肇、私は寿春へ行くだけですよ?
劉明珠でございます。
昨夜、少し考えまして――
寿春へ行くことにいたしました。
朝餉の席で肇にそう申しますと、湯呑みを持ったまま固まっております。
「母上……本気ですか?」
「本気ですよ?」
「寿春へ?」
「何度確認するのです?」
そこへ玉珠まで顔を出しました。
「姉上、私も行きましょうか?」
「あなたは身重でしょう」
「鼻だけでも――」
「置いていきなさい!」
夫君が玉珠の右手をつかみました。
「鼻だけ寿春へ行かせるな」
「では、どこへ置けば?」
「顔に付けておけ!」
……朝から何の相談をしているのでしょうね。
さて、寿春へ行くと決めたのは私ですが――
どうやら、肇にも何か考えがあるようですね。
「肇、寿春へ行こうと思います」
朝餉の後、そう申しましたら肇は湯呑みを持ったまま、一切動かなくなりました。
「……母上が?」
「ほかに誰がおります?」
「いえ……寿春へ?」
「昨日、和珠に誘われましたので」
「和珠に?」
肇の視線が、私の隣で粥を食べている和珠へ移ります。
和珠は箸を止めました。
「兄上、私が誘いました」
「なぜ?」
「母上は昔の寿春しか知らないからです」
どうやら昨日から考えは変わっていないようです。
肇はしばらく妹を見つめ、それから私へ向き直りました。
「母上……本気ですか?」
「本気でなければ、朝からあなたを驚かせませんよ」
「驚かせるつもりだったのですか?」
「結果として、です」
昨夜、少し考えました。
文烈様と暮らした寿春へ戻ると思えば、やはり足は重くなります。
あの町には、夫と過ごした日々があまりにも多く残っておりますから。
ですが和珠の言う通り、私が知っている寿春は昔の寿春です。
今は纂と妻が暮らしており、人も町も少しずつ変わっているでしょう。
ならば一度くらい、この目で見てもよいのではないかと思ったのです。
「昔を探しに行くつもりではありませんよ」
そう言うと、肇の眉がわずかに動きました。
「では?」
「今の寿春を見て参ります」
和珠が嬉しそうに笑いました。
その顔を見れば、もう撤回する気にはなれません。
「環珠も行きたいそうです」
「私もです」
いつの間にか環珠までおります。
和珠ほど幼くはありませんから、環珠には寿春で暮らした頃の記憶もいくらか残っているのでしょう。
それでも、今の町を見たいという気持ちは同じようです。
肇は二人の妹を交互に見ました。
「寧珠は?」
「行きませんよ」
出産してまだそう長くありませんし、子初殿と赤子を置いて旅へ出ることなど、本人も最初から考えていないでしょう。
「つまり母上と、環珠と、和珠ですね」
「ええ」
肇が黙りました。
その沈黙が、妙に長い。
「肇?」
「日取りは?」
「まだ決めておりません」
「道は?」
「寿春までの道ですよ?」
「それは分かっています」
では何でしょう?
もう少し細かい意味だったようです。
「宿駅も確かめます」
「それは助かります」
「道の状態も確認させます」
「そこまで?」
「雨で傷んでいる場所があれば困りますから」
「まあ、それはそうですね」
この時点では、私も納得しておりました。
今思えば、ここで止めるべきでした。
そこへ寧珠が顔を出しました。
腕には赤子がおります。
「何のお話です?」
「母上が寿春へ行かれるそうだ」
「まあ」
寧珠は驚きながらも、私の顔を見てすぐに笑いました。
「よいと思います」
「寧珠まで」
「私も行きたいですけれど、この子を連れて長旅はできませんから」
腕の中の赤子が、ちょうど小さな声を出しました。
「ほら。この子も『やめておきなさい』と申しております」
「今の声にそこまで意味がありますか?」
肇が言うと、寧珠は平然と答えました。
「母上ならそう解釈なさいます」
「しませんよ」
娘まで私を何だと思っているのでしょうね。
寧珠は和珠へ目を向けました。
「兄上に、和珠が生まれたところを見つけてもらうのでしょう?」
「はい。でも母上も行けば、自分で見られます」
「それなら、その方がいいですね」
環珠も頷きます。
三姉妹で話がまとまり始めたところへ、玄関の方が騒がしくなりました。
「姉上、やっぱり寿春へ行くのですか?」
玉珠でした。
ずいぶん早いですね……誰が知らせたのでしょう?
その後ろの夫君は、玉珠が何を言い出すのか、すでに分かっているようなお顔です。
「昨日、和珠に誘われましてね。行こうかと思っています」
「では私も――」
「行かない」
夫君が、最後まで言わせませんでした。
「あなた、私はまだ何も」
「言った」
「『私も』までですよ?」
「その先が分かる」
長い夫婦生活とは恐ろしいですね。
会話を最後まで聞かなくても、その先まで分かるようになるらしいです。
玉珠は少し膨らみ始めた腹へ手を添えました。
「ですが、姉上だけでは心配です」
「あなたに心配されるほどではありませんよ」
「ほら」
「なぜあなたが勝ち誇るのです?」
夫君がため息をつきます。
玉珠は考え込み、その右手をゆっくり顔へ上げていきました。
夫君が無言で止めます。
「寿春へ行けないからといって鼻へ行くな」
「行き先を失ったので」
「手の行き先まで旅にするな!」
環珠が顔を伏せ、寧珠は赤子を揺らしながら笑っております。
和珠だけが真剣でした。
「叔母上は来ないのですか?」
「行きたいのですが」
「行かせない」
「夫が厳しいのです」
「お前が身重なんだ!」
ごもっともです。
結局、玉珠夫妻は洛陽へ残ることになりました。
最初からそのつもりだったのは夫君だけでしょうけれど。
「では、私と環珠と和珠ですね」
そうまとめると、肇が首を横へ振りました。
「三人ではありません」
「護衛でしょう?」
「はい」
「必要なだけ付ければよいですよ」
肇は静かに頷きました。
「承知しました」
その返事が妙に素直だったことを、私はもっと疑うべきでした。
翌朝、肇が一枚の書付を持って参りました。
「宿をいくつか選び直しました」
「もう決めたのですか?」
「道中で母上方が泊まる場所ですから」
以前使った宿ではなく、庭が広く、馬車を内側へ入れられる場所を選んだそうです。
「まあ、それくらいなら」
そう申しました。
昼になると、別の男が庭へ入り、馬車の車輪を調べ始めました。
「何をしているのです?」
「肇様から、道中で故障しないよう見ておくようにと」
「今の馬車で十分でしょう?」
「こちらは予備だそうです」
私は庭を見ました。
馬車が二台ありました。
「……肇」
呼ぶと、すぐに現れます。
「一台でよいのでは?」
「故障したらどうなさいます?」
「直します」
「道の途中で?」
「では、予備があってもよいでしょう」
ここも許しました。
二日後、厩の馬が増えておりました。
「これは?」
「替え馬です」
「ずいぶん多くありませんか?」
「途中で疲れた馬を休ませます」
「全部使うのです?」
「使わずに済めば何よりです」
どうもこの息子は、「使わずに済めば何よりです」と言えば何でも増やせると思っているようです。
その日の午後には医師までやって参りました。
「母上のお加減を診るよう申しつかりまして」
「私は元気ですよ?」
「存じております」
元気な人間を診に来る医師とは何なのでしょう。
診察が終わると、今度は薬箱まで置いていきました。
「肇」
「念のためです」
「まだ何も言っておりません」
「薬箱のことでしょう?」
「なぜ分かるのです!」
しかも一つではなく、道中用とは別に予備まで置いていったそうです。
馬車と馬だけでも十分おかしいのに、とうとう薬にまで「予備」が付きました。
さすがに私も気づき始めます。
これは、ただの旅支度ではありません。
翌朝、門の前に見知らぬ騎馬の男が二人おりました。
「今度は何です?」
「先に出ます」
「どこへ?」
「母上方が通る道を見てきます」
「道なら先日確認すると申していたでしょう?」
「確認しました。今度は出発直前の確認です」
確認にも種類があるらしいです。
環珠が私の袖を引きました。
「母上」
「何でしょう?」
「兄上、楽しそうではありませんか?」
「言わないでください」
私もそう見えてきたところです。
さらに翌日――
今度は旅装の兵が庭に集まっております。
「肇」
「はい」
「この方々は?」
「護衛です」
「前にも護衛がおりましたよね?」
「あちらは馬車の前を守ります」
「では、この方々は?」
「後ろです」
「前と後ろに必要なのですか?」
「横にもおります」
聞かなければよかったですね……
「肇、私は寿春へ行くのであって、呉へ攻め込むのではありませんよ?」
「存じております」
「本当に?」
「もちろんです」
顔が真面目なので余計に困ります。
「では、なぜ護衛が前後左右にいるのです?」
「母上が前後左右から襲われないためです」
「誰が襲うのです!」
「襲われてから考えるのでは遅いでしょう」
反論しにくいことを申しますね。
寧珠はその話を聞くと、赤子を抱いたまま笑いました。
「兄上は父上の息子ですね」
「寧珠」
「何です?」
「それ以上は申し上げなくて結構です」
文烈様……
あなたの息子は、旅行一つに陣形を作ろうとしておりますよ。
出発前日には、荷を積む馬車がもう一台増えておりました。
「……これは何です?」
「道中の食料と水、それから予備の衣類です」
「私たちは何日遭難する予定なのです?」
「遭難する予定はありません」
「では減らしなさい」
「もしもの時に必要です」
「その『もしも』が多すぎませんか?」
肇は少し考えました。
「母上が無事に寿春へ着けば、すべて無駄になります」
「それでよいのですか?」
「それが一番です」
そう言われると、怒りにくいのですよね。
ずるい息子です。
そして出発の朝――
環珠と和珠は早くから支度を終え、私は寧珠と玉珠に見送られて門へ向かいました。
玉珠は最後まで羨ましそうでしたが、夫君がすぐ隣におりますので、連れて行けとは申せないようです。
「姉上、お土産をお願いします」
「何がよいです?」
「寿春らしいものを」
「ずいぶん広い注文ですね」
「匂いのするものでも」
「犬ではないと申しているでしょう!」
玉珠の右手が鼻へ向かい、夫君につかまれました。
これでしばらく見納めでしょう。
そう思いながら門を出た私は、そこで足を止めました。
昨日まで庭にいた護衛など、ほんの一部だったようです。
道の先まで騎馬の者が並び、馬車の前後にも兵がおります。
さらに遠くには、すでに先へ向かう一団まで見えました。
私は一度、門の内側へ戻りかけました。
「母上?」
肇が不思議そうに呼びます。
「……肇」
「はい」
「私は寿春へ行くのですよね?」
「その通りです」
「呉と戦うのではありませんね?」
「もちろんです」
私は改めて目の前を見渡しました。
「では、あれは何です?」
肇は何でもないことのように答えました。
「護衛です」
「どこまでが?」
「見えている者は、すべてです」
環珠が口を開けたまま固まりました。
和珠だけは目を輝かせています。
「母上、すごいですね」
「すごくなくて結構なのですよ」
私はこれまで、肇が少し心配性なのだと思っておりました。
ところが、一つ一つ「念のため」で増やしていったものを全部並べてみれば、もはや心配性という言葉では足りません。
「肇」
「はい」
「あなた、いつからこれを旅ではなく作戦だと思っていたのです?」
肇は少し考えてから、首を傾げました。
「最初からですが?」
……文烈様。
どうやら私は寿春へ旅行するのではなく、息子に護送されるようです。
十三歳で許へ送られた時より、護衛が多い気がするのですが……
劉玉珠でございます。
姉上は、とうとう寿春へ向かうことになりました。
「あなた、やはり私も行った方がよかったのでは?」
「駄目だ」
「まだ何も言っておりませんよ?」
「言う前に止めた」
最近、夫が会話を先回りするようになりました。
困りますね。
考えながら右手を鼻へ向けますと、そこまで先回りされました。
「それも駄目だ」
「まだ触っておりません」
「だから止めた」
「未来が見えるのですか?」
「お前の右手だけはな」
失礼ですね。
さて――
姉上がこれから見る寿春は、昔と同じなのでしょうか?
帰ってきたら、たくさん聞かせてもらうつもりです。
……その前に、姉上が何を持ち帰ってくるのかも気になりますけどね?




