肇、あなたは洛陽にいるのですよね?
劉明珠でございます。
寿春へ向け、ようやく洛陽を発ちました。
環珠も和珠も楽しそうですし、私も少しずつ旅らしい気分になって――
「母上、どうかなさいましたか?」
「いえ……」
後ろを振り返りました。
当然ですが、肇はおりません。
あの子は洛陽に残っております。
「肇兄上を捜しているのですか?」
「まさか」
見送られたばかりなのに、捜す理由などございません。
ございませんが――
どうしてでしょうね。
まだ半日も進んでいないというのに、どうにもあの子の手の内から出た気がしないのです。
……肇。
あなた、本当に洛陽におりますよね?
洛陽を発ってから、まだ半日も経っておりません。
それなのに私は、早くも肇へ文句を言いたくなっておりました。
「母上、どうかなさいましたか?」
向かいに座る環珠が尋ねます。
「いいえ……ただ、あの子は本当に洛陽へ残ったのですよね?」
「肇兄上ですか?」
「ええ」
「門のところにおりましたよ」
「私も見ました」
では、間違いなく残っているのでしょう。
それなのに、どうにも肇の手の内から出た気がいたしません。
最初に妙だと思ったのは、昼餉を取ろうとした時でした。
日が高くなり、和珠が何度目か分からないほど外を覗いております。
「母上、お腹が空きました」
「では、この先で休みましょうか」
御者へそう伝えようとすると、護衛の一人が馬を寄せて参りました。
「もう少し手前に、休める場所を用意してございます」
「用意?」
私は聞き返しました。
「水場も確かめてございますので」
「誰が?」
「先に出た者たちです」
そこでようやく思い出しました。
出発前、肇が何組かの騎馬を先に出していたことを。
道を確認するだけだと思っておりましたが、着いてみれば、木陰には腰を下ろせる場所まで整えられ、水もすでに汲まれております。
和珠は大喜びでした。
「肇兄上が用意したのですか?」
「肇本人が桶を担いだわけではありませんよ」
「でも兄上が決めたのでしょう?」
「そうでしょうね」
「すごいですね」
「和珠」
私は娘の顔を見ました。
「何です?」
「あまり褒めないでください」
「どうしてですか?」
「次はもっとやります」
環珠が口元を押さえました。
笑っておりますね。
今のうちですよ。
午後になると、私まで笑えなくなりましたから。
人家の少ない道へ入り、左右に林が迫って参りました。
こういう場所を通るのは久しぶりです。
旅人を狙う者が出ても不思議ではありません。
「この辺りは大丈夫なのですか?」
軽い気持ちで護衛に尋ねました。
「はい、問題ございません」
「そうですか」
安心して外へ目を戻しかけた時です。
「少し前までは賊が出ておりましたが」
「待ちなさい」
私はすぐに顔を戻しました。
「今、何と?」
「賊でございます」
「それは聞こえました。なぜ過去の話になっているのです?」
護衛は、実に当たり前のことのように説明してくれました。
近頃、この辺りで商人や旅人を襲っていた者たちについては、先に現地へ知らせを送り、役人と兵を動かしていたそうです。
抵抗を続けた者は捕らえられ、逃げ散った者も追い払われたとのこと。
そこまでは分かります。
分かりたくはありませんが、まだ分かります。
ところが、それだけではありませんでした。
食うに困って道へ出た者や、流民に近い者には食糧を与え、道の修繕や荷運びの仕事へ回したというのです。
私はしばらく黙りました。
「……それも肇が?」
「肇様から、無用に人を斬る必要はないと」
「そこまで指図したのですか?」
「母上様方がお通りになった後、また同じことになっては意味がないとも」
環珠が感心したように目を丸くしました。
和珠はもっと素直でした。
「肇兄上、すごいですね」
「だから褒めないでくださいと申したでしょう!」
護衛が困った顔をしております。
私が怒っているように見えたのでしょう。
怒っておりますよ。
なぜ私が寿春へ行くだけで、街道の治安まで改善しているのですか。
少し進んだ村では、その成果まで見せつけられました。
村の近くで何人もの男が道を直していたのです。
そのうち一人がこちらへ気づき、慌てて頭を下げました。
村のまとめ役らしい老人も出てきて、
「先日は助かりました」
と申します。
「私は何もしておりませんが?」
「洛陽からお話があったと聞いております」
洛陽――
もう誰のことか確認する気にもなりません。
老人によれば、道へ出ていた若者の何人かが、今はこうして働いているとのことでした。
「荒事をされれば困りますが、働いてくれるならありがたいものです」
なるほど。
私は直されたばかりの道を眺めました。
「環珠」
「はい」
「あなたの兄上は、いつから地方の政まで見るようになったのでしょう?」
「母上が寿春へ行くとおっしゃってからでは?」
「ずいぶん迷惑なきっかけですね」
本人は洛陽にいるのですよ。
そこだけは忘れてはいけません。
その夜の宿でも、肇の手は抜けておりませんでした。
門を入ると、馬車はそのまま庭の内側へ通されます。
私たちの部屋は街道に面しておらず、裏手にも人が立っております。
環珠が辺りを見回しました。
「母上」
「何です?」
「ここ、宿というより守るための館みたいですね」
「私も今、同じことを考えておりました」
夕餉が出れば、主人がわざわざ頭を下げます。
「水も食材も、先に確かめてございます」
「誰がそこまで頼んだのです?」
「洛陽から念を押されておりまして」
はい……
もう結構です。
「肇兄上でしょうね」
環珠が先に言いました。
「言わなくてよろしい」
和珠は料理を見ながら、
「私の嫌いなものがありません」
と妙なところに気づきました。
「それは偶然でしょう」
「いえ、和珠様のお好みも伺っております」
宿の主人が答えます。
私は箸を置きました。
「肇は、妹の好き嫌いまで伝えたのですか?」
「細かく」
「細かく?」
環珠がとうとう声を上げて笑いました。
「母上、兄上は本当に楽しんでいたのでは?」
「何をです?」
「旅の支度です」
「旅ではありません」
私は断言しました。
「肇にとっては、もう軍務です」
翌朝、空が曇っておりました。
雨になりそうだと思い、外へ出る前に侍女へ声をかけようとしたところ、すでに外套が差し出されます。
「……これは?」
「天候が崩れた場合にと、用意されております」
「誰がとは聞きません」
少しは学習しましたよ。
ところが出発しようとすると、今度は門前で止められました。
「何かありましたか?」
「前方の渡しから、まだ知らせが届いておりません」
「渡し?」
昨夜少し降ったため、水の量が変わっていないか確認しているそうです。
私は空を見上げました。
「肇は川まで見張るのですか?」
「肇兄上でも雨は止められませんよ」
環珠が申します。
「そこまでできたら、私はもう母親を辞めます」
「なぜです?」
「怖いからです」
ほどなくして騎馬の者が戻り、問題なしとの知らせが入りました。
ようやく出発です。
ところが護衛は、
「水が増えた場合には別の道へ回るよう申しつかっております」
と付け加えました。
私は馬車へ乗りながら、深く息を吐きました。
「環珠」
「はい」
「あなたの兄上は、雨を止められなくても逃げ道は用意しているそうですよ」
「やっぱり父上の息子ですね」
その言葉に、私は一瞬だけ黙りました。
文烈様……
確かに、そうなのですよね。
兵をただ多く連れて歩けばよいわけではありません。
道中で何が起こるかを先に考え、困る前に手を打っておく。
今回も、渡しから食糧、さらには賊への対処まで、肇はこちらが気づくより先に動いておりました。
しかも、斬らずに済む者には仕事まで与えております。
こうした備え方を、私はよく知っております。
やっていることは大げさです。
私たちが寿春へ行くだけで、ここまで本気を出す必要があるのでしょうか?
それでも――
やはり、よく似ています。
「母上?」
環珠が覗き込みました。
「いいえ」
私は笑いました。
「少しだけ、腹が立たなくなっただけです」
「少しだけ?」
「少しだけです」
全部許してしまえば、肇が調子に乗りますからね。
それから先は、腹立たしいほど何事も起こりませんでした。
馬車が立ち往生することもなければ、馬を無理に走らせることもなく、こちらが困ったと思うより先に次の支度が整っているのです。
和珠にいたっては、「旅は思ったより簡単ですね」などと申します。
「それはあなたの兄上が、簡単になるまで準備したからですよ」
「では肇兄上にお礼を言います」
「帰ってからにしてください」
「母上は言わないのですか?」
「考えておきます」
言いますけれどね。
今はまだ、少しくらい勿体ぶらせてください。
寿春が近づくにつれ、環珠は窓の外を見る時間が長くなりました。
「あの辺り……見たことがある気がします」
幼い頃の記憶でしょう。
はっきりとはしなくても、土地の形や遠くの山が、何かを呼び戻すのかもしれません。
和珠には、それがありません。
この町で生まれたのに、覚えていることはほとんどないのです。
「母上、私は本当にここで生まれたのですよね?」
「ええ」
「何も思い出しません」
「それでよいのですよ」
今から見ればよいのです。
昨日もそう思いました。
昔の寿春ではなく、今の寿春を。
やがて前方から騎馬の一団が近づいてきました。
先頭の男は、遠目でも分かります。
「母上!」
「纂!」
久しぶりに聞く声でした。
馬を降りた纂がこちらへ駆け寄ります。
「よくお越しくださいました」
「あなたも元気そうですね」
「はい」
環珠も馬車を降り、和珠はその後ろから飛び出すように続きました。
「纂兄上!」
「和珠、大きくなったな」
「私が生まれたところは?」
「いきなりそれか?」
纂が笑います。
私もつられて笑いました。
寿春です。
文烈様と暮らし、寧珠と環珠を育て、ここで和珠を産みました。
そして最後には、夫を見送った場所でもあります。
戻ってくれば、昔のことばかり思い出して胸を締めつけられるのではないかと思っておりました。
ですが、聞こえてくるのは人の声です。
荷車が行き、商人が声を上げ、子供たちが走っております。
町は生きておりました。
昔のままではありません。
それが、思いのほか嬉しかったのです。
「母上」
纂に呼ばれ、私は振り返りました。
「何です?」
纂は少し困ったような、笑いを堪えているような顔をしております。
嫌な予感がいたしました。
「兄上から、母上が着かれたら渡すようにと」
「肇から?」
纂が懐へ手を入れます。
出てきたのは、一枚ではありませんでした。
折り重ねられた、ずいぶん厚い書付です。
私は黙ってそれを見ました。
「……何です?」
「寿春でお過ごしになる間の注意事項です」
「まだあるのですか?」
環珠が横を向きました。
肩が震えております。
笑うならこちらを向きなさい。
「何が書いてあるのです?」
「お部屋のこと、屋敷の出入りのこと、外へ出られる時のこと、それから――」
「もう結構です」
私は額へ手を当てました。
本当に、よくここまで考えたものです。
肇は洛陽から一歩も動いておりません。
それなのに、私たちが洛陽を出てから寿春へ着き、さらにここで過ごすところまで、すべて先回りしていたのです。
私はもう一度、纂の持つ書付を眺めました。
そして、思わず笑ってしまいました。
「母上?」
「いいえ」
文烈様……
認めます。
これはもう、認めるしかありませんね。
あなたの息子は――
見事なくらい、あなたの息子ですよ。
劉玉珠でございます。
姉上たちは、無事に寿春へ着いたそうです。
「あなた、肇はずいぶん心配性ですね」
「お前が言うな」
「なぜです?」
「お前も姉上の旅について行こうとしただろう」
それとこれとは別ではないでしょうか?
考えながら右手を鼻へ向けますと、夫につかまれました。
「何をする」
「少し考えようかと」
「鼻で考えるな」
「頭につながっておりますよ?」
「そういう問題ではない!」
難しいですね。
さて――
姉上は今、久しぶりの寿春におります。
昔と違う町を見て、何を思うのでしょうね?




