幼姫、私は戸締まりの話をしております
劉明珠でございます。
寿春から戻った翌日、私は肇の妻・幼姫と茶を飲んでおりました。
小さくて可愛らしく、子の世話もよくする、たいへん良い嫁でございます。
ええ、本当に……
ただ――この子は時々、こちらがまったく想定していない方向へ話を理解します。
「母上?」
「何でもありませんよ、幼姫」
こういう時は、余計な言葉を足さないことが肝要です。
そこへ廊下の向こうから、
「姉上ー」
……もう一人、余計な言葉を足すことにかけては天下無双の妹が近づいてまいりました。
お願いですから、その右手を鼻へ持っていく前に座ってください。
「肇は、家でもあれほど奥まで確かめないと気が済まないのですか?」
「……はい。昨夜も、ずっぽしと」
私は茶碗を置きました。
危ないところでした。
「幼姫……私は戸締まりの話をしております」
「えっ」
向かいに座っていた嫁が、ぱちりと目を瞬かせました。
寿春から洛陽へ戻った翌日のことでございます。
肇は朝から出仕しており、環珠と和珠もそれぞれ用があって席を外しています。
寧珠は自分の子の世話がありますから、今日は朝から顔を見せておりません。
そのため屋敷の奥は珍しく静かで、私は久しぶりに何も考えず茶でも飲もうとしていたのですが――どうも我が家では、静かな時間というものは長続きしないようです。
「戸締まり……でございましたか?」
「そうです。ほかに何だと思ったのです?」
「いえ、その……母上が『奥まで確かめる』と仰いましたので……」
「私の言い方にも多少の問題があったことは認めましょう」
そこまで申すと、幼姫は恥ずかしそうに袖で口元を隠しました。
楽幼姫――肇の妻でございます。
楽文謙殿の一族から嫁いできた娘で、楽家では末の姫だったそうです。
その名の通り、こうして改めて向かい合ってみますと、本当に小さい。
私は女としてはかなり背が高い方ですから、立って並べば幼姫の頭は私の目の位置まで届きません。
しかも元々小柄なところへ、童顔まで加わっています。
もっとも、子を産み、今も乳を飲ませている母親です。
そのため身体つきのすべてが幼いわけではなく、むしろ胸元などは今の私よりよほど立派でした。
世の中というものは、身長だけ見て人を判断してはいけませんね。
「それで、戸締まりのお話でしたね」
「そうです。なぜ話を戻すのに、あなたの方が気まずそうなのです?」
「母上が戻してくださらないと、私からは戻しにくいので……」
「なぜ私のせいにするのです?」
幼姫は微笑みながら、傍らの籠へ目を向けます。
そこでは、先ほどまで乳を飲んでいた子が眠っていました。
幼姫は話をしながらも、寝息が少し変わればそちらへ目をやり、掛布がずれていればそっと直します。
その仕草だけ見れば、先ほど盛大な勘違いをした女と同一人物には見えません。
「肇様は、家でもあのようなお方なのです」
「どのような?」
「何でもご自分で確かめないと安心なさらないのです。戸も、火も、子の寝床も、一度ご覧になったあとで、また戻って確認なさいます」
「なるほど。文烈様とは少し方向が違いますね」
「父上もでございますか?」
「ええ、あの方は心配事があると、手配する人間と物が増えました。肇は自分の足で確かめに戻るようです」
「では、やはり親子なのですね」
幼姫は妙に納得した顔をしました。
そう言われると否定しにくいものがあります。
寿春へ行くだけだと申しているのに、道中の宿から水、薬、護衛まで整えた男です。
しかも本人は洛陽に残っているくせに、纂と文を交わしながら私の歩き方まで把握していたらしい。
あれを思えば、夜中に戸を二度確かめる程度は可愛いものなのでしょう。
「母上が寿春へ向かわれてからは、少しひどくなりました」
「……まだ何かあったのですか?」
「夜中に目を覚ますのです」
そこで幼姫の声音が、ほんの少しだけ変わりました。
「私が起きていることに気づくと、『起こしたか』と仰って、また横になります。けれど眠らずに、しばらく天井をご覧になっているのです」
私は何も言わず、続きを待ちました。
「文が届いた日はよく眠られました。届かなかった日は、朝になると何もなかったようなお顔で出仕されましたけれど」
なるほど……あの子は、そんなことをしていたのですか。
私の前では涼しい顔で、「母上が無事に着けば、すべて無駄でよいのです」などと申していたくせに。
「肇様は、母上には仰らないでしょうから」
「ええ……言わないでしょうね」
「ですから私も、申し上げない方がよかったでしょうか?」
幼姫がわずかに不安そうな顔をしたので、私は首を横へ振りました。
「いいえ、教えてくれてありがとう」
「母上……」
「私の前にいる肇と、あなたの前にいる肇は同じではないでしょう。その方が安心します」
幼姫が瞬きをしました。
「安心、でございますか?」
「母親の前でも妻の前でも、いつも同じ顔をしている方が困ります。あなたの前でくらい、格好をつけきれなくてもよいでしょう」
そこまで申すと、幼姫の頬が少し緩みました。
私には見せない顔を、この子には見せる。
それを寂しいと思うほど、私は狭量ではありません。
むしろ、そういう場所が肇にもあることの方が大切です。
「ですから幼姫」
「はい」
「夜中に起きていても、気づかないふりくらいしてあげなさい」
「はい」
「ただし、戸締まりは一度で十分だと申しておきなさい」
「そちらは直させるのですね?」
「火事と泥棒に、夫婦愛は通じません」
幼姫が吹き出しました。
ちょうどその時です。
「姉上ー」
聞き慣れた声が廊下の向こうから近づいてきました。
嫌な予感というものは、なぜこうも足取りが軽いのでしょう。
現れたのは玉珠でした。
夫君は出仕中なので、今日は一人です。
もっとも腹にはもう一人おりますから、厳密には一人と言ってよいのか迷うところではあります。
「寿春から戻ったと聞きましたので、参りました」
「昨日戻ったところですよ」
「知っております」
「では、なぜ昨日来なかったのです?」
「夫に止められました」
「賢明です」
「姉上?」
玉珠は不満そうに頬を膨らませながら、幼姫の隣へ腰を下ろしました。
そして、すぐに右手が顔へ向かいます。
私はその手首を途中でつかみました。
「夫君がおりませんからといって、自由になったと思いましたか?」
「まだ何もしておりません」
「しようとしておりました」
「鼻が少しかゆかっただけです」
「あなたの場合、その言い訳には前科があります」
玉珠は渋々手を膝へ戻しました。
すると今度は、幼姫をじっと見ます。
「幼姫殿は、相変わらず小さいですね」
「玉珠様、久しぶりにお会いして最初がそれでございますか?」
「ですが、以前より大きくなったところもあります」
私は目を閉じました。
嫌な予感が帰ってきました。
「玉珠」
「胸です」
「言うと思いました」
幼姫が真っ赤になって胸元を押さえました。
「い、今は子に乳を飲ませておりますから……」
「なるほど。私もまだまだ大きくなりますか?」
「私に聞かないでください」
「姉上はどうでした?」
「なぜ私に戻ってくるのです?」
「三人も産んでおりますし」
「経験者なら何でも答えられると思わないでください。人によります」
そこで玉珠は、自分の胸元へ視線を落としました。
何を真剣に考えているのでしょうね、この妹は。
「大きくなりすぎると重そうですね」
「それはそうかもしれません」
幼姫がうっかり同意しました。
玉珠の目が輝きます。
「幼姫殿は重いですか?」
「玉珠」
「はい」
「寿春の話を聞きに来たのでは?」
「そうでした」
忘れていましたね?
間違いなく忘れていましたね?
そこからようやく、私は寿春で見てきたことを話しました。
変わらぬ町並みや、そこで働く纂の様子、それに伯寧殿と彦雲殿がどう見ても仲良くないのに、二人揃って仲が悪くないと言い張っていたことまで、思い出すままに話していきます。
文烈様が最後にいた部屋へ、初めて文烈様のいない状態で入ったことも話しました。
幼姫は黙って聞いていました。
玉珠も――珍しく――途中でふざけませんでした。
「姉上」
「何です?」
「行ってよかったですか?」
その問いには、すぐ答えることができました。
「ええ」
茶碗の水面を見ながら、私は小さく息を吐きます。
「行ってよかったですよ。昔の寿春を探しに行ったつもりでしたが、今の寿春もきちんと続いておりました」
玉珠は「そうですか」とだけ答え、それ以上は聞きません。
こういうところだけは、本当に妙に勘がよい妹なのです。
右手さえ鼻へ向かわなければ。
……向かいましたね。
「玉珠」
「まだ触っておりません」
「戻しなさい」
「はい」
幼姫が口元を押さえて笑っています。
その笑顔を見て、私はふと思いました。
「そういえば幼姫」
「はい?」
「あれほど落ち着かなかったのなら、肇は自分で寿春へ行こうとはしなかったのですか?」
「私もそう申しました」
「それで?」
「『私が行ったら母上が休まない』と」
思わず黙りました。
……よく分かっておりますね、あの子は。
肇まで来ていれば、私は間違いなく気を遣ったでしょう。
息子が仕事を放り出して自分についてきたとなれば、早く洛陽へ帰れと言ったに決まっています。
「それから、『母上は心配されるのを嫌がるが、心配されなくなるのはもっと嫌な方だ』とも」
「肇」
私は額へ指を当てました。
「余計なところまで理解しておりますね」
「当たっているのですか?」
「幼姫」
「はい」
「嫁が姑を追い詰めるものではありません」
「申し訳ございません」
謝りながら笑っております。
この子もずいぶん我が家に馴染みました。
そこへ玉珠が、まったく違う方向から割り込みます。
「それで、先ほどの『ずっぽし』とは何だったのです?」
幼姫が固まりました。
私はゆっくり玉珠を見ました。
「あなた、いつから聞いていたのです?」
「廊下へ来た時には、幼姫殿が『昨夜もずっぽし』と」
「忘れなさい」
「ですが、肇殿はまだお若いですし――」
「忘れなさい」
「姉上も文烈様とは――」
「玉珠」
右手がまた鼻へ向かいましたので、今度は指先が届く前に叩き落としました。
「なぜ今それをするのです?」
「考える時の癖です」
「別の癖を身につけなさい」
幼姫はもう顔を伏せており、耳まで真っ赤になっています。
「母上、私の勘違いでございましたので……」
「分かっております」
「肇様には、どうか……」
「申しませんよ」
私はため息をつきました。
「息子夫婦の寝所の話を聞き出す趣味など、私にはありません」
「安心いたしました」
「私もです」
なぜ玉珠まで安心するのです?
その時、廊下の向こうから足音がしました。
環珠か和珠でしょうか。
子供たちにこの話を聞かせるわけにはまいりませんので、私は幼姫へ目配せしました。
幼姫も察したようで、慌てて背筋を伸ばします。
ところが、聞こえてきた声は娘たちのものではありませんでした。
「母上、ただいま戻りました」
幼姫の顔から色が消えました。
肇です。
今日は遅くなると聞いていたのですが、どういうわけか早く戻ってきたようです。
まずいですね。
非常にまずい。
何がまずいのか自分でもよく分かりませんが、とにかくまずい。
そう思った瞬間――玉珠が振り返りました。
「肇殿」
「はい?」
「昨夜もずっぽしだったそうですね」
茶碗が、幼姫の手から滑り落ち、肇まで動きを止めました。
私は目を閉じました。
数息の沈黙を挟んで、ようやく息子の声がします。
「……母上」
「何です?」
「私は、何を聞かれたのでしょうか?」
知りません。
私に聞かないでください。
劉玉珠でございます。
今日は姉上のところへひとりで参りました。
姉上も幼姫殿も、たいへんお元気でしたよ。
途中から、なぜかお二人とも私を見る目が冷たくなりましたけれど……
「玉珠……あなたは、思ったことを全部口に出す必要はないのですよ」
姉上にそう言われました。
難しいですね。
では考えるだけにしようと右手を鼻へ向けましたら、今度は手首をつかまれました。
「それもやめなさい」
口も駄目、鼻も駄目。
姉上はたいへん厳しいです。
ですが――私はまだ、ひとつ聞き忘れたことがございます。
次に会った時こそ、ちゃんと聞きましょう。
姉上には、たぶん止められますけどね。




