弟よ、姉の家まで勝手に分けないでくださいませんか?
劉明珠でございます。
肇が地図を持って参りました。
「母上、少し妙な話を聞きまして」
「妙な話なら、玉珠が毎日しておりますよ?」
「姉上、何のお話です?」
誰もあなたを呼んでおりませんが?
なぜ、来たのですか?
玉珠は私たちの間へ顔を出すと、地図を覗き込みました。
そのまま考え始めたので、嫌な予感しかしません。
案の定、右手が鼻へ向かいましたので、夫君が無言で手首をつかみました。
「まだ何もしておりませんよ?」
「これからするだろう」
「未来が見えるのですか?」
「お前の右手だけはな」
夫君もずいぶん鍛えられましたね。
さて――
肇が持ってきた話は、玉珠の上を行っておりました。
どうやら弟が、孫権と天下を分けたそうです。
……誰の天下をでしょうね?
「母上、劉禅殿が孫権と天下を分ける約束をしたそうです」
肇からそう聞かされた時、私はしばらく意味が分かりませんでした。
「……誰の天下をです?」
肇が口を閉じました。
やはり、そこが問題なのですね。
六月に入り、蜀から衛尉の陳震という者が呉へ赴き、孫権の即位を祝ったそうです。
そこまでは分かります。
孫権が皇帝を称した以上、弟がそれを認め、呉との関係を改めて固めることにも、それなりの理由があるのでしょう。
問題は、その後でした。
「それで、天下を分けたのですか?」
「将来、魏を平定した際の取り分を定めたようです」
「まだ平定していないのでしょう?」
「しておりません」
「では、なぜもう分けているのです?」
肇が困っています。
困らせているのは私ではありませんよ。
弟です。
私は卓上に広げられた地図を見ました。
これを持ってきたのも肇です。
説明するなら地図があった方が早いと思ったのでしょう。
確かに早いですね。
腹が立つのも早くなりました。
「豫州や徐州などは呉へ、兗州や冀州などは蜀へ、という取り決めだそうです」
「現在そこに住んでいる魏の人々には、もう話を通したのですか?」
「通しているはずがないでしょう」
「でしょうね」
我が弟ながら、大胆なことをするものです。
父上もずいぶん大胆な方でしたが、まだ手に入れてもいない土地を先に人と分けていたでしょうか。
……していたかもしれませんね。
父上ですから。
そこは考えないことにいたしましょう。
「母上」
環珠が地図を覗き込んでおります。
肇が来ると聞いて顔を出したのですが、思ったより面白いものが広げられていたので、そのまま居座っております。
「何でしょう?」
「これ、本当に蜀と呉で決めたのですか?」
「兄上がそう申しております」
「魏は?」
「仲間外れだそうですよ」
肇が咳き込みました。
「母上、そういう言い方は……」
「違うのですか?」
「違いませんが」
ではよいでしょう。
環珠は十五になり、こういう話もかなり分かるようになりました。
しばらく地図を眺めた後、眉を寄せます。
「でも、今はほとんど魏の土地ですよね?」
環珠は地図の端を押さえながら、しばらく州境を目で追っております。
幼い頃なら、父上がどこへ行くのかばかり気にしていた子が、今では地図の向こうにある国同士の事情まで考えるようになりました。
子供の顔をまだ残しているのに、尋ねることだけは少しずつ大人になっております。
「そこに気づきましたか」
「気づきます」
偉いですね。
叔母より早いです。
そう思ったところへ、その叔母が来ました。
玉珠です。
もちろん夫君も一緒でした。
「姉上、地図ですか?」
「見れば分かるでしょう」
玉珠は私の隣へ座ると、卓上へ顔を近づけました。
「何をしているのです?」
「弟と孫権が天下を分けたそうですよ」
「もう?」
私は玉珠を見ました。
「何が『もう』なのです?」
「孫権は、ついこの間皇帝になったばかりでしょう?」
「それはそうですが」
「皇帝になると、すぐ天下を分けるのですか?」
「そういう決まりはございません」
危険ですね。
玉珠に天下の仕組みを教えると、毎回おかしな制度が一つずつ増えていきます。
肇が笑いを堪えながら、地図の上を指しました。
「叔母上。要するに、将来魏を倒した場合、どこを蜀が取り、どこを呉が取るかを先に定めたのです」
「なるほど」
玉珠は珍しく一度で理解したようです。
そして少し考えました。
「では、隣の家の菓子をまだ貰ってもいないのに、姉上と私で半分にするようなものですか?」
私は答えませんでした。
肇も黙りました。
環珠が口元を押さえております。
困りましたね。
今回に限っては、その例えが妙に分かりやすいのです。
「……まあ、その菓子の持ち主が武装している点を除けば、そのようなものです」
「では先に聞いた方がよいのでは?」
「それができるなら戦にはならないでしょうね」
「難しいですね」
玉珠は納得したように頷きました。
そこで終わればよかったのです。
考え始めた右手が、また顔へ向かいました。
今日は夫君も地図を見ていたため、少し反応が遅れます。
玉珠の人差し指には、先ほど地図を指した時についた墨が残っておりました。
「玉珠」
「何でしょう?」
「その指で鼻を触ると、鼻の下が黒くなりますよ」
手が止まりました。
夫君も玉珠の指を見ました。
「……姉上」
「何です?」
「左手ならよいでしょうか?」
「そういう問題ではない!」
夫君の声が先に飛びました。
少し離れたところにいた和珠まで笑っております。
玉珠だけが、なぜ怒られたのか分からない顔をしていました。
やがて和珠も地図を覗き込みました。
九つの子には州の名前を並べても、どこまで分かっているのか怪しいものです。
それでも皆が見ているものは気になるのでしょう。
「母上」
「何でしょう?」
「蜀はどこですか?」
私は地図の西を指しました。
「この辺りですよ」
「叔父上がいるところ?」
「そうです」
「孫権は?」
今度は東南を示します。
和珠は二つを交互に見ました。
「遠いですね」
「遠いですよ」
「なのに、ここまで分けるのですか?」
小さな指が魏の領域をなぞりました。
「そういう話だそうです」
和珠はさらに地図へ顔を近づけます。
「では、私たちは誰のところになるのです?」
部屋が少し静かになりました。
環珠が和珠を見ました。
肇も何も申さなくなります。
玉珠だけは、まだ自分の右手についた墨を眺めています。
私は地図へ目を落としました。
この子に悪気はありません。
ただ、自分が今いる洛陽が、地図のどこにあるのか知りたいだけなのでしょう。
「今は魏ですよ」
「今は?」
聞き逃しませんね。
「これからも、勝手に決められては困ります」
「叔父上が決めたのに?」
「叔父上であってもです」
和珠は少し驚いた顔をしました。
身内なら何を決めてもよいわけではありません。
むしろ身内だからこそ、余計に腹が立つこともあるのです。
寧珠が赤子を連れて顔を見せたのは、その少し後でした。
産後しばらくは外へ出さないようにしておりましたが、もう以前より顔色も良くなっております。
それでも子初殿がぴったり横についていました。
相変わらずですね。
「何をしているのですか?」
寧珠が尋ねました。
「あなたの叔父上が、天下を分けております」
「叔父上が?」
赤子を抱いたまま、寧珠が地図を見ました。
「ずいぶん大きなものを分けていますね」
「あなたもそう思いますか」
「父上なら怒りそうです」
その一言に、私は少し笑いました。
文烈様なら、確かに怒ったでしょうね。
それも「勝手に分けるな」などという感情だけではなく、どの道を通って攻めてくる、どこへ兵を置く、どこを守る、とすぐ軍の話を始めたでしょう。
そう考えると、胸の奥に懐かしさが差しました。
けれど今日は、そこへ長く留まる気にはなれません。
私は地図を見ました。
父上が興し、今は弟が治める蜀と、文烈様が仕え、私たちが暮らしている魏。
そして孫権の呉が、一枚の地図の上に並んでおります。
そこへ線を引くだけなら天下はいくらでも分けられますが、そこに暮らす人間まで、その通りに分かれてくれるわけではありません。
「母上」
環珠が呼びました。
「何でしょう?」
「司州も分けるのですか?」
肇の表情が少し変わりました。
「そうらしい」
「司州を?」
私は肇を見ました。
それまで州の話は聞いておりましたが、細かいところまではまだ聞いておりません。
肇が地図の上へ指を置きます。
「函谷関を境に分ける取り決めだそうです」
「……待ちなさい」
私は身を乗り出し、肇の指先を追いました。
司州そのものを函谷関で分けるということは――洛陽まで、勝手に取り分へ入れられているということです。
「姉上」
「何でしょう?」
「私たちの家は、この辺りでは?」
「そうですよ」
「では、弟君と孫権は、姉上の住んでいるところまで分けたのですか?」
言われなくても分かっております。
ですが、玉珠に言われると余計に腹が立つのはなぜでしょう。
「肇」
「はい」
「この話、本当に間違いではないのですね?」
「残念ながら」
「残念ながら、とは何です」
「母上が怒ると思いましたので」
よく分かっていますね。
私はもう一度地図を見ました。
弟よ――
あなたが孫権と仲良くするのは結構です。
魏を倒す相談をするのも、まあ立場上は仕方がないのでしょう。
ですが――
姉が住んでいる司州まで、勝手に二人で分けないでくださいませ。
「姉上」
玉珠がまた呼びました。
「今度は何です?」
「もし弟君が洛陽を取りに来たら、家へ泊めますか?」
私はゆっくり玉珠を見ました。
「まず玄関で説教します」
肇がとうとう吹き出しました。
環珠も寧珠も笑い、和珠だけが真面目な顔で尋ねます。
「叔父上は、いつ来るのですか?」
私は地図を閉じました。
「来なくて結構です!」
姉の家を勝手に取り分に入れている間は。
劉玉珠でございます。
姉上が、阿斗にかなり腹を立てております。
「姉上」
「何でしょう?」
「本当に洛陽まで取りに来たら、阿斗を玄関で説教するのですか?」
「します」
「皇帝なのに?」
「弟ですから」
なるほど。
皇帝より姉の方が強いのですね。
考えながら右手を鼻へ向けますと、夫につかまれました。
「お前は天下より先に、その指をどうにかしろ」
「私の指は誰の領地なのです?」
「お前のだ」
「では自由では?」
「自由にするな」
難しいですね。
ところで阿斗。
もし本当に洛陽へ来るのでしたら――
姉上には先に知らせた方がよいと思いますよ?
玄関で、かなり長く待たされそうですので。




