母上、今の寿春を見に行きませんか?
劉明珠でございます。
肇が、寿春から書状が届いたと申しました。
「纂からですか?」
「はい」
「無事なのですね?」
「母上、まだ開けておりません」
「では早く開けなさい」
少しくらい急かしてもよいでしょう。
母親なのですから……
そこへ玉珠が顔を出し、私の手元を覗き込みました。
「姉上、寿春からですか?」
「ええ」
「匂いで分かります?」
「分かりません」
なぜ手紙を嗅ごうとするのです。
しかも、そのまま鼻が手紙へ向かったので、夫君に襟をつかまえられております。
「寿春の匂いを確かめようかと」
「お前の鼻で確かめるな!」
さて――
纂は、あの町で何を見たのでしょうね。
「母上、寿春から書状が届きました」
肇がそう申したので、私は持っていた針を置きました。
「纂からですか?」
「はい」
「本人は無事なのですね?」
「書状が届いたのですから、おそらく」
「妻は?」
「母上、まだ開けておりません」
「では早く開けなさい」
肇が困ったように笑いました。
「私宛ではありません。母上宛です」
「それを先に言いなさい!」
どうして息子というものは、母親が一番知りたいところを後回しにするのでしょう。
封を受け取ると、見慣れた纂の字がありました。
寿春へ向かう朝、「着いたら知らせなさい」と申したのは私です。
もちろん覚えております。
ただ、届くまで少し長かった気がするだけです。
「母上、顔が怖いですよ」
「読んでいるだけです」
「まだ封も切っておられません」
「肇」
「はい」
「黙っていなさい」
ようやく封を開きました。
書き出しには、無事に寿春へ到着したこと、妻も変わりなく過ごしていること、任についた後は慌ただしく、便りが遅くなったことへの詫びが書かれております。
そこまで読んで、私は一度息を吐きました。
「無事だそうですよ」
「でしょうね」
「何です、その言い方は?」
「母上が書状を読む前から六度くらい心配しておられたので」
「数えていたのですか?」
「暇でしたので」
「あなたにも妻と子がいるでしょう。暇ではないはずですよ」
肇が笑いました。
まったく……
続きを読み進めると、孫権が武昌から建業へ都を移したことで、寿春でも東の動きをこれまで以上に警戒するようになり、纂も役目柄、帰宅が遅くなる日が増えたそうです。
それでも食事は抜いておらず、妻に叱られない程度には眠っている、とあります。
私はそこで書状から顔を上げました。
書状の端には、纂の妻の字で小さく一言添えてありました。
――母上、ご心配なく。
食事は私が見ております。
私はそこだけもう一度読みました。
「肇」
「はい」
「こちらの一行の方が信用できますね」
「弟が気の毒です」
「自分で信用を落としてきたのです」
環珠が後で見たら笑うでしょう。
息子がどれほど立派になっても、母親というものは、その妻から届く「ちゃんと食べさせています」の一言に妙な安心を覚えるものらしいです。
「『妻に叱られない程度には眠っている』とは、どういう意味でしょうね?」
「眠っているのでしょう」
「程度が問題なのです」
「母上」
「何です?」
「父上にも同じことを言っておられませんでしたか?」
「文烈様はもっと言うことを聞きませんでした」
比べる相手が悪いですね。
文烈様ほど言うことを聞かないわけではありませんし、少なくとも纂は、自分で「眠っている」と書ける程度には休んでいるのでしょう。
そこへ環珠が入って参りました。
「母上、兄上から書状ですか?」
「ええ、寿春からです」
「元気でした?」
「本人は元気だと申しております」
「本人は?」
「母親というものは、本人の『元気』をそのまま信用してはいけないのですよ」
「そういうものですか?」
「そういうものです」
環珠は納得したような、していないような顔で私の隣へ座りました。
まだ子供らしい顔を残しているのに、こうして兄の赴任先の事情まで気にするようになったのですから、ずいぶん変わったものです。
書状にはさらに、寿春の町そのものについても少し書かれておりました。
以前、父上と母上が暮らしていた頃を知る者がまだおります――と。
そこを読んだ時だけ、指が止まりました。
「母上?」
環珠がこちらを見ます。
「何でもありません」
嘘ではございません。
寿春と聞けば、思い出すことくらいはあります。
ですが、今ここで悲しむようなことでもないのです。
寿春で文烈様と暮らした日々は、もう戻りません。
けれど町そのものが消えたわけではなく、そこには今も人が住み、道があり、朝になれば店が開き、夜になれば家々に灯がともるのでしょう。
そして今は、そこに纂と妻がおります。
そう思うと、寿春という名が少しだけ違って聞こえました。
「何と書いてあるのです?」
いつの間にか和珠まで近くへ来ております。
「兄上は、寿春で元気にしておりますよ」
「私が生まれたところは見ましたか?」
「まだそこまでは書いておりません」
「忘れたのですか?」
「兄上にも仕事があるのです」
「でも、約束しました」
覚えていたのですね。
出立の日、和珠は纂に「私が生まれたところも見ますか」と尋ねておりました。
纂も「見られるなら」と答えております。
「では、返事に書いておきましょう」
「絶対です」
「分かりました」
九つの娘に念を押されました。
この家では、赴任先の兄にまで妹から任務が追加されるようです。
そこへ、さらに聞き慣れた声が加わりました。
「姉上、何を書いているのです?」
玉珠です。
もちろん夫君も一緒で、最近はこの二人が並んで現れると、私は玉珠の顔より先に右手を見る癖がつきました。
今のところは無事です。
「纂から寿春の便りが届いたのですよ」
「まあ」
玉珠は私の手元を覗き込みました。
「寿春から来たのですか?」
「そう申したでしょう?」
「では、寿春の匂いがしますか?」
「しません」
「まだ嗅いでいないではありませんか」
「嗅がなくても分かります!」
玉珠が書状へ鼻を近づけようとしたので、夫君が襟元を軽く引きました。
「人の手紙を鼻で読むな!」
「読んでおりません。嗅ごうとしただけです」
「もっと悪いぞ」
「なぜです?」
なぜでしょうね?
私にも説明できませんが、とにかくやめてください。
「姉上は寿春に長くいたのでしょう?」
「ええ」
「なら、匂いで分かるかもしれませんよ?」
「私が犬のように、匂いで町を覚えていると思わないでくださいませ」
環珠が吹き出し、和珠まで笑っております。
玉珠は不思議そうな顔をしたまま、自分の鼻へ手をやろうとしました。
当然、夫君が今度は手首をつかみます。
「今の話からなぜそこへ行く」
「鼻の話をしていたので」
「話していたから触るな」
「厳しいですね」
あなたの場合は必要な厳しさです。
ひとしきり騒いだ後、私は纂への返事を書くことにしました。
筆を取ると和珠がすぐ横へ座り、環珠もそのまま残りました。
なぜか玉珠まで動く気配がありません。
……なぜです?
「母上、最初に何と書くのです?」
「無事で安心した、と」
「それから?」
「妻を大切にして、食事も抜かないように――」
「姉上、それでは手紙ではなく注意書きですよ?」
玉珠にだけは言われたくありません。
肇が横から覗き込みます。
「母上……纂ももう大人です」
「知っております」
「では、少し任せても」
「任せておりますよ。寿春まで追いかけて行っていないでしょう?」
「それを任せていると言うのでしょうか……」
何か問題でも?
私は筆を進めました。
妻ともども息災だと知って安心したことを書き、忙しいのは承知しているけれど無理はしすぎないように、と続けます。
孫権が建業へ移った以上、東方が落ち着かないのは仕方ありません。
それでも、帰れる時くらいはきちんと家へ帰りなさい、と最後には付け加えてしまいました。
……やはり、少し注意書きに見えますね。
そこまで書いたところで、和珠が袖を引きました。
「母上」
「覚えておりますよ」
私は最後に一行加えました。
――和珠が、自分の生まれたところを見てきてほしいと申しております。
和珠が満足そうに頷きます。
「これでよいですか?」
「はい」
「では終わりですね」
筆を置こうとしました。
「母上」
まだありましたか?
「兄上に見てもらわなくても、母上が知っているのでしょう?」
私は和珠を見ました。
「知っておりますよ」
「どんなところだったか、母上が教えてくれればよいのでは?」
もっともです。
環珠まで頷いております。
「和珠は、自分で覚えていないから知りたいのでしょう?」
「はい」
「なら、私がお話ししても――」
「でも、今の寿春は母上も知らないでしょう?」
手が止まりました。
九つの子に、思いがけないところを突かれました。
私が知っているのは、文烈様と暮らし、寧珠と環珠を育て、和珠を産んで、家族で日々を過ごした頃の寿春です。
けれど纂が見ているのは、今の寿春なのでしょう。
「そうですね」
そう答えると、和珠は少し考えてから、あっさり申しました。
「では母上も見に行けばよいのでは?」
筆先から墨が一滴、紙へ落ちました。
環珠がこちらを見ました。
肇も黙りました。
そして玉珠だけが、ぱっと顔を明るくします。
「それはよいですね。姉上、いつ行きます?」
「なぜもう行くことになっているのです!」
思わず声を上げると、玉珠は驚いた拍子に右手を鼻へ向けました。
夫君がつかまえます。
「今それをするな」
「驚いたので」
「驚くと鼻をほじるのか、お前は」
私はため息をつきながら、墨の落ちた返書を見ました。
寿春を訪ねる――
そんなことは、文烈様が亡くなってから一度も考えたことがありませんでした。
けれど今、あの町には纂と妻が暮らしております。
そして和珠は、もう一度申しました。
「母上、一緒に見に行きませんか?」
……困りましたね。
今度ばかりは、すぐに「行きません」と答えられませんでした。
劉玉珠でございます。
和珠が姉上を寿春へ誘いました。
姉上はまだ行くとは申しておりませんが、あのお顔なら半分くらいは行く気なのではないでしょうか。
「あなた、私も支度をした方がよいですか?」
「なぜお前まで行くんだ」
「姉上だけでは心配でしょう?」
「お前、身重で行くのか? むしろ、心配されるだけだろ」
失礼ですね。
考えながら右手を鼻へ向けますと、夫に止められました。
「旅の支度より先に、それをやめろ」
「寿春でも駄目ですか?」
「洛陽でも寿春でも駄目だ!」
場所の問題ではないようです。
さて、姉上は本当に寿春へ行くのでしょうか?
もし行くのでしたら――
肇が、すんなり許すとは思えませんけどね?




