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後編:元婚約者が、私の娘を王太子妃に望んでいますがお断りします



「おい、オフィーリア! 聞いているのか!」


 突然、目の前から苛立った声が飛んできたので、私ははっと顔を上げた。


 そこには、いかにも不機嫌そうな表情を浮かべたディートリヒ陛下が座っておられ、その隣ではリヒャルト王太子殿下が困ったように眉を下げ、私の夫フェルディナント様は、何やらおかしそうに口元を緩めていた。


 そして、私の隣に座る娘ロザリンデは、母親が国王陛下のお話を聞き流していたことに気づいたらしく、少しばかり心配そうな顔をしていた。


 どうやら私は、陛下のお話を聞きながら、二十年前の出来事を思い出していたらしい。


 少しばかり、思い出話が長くなってしまったようだ。


 婚約を破棄された夜のことから、フェルディナント様との出会い、結婚、そして娘ロザリンデが成長するまでを振り返っているうちに、肝心の話がすっかり後回しになってしまった。


 そろそろ、二十年前に私を捨てた元婚約者が、今さら私の娘を息子の妃に迎えたいと言い出した、あの日の王宮へ話を戻すことにしよう。


「申し訳ございません、陛下。少々考え事をしておりました」


 私が静かに頭を下げると、陛下は呆れたようにため息をつかれた。


「まったく、そなたは昔からそういうところがあるな。私が重要な話をしているというのに、何を考えていたのだ」


 私は、あなたから婚約を破棄されたあとの二十年間が、どれほど幸せだったかを思い出しておりました、とはさすがに申し上げなかった。


「失礼いたしました。それで、陛下は娘ロザリンデを、リヒャルト殿下の妃に迎えたいとお考えなのですね」


「そうだ。王家とラウフェン公爵家の結びつきを強める、またとない良縁であろう」


 陛下は満足そうにうなずかれたが、私は隣に座る娘へ視線を向けながら、二十年前には真実の愛を何よりも大切にするとおっしゃっていた方が、今では家同士の結びつきを理由に子供たちの婚姻を決めようとなさっていることに、何とも言えない皮肉を感じていた。


 ◇ ◇ ◇


 王宮の応接室には、磨き上げられた大理石の床と豪奢な調度品が並び、大きな窓から差し込む午後の日差しが、金糸の織り込まれた絨毯を柔らかく照らしていた。


 二十年前と変わらぬ王宮の華やかさを前にしても、私の心は不思議なほど穏やかだったが、それはきっと、今の私には愛する夫と娘がいて、かつてのように王家からの評価によって自分の未来が左右されることはないと分かっていたからだろう。


「陛下、恐れながら、娘の婚姻については本人の意思を何よりも尊重したいと考えておりますので、まずはロザリンデの考えを聞かせていただきたいと存じます」


 私がそう申し上げると、陛下は少し意外そうな表情を浮かべた。


「もちろん、娘の気持ちも大切ではあろうが、王太子妃となれる機会など、そう何度も訪れるものではあるまい」


 私はそのお言葉を聞きながら、二十年前、王太子妃になるために十年間も学び続けた自分自身の姿を思い出していた。


 あの頃の私にとって、王太子妃となることは当然の未来であり、同時に、何としても果たさなければならない責任でもあったが、今の私には、それが必ずしも一人の女性にとって最高の幸福であるとは思えなかった。


「ロザリンデは、幼い頃から王宮にも出入りしていたのだから、リヒャルトのこともよく知っているだろうし、二人が結婚すれば、王家とラウフェン公爵家の関係も一層強固なものとなる」


 陛下はそうおっしゃると、隣に座るリヒャルト王太子殿下へ視線を向けた。


 リヒャルト殿下は二十歳の青年で、父君に似た整った顔立ちをしておられたが、その表情には父君ほどの強引さはなく、むしろ、突然このような場に同席させられたことに、少々困惑しておられるように見えた。


「父上、私はロザリンデ嬢のことを以前から尊敬しておりますし、もし彼女が望んでくださるのであれば、将来の伴侶として迎えられることを光栄に思いますが、本人のお気持ちを確かめずに話を進めることは望んでおりません」


 私はそのお言葉を聞いて、少しばかり安心した。


 リヒャルト殿下は、父君とは異なり、相手の意思を尊重することのできる誠実な青年に成長なさったようだった。


 しかし、ディートリヒ陛下は息子のお言葉に満足なさらなかったらしく、わずかに眉をひそめた。


「リヒャルト、王太子の婚姻とは、本人たちの感情だけで決められるものではないのだぞ」


 私はその瞬間、二十年前の舞踏会で陛下が何とおっしゃっていたのかを、改めて思い出していた。


 あの夜、殿下は愛のない婚約を続けることに意味はないとおっしゃり、私との婚約を破棄なさったはずだったが、今では息子に対して、婚姻は個人の感情だけで決められるものではないと説いておられるのだから、人の考えというものは、立場によって随分と変わるものなのだと感心せずにはいられなかった。


 そのとき、夫フェルディナント様が静かに口を開いた。


「陛下、ロザリンデは私たちの一人娘でございますし、本人の意思を確かめずに婚姻を決めることはできません」


「叔父上、しかし、これは王家にとっても公爵家にとっても有益な縁談なのだぞ」


「有益かどうかを判断する前に、まず本人たちが望んでいるかどうかを確かめるべきでしょう」


 夫は穏やかな口調を崩すことなく、しかし一歩も譲ることなく、陛下へそう申し上げた。


 私は隣に座る夫の横顔を見つめながら、二十年前、私の意思を尊重してくださったこの方が、今度は娘の意思を守ろうとしてくださっていることに、深い愛情を感じていた。


 結局、その日の会談では結論を出さず、ロザリンデ本人の考えを確認したうえで、改めて返答することになった。


 私はようやく話が終わったことに安堵し、夫や娘とともに席を立とうとしたのだが、そのとき、ディートリヒ陛下が私を呼び止めた。


「オフィーリア、少し待ってくれ」


 私は足を止め、陛下の方へ振り返った。


「何でございましょうか、陛下」


 陛下は一度、夫と娘の方へ視線を向けられたあと、少しばかり言いにくそうな表情を浮かべた。


「実は、そなたにだけ話しておきたいことがあるのだが、少しばかり時間をもらえないだろうか」


 私はそのお言葉に戸惑いを覚えたが、陛下はさらに声を落とした。


「二十年前の婚約破棄について、そなたにはまだ話していない重大な秘密があるのだ」


 私は思わず陛下を見つめた。


 二十年前の婚約破棄について、今さら私に打ち明けなければならない秘密など、一体何があるというのだろうか。


 ◇ ◇ ◇


 夫と娘には先に別室で待っていてもらい、私はディートリヒ陛下と二人きりで、王宮の小さな応接室へ移った。


 窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がり、秋の柔らかな日差しが室内を照らしていたが、陛下はどこか落ち着かないご様子で、何度も言葉を選ぶように沈黙を繰り返しておられた。


「オフィーリア、二十年前、私がそなたとの婚約を破棄した理由について、実はまだ話していないことがある」


「左様でございますか」


「当時、私はミレーナを愛していたし、彼女と結婚したいと思っていたが、それだけではなかったのだ」


 陛下はそこで一度言葉を止め、まるで重大な国家機密を打ち明けるかのように、私の顔をじっと見つめた。


「実は、婚約を破棄した時点で、ミレーナはすでに私の子を身籠っていたのだ」


 私はしばらく、陛下のお顔を見つめていた。


 驚いたからではない。


 むしろ、今さら何をおっしゃっているのだろうかと、少々不思議に思ったのである。


 なぜなら、ミレーナ様が婚約破棄から間もなく陛下と結婚なさり、その年のうちにリヒャルト殿下を出産されたことは、当時の新聞にも大きく取り上げられていたし、王都の社交界では、婚約破棄以前からお二人が親密な関係にあったことなど、誰もが知っていたからだ。


 それに、婚約破棄の翌日には、ミレーナ様ご本人が我が家を訪ねてこられ、殿下と同じお部屋で夜を過ごしたことがあると、たいそう正直に打ち明けてくださっていた。


 もちろん、私はその時点で妊娠まで知っていたわけではなかったが、後にリヒャルト殿下がお生まれになった時期を知れば、事情を察することはそれほど難しいことではなかった。


 にもかかわらず、陛下は二十年間、その事実が誰にも知られていないと信じておられたらしい。


「……そうでございましたか」


 私は何とかそれだけを申し上げた。


 すると陛下は、私が大きな衝撃を受けていると勘違いなさったのか、少しばかり得意そうな表情を浮かべた。


「驚いたであろう。当時は王太子という立場もあり、そうした事情を公にすることはできなかったのだ」


 私は、婚約破棄から数週間で結婚なさり、その年のうちにお子様が生まれているという事実が、どの程度秘密になっていたのかについて考えたが、陛下のご様子を見る限り、今ここで説明することは控えた方がよさそうだった。


「それで、陛下はなぜ今になって、そのお話を私になさるのでしょうか」


 私が尋ねると、陛下は深いため息をついた。


「私は、あのときミレーナを選ぶしかなかったのだ」


 そのお言葉を聞いて、私は少しだけ首をかしげた。


 確かに、お子様を授かった以上、責任を取る必要があったことは理解できるが、それ以前に婚約者のいる身で別の女性と親密な関係を持たれたことについては、陛下ご自身の判断だったはずだからだ。


「当時の私は、ミレーナと一緒にいれば幸せになれると思っていたし、彼女の明るさや無邪気さに心を惹かれていたのだが、実際に結婚してみると、何もかもが思っていたようにはいかなかった」


 陛下はそうおっしゃると、苦々しそうに眉をひそめた。


「ミレーナは所詮男爵家の娘、頭も悪ければ要領も悪く、外交や財政のことがまるで理解できないのだ」


 私はそのお言葉を聞いて、思わず陛下のお顔を見つめた。


 ミレーナ様が政治や経済について深い知識をお持ちでなかったことは、二十年前から明らかだったはずだし、何より陛下ご自身が、彼女の無邪気さや難しいことを考えないところを、愛らしいと褒めておられたのだ。


「陛下、恐れながら、ミレーナ様がお勉強を苦手としておられたことは、ご結婚前からご存じだったのではございませんか」


「もちろん知っていたが、まさかこれほどとは思わなかったのだ」


 陛下は苛立たしそうにお答えになった。


「王妃となった以上、外交の場では適切な受け答えをしなければならんし、国民の前では王家の威厳を示さねばならん。それなのにミレーナは、いつまで経っても難しい話を理解しようとせず、相変わらず笑顔でいれば何とかなると思っている」


 私は、二十年前の茶会でミレーナ様が、みんなが笑顔になれば国は豊かになるとおっしゃっていたことを思い出した。


 あのとき陛下は、彼女の考え方こそが民の幸福を大切にするものだと褒めておられたはずだったが、どうやら現在では、その同じ考え方が不満の原因になっているようだった。


「ミレーナ様は、ご結婚前からそのようなお考えをお持ちでしたし、陛下もそれをよくご存じだったと記憶しております」


「それはそうだが、妻として可愛らしいことと、王妃として役に立つことは別なのだ」


 私はそのお言葉を聞きながら、陛下が二十年前には私の知識や努力を煩わしいものとして退け、今ではミレーナ様に対して、私が学んでいたような知識や能力を求めておられることに、何とも言えない皮肉を感じていた。


「私は、そなたがどれほど優秀な女性だったのか、今になってようやく理解したのだ」


 陛下はそうおっしゃると、どこか懐かしそうな眼差しで私を見つめた。


「そなたは外交にも財政にも明るかったし、私が難しい問題を抱えたときには、きっと力になってくれただろう」


 私は静かに耳を傾けていたが、陛下がさらに続けられた言葉には、少々驚かされた。


「もし、あのときそなたと結婚していたならば、私の人生はもっと違ったものになっていたのかもしれんな」


 私はそのお言葉を聞いて、胸の奥にかすかな痛みを覚えるどころか、不思議なほど穏やかな気持ちでいた。


 二十年前の私であれば、陛下からそのようなお言葉をいただいたならば、きっと涙を流して喜んだことだろう。


 けれども、今の私には愛する夫と娘がいて、毎日を満ち足りた気持ちで過ごしているのだから、陛下が過去を後悔なさっていると知っても、失われた婚約を惜しむ気持ちは少しも湧いてこなかった。


「陛下、過去のことは、今さら変えることができません」


 私はそう申し上げると、静かに頭を下げた。


「それよりも、今後の王国のために何ができるのかを、お考えになることが大切ではございませんか」


 陛下はしばらく黙っておられたが、やがて小さくうなずかれた。


 私はその場でそれ以上のことを申し上げるつもりはなかった。


 なぜなら、二十年前の婚約破棄について、私が陛下に本当に伝えたいことは、まだ別にあったからだ。


 ◇ ◇ ◇


 王宮から戻ったその日の夕方、私たちは家族三人で、ロザリンデの結婚について話し合うことにした。


 公爵家の居間には暖炉の柔らかな炎が揺れ、窓の外では秋の風が庭園の木々を静かに揺らしていたが、娘は私たちの前に座ると、少し緊張した面持ちで口を開いた。


「お父様、お母様、わたくし、リヒャルト殿下との結婚はお断りしたいと思っております」


 私はその言葉を聞いて、娘が自分の気持ちをはっきりと伝えてくれたことに、まず安堵した。


「理由を聞かせてもらえるかい」


 夫が穏やかに尋ねると、ロザリンデは小さくうなずいた。


「リヒャルト殿下は立派な方ですし、幼い頃から親しくしていただいておりますので、尊敬しておりますが、わたくしが結婚したいと思っている方は、別にいらっしゃるのです」


 私はそのお言葉に、思わず微笑みそうになった。


 娘が誰のことをお話ししているのか、すでに察しがついていたからだ。


「エドヴィン様のことでしょう?」


 私がそう尋ねると、ロザリンデは驚いたように目を見開き、それから恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「お母様、どうしてお分かりになったのですか」


「あなたがエドヴィン様のお話をするとき、とても嬉しそうなお顔をするからよ」


 私はそう答えながら、かつて父から同じようなことを言われた自分自身の姿を思い出していた。


 ロザリンデはしばらく恥ずかしそうにうつむいていたが、やがて顔を上げると、真剣な眼差しで続けた。


「エドヴィン様は、わたくしが研究についてお話しすると、いつも真剣に耳を傾けてくださいますし、意見が異なるときにも、互いに納得できるまで話し合うことができるのです」


 私はその言葉を聞きながら、二十年前、フェルディナント様と出会った頃のことを思い出していた。


「それに、わたくし、エドヴィン様と一緒にいると、これから先もずっと、あの方と新しいことを学び続けたいと思うのです」


 夫はしばらく娘を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。


「それなら、答えは決まっているのだろうね」


 ロザリンデは嬉しそうにうなずいた。


 私はその様子を見ながら、娘が自分の意思で将来を選ぼうとしていることを、心から誇らしく思っていた。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、私たちは再び王宮を訪れ、ディートリヒ陛下へ正式なお返事を差し上げることになった。


 陛下は私たちが入室すると、すでに縁談がまとまるものとお考えなのか、満足そうな表情で迎えてくださったが、ロザリンデが静かに頭を下げたあと、はっきりとお断りの意思を伝えると、そのお顔から笑みが消えた。


「恐れながら、陛下、わたくしはリヒャルト殿下との婚姻をお受けすることができません」


 陛下はしばらく娘を見つめていたが、やがて信じられないというように眉をひそめた。


「なぜだ、王太子妃となれるのだぞ」


「大変光栄なお申し出であることは理解しておりますが、わたくしには、将来をともに歩みたいと願っている方が別におります」


 その言葉を聞いた陛下は、ますます不機嫌そうな表情を浮かべた。


「そのような個人的な感情で、王家からの縁談を断るというのか」


 私はそのお言葉を聞いて、二十年前の舞踏会で、陛下が真実の愛こそが大切だとおっしゃっていたことを、再び思い出していた。


 するとロザリンデは、少しも臆することなく、静かにお答えした。


「陛下ご自身も、かつてはご自分の愛する方と結婚することを選ばれたと伺っておりますので、わたくしもまた、自分の気持ちを大切にしたいと考えております」


 私は思わず娘の横顔を見つめた。


 ロザリンデは、二十年前の出来事を詳しく知っているわけではなかったが、それでも、陛下がご自身の愛を優先して結婚なさったという事実は、王国の歴史として広く知られていたのだ。


 陛下は娘の言葉に返す言葉を失われたらしく、しばらく沈黙なさっていた。


 そのとき、リヒャルト王太子殿下が静かに立ち上がった。


「父上、私はロザリンデ嬢の意思を尊重したいと思います」


 陛下が驚いたように息子を見つめられると、リヒャルト殿下は穏やかな表情で続けた。


「私は彼女のことを好ましく思っておりますが、だからこそ、望まない結婚をさせることはしたくありませんし、彼女が別の方と幸せになれるのであれば、それを祝福したいと思います」


 私はそのお言葉を聞いて、リヒャルト殿下が立派な青年に成長なさったことを、心から嬉しく思った。


 夫フェルディナント様もまた、静かにうなずいた。


「陛下、娘の意思はご理解いただけたかと存じますので、この縁談については、どうかここまでとしていただければ幸いです」


 陛下はしばらく不満そうな表情を浮かべておられたが、息子自身が縁談を望まないと明言した以上、それ以上強く話を進めることはできなかったのだろう。


 結局、ロザリンデとリヒャルト殿下の縁談は、正式に取り下げられることになった。


 ◇ ◇ ◇


 しかし、王家との問題は、それだけでは終わらなかった。


 それからほどなくして、父ヴィルヘルムのもとへ、王家の財政に関する相談が持ち込まれたのである。


 近年、ディートリヒ陛下は鉄道や港湾の整備を積極的に進めておられたが、その中には十分な収益の見通しが立たないまま着工された事業も少なくなく、建設費の増大や工期の遅延によって、王家の財政は次第に厳しい状況へ追い込まれていたようだった。


 さらに、工場の排煙や河川の汚染に対する住民の不満も高まり、労働環境の改善を求める声が各地で広がっていたため、王国全体としても、従来のように産業を拡大するだけでは済まされない時期を迎えていた。


 父は、王家との既存の契約についてはこれまでどおり履行していたが、新たな融資については、事業計画や返済の見通しを慎重に検討する姿勢を崩していなかった。


 そして、今回の相談についても、父は私たち夫婦へ意見を求めてきた。


「オフィーリア、フェルディナント公爵、今回の件については、王家の財政状況を十分に確認したうえでなければ、新たな資金を出すことはできんと考えている」


 父はそうおっしゃると、机の上に並べられた資料へ視線を落とした。


「とりわけ、収益の見通しが不明確な事業へ、これ以上無条件に融資を続けることは危険だ」


 私は父の言葉にうなずきながら、王国の将来を考えるのであれば、単に資金を投入するだけではなく、事業そのものの見直しが必要だと感じていた。


「お父様、私も同じように考えておりますし、今後の産業政策については、環境対策や労働環境の改善を含めた長期的な計画を立てる必要があると存じます」


 夫もまた、静かにうなずいた。


「陛下には、財政の透明性を高め、事業ごとの収益性を検証したうえで、必要な改革を進めていただくべきでしょう」


 こうして私たちは、王家からの相談に応じる条件として、財政状況の詳細な開示と事業計画の見直し、環境対策や労働環境の改善を求めることにした。


 ◇ ◇ ◇


 数週間後、私たちは王宮でディートリヒ陛下と再びお会いすることになった。


 陛下は父から提出された条件書に目を通されると、明らかに不満そうな表情を浮かべた。


「ヴィルヘルム侯爵、これはあまりにも厳しい条件ではないか」


 父は少しも動じることなく、静かにお答えした。


「陛下、恐れながら、資金をお貸しする以上、返済の見通しを確認することは当然のことでございますし、王国の将来を考えるのであれば、今のうちに財政運営を見直す必要があると存じます」


 陛下はしばらく黙っておられたが、やがて私の方へ視線を向けた。


「オフィーリア、そなたも同じ考えなのか」


「はい、陛下」


 私は静かにうなずいた。


「王国の産業を発展させることは大切でございますが、そのために国民の暮らしや健康が損なわれてしまっては、長い目で見て王国の利益にはならないと存じます」


 陛下は深いため息をついた。


「そなたは、昔からそうした難しい話が好きだったな」


 私はそのお言葉に、思わず小さく微笑んだ。


「はい、陛下。昔から変わっておりません」


 すると夫フェルディナント様が、穏やかな声で続けた。


「陛下、私の領地でも、工場の排煙や排水について改善を進めてまいりましたが、長期的には住民の健康や労働環境の改善が、産業の安定にもつながっております」


 陛下は夫の言葉を聞きながら、しばらく考え込んでおられた。


「叔父上、つまり、今のやり方を改めなければ、融資は受けられないということか」


「陛下、そういうことになります」


 夫は静かにお答えした。


 結局、陛下は渋々ながらも条件を受け入れ、王家の財政状況を詳しく調査したうえで、事業計画を見直すことに同意なさった。


 私はその決断が、王国にとって良い方向へ進むきっかけになればと願っていたが、同時に、二十年前には私の知識を不要だとおっしゃっていた方が、今ではその知識を必要としておられるという事実に、何とも言えない感慨を覚えていた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の会談が終わったあと、私は再びディートリヒ陛下から、二人きりで話をしたいと申し出られた。


 私は夫に事情を説明し、少しだけ時間をいただいてから、陛下とともに王宮の小さな応接室へ移った。


 窓の外では夕暮れが近づき、庭園の木々が柔らかな金色の光に包まれていたが、陛下はしばらく黙って窓の外を見つめておられた。


「オフィーリア、そなたは幸せなのだな」


 突然そう尋ねられ、私は少し驚いたが、すぐに静かにうなずいた。


「はい、陛下。私は今、とても幸せでございます」


 陛下はその言葉を聞くと、どこか寂しそうな表情を浮かべた。


「フェルディナント叔父上とは、うまくいっているのか」


「はい、夫はいつも私を大切にしてくださいますし、娘にも恵まれ、穏やかで充実した毎日を過ごしております」


 私はそう答えながら、夫と娘の顔を思い浮かべていた。


 フェルディナント様は私の考えを尊重し、私が何かに挑戦しようとするときには、いつも温かく背中を押してくださる方であり、私たちは二十年近く夫婦として過ごしてきた今でも、互いに話したいことが尽きることはなかった。


 陛下は私の言葉を聞きながら、深いため息をついた。


「私は、そなたを手放したことを、今になって後悔しているのかもしれん」


 私は静かに陛下を見つめた。


「そなたは昔から優秀で、私のために努力を惜しまなかったし、もしあのときそなたと結婚していたならば、王国の財政も、私自身の人生も、もっと違ったものになっていたのではないかと思うことがある」


 陛下はそうおっしゃると、苦しそうに眉をひそめた。


「私は、間違った選択をしてしまったのだろうか」


 私はそのお言葉を聞きながら、二十年前の舞踏会で婚約を破棄された夜のことを思い出していた。


 あのときの私は、十年間積み重ねてきた努力がすべて無駄になったように感じ、将来への希望を失いかけていたが、今になって振り返れば、あの日の出来事があったからこそ、私はフェルディナント様と出会い、愛する夫と娘に恵まれ、自分の意思で人生を歩むことができたのだ。


 そして、何よりも、私が今の幸福を手に入れられたのは、陛下が私との婚約を破棄なさったからにほかならなかった。


「陛下、私は、二十年前の婚約破棄について、今では少しも恨んでおりません」


 私がそう申し上げると、陛下は驚いたように顔を上げた。


「本当か」


「はい。むしろ、今では感謝しているくらいでございます」


 陛下は、私の言葉の意味を理解できないというように、しばらく黙っておられた。


 私は穏やかに微笑みながら、静かに続けた。


「もし、あのとき陛下が私との婚約を破棄なさらなかったならば、私はフェルディナント様と結婚することも、ロザリンデを授かることもなかったでしょう」


 陛下は何もおっしゃらなかった。


「私は、夫と娘に囲まれた今の暮らしを、何よりも大切に思っておりますし、これまでの人生を振り返っても、後悔していることは一つもございません」


 私はそこで一度言葉を止め、陛下の目をまっすぐに見つめた。


「ですから、陛下。もし二十年前に戻ることができたとしても、私は同じ人生を選びたいと思っております」


 陛下は苦しそうな表情を浮かべたが、私はそれ以上言葉を濁すつもりはなかった。


「むしろ、もしあの日に戻ることができるのでしたら、私は陛下に、もう一度婚約を破棄してくださいませとお願いするでしょう」


 その瞬間、陛下のお顔から血の気が引いていくのが分かった。


 私は決して、陛下を傷つけようと思ってそう申し上げたわけではなかった。


 ただ、二十年前の私が失ったと思っていたものよりも、今の私が手にしている幸福の方が、はるかに大きいという事実を、正直にお伝えしたかっただけなのだ。


「オフィーリア……」


 陛下は何かをおっしゃろうとされたが、結局、言葉にならなかったようだった。


 私は静かに頭を下げた。


「二十年前、私との婚約を破棄してくださって、本当にありがとうございました」


 そして私は、陛下が何もお答えにならないことを確認すると、穏やかな気持ちで応接室をあとにした。


 ◇ ◇ ◇


 王宮の廊下へ出ると、そこにはフェルディナント様が待っていてくださった。


「オフィーリア、話は終わったのかい」


「はい、すべて終わりました」


 私がそう答えると、夫は優しく微笑み、私へ手を差し出してくださった。


 私はその大きな手を取ると、二十年前、初めてこの方に触れられたときのことを思い出していた。


 あの頃の私は、十七歳も年上の男性に手を握られるだけで頬を赤らめ、胸の高鳴りをどうすることもできなかったものだったが、今ではその手の温かさが、私にとって何よりも安心できるものになっていた。


「フェルディナント様、私、あなたと結婚できて、本当に幸せです」


 私がそう申し上げると、夫は少し驚いたように私を見つめたが、やがて穏やかに微笑んだ。


「私もだよ、オフィーリア」


 そして夫は、私の手を優しく握り返してくださった。


 ◇ ◇ ◇


 それからしばらくして、ロザリンデとエドヴィン様の婚約が正式に整った。


 エドヴィン様は研究者としての仕事を続けながら、将来は公爵領の環境改善事業にも関わっていきたいと考えておられ、ロザリンデもまた、彼とともに新しい技術を学び、産業と環境の調和について研究を続けたいと願っていた。


 私たちは二人の意思を尊重し、心からその門出を祝福することにした。


 婚約の知らせを受けたリヒャルト王太子殿下からは、丁寧な祝辞を記した手紙が届き、そこには、二人の幸せを心から願っていることと、今後も王国の発展のために互いに協力していきたいという言葉が添えられていた。


 私はその手紙を読みながら、リヒャルト殿下が立派な国王となられる日が来ることを、心から願っていた。


 一方、ディートリヒ陛下は、王家の財政改革を進めるため、父ヴィルヘルムや夫フェルディナント様の助言を受け入れ、事業計画の見直しや環境対策に取り組み始められたと聞いている。


 その改革がすぐに成果を上げるわけではなかったが、少なくとも、王国がこれから先も発展していくための第一歩にはなったのだろう。


 そして私は、夫と娘に囲まれながら、これまでと変わらぬ穏やかな日々を過ごしている。


 二十年前、王太子殿下から婚約を破棄されたあの日、私は自分の人生が終わってしまったかのように感じていた。


 けれども、今になって振り返れば、あの日こそが、私の本当の幸せの始まりだったのだ。


 もし、あのときディートリヒ殿下が私との婚約を破棄なさらなかったならば、私はフェルディナント様と出会うことも、ロザリンデを授かることもなかっただろう。


 だからこそ、私は今でも、あの日の出来事に感謝している。


 もっとも、陛下がそのことをどう受け止めておられるのかについては、私の知るところではない。


 ただ一つ確かなことは、二十年前に私を捨てた王太子殿下が、今さら私の娘を息子の嫁に欲しいとおっしゃったところで、私たちの幸せな人生が変わることなど、決してないということだった。


――完――

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


二十年前に婚約を破棄されたオフィーリアですが、結果として、自分の価値観を理解し、尊重してくれるフェルディナントと出会うことができました。


一方のディートリヒは、かつて自分が退屈だと切り捨てたものの価値に、二十年経ってようやく気づいたようです。


ミレーナについては、悪意のない天然な女性として描きました。彼女なりに一生懸命なのですが、王妃という立場には少々苦労が多かったのかもしれません。


なお、「男爵令嬢が王妃になれるのか」「王太子の元婚約者が、その叔父と結婚してもよいのか」など、身分制度や婚姻の慣習について疑問に思われる部分もあるかもしれません。


本作の舞台は、産業革命を経て近代化が進みつつある架空の王国です。


従来の身分制度や家同士の結びつきは依然として重視されているものの、社会の変化とともに、貴族や王族の間でも少しずつ自由恋愛が認められるようになり、婚姻においても本人の意思や自己決定権が尊重され始めている、という世界観で描いております。


もちろん、誰もが自由に結婚できる時代になったわけではありませんが、古い価値観と新しい価値観が共存する過渡期だからこそ、登場人物たちの選択にもそれぞれの葛藤が生まれたのだと思います。


誰かに選ばれることよりも、自分自身がどんな人生を選ぶのか。


そんなお話として楽しんでいただけていたら嬉しいです。


少しでも面白かったと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると、今後の執筆の励みになります!


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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