玉珠、あなたも叔母上ですよ?
劉明珠でございます。
朝から玉珠の夫君が、妙に疲れた顔をしております。
「明珠殿、こいつが何を言っても怒らないでやってください」
「玉珠は何をするつもりなのです?」
「止めたんですが」
「何を?」
「……まともに聞いては駄目です」
嫌な予感しかしません。
当の玉珠は嬉しそうにしております。
考え込んだ拍子に右手が鼻へ向かい、夫君につかまれました。
「お前、本当にやめろよ」
「鼻ですか?」
「そっちじゃない」
「では何を?」
「分かってないのか……」
分かっていませんね。
昨日、私は夫を墓へ送り、その日のうちに肇の妻から懐妊らしき話を聞かされました。
三十三歳で未亡人となり、次は祖母だそうです。
人生にも順序というものがあると思うのですが。
そして玉珠が、満面の笑みでこちらへ来ます。
……文烈様。
朝から嫌な予感がいたします。
「姉上、お婆様とお呼びした方がよろしいですか?」
朝から妹が喧嘩を売りに来ました。
本人には、そのつもりがまったくないところが一番腹立たしいですね。
「玉珠」
「はい」
「私はまだ三十三です」
「存じております」
「でしたら、なぜお婆様になるのです?」
「肇殿にお子ができるのでしょう?」
正しい。
腹が立つほど正しい。
昨日、文烈様を墓へお送りしたあと、肇の妻から子ができたらしいと聞かされました。
まだ医者に確かめてもらったわけではございませんが、本人には思い当たることがあり、肇にも覚えがあるのでしょう。
そこは夫婦なのですから、私が詳しく尋ねることではありませんし、尋ねたくもありません。
ただ、その子が無事に生まれれば、肇は父親になります。
肇が父親になるということは、肇から母上と呼ばれている私は祖母になるそうです。
世の中には、納得したくないのに筋だけは通っていることがございます。
これがそうです。
「姉上、おめでとうございます」
「何がおめでたいのです?」
「お孫様です」
「それは分かっております」
玉珠は不思議そうな顔をしました。
「では、何が問題なのでしょう?」
「私の年齢です」
「三十四歳でお婆様ですね」
「玉珠……」
「はい」
「もう一度申したら怒りますよ」
「まだ一度しか申しておりませんが?」
「二度目を止めているのです」
この妹は、数え二十八になっても相変わらずです。
玉珠は建安六年の暮れに生まれました。
私とは五つほどしか違いません。
私が十三で長坂坡に置いていかれた時には、まだ鼻を垂らしていてもおかしくない年頃だったはずなのですが、今では夫と娘までおります。
それでも考え込むと右手が鼻へ向かう癖だけは、幼い頃から一向に成長しておりません。
今も向かいました。
当然、隣にいた夫君がつかみます。
「お前、昨日も墓前でやっただろう」
「昨日は入れておりません」
「今日も入れるな」
「まだ何もしておりませんよ?」
「しようとしたから止めたんだ」
見事なものです。
もはや夫婦というより、長年鍛えた捕縛術ですね。
文烈様と私にも、こういうものがございました。
私が何か言う前にあの方には伝わり、あの方が黙っていても、私には何を考えているのか察しがつく。
十七年も夫婦をしておりますと、そういうものなのでしょう。
それでも、最後まで気づけなかったことが一つだけございました。
あの夜が、最後になることです。
先日まで、私は普通に文烈様の妻でした。
同じ床へ入り、あの方に抱かれました。
一度は何事もなく終わり、そのあとも文烈様はいつもの文烈様で、私はいつもの私でした。
まさか、そのあと背中へ回した手に触れた腫れが、あの方を連れていくとは思いもしなかったのです。
それが今ではどうでしょう。
夫は墓の中。
私は未亡人。
そのうえ、もうすぐ祖母だそうです。
人生というものは、もう少し段階を踏んでいただけないのでしょうか。
「姉上?」
「何でしょう?」
「ぼんやりしておりました」
「少々、文烈様のことを考えておりました」
「そうでしたか」
玉珠は、それ以上聞きませんでした。
こういうところだけは、昔から妙に勘がよい妹です。
ところが、せっかく黙ったと思ったのも束の間でした。
「ですが姉上」
「まだ何か?」
「文烈様に抱かれていたことと、お婆様になることは、関係ないのではありませんか?」
私は玉珠を見ました。
夫君も玉珠を見ました。
「……あなた」
「はい?」
「今の話を、どこまで理解していたのです?」
「姉上が、この前まで文烈様に抱かれていたというところです」
「忘れてくださいませ」
「なぜです?」
「妹に説明した私が間違っておりました」
本当に間違えました。
夫君が顔を伏せています。
「夫君」
「何でしょう?」
「笑いましたね?」
「笑っておりません」
「肩が動いておりますよ」
「気のせいです」
この夫婦、揃いも揃って腹が立ちますね。
そこへ環珠と和珠がやって来ました。
環珠は、私と玉珠を交互に見たあと、何やら嫌な気配を察したようです。
「母上、何の話をしているの?」
「あなたにはまだ必要のない話です」
「玉珠叔母様、何の話?」
「姉上が、この前まで文烈様に――」
「玉珠!」
「はい」
「本当に怒りますよ」
環珠の目が細くなりました。
この娘、勘づきましたね。
「母上」
「何でしょう?」
「顔が赤いです」
「気のせいです」
「でも――」
「気のせいです」
二度言わせないでください。
その隣では、和珠がまったく別のところに引っかかっておりました。
「母上、お婆様になるの?」
「和珠まで言わないでください」
「どうして?」
「母上はまだ三十三だからです」
「でも、兄上の赤ちゃんのお婆様でしょ?」
「そうなりますね」
「じゃあ、お婆様だよ?」
逃げ道がありません。
八歳児というものは、時として恐ろしいほど容赦がないですね。
「和珠。母上は、お婆様と呼ばれたくないんだよ」
「どうして?」
「若いから」
「三十三って若いの?」
「和珠」
環珠……
あなたまで敵に回るのですか。
「私は若いですよ」
「母上がそう言うなら」
「その言い方は何です?」
「何でもないです」
数え十四ともなると、難しい年頃ですね。
寧珠が数え十四の頃には、もう少し素直だった気がいたします。
いえ、そうでもなかったかもしれません。
子供というものは、育ってしまうと都合の悪いところを親が忘れるようにできているのでしょう。
そうでなければ三人も育てられません。
「ところで姉上」
まだ玉珠がいました。
「何でしょう?」
「私は姉上を、お婆様と呼んではいけないのですよね?」
「当たり前です。あなたは私の妹でしょう」
「では、いつも通り姉上で」
「最初からそうしてくださいませ」
ようやく話が終わりました。
そう思った時です。
廊下の向こうから肇が来ました。
昨日の今日ですから、妻のことが気になるのでしょう。
私の顔を見ると、いつものように頭を下げました。
「母上」
「肇、ちょうどよいところへ来ましたね」
「はい?」
私は玉珠を見ました。
玉珠も私を見ました。
まだ気づいておりません。
先ほどから私をお婆様扱いして、ずいぶん楽しそうでしたね。
ならば、こちらにも考えがございます。
「肇」
「はい」
「普段、玉珠を何と呼んでおります?」
「玉珠殿ですが?」
そうですね。
それで何の問題もございません。
年も三つか四つほどしか違いませんし、今さら急に呼び方を変える必要などないでしょう。
普段なら。
「ですが、私はあなたの何です?」 「母上です」
即答でした。
よろしい。
「玉珠は?」
「母上の妹君ですが……」
肇の顔が変わりました。
気づきましたね。
玉珠はまだ気づいておりません。
「姉上?」
「何でしょう?」
「なぜ笑っているのです?」
「笑ってなどおりませんよ」
私は肇へ向き直りました。
「一度だけ、正しく呼んで差し上げなさい」
「母上……」
困っていますね。
ですが、母の命令です。
諦めなさい。
肇はしばらく玉珠を見つめたあと、非常に言いにくそうに口を開きました。
「……叔母上」
玉珠が止まりました。
右手まで止まりました。
夫君がつかむ必要すらありません。
これほど効くとは思いませんでした。
「姉上」
「何でしょう?」
「今、肇殿が私を叔母上と」
「申しましたね」
「三つか四つしか違いませんよ?」
「ですが、私は肇の母です」
「そうですね」
「あなたは私の妹です」
「そうですが……」
「ならば叔母上ですね」
玉珠が肇を見ます。
肇が目を逸らしました。
すみませんね。
あなたに恨みはございません。
「姉上」
「はい」
「怒っております?」
「いいえ?」
私を三十四歳のお婆様と呼んだ妹に、家族関係を確認していただいただけです。
夫君がとうとう吹き出しました。
「あなた!」
「悪い」
「笑いましたね?」
「お前が先に明珠殿を婆さん扱いするからだ」
「婆さんとは申しておりません。お婆様です」
「同じだ」
「違います」
玉珠の右手がまた鼻へ向かいました。
夫君がつかみます。
「叔母上、やめた方がよろしいかと」
「肇殿まで!」
肇も意外とやりますね。
文烈様がいたなら、どんな顔をしたでしょう。
おそらく最初は黙って見ているでしょう。
それから私がやりすぎる前に、「明珠、その辺にしておけ」と申すのです。
私は墓のある方角を、ほんの少しだけ見ました。
文烈様――
あなたがいなくなっても、家の中は相変わらずうるさいですよ。
肇には子ができるようです。
あなたなら、喜んだでしょうね。
そして、まだ腹の中にいるかどうかも確かではない子にまで、きっと余計な心配をしたのでしょう。
男ならどうする。
女なら誰にもやらん。
そんなことを真顔で考え始める姿が、簡単に想像できます。
もう少しだけ、いてくださればよかったのに。
そうすれば私も、一人でお婆様になる必要などなかったのです。
「母上?」
肇に呼ばれました。
「何でしょう?」
「また、父上のことを?」
「少しだけ」
肇は何も言わず、私の隣に立ちました。
この子も同じなのでしょう。
父を亡くしたばかりなのに、自分は父になろうとしている。
私ばかりが急に祖母にされたような顔をしておりましたが、肇だって昨日までとは違います。
「肇」
「はい」
「妻を大切になさい」
「もちろんです」
「まだ確かではないのですから、騒ぎすぎてもいけませんよ」
「はい」
「ですが、無事に生まれましたら」
そこで私は少し考えました。
お婆様――嫌ですね。
ですが、その子が私をそう呼ぶようになる頃には、私も慣れているのでしょうか。
「母上?」
「何でもありません」
その時、門の方が騒がしくなりました。
誰か来たようです。
和珠が真っ先に走っていこうとしたので、環珠が後ろから襟をつかみました。
「走らない」
「姉上、苦しい」
「転ぶでしょ」
「転ばないよ」
「昨日も転びそうになった」
「転んでないもん」
この二人を見ていると、私がお婆様になるなど、やはり何かの間違いに思えてきます。
まだ娘を二人も育てている途中なのですよ。
やがて女の声がしました。
「母上」
聞き慣れた声です。
寧珠でした。
子初殿へ嫁いで自分の家を持った長女が、昨日に続いて今日も来たようです。
「寧珠。昨日の今日で、どうしました?」
私は笑って迎えました。
ところが寧珠は笑いません。
その後ろには子初殿もおります。
こちらも妙に真面目な顔です。
嫌ですね。
この家で夫婦が二人そろって真面目な顔をしている時は、最近ろくなことがございません。
「母上」
「何でしょう?」
「少し、お話がございます」
どこかで聞きましたね。
つい昨日です。
私が肇を見ると、肇もこちらを見返し、その隣では妻まで寧珠を見つめています。
「寧珠」
「はい」
「まさかとは思いますが、その先に『まだ医者から確かだと言われたわけではない』などと続きませんよね?」
寧珠の目が大きくなりました。
子初殿が目を逸らしました。
待ちなさい。
私はまだ何も聞いておりませんよ。
それなのに、なぜ子初殿が目を逸らすのです?
「母上、どうして分かったのです?」
「分かりたくありませんでした!」
思わず声が大きくなりました。
環珠が固まり、和珠は何が起きたのか分からず私を見ています。
玉珠だけが、何かに気づいた顔をしました。
嫌な予感がします。
「姉上」
「玉珠、黙っていてください」
「まだ何も申しておりません」
「あなたの場合は、申す前に止めるのが正解なのです」
寧珠が、おずおずと自分の腹へ手を置きました。
その仕草には見覚えがありました。
昨日、肇の妻がまったく同じことをしたばかりです。
「母上……私も、まだ確かではないのですが……」
やめてください。
私は昨日、夫を墓へ納めたばかりなのですよ。
それだけでも三十三歳の私には十分すぎる話だったというのに、今度は数え十六の実の娘まで、同じように腹へ手を置いております。
文烈様……
あなたは、やはり早く逝きすぎましたよ。
もう少し待っていれば、この騒ぎを一緒に受け止めていただけたのに。
寧珠が息を吸いました。
「どうやら私も、子ができたようです」
誰も声を出しませんでした。
私も出せません。
その静けさの中で、玉珠の右手だけが、ゆっくりと鼻へ向かいました。
夫君がつかみます。
「今はやめろ」
「ですが」
「何だ?」
「姉上は、お孫様が二人になるのでしょうか?」
私は玉珠を見ました。
玉珠も私を見ました。
「ということは――」
「玉珠」
「はい」
「その先を申したら、叔母上では済ませませんよ」
玉珠が黙りました。
ようやく勝ちました。
そう思った瞬間、和珠が私の袖を引きました。
「母上」
「……何でしょう?」
「二人いたら、もっとお婆様なの?」
文烈様――
……助けてくださいませ。
劉玉珠でございます。
姉上に、お孫様が二人できるかもしれません。
大変おめでたいことですので、
「これで姉上は、二倍お婆様ですね」
と申し上げようとしたところ、夫に口を塞がれました。
「なぜです?」
「死にたいのか」
「姉上は私を殺しませんよ?」
「そういう意味じゃない」
難しいですね。
しかも今日は、肇殿から叔母上と呼ばれました。
三つか四つしか違わないのに、叔母上だそうです。
では、肇殿のお子から見れば、私は何になるのでしょう?
考えていると、右手をつかまれました。
「まだ鼻には入れておりません」
「今はそれより、その続きを考えるな」
「ですが気になります」
「頼むからやめろ」
仕方がありません。
姉上に聞いてみましょう。
「絶対に聞くな!」
夫は朝から疲れております。
ところで、寧珠のお子から見た私は何なのでしょう?
……姉上に聞けば分かりますね。




