母上、もう少し寿春をご覧になりますか?
劉明珠でございます。
文烈様が最後にいた部屋の前まで来ました。
入るつもりです。
もちろん、そのつもりなのですよ?
「母上、入らないのですか?」
「入りますよ」
「では、どうして動かないのです?」
環珠……
世の中には、分かっていても尋ねない方がよいことがあります。
和珠まで私の顔を見ておりますし、少し離れたところでは纂まで妙な顔をしております。
……嫌な予感がいたしますね。
私はただ、戸を開けたいだけなのですが。
……どうしてでしょう?
今この場で一番信用できないのが、自分の子供たちなのです。
戸の前まで来たところで、私は動けなくなりました。
入ると決めたはずですし、和珠にもそう答えました。
それなのに、手を伸ばせば届く戸が、ずいぶん遠く見えます。
「母上?」
環珠が横から顔を覗き込みました。
「何です?」
「入らないのですか?」
「入りますよ」
「では、どうして止まっているのです?」
よく見ておりますね、この子は……
「世の中には、分かっていても尋ねない方がよいことがあります」
「それ、和珠に言っていたことですよね」
「覚えていましたか」
「昨日のことですから」
後ろで和珠が頷いております。
「母上、私も覚えています」
「二人とも、こういう時だけ記憶がよろしいですね」
少し離れていた纂まで、口元を緩めました。
笑われております。
母親の威厳というものは、寿春へ置いてきたのでしょうか。
いえ、今まさに寿春にいるのですから、どこへ探しに行けばよいのでしょう。
私は改めて戸へ手を伸ばしました。
伸ばしただけです。
「母上」
「今度は何です、環珠」
「手が止まっています」
「見れば分かることを言わないでください」
環珠が和珠と目を合わせました。
嫌な予感がいたします。
次の瞬間、背中へ二つの手が当たりました。
「ちょっと待ちなさい」
左右から娘二人に押され、一歩だけ前へ出ます。
「環珠、和珠」
「はい」
「はい」
「母親を力ずくで部屋へ入れる娘がどこにおりますか」
「ここにおります」
「和珠。元気よく答えるところではありません」
すると、今度はもう一つ手が加わりました。
「纂?」
「はい」
「あなたまで何をしているのです?」
「母上がお入りにならないので」
「だからといって、三人がかりで押す必要がありますか?」
返事の代わりに、背中へ少しだけ力が加わりました。
「待ちなさい。本当に開きますから。自分で開きますから」
私が戸へ手をかけると、三人の手がようやく離れます。
まったく……文烈様が見ていたら、何とおっしゃるでしょうね。
きっと、声を立てずに肩だけ揺らして笑うのでしょう。
そんな顔が浮かんだおかげでしょうか。
私は戸を開けることができました。
部屋の中には、朝の光が細く差し込んでおりました。
外から見た通り、大きくは変わっておりません。
壁も柱も、見覚えがあります。
ただ、あの人が最後に横になっていた寝台だけは片づけられていました。
そこに何もないことが、かえって目につきます。
私は部屋へ入りました。
今度は誰にも押されません。
環珠と和珠も続き、纂は最後に入ると、何も言わず戸を少しだけ開けたままにしました。
閉め切らないのですね。
昔から、この子はそういうところがあります。
こちらが言葉にしないことを、妙なところで拾ってしまうのです。
「きれいですね」
環珠が静かに申しました。
「ええ」
埃っぽさはほとんどありません。
人が住んでいない部屋にしては、ずいぶん整っております。
私は纂を見ました。
「ここ、誰か使っているのですか?」
「いいえ」
「では、どうしてこんなに」
「時々、風を通させています。掃除も」
纂は、それだけ答えました。
理由を聞こうとして、やめました。
この子が父親の部屋を荒れるままにしたくなかったのかもしれません。
あるいは、私たちがいつか戻ってくると思っていたのかもしれません。
どちらでもよいのでしょう。
和珠が部屋の隅を見回しながら、首を傾げました。
「父上の匂いは、もうしませんね」
環珠が息を呑みます。
纂も何も申しません。
ですが、和珠はただ思ったことを口にしただけなのでしょう。
「そうですね」
私は答えました。
「一年も経ちましたから」
寂しい言葉のはずなのに、不思議と苦しくはありませんでした。
匂いが消えても、あの人がここにいたことまで消えるわけではありません。
それくらいのことは、もう分かっております。
私は窓の近くまで歩き、外に広がる庭を眺めました。
あの人は、あそこから娘たちを見ていたのでしょうか。
それとも、もっと近くまで出ていたのでしょうか。
「母上」
纂の声がしました。
振り返ると、いつの間にか三人とも戸の近くにおります。
「もう少し、寿春をご覧になりますか?」
私は瞬きをしました。
「まだ案内してくれるのですか?」
「そのために来ていただいたのでしょう」
そうでしたね。
昔の家へ入っただけで、旅を終えたような気分になっておりました。
「では、お願いします」
「はい、母上」
その返事が妙に嬉しそうだったので、私は何も言わないことにしました。
旧宅を出ると、纂は先に立って歩き始めました。
ただし、さっさと先へ行くわけではありません。
私と娘二人の歩幅に合わせ、少し進んではこちらを振り返ります。
「纂」
「はい」
「私は迷子にはなりませんよ」
「存じております」
「では、なぜ何度も振り返るのです?」
「母上がついて来ておられるか確かめております」
「それを迷子の心配と言うのではありませんか?」
環珠が吹き出しました。
纂は聞こえなかったふりをしております。
こういうところまで肇に似なくてもよいのですよ。
最初に連れて行かれたのは、市でした。
以前より店の顔ぶれは少し変わっておりますが、賑わいは変わりません。
魚を売る声が飛び交い、布を広げる商人の脇を、荷車を避けた人々が行き交っております。
文烈様と暮らしていた頃にも、私は何度もここへ来ました。
「母上、あのお店」
和珠が指した先には、菓子を売る店がありました。
「覚えているのですか?」
「前にも買ってもらいました」
「誰に?」
「父上にです」
店の主人までこちらに気づき、目を丸くしました。
「これは……夫人ではございませんか」
どうやら向こうも覚えていたようです。
挨拶をしているうちに、和珠の視線だけが菓子へ吸い寄せられております。
「和珠」
「見ているだけです」
「まだ何も言っておりませんよ」
「では、見ていてもよいのですね」
「そういうところだけ父上に似なくてもよいのですが」
すると纂が、いつの間にか代金を払っておりました。
「纂」
「はい」
「今、何をしました?」
「買いました」
「それは見れば分かります。なぜです?」
「和珠が食べたそうでしたので」
「私は?」
「母上の分もあります」
「環珠は?」
「もちろん」
用意がよすぎます。
包みを受け取った和珠は嬉しそうですが、環珠は兄と私を交互に見て笑っております。
「兄上、母上に似てきましたね」
「どこがです?」
「言われる前に世話を焼くところです」
「それは母上ではなく父上だと思います」
二人とも否定する相手を間違えております。
次に纂は、城門へ続く道を案内しました。
以前より荷の行き来が増え、兵の姿も目につきます。
「こちらは少し手を入れました」
纂が説明します。
「文烈様の頃より?」
「はい、使い方が変わりましたので」
言い方がよいですね。
文烈様がいなくなったから、とは申しません。
それでも、意味は十分に分かります。
さらに歩くと、兵糧を運ぶ荷車が列を作っておりました。
纂は邪魔にならぬ場所へ私たちを寄せ、通り過ぎるのを待ちます。
「忙しそうですね」
「呉が近い土地ですから」
そう答える横顔は、昔よりずっと曹家の男らしく見えました。
文烈様……
あなたの息子は、ここでちゃんと働いておりますよ。
そう心の中で申し上げたところで、纂がこちらを向きました。
「母上、疲れておられませんか?」
「まだ歩けます」
「本当に?」
「本当にです」
「では、あちらで少し休みましょう」
「今の問答には何の意味があったのです?」
私の返事を聞く気がありませんね。
連れて行かれたのは、通りを少し外れた静かな茶店でした。
席まで取ってあります。
私は黙って纂を見ました。
「何です?」
「偶然、この席が空いていたのですか?」
「いいえ」
「でしょうね」
環珠が笑い、和珠はもう座っております。
茶が運ばれてくると、纂は私の前へ先に一つ置きました。
ごく自然な動きでした。
「纂」
「はい」
「ずいぶん世話を焼きますね」
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
本人は本当に分かっていない顔をしております。
昔、この子がまだ小さかった頃は、私が世話を焼く側でした。
食事をきちんと取ったか気にし、熱を出した夜には何度も様子を見に行ったものです。
そんな子が今では、私の歩く速さを見ながら、頼みもしないのに休む場所まで決めております。
妙なものですね……
「母上?」
見つめすぎたようです。
「何でもありません」
「ならよいのですが」
「そういうところです」
「何がです?」
「何でもありませんよ」
少しくらい困らせても罰は当たらないでしょう。
茶店を出た後も、纂は寿春のあちこちへ連れて行ってくれました。
以前と変わらない場所では私たちの思い出を聞き、姿を変えた場所では今どう使われているのかを教えてくれます。
そんな兄の話を聞きながら、環珠は懐かしそうに頷き、和珠は覚えのある景色を見つけるたび嬉しそうに声を上げておりました。
私はその後ろを歩きながら、ようやく分かった気がします。
私が見に来たかったのは、文烈様のいない寿春ではありません。
文烈様がいなくなった後も続いている寿春だったのです。
夕方、纂の屋敷へ戻る頃には、足が少し重くなっておりました。
それを口にした覚えはありません。
なのに纂は門をくぐるなり、「母上、今夜は早めにお休みください」と申しました。
「どうしてです?」
「明日は洛陽へお帰りになりますから」
「それは分かっています」
「帰り支度も、もう済ませてあります」
「……私、まだ何もしておりませんけれど?」
纂は平然としております。
「ですから、済んでおります」
嫌な言い方ですね。
私は立ち止まりました。
「纂」
「はい」
「何をしたのです?」
すると、この子は少しだけ視線を逸らしました。
見覚えがあります。
昨日、満寵殿と王凌殿の仲を尋ねた時と同じ目です。
「兄上から、帰路について細かな手配が届いております」
「ええ……肇ならそうするでしょうね」
そこまでは予想しております。
問題は、纂がまだこちらを見ないことです。
「それで?」
「少しだけ、私の分を足しました」
私は黙りました。
環珠も黙りました。
和珠だけが、楽しそうに首を傾げます。
「兄上の手配に、兄上の手配を足したのですか?」
「違います。私の手配です」
そこは大事なのですね。
「纂」
「はい」
「何を足したのです?」
ようやくこちらを向いた息子は、実に穏やかな顔で答えました。
「明日の朝になれば、お分かりになります」
……文烈様。
あなたの息子たちは、どうして母親を安心させる時ほど、不安になる言い方をするのでしょうね。
劉玉珠でございます。
姉上は、まだ寿春におります。
「昔住んでいた町ですから、見るものも多いのでしょうね」
そう申しますと、夫が妙な顔をしました。
「お前なら何を見る?」
「姉上が喧嘩していないかを」
「なぜそこから離れられない」
気になりますから。
少し考えながら右手を鼻へ近づけると、夫がこちらを見ただけで止まりました。
「まだ何もしておりませんよ?」
「その顔はする気だった」
「顔で分かるのですか?」
「もう分かる」
便利になりましたね。
さて――
姉上も、そろそろ洛陽へ戻る頃でしょうか?
行きがあれだけ大騒ぎでしたから……
帰りまで普通だとは、あまり思えません。




