ておりました。
不思議ですね?
私は何も考えていないのに、右手だけはよく働きます。
それにしても――今日は一つのお話が、ずいぶん大きくなっているような気がいたします。
次は、どこまで広がるのでしょうね?




