伯寧殿と彦雲殿、あまり仲がよろしくないのですか?
劉明珠でございます。
寿春へ着いた翌朝、纂が妙なことを申しました。
「母上、満伯寧殿がお見えになります」
「まあ! それはご挨拶しなければなりませんね」
「王彦雲殿も来られます」
「ご一緒に?」
「……別々にです」
同じ頃に来るのに、別々だそうです……
「纂」
「はい」
「お二人、あまり仲がよろしくないのですか?」
「私は何も申し上げておりません」
「まだ何も責めておりませんよ」
なぜ聞いただけで逃げ腰になるのでしょうね。
隣では環珠が笑いを堪え、和珠は不思議そうに首を傾げております。
さて――
久しぶりの寿春で、まさか人様の仲まで心配することになるとは思いませんでした。
寿春へ着いた翌朝、私はこの町がまだ十分に戦場なのだと知りました。
ただし、呉軍が攻めてきたわけではありません。
「母上、満伯寧殿がお見えになります」
朝餉の席で、纂がそう申しました。
「まあ……それはご挨拶しなければなりませんね」
文烈様が亡くなった後、伯寧殿は揚州方面の軍を預かっております。
私が寿春へ来たと知り、顔を見せてくださるのも不思議ではありません。
ところが、纂は少し言いにくそうに続けました。
「王彦雲殿も来られます」
「彦雲殿も?」
「はい……同じ頃に」
「では、ご一緒に?」
「……別々にです」
私は箸を止めました。
「同じ頃に来るのに、別々なのですか?」
「そう聞いております」
「纂」
「はい」
「お二人、仲がよろしくないのですね?」
「私は何も申し上げておりません」
「まだ何も責めておりませんよ」
逃げるのが早すぎます。
環珠が隣で口元を押さえております。
和珠も寿春で暮らしていた頃のことは覚えておりますが、大人同士の空気までは分かりません。
「伯寧殿と彦雲殿、喧嘩するのですか?」
「しません」
「では仲がいいのですか?」
「それも違います」
「難しいですね」
そうですね。
母上も今から学びます。
先に来られたのは満寵殿でした。
「夫人、お久しゅうございます」
「伯寧殿。ご無沙汰しております」
以前と変わらぬ落ち着いた声です。
環珠を見ると、すぐに微笑みました。
「環珠殿もお元気そうで」
「伯寧殿も」
環珠はきちんと頭を下げます。
和珠も続きました。
「伯寧殿、お久しぶりです」
「覚えておられましたか」
「はい、前より少しお顔が固いです」
「和珠」
余計なことまで覚えております。
満寵殿は怒るでもなく、
「それは歳を取りましたからな」
と受け流しました。
そこへ門の方が騒がしくなります。
纂の肩が、ほんの少しだけ動きました。
来ましたね。
王凌殿――彦雲殿は部屋へ入ると、まず私へ深く頭を下げました。
「夫人。ご無沙汰しております」
「彦雲殿。お元気そうで何よりです」
この方の顔を見ると、どうしても石亭を思い出します。
文烈様は周魴の偽りの降伏に誘われ、石亭で大敗しました。
退路まで危うくなったあの時、彦雲殿たちが力戦して道を開いてくださったからこそ、文烈様は寿春へ帰ることができたのです。
「あの時は、本当にありがとうございました」
私がそう申しますと、彦雲殿の表情が少しだけ変わりました。
「私は、なすべきことをしただけです」
それで終わらせる方なのでしょう。
けれど、私には終わりません。
文烈様は寿春へ戻ると敗戦を詫びる上書を出しましたが、元仲様は責めるどころか、かえって慰めてくださいました。
その後、私が背の腫れに気づいたのです。
疲れのせいだと思っていたものが、医師に診せても薬を使っても良くならず、やがてあの人は寝台から起き上がることさえ難しくなりました。
それでも私は、傍にいることができました。
声を聞き、手を取り、最後まで一緒にいられたのです。
あの人が生きて寿春へ帰ってきたからこそ。
「私には、とても大きなことでした」
もう一度頭を下げると、彦雲殿も黙って礼を返しました。
少し重くしてしまいましたね。
そう思って顔を上げたところで、別の問題に気づきました。
満寵殿と王凌殿が、まだまともに互いの顔を見ておりません。
「あの……」
私が口を挟むより先に、伯寧殿が申しました。
「王刺史もお元気そうで」
「満都督も」
礼儀正しい。
実に礼儀正しいのです。
なのに、どうしてでしょう。
先ほどまでより部屋が狭くなったように感じます。
環珠と目が合いました。
あの子も気づいております。
和珠は気づいておりません。
「お二人は、前からこうでしたか?」
やめなさい。
満寵殿が黙りました。
王凌殿も黙りました。
纂は茶へ手を伸ばしました。
「纂」
「はい」
「なぜ今、急に喉が渇いたのです?」
「偶然です」
嘘ですね。
「和珠」
私は娘の肩へ手を置きました。
「大人には、あまり深く尋ねない方がよいこともあります」
「どうしてです?」
「母上も今、身をもって学んでいるところです」
彦雲殿が外を見ました。
伯寧殿は咳払いをします。
なるほど。
これは相当に仲がよろしくありません。
文烈様……
あなたがいなくなった後の寿春は、別の意味で大変そうですよ。
もっとも、どちらにも言い分はあるのでしょう。
石亭へ向かう前、伯寧殿は文烈様が進もうとする道を危ぶんでおりました。
進みやすい反面、退きにくく、深入りすれば危うい道でした。
その懸念は、結果として外れませんでした。
一方、実際に文烈様が危地に陥った時、彦雲殿は退路を開くために戦っております。
そして文烈様が亡くなった今、伯寧殿が揚州方面の軍を預かり、彦雲殿も刺史としてこの土地におります。
どちらも、この寿春には必要な方です。
必要なのですが――
「南へ通じる道は、もう少し手を入れてもよいでしょう」
彦雲殿が申しました。
伯寧殿が茶碗を置きます。
「整えすぎれば、呉の兵にも使いやすくなります」
「こちらが使えぬ道では意味がございますまい」
「使えることと、広げることは別です」
「満都督は相変わらず慎重ですな」
「王刺史は相変わらず前へ出たがる」
始まりましたね。
「お二人とも」
声をかけると、同時にこちらを向きました。
「私の前で戦を始めないでくださいませんか?」
「戦ではございません」
「意見を交わしているだけです」
そこだけ、ぴたりと重なりました。
「今のところが一番仲良く見えましたよ」
「それは違います」
また重なりました。
環珠がとうとう俯きます。
「環珠」
「はい」
「笑うなら我慢しなくて結構ですよ」
「では」
娘が声を立てて笑い始めました。
和珠はまだ首を傾げております。
「母上、本当は仲がいいのではありませんか?」
「母上にも分からなくなって参りました」
部屋へ入った纂の妻は、満寵殿と王凌殿を順に見てから夫へ目をやり、最後に私を見ると、何も尋ねず菓子を一つ余分に置きました。
「母上、どうぞ」
「ありがとう」
よくできた嫁ですね。
今は甘いものが必要だと、一目で分かったようです。
「文烈様がいらした頃も、お二人はこのようでしたか?」
菓子を口へ運びながら、つい尋ねてしまいました。
纂がむせました。
伯寧殿は黙ります。
彦雲殿も黙ります。
和珠がこちらを見ました。
「母上、大人には深く聞かない方がよいのでは?」
「……そうでしたね」
「母上も忘れるのですか?」
「あなたは余計なところだけよく覚えていますね」
環珠がまた笑いました。
結局、誰も答えてくれませんでした。
それでも私は、少し安心しておりました。
寿春の町並みは、たった一年で別物になったわけではありません。
文烈様と歩いた道も、見慣れた建物も、まだ多くが残っています。
けれど、その中で寿春を支える顔ぶれは変わりました。
伯寧殿が軍を預かり、彦雲殿がこの土地を治め、纂も妻とここで暮らしております。
文烈様がいなくても、寿春は止まってはいないのです。
仲のよろしくないお二人まで含めて。
昼前になると、満寵殿と王凌殿はそれぞれ役目へ戻ることになりました。
お二人は私たちへ丁寧に挨拶をし、門を出ます。
そのまま、なぜか別々の方向へ歩いていきました。
「纂」
「はい」
「行き先が違うのですよね?」
「……たぶん」
「そこは断言してください」
もう追及するのはやめておきましょう。
二人を見送ったところで、和珠が私の袖を引きました。
「母上」
「何です?」
「昔の家へ行きたいです」
環珠もすぐに頷きます。
「私も。まだ残っているのでしょう?」
「ええ、ほとんどそのままです」
纂の返事に、私は少しだけ息を止めました。
たった一年です。
当たり前なのですよね。
変わっている方がおかしいのです。
「では、行きましょうか」
屋敷を出て町を歩けば、環珠も和珠も迷うことはありませんでした。
「この先を曲がれば、前の家ですよね」
「ええ」
環珠は、かつて毎日のように歩いた道を確かめるように進んでいきます。
和珠も途中で足を止め、
「ここ、覚えています」
と嬉しそうに指を差しました。
「昨日は、ずいぶん頼りないお顔をしていたではありませんか」
「来てみたら思い出しました」
「記憶とは便利なものですね」
「母上も思い出したでしょう?」
「……それを言われると困ります」
娘の勝ちです。
町は驚くほど変わっておりません。
見覚えのある店があり、その隣には昔と同じ塀が続いております。
角を曲がれば何が見えるかまで分かりました。
だからこそ、一年前と同じ道を歩きながら、以前とは違うことを強く感じてしまいます。
あの人だけが、もうここを歩かないのです。
やがて見慣れた門が見えてきました。
私は自然と足を緩めました。
門も塀も、記憶とほとんど変わっておりません。
「母上」
環珠が小さく呼びます。
「ええ、ここですよ」
纂が門を開けました。
中へ入ると、庭もそのままでした。
一年しか経っていないのですから当然でしょう。
それでも、不思議な感じがいたします。
和珠が先に庭へ入りました。
「あそこ、覚えています」
指差したのは、庭の端でした。
環珠も目を細めます。
「父上、よくあそこに座っていましたよね」
「ええ……」
「何をしていたのでしたっけ?」 「あなたたちを見ていました」
「ずっとですか?」
「何もしていないふりをしながら、ずっと」
和珠が笑いました。
「父上らしいですね」
「そうでしょう?」
私も笑いました。
ほんの少し前まで、同じ庭であの人も笑っていたような気がします。
木も、塀も、廊下も、ほとんど変わっておりません。
だからでしょうか……
懐かしいというより、昨日までここにいたような感覚の方が近いのかもしれません。
私は、何気なく屋敷の奥へ目を向け――そこで足を止めました。
戸が一つ、見えます。
その戸も、手前の廊下も、傍らの柱も変わっておりません。最後に見た時と、ほとんど同じです。
環珠が私の視線を追いました。
何も言いません。
この子は、もう分かる年です。
和珠も少し遅れてこちらを見ました。
先ほどまで笑っていた顔から、ゆっくり笑みが消えていきます。
「母上」
「何です?」
和珠はすぐには続けませんでした。
あの部屋を見つめたまま、しばらく黙っております。
そして、小さな声で尋ねました。
「父上が最後にいた部屋にも、入りますか?」
私は戸を見ました。
入ったことなら、何度もあります。
元気だった頃はもちろん、背の腫れが悪くなって寝台から起きられなくなってからも、私は何度となくあの戸を開けました。
最後の朝にも。
けれど今、あの戸の向こうには誰もおりません。
文烈様がいないあの部屋へ入るのは――
これが、初めてなのです。
劉玉珠でございます。
姉上が寿春へ着いたと聞きました。
「無事でよかったですね」
夫に申しますと、
「お前が一番心配していなかっただろう」
と返されました。
失礼ですね!?
私はちゃんと心配しておりました。
「では、寿春では何をなさるのでしょう?」
「昔住んでいた場所なのだから、会う者も多いだろう」
「喧嘩など起きませんか?」
「なぜ最初にそれを考える」
姉上ですから。
少し考えながら右手を鼻へ近づけたところで、夫に手首をつかまれました。
「考える時に鼻をほじるな」
「まだ触っておりません」
「触る前に止めたんだ」
ずいぶん上達しましたね……
さて――
姉上は寿春で、誰と何を話しているのでしょうか。
どうにも、静かな旅では終わらない気がいたします。




