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中編:王太子の叔父君から求婚されました



「オフィーリア嬢、私は君より十七も年上だが、それでも君を妻に望んでいると言ったら、困らせてしまうだろうか」


 私が十年間婚約していたディートリヒ王太子殿下と、将来の夫婦生活について具体的に思い描いたことは一度もなかったというのに、その叔父君であるフェルディナント・ラウフェン公爵から求婚された瞬間、私はどういうわけか、この方と同じ寝室で夜を迎える自分の姿を想像してしまい、あまりの恥ずかしさに、まともにお顔を拝見することさえできなくなってしまった。


 それは、王太子妃になるための教育を十年間受けてきた私にとって、何とも情けない反応だったと思う。


 外交の席で不意に難しい質問を投げかけられても、王国の財政状況について意見を求められても、落ち着いて答える訓練を重ねてきたというのに、目の前の男性から一人の女性として求められた途端、頭の中が真っ白になってしまうのだから、人の心というものは、どうやら帳簿や法律のように整理できるものではないらしかった。


 ◇ ◇ ◇


「公爵閣下、恐れながら、私はつい先日まで、ディートリヒ殿下の婚約者だった身でございます」


 私はようやくそれだけを申し上げたが、フェルディナント様は少しも驚かれることなく、むしろ当然のことを確認するかのように、静かにうなずかれた。


「もちろん承知しているし、君が今すぐ返事をできる状況ではないことも理解している」


 フェルディナント様は三十八歳で、私より十七歳も年上でいらっしゃるが、年齢を重ねた男性特有の落ち着きがあり、感情に任せて声を荒らげることも、相手の返答を急がせることもなさらない方だった。


 私は十一歳でディートリヒ殿下の婚約者となって以来、王宮で同年代の殿下とともに教育を受けてきたため、結婚相手とは同じ年月を重ねながら成長していくものだと、漠然と考えていた。


 それに対してフェルディナント様は、私がまだ文字を覚え始めた頃にはすでに成人され、領地の統治や産業の発展に携わってこられた方なのだから、私たちの間には、年齢だけでは測れない経験の差があるはずだった。


「君が私の年齢を気にするのも無理はないし、叔父と甥という関係を考えれば、私からの求婚が君を困らせることも十分に分かっている」


 そうおっしゃったあと、フェルディナント様はほんの少しだけ苦笑なさった。


「それでも、何も伝えないまま君が別の誰かと結婚してしまったら、私はきっと後悔するだろうと思ったのだ」


 私は思わず顔を上げた。


 そのお言葉は、私がこれまで男性から向けられたことのないほど率直なものであり、しかも、目の前の方は自分の気持ちを押しつけるのではなく、私が断る可能性まで受け入れたうえで、静かに想いを伝えてくださっていた。


「どうか、すぐにお返事をしなければならないとは思わないでほしい、まずは私という人間を知ってもらいたいし、そのうえで君自身がどうしたいのかを決めてくれれば、それで十分だ」


 私はその言葉に深く頭を下げながら、胸の奥に、これまで感じたことのない温かさが広がっていくのを覚えた。


 そして、フェルディナント様が差し出してくださった手を取って立ち上がったとき、その大きな手が私の指先を優しく包み込んだことに、なぜかひどく動揺してしまったのである。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、私は父ヴィルヘルムに、フェルディナント様から求婚されたことを打ち明けた。


 父は最初こそ驚いた様子だったが、私の話を最後まで聞き終えると、しばらく考え込んだあと、穏やかに微笑んだ。


「ラウフェン公爵か、あの方ならば、少なくとも娘の努力を笑うような真似はなさらんだろう」


「お父様、まだお返事をしたわけではございません」


「分かっているとも、ただ、お前があの方の話をするとき、ずいぶん楽しそうな顔をしているものだからな」


 私は慌てて否定しようとしたが、父はそれ以上何も言わず、机の上に置かれていた書類へ視線を戻した。


 父の言うとおり、私はフェルディナント様について話すとき、自分でも気づかないうちに表情を緩めていたのかもしれない。


 それからしばらくして、私は父の許可を得て、ラウフェン公爵領を訪れることになった。


 フェルディナント様の領地は王都から鉄道で数時間ほどの場所にあり、古くから織物業や製鉄業が盛んな地域として知られていたが、近年は工場の排煙や河川の汚染が問題となっており、公爵は産業の発展と住民の健康を両立させるため、さまざまな改革に取り組んでおられた。


 駅に到着すると、フェルディナント様ご自身が迎えに来てくださっていた。


「長旅で疲れただろう、今日は無理をせず、まずは屋敷で休んでもらっても構わないよ」


「ありがとうございます、ですが、せっかくお招きいただきましたので、できれば工場を拝見したいと存じます」


 私がそう答えると、フェルディナント様は嬉しそうに目を細められた。


「そう言うと思っていたし、君のために技師たちにも時間を空けてもらっている」


 私はそのお言葉を聞いて、思わず笑みを浮かべてしまった。


 ディートリヒ殿下と過ごしていた頃には、私が産業政策や環境問題について話し始めると、殿下は決まって退屈そうなお顔をなさったものだったが、フェルディナント様は私の関心を面倒なものとして扱うどころか、むしろ一緒に考えることを楽しんでくださっていた。


 その日の午後、私たちは製鉄工場を訪れた。


 大きな煙突から立ち上る煙が空を覆い、工場の内部では巨大な機械が絶え間なく動き続けていたが、フェルディナント様は私に設備の仕組みを丁寧に説明してくださり、技師たちもまた、私が提出した報告書について熱心に意見を求めてくださった。


 私は夢中になって質問を重ね、気がつけば予定していた時間を大幅に過ぎていた。


「申し訳ございません、公爵閣下、私ばかりお話ししてしまいました」


「謝る必要などないよ、君が楽しそうにしているのを見るのは、私にとっても嬉しいことだから」


 フェルディナント様はそうおっしゃると、私の頬に煤がついていることに気づかれたらしく、懐から白いハンカチを取り出された。


「少し、失礼しても?」


 私は何のことか分からないままうなずいたが、フェルディナント様が私の頬へそっとハンカチを当てられた瞬間、驚くほど近くにそのお顔があることに気づき、思わず息を止めてしまった。


 私よりずっと背の高いその方が、私の目線に合わせるように少し身をかがめ、慎重な手つきで頬の汚れを拭ってくださる間、私は自分の心臓が普段よりも速く打っていることを、どうすることもできなかった。


「これで大丈夫だ」


 フェルディナント様はそうおっしゃって微笑まれたが、私があまりにも赤くなっていたためか、すぐに少し困ったような表情を浮かべられた。


「すまない、驚かせてしまったかな」


「い、いいえ、そのようなことはございません」


 私は慌てて首を振ったが、声がわずかに上ずってしまったことに気づき、ますます恥ずかしくなってしまった。


 その夜、客室に戻った私は、鏡の前に立ちながら、昼間の出来事を何度も思い返していた。


 フェルディナント様の大きな手や、落ち着いた低い声、近づいたときに感じたほのかな香りを思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなり、私は自分がどうしてしまったのか分からなくなっていた。


 十年間婚約していたディートリヒ殿下に対しては、将来の国王として尊敬し、お役に立ちたいと願うことはあっても、手を握られただけで胸が高鳴ったり、お顔が近づいただけで頬が熱くなったりしたことなど、一度もなかったのである。


 ましてや、将来同じ寝室で夜を過ごすことについては、王太子妃として当然果たすべき務めの一つだと理解していただけで、それ以上のことを具体的に想像したことはなかった。


 それなのに、フェルディナント様と結婚したら、私は毎晩あの方と同じ部屋で眠ることになるのだろうかと考え始めた途端、昼間の優しい眼差しや大きな手を思い出してしまい、気がつけば、寝台の上で枕を抱きしめながら、どうかこのようなことを考えているとご本人に知られませんようにと、誰にともなく祈っていた。


 ◇ ◇ ◇


 公爵領での滞在が三日目を迎えた頃、私はフェルディナント様とともに、工場の下流にある小さな村を訪れた。


 そこでは、かつて工場から流れ出る廃水によって井戸水が汚染され、住民たちが長年にわたって不便な生活を強いられていたが、フェルディナント様が排水設備の改良と新しい水道の整備を進めたことで、少しずつ状況が改善されつつあった。


 村の広場で子供たちが遊んでいる様子を見ながら、私は、産業の発展によって豊かになる人々がいる一方で、その負担を引き受ける人々もいるのだという現実を、改めて考えさせられていた。


「君は、こうした問題をどう考える?」


 フェルディナント様がそう尋ねられたので、私はしばらく考えてから答えた。


「産業の発展を止めることはできませんし、止めるべきでもないと存じますが、その利益を享受する人々が、環境や住民の健康を守るための費用も負担する仕組みを整える必要があるのではないでしょうか」


「私も同じように考えている」


 フェルディナント様は静かにうなずかれた。


「工場を閉鎖すれば仕事を失う人々が出るし、何も対策をしなければ健康を損なう人々が出るのだから、どちらか一方だけを選べばよいという問題ではないのだろうね」


 私はそのお言葉を聞きながら、フェルディナント様が私の考えを単に褒めるのではなく、一人の対等な相手として受け止めてくださっていることに、深い喜びを覚えていた。


 その帰り道、私たちは川沿いの遊歩道を歩いていたが、秋の夕暮れは思いのほか早く訪れ、川面には柔らかな橙色の光が揺れ、遠くの丘の向こうへ沈みかけた太陽が、周囲の景色を金色に染めていた。


 私は美しい景色に見とれていたが、足元の石畳にわずかな段差があることに気づかず、思わず体勢を崩してしまった。


「危ない」


 次の瞬間、フェルディナント様の腕が私の腰を支え、私は転倒することなく、その胸元へ身を寄せる形になっていた。


「怪我はないかい?」


 耳元で聞こえた低い声に、私は何とかうなずいたものの、あまりにも近くに感じられる体温に動揺してしまい、すぐには離れることができなかった。


 フェルディナント様もまた、私が落ち着くのを待ってくださっていたが、やがてゆっくりと腕を緩められた。


「すまない、少し驚かせてしまったね」


「いいえ、助けていただいて、ありがとうございます」


 私はそう答えながら、なぜか胸の奥に、もう少しだけこのままでいたかったという気持ちが生まれていたことに気づき、自分自身に驚いてしまった。


 そのとき、フェルディナント様が私を見つめながら、少し困ったように微笑まれた。


「オフィーリア嬢、私は君より十七歳も年上なのだから、もう少し落ち着いて振る舞うべきなのだろうが、どうやら君の前では、そう簡単にはいかないらしい」


「公爵閣下?」


「君に触れるたび、もう少し近くにいたいと思ってしまうのだよ」


 私は息を呑んだ。


 フェルディナント様は私の反応をご覧になると、すぐに一歩距離を取られたが、その耳元がわずかに赤くなっていることに気づき、私はこの方もまた、私と同じように戸惑っておられるのかもしれないと思った。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


 ◇ ◇ ◇


 公爵領から王都へ戻って間もなく、私は王宮で開かれた小規模な慈善事業の会合に招かれた。


 すでに王太子殿下との婚約は正式に解消されていたものの、クライゼン侯爵家は以前から慈善事業に関わっていたため、私は父の代理として出席することになったのである。


 会合が終わったあと、廊下で偶然お会いしたのは、分厚い書物を胸に抱えたミレーナ様だった。


「オフィーリア様、少しだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」


 ミレーナ様はひどく困ったようなお顔で私に声をかけてこられたが、その目元には疲労の色が浮かんでおり、以前のような無邪気な笑顔も、どこか影を潜めているように見えた。


「実は、王太子妃になるためのお勉強を始めたのですけれど、先生のお話が難しくて、なかなか理解できませんの」


 私は彼女の腕に抱えられた書物へ視線を向けたが、そこには財政制度や通貨政策について書かれた教本が何冊も重ねられていた。


「王国のお金が足りないときには、もっとお金を作ればよいのではないかと思ったのですけれど、先生は、それでは物の値段が上がってしまうとおっしゃるんですの」


 彼女はそう言うと、まるで難しい謎かけを解いてほしいと頼む子供のように首をかしげ、私が答えるのをじっと待っておられた。


「それなら、お金を作るのと一緒に、物の値段が上がらないように決めてしまえばよろしいのではなくて?」


 私は彼女の真剣な表情を見つめながら、物の値段を命令だけで抑えようとすれば、今度は品不足や闇取引が起こりかねないことを、できるだけ分かりやすく説明しようと考えたが、ミレーナ様は私の言葉を一生懸命聞こうとするあまり、書物を抱える腕にますます力を込めておられた。


「まあ、そうなのですね……世の中というものは、思っていたよりずっと難しいのですわ」


 彼女はしょんぼりと肩を落とされたが、やがて小さく微笑むと、私に向かって深々と頭を下げられた。


「ありがとうございます、オフィーリア様、わたくし、もう少し頑張ってみますわ、だって、殿下のお役に立ちたいんですもの」


 私はその姿を見送りながら、彼女が決して怠惰なわけでも、不誠実なわけでもないことを理解したが、それと同時に、王太子妃という立場が求めるものは、本人の善意や努力だけではどうにもならないほど大きいのだという現実を、改めて思い知らされたのである。


 もっとも、そのようなことを考えていた私自身もまた、最近では以前ほど冷静ではいられなくなっていた。


 なぜなら、フェルディナント様から届く手紙を読むたびに胸が高鳴り、次にお会いできる日を心待ちにするようになっていたからである。


 ◇ ◇ ◇


 秋が深まり、王都の街路樹が赤や黄色に色づき始めた頃、私はフェルディナント様から、再び公爵領を訪れてほしいというお誘いをいただいた。


 今度は工場の視察だけでなく、領地で進めている水道整備や労働者住宅の改善についても意見を聞きたいとのことだったが、私は手紙を読み終えるよりも早く、またあの方にお会いできるのだという喜びを感じてしまい、そのことに気づいて一人で頬を赤らめていた。


 父はそんな私の様子を見て、何も言わずに微笑んでいたが、出発の前日になってから、静かに尋ねてきた。


「オフィーリア、お前はラウフェン公爵をどう思っているのだ」


 私はしばらく答えに迷ったものの、やがて正直に申し上げることにした。


「尊敬しておりますし、一緒にいると、とても安心いたします、それに、私の考えを真剣に聞いてくださることが嬉しくて、気がつけば、次にお会いできる日を楽しみにしているのです」


 父はその言葉を聞くと、少しだけ目を細めた。


「それなら、もう答えは出ているのではないか」


 私はそのとき初めて、自分がフェルディナント様に恋をしているのだと、はっきり自覚したのである。


 ◇ ◇ ◇


 二度目の公爵領訪問では、私は以前よりもずっと自然にフェルディナント様とお話しできるようになっていた。


 工場の設備について意見を交わし、領地の学校や病院を見学し、夕食の席では互いの幼い頃の思い出について語り合ううちに、私はこの方が公爵としての責任を果たすだけでなく、領民一人一人の暮らしを真剣に考えておられることを、ますます深く理解するようになっていた。


 ある晩、私たちは屋敷の図書室で、翌日の視察に使う資料を確認していた。


 窓の外では冷たい雨が降り始めており、暖炉の炎が静かに揺れる室内には、古い書物の香りと薪の燃える音が満ちていたが、私は資料に目を通しながらも、向かいに座るフェルディナント様の存在が気になってしまい、なかなか内容に集中することができなかった。


「オフィーリア嬢、少し疲れたのではないか」


 フェルディナント様がそう尋ねられたので、私は慌てて首を振った。


「いいえ、大丈夫でございます」


「それならよいのだが、先ほどから同じ頁を何度も読んでいるように見えたのでね」


 私は自分の様子を見抜かれていたことに気づき、思わず頬を赤らめた。


 するとフェルディナント様は、私をからかうことなく、静かに資料を閉じられた。


「少し休憩にしようか」


 私はうなずきながら、暖炉の前に置かれた長椅子へ移動したが、フェルディナント様もまた、少し距離を空けて隣に腰を下ろされた。


 しばらくの間、私たちは何も話さずに炎を眺めていたが、その沈黙は不思議と気まずいものではなく、むしろ、言葉を交わさずとも同じ時間を過ごせることが嬉しく感じられた。


「オフィーリア嬢」


「はい」


「私は、君に求婚したことを後悔していないが、君を困らせてしまったのではないかと、今でも時々考えることがある」


 私は驚いてフェルディナント様を見つめた。


「公爵閣下、そのようなことはございません」


「本当に?」


 フェルディナント様は少しだけ微笑まれたが、その瞳には、私の返答を真剣に待っておられる様子がうかがえた。


 私は胸の奥に広がる緊張を感じながら、ゆっくりと言葉を選んだ。


「私は、これまで十年間、王太子妃になることが自分の未来なのだと思っておりましたし、殿下との結婚についても、果たすべき責任として考えていたように思います」


 私はそこで一度言葉を止めたが、フェルディナント様が黙って耳を傾けてくださっていたため、勇気を出して続けた。


「けれど、公爵閣下とお会いするようになってから、私は初めて、誰かと一緒に過ごす時間を心待ちにしたり、その方に触れられるだけで胸が高鳴ったりすることを知りました」


 フェルディナント様の表情が、わずかに変わった。


「オフィーリア嬢、それは……」


「私は、公爵閣下のことを、お慕いしております」


 その言葉を口にした瞬間、私は自分の心臓がこれまでにないほど激しく打っていることを感じたが、もう目を逸らしたくはなかった。


 フェルディナント様はしばらく何もおっしゃらず、ただ私を見つめておられたが、やがて深く息を吐くと、まるで長い間抱えていた緊張が解けたかのように、静かに微笑まれた。


「ありがとう、オフィーリア」


 初めて敬称をつけずに名前を呼ばれたことに、私は思わず息を呑んだ。


「私は君より十七歳も年上で、君がこれから経験するはずの多くのことを、すでに通り過ぎてきた人間だが、それでも君と一緒に、新しい人生を始めたいと思っている」


 フェルディナント様はそうおっしゃると、私の手をそっと取られた。


「君が望むのであれば、私は君を妻として迎えたいし、君が自分の夢を追い続けられるよう、できる限り力になりたい」


 私はその大きな手を握り返しながら、胸の奥に広がる幸福を、どう言葉にすればよいのか分からなくなっていた。


「私も、フェルディナント様と一緒に生きていきたいです」


 そう答えると、フェルディナント様はゆっくりと私の手を持ち上げ、その甲へ優しく口づけられた。


 私はその仕草だけで頬が熱くなってしまったが、フェルディナント様は私の反応をご覧になると、少し困ったように微笑まれた。


「そんな顔をされると、私も年甲斐もなく落ち着かなくなってしまうな」


 私は思わず笑ってしまった。


 するとフェルディナント様もまた、つられるように笑みを浮かべられ、私たちはしばらくの間、暖炉の前で手を重ねたまま、静かな時間を過ごした。


 ◇ ◇ ◇


 私たちの婚約は、その後、両家の正式な承認を経て公表された。


 王太子殿下との婚約を破棄された侯爵令嬢が、今度はその叔父君である公爵と結婚することになったという知らせは、王都の社交界に大きな驚きをもって迎えられたが、父は私の決断を心から喜んでくれたし、フェルディナント様の領地の人々もまた、新しい公爵夫人を温かく迎える準備を進めてくださった。


 もっとも、王宮の一部では、私が王太子殿下への当てつけとして叔父君との結婚を選んだのではないかという噂も流れていたらしいが、私はそのような噂に心を乱されることはなかった。


 なぜなら、私がフェルディナント様と結婚したいと思った理由は、ディートリヒ殿下に何かを見せつけるためではなく、ただ、この方と一緒に生きていきたいと願ったからである。


 そして、私たちは冬の初めに結婚式を挙げた。


 式はラウフェン公爵領の大聖堂で執り行われ、白い花々で飾られた祭壇の前に立った私は、隣にいるフェルディナント様の穏やかな横顔を見つめながら、十年間思い描いてきた未来とはまったく異なる場所に立っていることを、不思議な気持ちで受け止めていた。


 誓いの言葉を交わし、フェルディナント様が私の指へ結婚指輪をはめてくださったとき、私は自分が本当にこの方の妻になるのだという実感を覚え、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。


 そして、式が終わったあと、フェルディナント様は私の耳元で、周囲の人々には聞こえないほど小さな声でおっしゃった。


「これからは、毎朝君の顔を見て一日を始められるのだと思うと、それだけで嬉しいよ」


 私はそのお言葉に微笑みながらも、毎朝ということは、当然、毎晩も一緒に過ごすのだという事実を改めて意識してしまい、思わず頬を赤らめた。


 そんな私の様子をご覧になったフェルディナント様は、少しだけ目を細められた。


「オフィーリア、何を考えているのかな」


「な、何でもございません」


「そうか、それなら今夜、ゆっくり聞かせてもらおうかな」


 私はそのお言葉にますます顔を赤らめてしまったが、フェルディナント様は楽しそうに微笑まれるばかりで、私をそれ以上からかうことはなさらなかった。


 その夜、私は公爵家の寝室で、結婚式のために整えられた白い寝具を前にしながら、これまでの人生で感じたことのないほど緊張していた。


 やがて扉が静かに開き、フェルディナント様が入ってこられると、私は思わず背筋を伸ばしたが、その様子をご覧になった夫は、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと私の隣へ腰を下ろされた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」


 私は小さくうなずいたものの、胸の高鳴りは少しも収まらなかった。


「オフィーリア、私は君を大切にしたいと思っているし、君が不安に感じることは、何一つ無理に進めるつもりはない」


 そのお言葉を聞いた私は、胸の奥にあった緊張が少しずつ解けていくのを感じながら、そっと夫の手を取った。


「ありがとうございます、フェルディナント様、でも、私もあなたの妻になれたことが、とても嬉しいのです」


 夫は私の言葉を聞くと、しばらく静かに見つめておられたが、やがて優しく微笑み、私の額へそっと口づけられた。


 私は目を閉じながら、十年間の婚約では一度も想像することのなかった幸福が、今、自分の目の前にあることを、静かに受け止めていた。


 ◇ ◇ ◇


 結婚してからの生活は、私が想像していた以上に穏やかで、そして充実したものだった。


 フェルディナント様は領地の統治に忙しくしておられたが、私が工場の排煙設備や水道整備について意見を申し上げると、いつも真剣に耳を傾けてくださったし、私自身もまた、公爵夫人として慈善事業や教育事業に関わりながら、以前から関心を持っていた環境問題について学び続けることができた。


 私たちは仕事について意見が異なることもあったが、そのようなときにも夫は私の考えを頭ごなしに否定することなく、互いに資料を持ち寄り、納得できるまで話し合うことを大切にしてくださった。


 そして、仕事を終えた夜には、暖炉の前で紅茶を飲みながら、その日にあった出来事を語り合うことが、私たち夫婦の何よりも大切な時間となっていった。


 ある晩、私はふと、夫に尋ねたことがあった。


「フェルディナント様は、どうして私に求婚してくださったのですか」


 夫は少しだけ考え込んだあと、穏やかに微笑まれた。


「最初は、君の考え方に興味を持ったのだと思うが、話しているうちに、君がどれほど真剣に物事へ向き合う女性なのかを知り、そのうち、君が笑ってくれるだけで嬉しくなるようになったのだよ」


 私はその言葉に頬を赤らめながら、そっと夫の肩へ頭を預けた。


「私も、あなたと一緒にいると、とても幸せです」


 夫は何も言わずに私の肩を抱き寄せ、その温かな腕の中で、私は自分が本当に望んでいたものが何だったのかを、ようやく理解したような気がした。


 ◇ ◇ ◇


 結婚からほどなくして、私は子供を授かった。


 その知らせを伝えたとき、フェルディナント様はしばらく言葉を失っておられたが、やがて私の手を両手で包み込むと、これまでに見たことのないほど嬉しそうに微笑まれた。


「ありがとう、オフィーリア」


 私はそのお言葉に笑みを浮かべながら、夫が私以上に感激しておられることに、思わず胸が温かくなった。


 そして翌年、私たちの間に一人の女の子が生まれた。


 ロザリンデと名づけたその子は、私に似た濃い栗色の髪と、父親譲りの青灰色の瞳を持つ愛らしい赤ん坊であり、フェルディナント様は初めて娘を抱き上げたとき、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように慎重な手つきで、その小さな体を胸に抱き寄せられた。


「こんなに小さいのだな」


 夫はそうつぶやくと、私の方を見つめて微笑まれた。


「君に似て、きっと賢くて優しい子になるだろうね」


「フェルディナント様に似て、落ち着いた子になるかもしれませんわ」


 私がそう答えると、夫は楽しそうに笑われた。


「それなら、私たちの娘は、ずいぶん立派な女性になりそうだ」


 私は夫と娘を見つめながら、十年間の婚約を破棄されたあの日には、まさか自分がこれほど穏やかで幸せな家庭を築くことになるとは、少しも想像していなかったことを思い出していた。


 ◇ ◇ ◇


 それから年月は静かに流れ、ロザリンデは私たちの愛情を受けながら、健やかに成長していった。


 幼い頃から好奇心旺盛だった娘は、父親の仕事場へ遊びに行っては、工場の仕組みや水道設備について質問を重ね、少し大きくなると、私の書斎に置かれた環境科学の書物を読み始めるようになった。


 私たちは娘の関心を大切にし、本人が望むことをできる限り学ばせるようにしていたが、ロザリンデが十八歳になった頃には、すでに環境科学や産業衛生について、私が若い頃に学んだ以上の知識を身につけるようになっていた。


 そして、そんな娘には、最近になって親しくしている若い研究者がいた。


 エドヴィン・ハルデックという名のその青年は、伯爵家の次男でありながら化学の研究に情熱を注ぐ二十二歳の男性で、工場の排水処理に関する研究を通じてロザリンデと知り合い、互いに意見を交わすうちに、少しずつ親しくなっていったらしかった。


 私は娘がエドヴィン様の話をするとき、どこか嬉しそうに微笑むことに気づいていたが、かつての自分を思い出すようで、あえて何も尋ねずにいた。


 もっとも、夫は私ほど気長ではなかったらしく、ある晩、娘が部屋へ戻ったあとで、少し困ったようにため息をつかれた。


「ロザリンデは、あの青年のことが好きなのだろうか」


「おそらく、そうでしょうね」


「そうか……娘が結婚する日など、まだずっと先のことだと思っていたのだが」


 私は夫の横顔を見つめながら、十七歳も年上のこの方が、娘の恋愛については私以上に落ち着きを失っておられることに、思わず笑みをこぼしてしまった。


「フェルディナント様、娘が幸せになれるのでしたら、それが何よりではございませんか」


「もちろん、そうなのだが……父親というものは、どうにも複雑なのだよ」


 夫はそうおっしゃると、私の手をそっと握られた。


「君と結婚できたことは、私の人生で最も幸運な出来事だったと思っているし、だからこそ、ロザリンデにも、自分が心から望む相手と結婚してほしいのだ」


 私はその言葉にうなずきながら、娘にも私たちと同じように、自分の意思で幸せを選んでほしいと願っていた。


 しかし、その数日後、王宮から届いた一通の招待状によって、私たち家族の穏やかな日常は、思いがけない方向へ動き始めることになった。


 招待状の差出人は、十八年前に父アウグスト陛下から王位を譲られ、現在はエルディアス王国の国王となっているディートリヒ陛下だった。


 私はその名前を目にした瞬間、二十年前の舞踏会で婚約を破棄された夜のことを、久しぶりに思い出していた。


 もっとも、今の私にとって、あの日の出来事はすでに遠い過去のことであり、夫と娘に囲まれた幸せな生活を送っている以上、元婚約者に対して何かを恨む気持ちも、後悔する気持ちも残ってはいなかった。


 だからこそ、私はその招待状を、ごく普通の王宮からの招待として受け止めていたのである。


 けれども、王宮で私たちを待っていたのは、二十年前に私を捨てた元婚約者からの、あまりにも身勝手な申し出だった。


 陛下は私たち家族を前にして、何のためらいもなく、こうおっしゃったのである。


「オフィーリア、そなたの娘を、私の息子の妃に迎えたいと考えているのだが、異存はあるまいな」


 私はその瞬間、二十年前にご自身の意思で私との婚約を破棄なさった方が、今になって何をお望みなのか、まったく理解できなかった。


 そして、さらに驚くべきことに、陛下はその後、二十年間誰にも知られていないと思い込んでおられた、ある重大な秘密を私に打ち明けようとなさったのである。


――中編・完――

次回本日19時更新

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