纂、あなたにとっての「少し」とはどのくらいなのです?
劉明珠でございます。
昨日、纂が申しました。
「兄上から帰路の手配が届いております」
「ええ……肇ならそうするでしょうね」
「少しだけ、私の分を足しました」
……少しだけ。
その言葉を信じてよいのでしょうか?
肇もそうですが、曹家の男は「念のため」と「少しだけ」を使う時ほど信用できません。
「母上、どうなさいました?」
「何でもありませんよ」
環珠にそう答えながら、私は朝を迎えました。
さて――
洛陽へ帰るだけなのです。
帰るだけなのですよ?
それなのに、なぜ私は屋敷の門を出るのが少し怖いのでしょうね。
翌朝、屋敷の門を出た私は、しばらく何も言えませんでした。
昨日、纂は申しました。
少しだけ、自分の分を足した、と。
「纂」
「はい、母上」
「あなたにとっての『少し』とは、どのくらいを指す言葉なのです?」
門前には、来た時より明らかに人が増えております。
肇が洛陽から寄越した護衛だけでも十分すぎるほどだったはずなのに、その外側へ見覚えのない兵が加わり、馬車の脇には寿春の者らしい従者まで控えておりました。
環珠も黙って眺めていますが、和珠は素直です。
「増えていますね」
「見れば分かります」
「たくさん」
「それも分かります」
纂は平然としております。
「寿春からしばらくの間だけ、こちらの者も同行させます」
「しばらくとは?」
「母上方が安全なところまで」
「洛陽までではありませんよね?」
「そこまでは兄上の者がおりますので」
安心するべきなのでしょうか?
どうして兄弟で、こんな時だけ見事に役割分担ができるのでしょうね。
私は門前をもう一度見回しました。
来る時にも使った馬車があります。
その隣に、もう一台ございました。
「纂」
「はい」
「あちらは?」
「母上がお疲れになった時のためです」
「私は馬車に乗って帰るのですよ?」
「ですから、そちらで疲れた時に移っていただきます」
「馬車に疲れて馬車へ移るのですか?」
環珠が顔を伏せました。
笑っていますね。
「兄上が用意したものより、座り心地を少し変えてあります」
「なぜです?」
「昨日、母上が茶店で立ち上がられた時、腰へ手を当てておられましたので」
私は固まりました。
そんなところまで見ていたのですか。
「少し歩いただけですよ」
「存じております」
「では」
「少し歩いただけでそうなら、帰路ではもっと疲れるかもしれません」
この子も、私の返事を聞く気がありません。
肇だけで十分だと思っておりましたが、どうやら甘かったようです。
さらに馬車へ近づくと、踏み台まで昨日より低いものへ変わっております。
「……これも?」
「昨日、母上が馬車を降りる時に足元を見ておられましたので」
「誰でも見ますよ」
「念のためです」
念のため――
この言葉は、曹家の男たちが何かを増やす時に使う呪文なのでしょうか?
環珠が先に乗り込み、和珠も続こうとしたところで、纂の妻が小さな包みを渡しました。
「道中でどうぞ」
「何です?」
「菓子です」
和珠の顔が明るくなります。
「昨日のお店の?」
「ええ」
私は纂を見ました。
「これもあなたですか?」
「妻です」
「本当に?」
「半分ほどは」
半分という言葉まで信用できなくなって参りました。
今度は私へ別の包みが差し出されます。
「母上はこちらを。甘すぎないものにしてあります」
「あなたたち夫婦、昨夜は寝ましたか?」
「もちろんです」
「その割には、ずいぶん仕事をしましたね」
纂の妻は笑いましたが、夫の方は何も答えません。
怪しいですね。
私が馬車へ乗ろうとすると、纂が自然に手を差し出しました。
「一人で乗れますよ」
「存じております」
「それでも手を出すのですか?」
「はい」
引っ込める気はないようです。
仕方なく手を借りると、纂は私が中へ座るところまで確かめ、座布の位置まで直しました。
「私はこれから洛陽へ帰るだけですよ。戦へ行くわけではありません」
「存じております」
この返事、どこかで聞きましたね。
肇です。
兄弟というものは、離れていても同じ返事を覚えるのでしょうか。
「母上、諦めた方がよいのでは?」
環珠が向かいから笑っております。
「あなたは他人事だと思っておりますね」
「私も一緒に守られておりますから」
「では少しは止めてください」
「無理だと思います」
娘にまで見放されました。
和珠は菓子の包みを膝に置きながら、外の纂へ申します。
「兄上も一緒に帰ればよいのに」
「私はここで役目があるからな」
「寂しくないですか?」
「少しは」
纂がそう答えると、和珠は今度は笑わずに頷きました。
この子は寿春に残ります。
父親がいなくなった後のこの土地で、自分の役目を果たしながら生きていくのでしょう。
昨日一日、町を案内してもらいながら、その横顔を何度も見ました。
「纂」
「はい、母上」
「無理はしないでくださいね」
「母上も」
「私は洛陽へ帰るだけですよ」
「昨日もかなり歩かれました」
「まだ言いますか?」
「申します」
本当に、誰に似たのでしょうね。
考えるまでもありません。
文烈様……あなたですよ。
やがて出発の声がかかり、馬車がゆっくりと動き始めました。
纂は妻と並んで門前に立ち、こちらを見送っております。
「兄上!」
和珠が窓辺へ寄り、懸命に手を振りました。
「和珠、身を乗り出してはいけませんよ」
「大丈夫です!」
環珠も笑いながら手を上げます。
纂は二人へ応えるように手を振りましたが、その視線はすぐに私へ戻りました。
まったく。
昨日から歩き方だの腰の具合だの、細かなところまで見ていたくせに、最後は母親の顔まで確かめなければ気が済まないのでしょうか。
私は窓辺へ寄り、ゆっくりと手を振りました。
纂が一瞬だけ目を見開き、それから先ほどより大きく手を振り返します。
「母上も振るのですね」
環珠が申しました。
「当たり前でしょう。あの子が見送ってくれているのですよ。母親が応えなくてどうするのです?」
環珠は少しだけ目を細め、それ以上は何も申しませんでした。
「兄上、まだ見ています!」
和珠が教えてくれます。
「そうでしょうね」
私も見ておりますから。
門が遠ざかっても、纂夫妻はその場を動きません。
私も手を下ろさず、道が曲がって二人の姿が見えなくなるまで振り続けました。
昔は私の方が、あの子の食事や体調を気にし、熱を出した夜には何度も様子を見に行ったものです。
そんな息子が今では、私の歩き方ひとつで馬車まで増やしております。
子供というものは、いつの間にこんなに大きくなるのでしょうね。
「母上」
環珠が静かに呼びました。
「何です?」
「寿春へ来て、よかったですね」
私は頷きました。
「ええ……来てよかったですよ」
文烈様がいない部屋へ入り、今も続いている寿春を歩き、そこで暮らす纂を見ることができました。
それだけでも、ここまで来た甲斐は十分にありました。
もっとも、帰り道まであの子の気配から逃れられるとは思っておりませんでしたけれど。
最初の休憩場所へ着くと、すでに湯が用意されております。
肇でしょうね。
そう思っていたところ、迎えた者が頭を下げました。
「曹肇様よりのご指示に加え、曹纂様より、夫人がお疲れになっていないか必ず確認するよう申しつかっております」
私は思わず空を仰ぎました。
環珠が笑っております。
次の宿では、胃に重くない食事が用意されていました。
これも昨日よく歩いた私のためだと聞かされ、箸を取る前から誰に礼を言えばよいのか分からなくなって参ります。
さらに翌朝には、
「今日は揺れの少ない道を選ぶよう、曹纂様より――」
「もう結構です。よく分かりましたから」
思わず御者を止めました。
纂……
あなたは寿春にいるのですよね?
どうして帰り道まで、あなたの声が聞こえてくるのでしょう。
しかも困ったことに、肇の手配とぶつかっておりません。
兄が先に道中全体を整え、弟がその上へ私の体調に合わせた細かな指示を足しております。
「仲がよろしいですね」
私が申すと、環珠が首を傾げました。
「兄上たちですか?」
「こういう時だけは、恐ろしいほどに」
和珠が菓子を食べながら申しました。
「母上、大事にされているのですね」
「他人事のように言わないでください。あなたも同じ馬車に乗っているでしょう」
「でも、兄上たちは母上を一番見ています」
そう言われると、少し困ります。
いつの間にか、こちらが見守るばかりではなくなったようです。
今では、二人が離れた場所から私の歩き方まで見ております。
妙なものですが、悪い気はしません。
そう認めるのは少し悔しいですけれど。
何事もなく旅は進み、やがて洛陽が見えてきました。
「帰ってきましたね」
環珠が嬉しそうに申します。
「ええ」
和珠が窓から身を乗り出しかけたので、私と環珠の手が同時に伸びました。
「危ないですよ」
「分かりました」
そこは素直なのですね。
屋敷へ着くと、門前には予想通り肇が立っております。
「母上、お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
馬車を降りようとすると、当然のように手を差し出されました。
私はその手を見てから、肇の顔へ視線を上げます。
「肇」
「はい」
「纂と、ずいぶん仲がよろしくなったのですね」
「もともと弟とは仲良くしておりますが」
「そういう意味ではありません」
何のことか分からない顔まで弟と同じなのですから、腹が立ちます。
「あなたの手配に、纂が山ほど足しておりましたよ」
「山ほど?」
「本人は少しだけ、と申しておりました」
「なら、少しなのでしょう」
私は目を細めました。
「あなた、知っていましたね?」
「何をでしょう」
知っています。
絶対に知っています。
その時、屋敷の奥から寧珠が姿を見せました。
腕には子を抱いております。
「母上!」
肇への追及は、ひとまず後です。
寧珠の傍へ行って孫の顔を覗き込むと、ほんの数日しか離れていないのに、少し大きくなったような気がいたしました。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、母上。寿春はいかがでした?」
「いろいろございましたよ」
環珠と和珠も姉の傍へ集まり、三人で楽しそうに話し始めます。
ようやく帰ってきた気がいたしました。
すると背後から、肇が何気なく申しました。
「ところで母上。纂から、昨日かなり歩かれたと聞いておりますので、今日はもうお休みください」
私はゆっくり振り返りました。
「……いつ聞いたのです?」
「今朝、文が届きました」
「今朝?」
肇は平然と頷きます。
嫌な予感がいたしました。
「まさか、私が寿春にいる間も?」
「毎日ではありません」
少し安心しました。
「文を出す日は、朝と夜の二度だったようです」
私は黙りました。
寧珠は笑いを堪え、環珠はとうとう顔を伏せましたが、和珠だけは何がおかしいのか分からないらしく、私と肇を交互に見ております。
「母上、どうしました?」
「何でもありませんよ」
何でもありませんとも。
……文烈様。
あなたの息子たちは、どうやら私が思っていた以上に連携が取れているようです。
そして私は今、ひとつだけ確信いたしました。
次にどこかへ旅をする時は――
この二人には、ぎりぎりまで黙っておきます。
劉玉珠でございます。
姉上が洛陽へ戻ったそうです。
「無事で何よりですね」と、夫に申しましたら、なぜか深く頷かれました。
「本当にな」
「そんなに心配していたのですか?」
「お前の姉だぞ」
「それはどういう意味でしょう?」
返事がありません。
少し考えながら右手を鼻へ近づけた時、何も言われないように、今回は自分で止めました。
夫が目を見開きます。
「どうしました?」
「……成長したな」
「鼻をほじらなかっただけですよ?」
たいへん失礼ですね……
ところで――
姉上は寿春で、いったい何を見てきたのでしょう?
帰ってきたからといって、話まで終わったとは限りませんよね?




