子龍殿、もう休んでもよいのではありませんか?
劉明珠でございます。
玉珠が珍しく、静かに考え込んでおります。
「姉上」
「何でしょう?」
「昔の人は、亡くなったあとも私たちの顔を覚えているのでしょうか?」
「ずいぶん急に難しいことを考え始めましたね」
そう申した途端、玉珠の右手が鼻へ向かいました。
当然、夫君につかまれます。
「考える時までそれをするな」
「考えるのと鼻に何の関係があるのです?」
……やはり、いつもの玉珠でした。
ですが今日ばかりは、私も笑ってばかりはいられません。
先ほど、一つの知らせが届いたのです。
趙子龍殿が亡くなったそうです。
……その名を聞くと、どうしても長坂を思い出します。
「趙子龍殿が亡くなったそうです」
曹肇がそう申した時、私は寧珠の子を抱いておりました。
つい先日この世へ出てきたばかりの赤子は、何も知らずに私の指を握っております。
小さな手なのに妙に力があり、こちらが少し動かしても、なかなか離してくれません。
私はその指を見たまま、しばらく顔を上げませんでした。
「……いつのことです?」
「詳しい日は分かりません。ただ、今年に入ってから没したと」
肇の声は、いつもより静かでした。
私が趙子龍殿の名を聞いて、平然としていられないことを分かっているのでしょう。
長坂――
あの日を思わずに、私はこの人の名前を聞くことができません。
父上が敗れ、人も馬も道も乱れ、誰がどこへ逃げたのかさえ分からなくなった日のことです。
弟と甘夫人は趙子龍殿に助けられ、父上のもとへ戻ったと聞いております。
命を懸けて主君の家族を救ったのですから、立派なことに違いありません。
だからこそ、胸の内が少しだけ困るのです。
「母上?」
肇に呼ばれ、ようやく顔を上げました。
「聞いておりますよ」
「……お知り合いだったのでしょうか?」
「知り合いと申してよいのか、私にも分かりません」
私は赤子の手をそっと外し、寝台へ寝かせました。
離されたのが不満だったのか、唇を小さく動かしております。
「子龍殿と親しく話したことがあるわけではありません。ただ、あの方の名前を聞けば、どうしても長坂を思い出します」
肇は何も申さず、少しだけ目を伏せました。
こういう時に余計な慰めを言わないところは、文烈様によく似ています。
最近は妻が少し疲れたと言っただけで医者を呼びそうになりますから、似てほしくないところまで似ておりますけれど……
「母上、今日は寧珠のところに?」
「ええ、子初殿が赤子を抱いたまま眠りそうでしたので、没収してきました」
「……あの方ならやりそうですね」
「あなたも笑っていられるうちに笑っておきなさい」
肇が一瞬、何のことか分からない顔をしました。
それから妻の腹を思い出したのでしょう。
見る見るうちに笑いが消えていきます。
「少し、妻の様子を見て参ります」
「ええ、その方がよろしいでしょうね」
肇は立ち上がりましたが、戸口で一度振り返りました。
「母上」
「何でしょう?」
「無理はなさらないでください」
「あなたまで私を妊婦扱いしないでくださいませ」
困った顔をして、そのまま部屋を出ていきました。
まったく……
文烈様の息子たちは、どうして妻の出産が近づくと急に分かりやすくなるのでしょうね。
その時、廊下の向こうから聞き慣れた声がしました。
「姉上は、こちらですか?」
玉珠です。
私は小さく息を吐きました。
戸が開くと、玉珠が入り、そのすぐ後ろから夫君までついて参りました。
「姉上」
「今日は一人ではないのですね」
「一人で来ようとしたのですが、夫がついて来ました」
「お前を一人で歩かせられるか」
「まだ腹も出ておりませんよ?」
「出てからでは遅い」
昨日も聞いたような会話ですね。
文烈様……
あなたと同じ病に罹った男は、順調に悪化しておりますよ。
玉珠が私の向かいへ座ると、さすがに今日はすぐ鼻へ手をやりませんでした。
「子龍殿が亡くなったそうですね?」
「ええ」
「そうですか」
それきり黙ります。
私は意外に思いました。
「珍しいですね」
「何がです?」
「あなたが静かです」
「私だって静かな時くらいありますよ」
「では今日は記念日にしておきましょう」
夫君が横を向きました。
肩が少し揺れております。
笑いましたね。
玉珠だけが気づいておりません。
しばらくして、玉珠が自分の腹に手を置きました。
「姉上」
「何でしょう?」
「子龍殿は、私たちの顔を覚えていたのでしょうか?」
思っていなかった問いでした。
私は返事を急がず、玉珠の顔を見ました。
いつもの、何を考えているのかよく分からない顔ではありません。
いつもより遠くを見るような目をしております。
「分かりません」
「そうですか」
「私たちを探したのかどうかも、どこまで知っていたのかも、今となっては知りようがありませんよ」
冷たい言い方になったかもしれません。
ですが、分からないものを美しく作り替える気にはなれません。
あの日、弟は助けられ、私たちは助けられなかった。
それが、私の知っているすべてです。
玉珠は少し考えてから申しました。
「私は、あの日のことをあまり覚えておりません」
「あなたはまだ幼かったですからね」
「姉上は?」
「忘れたいことほど、妙によく残るものですよ」
「では、私は得をしておりますね」
「何がです?」
「忘れておりますので」
私は思わず玉珠を見ました。
この妹は、本当に時々とんでもなく強いことを申します。
本人にその自覚がないので、余計に困るのですが……
考え込んだ玉珠の右手が、ゆっくり顔へ上がりました。
夫君が途中でつかみます。
「何をするのです?」
「それはこちらの台詞だ」
「まだ何もしておりませんよ?」
「行き先は分かっている」
「未来が見えるのですか?」
「お前の右手だけは見える」
私はとうとう笑ってしまいました。
趙子龍殿の訃報を聞いた部屋で、なぜ妹の鼻を巡る夫婦喧嘩を見ているのでしょうね。
けれど、少しだけ助かりました。
息をする場所が戻ってきた気がしたのです。
やがて寧珠が子初殿と一緒に顔を出しました。
産後なのですから寝ていなさいと申しているのに、本人は「少しだけです」と聞きません。
子初殿はその横で、寧珠が一歩進むたびに何か言いたそうな顔をしております。
今度は文烈様に似た男が二人ですか。
「母上、趙子龍殿のことを聞きました」
寧珠は寝台の赤子をそっと抱き上げ、それから私のそばへ腰を下ろしました。
そこへ環珠と和珠までやって来ます。
環珠は部屋の空気を見て静かに座りましたが、和珠は私の膝へ手を置き、しばらく迷った末に尋ねました。
「その人は、強かったのですか?」
「強かったそうですよ」
「父上より?」
来ましたね。
子供はどうして、強い人を聞くとすぐ父親と比べたがるのでしょう。
「強さの種類が違います」
「種類?」
「趙子龍殿は、自ら前線に立つ武勇でも名を残した方です。文烈様は、どちらかといえば軍全体を見て、部隊を動かすことを得意としておりました」
和珠は眉を寄せて真剣に考えております。
「では、父上が子龍殿を動かしたら、もっと強い?」
私は口を開きかけて、閉じました。
環珠が先に吹き出します。
寧珠まで肩を揺らしました。
「ずいぶん簡単にまとめましたね」
「違うのですか?」
「完全に間違いとも言い切れないところが困ります」
玉珠まで会話へ入ってきます。
「文烈様なら、子龍殿をどこへ置くのでしょう?」
「私に聞かないでくださいませ」
「十七年も一緒だったではありませんか」
「夫婦だからといって、寝台で軍議をしていたわけではございませんよ」
寧珠が咳き込み、環珠が顔を伏せました。
和珠だけは不思議そうにしております。
「寝台で軍議をするのですか?」
「しません」
そこだけ拾わないでください。
玉珠は何やら納得したように頷き、夫君は額を押さえております。
文烈様がいたなら、どんな顔をしたでしょうね。
そう思ったところで、胸の奥が少しだけ静かになりました。
私は寧珠の腕の中にいる赤子へ目を向けます。
寧珠が母となり、環珠も和珠もそれぞれ大きくなりました。
肇も纂もおりますし、玉珠などは相変わらず夫君に右手を監視されながら、また一人子を迎えようとしております。
これほど大勢いるのに、文烈様だけがいません。
もし、あの日――
趙子龍殿が私まで見つけていたら。
弟と一緒に父上のもとへ連れ戻されていたら、私は曹純様に捕らえられなかったのでしょう。
そうなれば曹家へ来ることもなく、文烈様と夫婦になることもなかった。
三人の娘も生まれず、今、目の前で眠っている孫もここにはいなかったのでしょう。
そこまで考えたところで、私は自分の勝手さに気づきました。
長坂で置いていかれたことを長い間忘れられなかったくせに、今では助けられていた人生を望めません。
「母上?」
寧珠の声に顔を上げました。
「何でしょう?」
「少し寂しそうな顔をしておりました」
「あなたも母親になった途端、人の顔を見るようになりましたね」
「前から見ております」
「そうでしたか?」
「母上」
少し怒りました。
その顔が文烈様に似ていて、私はまた笑いそうになります。
「寧珠。その子を少し貸してください」
孫を受け取ると、まだ頼りない体が腕の中へ収まりました。
小さな胸が静かに上下し、時折、何かを探すように口元が動きます。
趙子龍殿――
あなたが弟を救ったことを、私は恨んではおりません。
それだけは、本当です。
ただ、私まで救われていた方がよかったのかと問われれば、もう答えられないのです。
私は文烈様に出会ってしまいました。
その人との間に三人の娘を産み、とうとう孫まで抱いております。
今さら、別の人生を差し出されても困ります。
「姉上」
玉珠が静かに申しました。
「子龍殿は、ずいぶん長く戦ったのでしょう?」
「そうですね」
「では、もう休んでもよいのではありませんか?」
私は玉珠を見ました。
たまに、この妹は妙なところで真っ当です。
「……そうですね」
赤子が身じろぎし、私の胸元へ頬を寄せました。
ならば、もう休んでくださいませ。
父上の臣でも、弟を救った英雄でも、長坂という一日を私に思い出させる人でもなく。
ただ、一人の人として。
そう心の中で申した、その時でした。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきます。
先ほどまでとは違います。
誰かが本気で急いでおります。
戸が勢いよく開きました。
「母上!」
曹肇でした。
妻の様子を見ると言って部屋を出ていった時とは、まるで顔が違います。
「どうしました?」
肇は何か申そうとしましたが、息が続かず、膝に手をつきました。
私は孫を抱いたまま立ち上がります。
「肇」
寧珠もすぐにこちらへ手を伸ばしました。
私は赤子を返します。
環珠と和珠も立ち上がり、玉珠まで肇を見つめました。
いえ、玉珠の右手だけは、いつの間にかまた夫君につかまれておりましたね。
「肇、落ち着いて申してください」
肇が大きく息を吸いました。
「妻が――産気づいたようです!」
部屋の空気が、一瞬で変わりました。
趙子龍殿が亡くなったという知らせを聞いた、その日の夕方。
また一人、昔を知る人が遠くなったと思っていたのに。
どうやら我が家には――
今度は、もう一人の孫が来ようとしております。
劉玉珠でございます。
子龍殿の話をしていたところへ、肇が飛び込んできました。
妻が産気づいたそうです。
姉上はすぐに立ち上がりましたが、私は大事なことに気づきました。
「姉上」
「何でしょう?」
「またお婆様になりますね」
「今それを申しますか?」
ものすごく睨まれました。
考えながら右手を鼻へ向けると、夫につかまれます。
「お前も今それをするな」
「今でなければよいのですか?」
「そういう意味ではない」
難しいですね。
ところで姉上――
寧珠の子は、少し文烈様に似ておりました。
今度の子まで似ていたら――
文烈様が、また一人増えるのでしょうか?




