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前編:王太子殿下に婚約を破棄されました



「オフィーリア、そなたの娘を、私の息子の妃に迎えたいと考えているのだが、異存はあるまいな」


 二十年前、大勢の貴族たちが見守る舞踏会の席で私との婚約を一方的に破棄し、男爵令嬢との真実の愛を宣言なさった元婚約者が、国王となられた今、まるで何事もなかったかのように私の娘を王太子妃に望んでおられるのだから、私は目の前の男性が何をお考えなのか理解するまでに、少しばかり時間を必要とした。


 私の隣には、あの日の婚約破棄からほどなくして結婚した夫フェルディナント・ラウフェン公爵が座っており、その向こうには十八歳になった娘ロザリンデが、国王陛下のお申し出に戸惑いながらも、背筋を伸ばして静かに耳を傾けていた。


 陛下は、かつての婚約破棄によって途絶えた両家の縁を、今度は子供たちの婚姻によって結び直せるとお考えのようだったが、私には、二十年前にご自身の意思で断ち切られた縁を、どうして今になって娘の結婚で取り戻そうとなさるのか、不思議でならなかった。


 もっとも、私がそのお申し出にどのようなお返事を差し上げたのかをお話しする前に、まずは二十年前、私が王太子殿下から婚約を破棄された日のことからお話ししなければならないだろう。


 あの日の私は、まさか自分が将来、国王となった元婚約者から娘の縁談を持ちかけられることになるとは、夢にも思っていなかったのである。


 ◇ ◇ ◇


 二十年前、私がまだ二十一歳だった頃、エルディアス王国の王都は、近代化という言葉にふさわしい変貌を遂げつつあった。


 石畳の大通りには馬車に交じって自動車が走り始め、街角には電灯が設置され、郊外に建設された工場の煙突からは昼夜を問わず黒い煙が立ち上り、鉄道の開通によって遠方の領地から届く品々が市場に並ぶようになっていたが、その華やかな発展の陰では、煤に覆われた住宅街や汚れた川、長時間の労働に疲れ果てた人々の暮らしが、少しずつ深刻な問題となっていた。


 私はオフィーリア・クライゼン。王国でも有数の資産家として知られるクライゼン侯爵家の一人娘であり、十一歳の頃から十年間、ディートリヒ王太子殿下の婚約者として、王太子妃となるための教育を受けてきた。


 父ヴィルヘルム・クライゼン侯爵は、鉄道事業や製鉄業、金融業などに広く関わる実業家であり、王家に対しても長年にわたって多額の融資を行っていたが、私が幼い頃から繰り返し教えられてきたのは、財産を持つ者ほど数字の向こうにいる人々の暮らしを忘れてはならないということであり、その教えは、私が王太子妃として学ぶ政治や経済について考える際にも、常に大切な指針となっていた。


 そのため私は、外国語や宮廷儀礼、歴史や外交について学ぶだけでなく、王国の産業政策や財政状況にも関心を持ち、とりわけ急速な工業化によって生じる環境問題については、将来の王妃として何らかの役割を果たせないものかと考え、専門家から話を聞いたり、工場の資料を取り寄せたりしながら、自分なりに調査を続けていたのである。


 もっとも、ディートリヒ殿下は、私のそうした関心をあまり好ましく思っておられなかった。


「オフィーリア、そなたは会うたびに政治や金の話ばかりするのだな」


 ある日の午後、王宮の庭園で殿下とお茶をご一緒していた際、私が地方の工場で問題となっている排水についてお話しすると、殿下は退屈そうに紅茶の杯を置かれ、まるで私が楽しい時間を台無しにしたかのように眉をひそめられた。


「申し訳ございません、殿下、ですが、工場から流れ出る廃水によって下流の村では井戸水にまで影響が出ていると聞いておりますので、今後の産業振興を考えるうえでも、早いうちに対策を講じる必要があるのではないかと存じまして」


「そうしたことは役人や技師に任せておけばよいのだし、そなたがそこまで頭を悩ませる必要はあるまい」


 殿下はそうおっしゃると、庭園の向こうで咲き始めた薔薇へ視線を移され、私もまた、これ以上お話を続ければ殿下のご機嫌を損ねてしまうだろうと考え、用意していた資料を静かに閉じた。


 私は十年間、殿下のお役に立てる女性になりたいと願って学び続けてきたが、いつの頃からか、殿下にとって私の知識や努力は、誇らしいものではなく、むしろ煩わしいものになっていたらしかった。


 そんな殿下が、近頃たいそう親しくしておられたのが、ミレーナ・ヴェルナー男爵令嬢だった。


 ミレーナ様は私より二歳年下の十九歳で、柔らかな蜂蜜色の髪と大きな青い瞳を持つ愛らしい女性であり、いつも明るく微笑み、誰に対しても分け隔てなく話しかけるお人柄から、宮廷でも可愛らしい令嬢として知られていた。


 私自身、彼女に初めてお会いしたときには、その飾り気のない笑顔に好感を抱いたものだったし、難しい宮廷儀礼に戸惑いながらも一生懸命に覚えようとする姿には、思わず手を貸したくなるような魅力があった。


 ただし、ミレーナ様は、物事を深く考えることが少々苦手な方でもあった。


 ある日、王宮で開かれた慈善事業に関する小規模な茶会で、工場労働者の生活改善について話題になったときのことである。


 私は、低賃金や長時間労働によって家族と過ごす時間を十分に確保できない人々が増えていることや、住宅地の衛生環境を整える必要性について説明していたのだが、隣に座っていたミレーナ様が、突然、名案を思いついたというように顔を輝かせられた。


「それでしたら、貧しい方たちに毎日お菓子を配って差し上げればよろしいのではなくて? 甘いものを食べると幸せになりますもの!」


 私は思わず言葉を止めたが、ミレーナ様は自分の考えがたいそう素晴らしいものだと信じておられるらしく、両手を胸の前で合わせながら、嬉しそうに続けられた。


「それに、みんなが笑顔になれば、きっと国は豊かになりますわ! だって、幸せな人は、お仕事も頑張れますでしょう?」


 その場にいた婦人たちは、彼女の無邪気な発言に微笑ましそうな表情を浮かべ、ディートリヒ殿下もまた、感心したように大きくうなずかれた。


「ミレーナは本当に心が優しいな、難しい制度の話ばかりする者とは違って、民の幸福を何よりも大切に考えている」


 私は、毎日お菓子を配るための費用をどこから捻出するのかという問題や、労働環境の改善をお菓子の配布で代替することはできないという点について説明しようとしたものの、殿下がたいそう満足そうなお顔をなさっていたため、結局、その場では何も申し上げることができなかった。


 もちろん、貧しい人々を喜ばせたいというミレーナ様のお気持ちは尊いものだったし、彼女の言葉には少しの悪意もなかったのだが、王国の政策を考える際には、善意だけでは解決できない問題が数多く存在することもまた、忘れてはならないはずだった。


 別の日には、王家の財政について話題になった際、ミレーナ様がさらに驚くべき提案をなさったこともあった。


「国のお金が足りないのでしたら、もっとたくさん作ればよろしいのではなくて? だって、お金を作るところは国が持っているのでしょう?」


 彼女は小首をかしげながらそうおっしゃり、ご自身の考えが名案であると信じて疑わない様子でディートリヒ殿下を見上げられたが、殿下はその無邪気な仕草に頬を緩められ、私が通貨の発行量と物価の関係について説明しようと口を開くよりも早く、彼女の手を優しく握られた。


「ミレーナは本当に発想が自由だな、オフィーリアのように難しい理屈ばかり並べる者には、なかなか思いつかない考えだ」


 私は、通貨を増やしただけで王国が豊かになるのであれば、財務官たちが何年も頭を悩ませる必要などないだろうと思ったものの、殿下がたいそう満足そうなお顔をなさっていたため、それ以上の説明は控えることにした。


 するとミレーナ様は、私の方へ向き直って申し訳なさそうに微笑まれた。


「オフィーリア様って、本当にお勉強がお好きなのですね! わたくし、難しい本を読むとすぐ眠くなってしまいますの。でも、殿下はそんなわたくしが可愛いっておっしゃってくださるんです!」


 その言葉を聞いた殿下は、まるで愛らしい小鳥のさえずりを聞いているかのように微笑まれ、ミレーナ様もまた、殿下に褒められたことが嬉しくてたまらないご様子だった。


 私は二人の親密な雰囲気に少なからず戸惑いを覚えたものの、王太子殿下が婚約者以外の令嬢に過度な好意を示されるはずはないと、自分自身に言い聞かせていた。


 今になって思えば、私はあの頃、十年間積み重ねてきた信頼というものを、少々過大に評価していたのかもしれない。


 ◇ ◇ ◇


 運命が大きく変わったのは、王宮で開かれた秋の大舞踏会の夜だった。


 王都の貴族たちが一堂に会するその舞踏会は、王家の威信を示す重要な社交行事でもあり、広間の天井からは幾百もの硝子飾りをつけた大きなシャンデリアが吊り下げられ、磨き上げられた大理石の床には華やかな衣装をまとった人々の姿が映り込み、楽団が奏でる優雅な音楽に合わせて、色とりどりのドレスが花のように揺れていた。


 私は王太子殿下の婚約者として、いつもどおり礼節を尽くして来賓の方々へ挨拶をしていたが、殿下がなかなか私のもとへお越しにならないことに、次第に不安を覚えるようになっていた。


 そして、舞踏会が始まってからしばらく経った頃、殿下は広間の中央へ進み出られると、傍らにミレーナ様を伴ったまま、集まった貴族たちへ向かって声高らかに宣言なさったのである。


「皆に聞いてもらいたい、私は本日をもって、オフィーリア・クライゼンとの婚約を破棄することにした!」


 楽団の演奏が途切れ、広間を満たしていたざわめきが一瞬にして静まり返ったが、私は自分の名前が呼ばれたことを理解しながらも、その言葉の意味をすぐには受け入れることができなかった。


 十年間、王太子妃となるために学び続け、殿下のお役に立つことを何よりも大切に考えてきた私にとって、婚約を破棄されるということは、単に結婚相手を失うだけではなく、それまで思い描いてきた人生そのものを失うことに等しかったからである。


「殿下、恐れながら、婚約破棄とは一体どういうことでございましょうか」


 私はできる限り声を震わせないようにして尋ねたが、殿下は私の困惑など意に介さないご様子で、隣に立つミレーナ様の手を取りながら、堂々とお答えになった。


「私はミレーナを愛しているのだし、彼女もまた私を愛してくれているのだから、もはや愛のない婚約を続けることに意味はあるまい」


 私は思わずミレーナ様へ視線を向けたが、彼女は頬を赤らめながら殿下を見上げておられ、その表情には恥じらいと幸福が入り混じっていた。


「オフィーリア、そなたは確かに優秀な女性だが、いつも政治や経済の話ばかりで、私と過ごす時間を楽しもうともしなかったし、王太子妃としての務めを果たすことばかり考えて、私自身の気持ちを理解しようとはしなかった」


 殿下のお言葉は、私が十年間にわたって努力してきたことを、まるで罪であるかのように責めるものだった。


「しかし、ミレーナは違う、彼女は私の話にいつも笑顔で耳を傾け、私が疲れているときには優しく慰めてくれるし、難しいことを考えずとも、一緒にいるだけで心が安らぐのだ」


 私は、殿下にとって私の知識や努力は必要のないものだったのだろうかと考えながら、胸の奥が冷たくなっていくのを感じていた。


「殿下、婚約は王家とクライゼン侯爵家の間で正式に取り交わされたものでございますし、このような場で一方的に破棄なさることは、両家の関係にも影響を及ぼすのではございませんか」


「そなたは最後までそのような話をするのだな」


 殿下は呆れたように首を振られた。


「私は愛する女性と結婚したいと言っているのだし、そなたも少しは人の気持ちを理解したらどうなのだ」


 私はそれ以上何も申し上げることができず、ただ静かに頭を下げたが、広間のあちこちから聞こえてくる囁き声が、まるで自分に向けられた嘲笑であるかのように感じられた。


 そのとき、ミレーナ様が私の方へ歩み寄ってこられた。


「オフィーリア様、ごめんなさい」


 彼女は本当に申し訳なさそうに眉を下げ、私の手を取ろうとなさった。


「でも、好きな人同士が結婚するのが一番幸せですものね! オフィーリア様も、早く好きな方を見つけてくださいませ!」


 私は彼女の言葉に悪意がないことを理解していたが、十年間の婚約を失ったばかりの私にとって、その励ましはあまりにも無邪気で、あまりにも残酷だった。


「お気遣い、ありがとうございます」


 私はそれだけを申し上げ、できる限り穏やかな表情を保とうとしたが、胸の奥では、何か大切なものが静かに崩れていくような感覚が続いていた。


 その様子を見ていたセラフィーネ・アルテンベルク伯爵令嬢が、扇の陰に口元を隠しながら、ゆっくりと私の方へ近づいてこられた。


「まあ、オフィーリア様、十年もの間、王太子妃になるためにお勉強を続けていらしたというのに、結局は何のお役にも立たなかったのですね」


 セラフィーネ様はそうおっしゃると、周囲の令嬢たちへ意味ありげな視線を向けられ、その場に小さな笑い声が広がった。


「それにしても、お気の毒なことですわ、あれほどご立派な教育を受けていらしたのに、殿下のお心一つつかめなかったなんて、やはり女性にはお勉強よりも愛嬌が必要なのかもしれませんわね」


 私は何か言い返そうかと考えたものの、この場で感情的になることは得策ではないと判断し、静かに頭を下げてその場を離れようとしたが、そのとき、思いがけない人物が私たちの間へ歩み出てこられた。


「セラフィーネ様、そのようなことをおっしゃってはいけませんわ!」


 声を上げたのは、ほかでもないミレーナ様だった。


 彼女は頬を紅潮させながら私の前に立ち、セラフィーネ様をまっすぐに見つめると、いつもの柔らかな声に珍しく強い調子を込めて続けられた。


「オフィーリア様は、十年間も一生懸命お勉強をなさったのでしょう? それなら、たとえ王太子妃になれなくても、その努力が無駄になるはずはございませんもの!」


 私は思わず彼女の横顔を見つめたが、ミレーナ様は私の方へ振り返ると、まるで落ち込んでいる友人を励ますかのように、にっこりと微笑まれた。


「オフィーリア様、どうかお気になさらないでくださいね、わたくしもお勉強は苦手ですけれど、お母様からは、苦手なことでも頑張っただけで立派なのだと教わりましたの!」


 私はその言葉を聞いて、彼女が私を慰めようとしてくださっていることは十分に理解できたものの、十年間にわたって王太子妃となるための教育を受けてきたことと、苦手な勉強を頑張ったこととが、彼女の中ではどうやら同じ種類の努力として捉えられているらしいことに、少しばかり戸惑ってしまった。


「それに、オフィーリア様はとてもお綺麗ですもの、きっとすぐに別の素敵な殿方が見つかりますわ!」


 ミレーナ様は心から私を励ますつもりでそうおっしゃったのだろうし、その眼差しには嘲笑も悪意もなかったが、十年間の婚約を失ったばかりの私にとって、次の結婚相手がすぐに見つかるという言葉は、残念ながら何の慰めにもならなかった。


 セラフィーネ様は、ミレーナ様から思いがけずたしなめられたことが不満だったのか、わずかに眉をひそめられたが、今や王太子殿下の寵愛を受ける女性に逆らうことは得策ではないと判断なさったらしく、曖昧な笑みを浮かべてその場を離れていかれた。


 私はその後ろ姿を見送りながら、ミレーナ様が私を傷つけた当事者の一人であるにもかかわらず、私に向けられた悪意を見過ごすことができないほど優しい女性でもあるという、何とも複雑な事実に気づいていた。


 しかし、その夜、私の前に立ちはだかったのは、セラフィーネ様の嫌味だけではなかった。


「オフィーリア嬢」


 落ち着いた低い声で名前を呼ばれ、私が振り返ると、そこにはフェルディナント・ラウフェン公爵が立っておられた。


 フェルディナント様はアウグスト国王陛下の弟君であり、ディートリヒ殿下にとっては叔父君にあたる方で、王族としての立場を持ちながらも、早くから王位継承権を放棄し、広大な領地の統治と産業の発展に力を注いでこられた人物だった。


 背が高く、落ち着いた金褐色の髪と青灰色の瞳を持つその方は、宮廷の華やかな社交よりも実務を好まれることで知られており、私も以前から何度かお話しする機会があったものの、これほど近くで向き合うのは初めてのことだった。


「今夜は、ずいぶんと理不尽な目に遭われたようだね」


 フェルディナント様はそうおっしゃると、私が返答に困っていることを察してくださったのか、無理に慰めの言葉を重ねることなく、静かに続けられた。


「ただ、一つだけ伝えておきたいのだが、君がこれまで学んできたことは、決して無駄ではない」


 私は思わず顔を上げた。


「以前、君がまとめた工場の排煙と排水に関する報告書を読ませてもらったのだが、あれは非常によく調べられていたし、問題点を指摘するだけでなく、技術的な改善策や費用についても現実的な検討がなされていた」


 私は驚きのあまり、しばらく言葉を失ってしまった。


 その報告書は、私が王太子妃となった際に産業政策の参考にしていただければと考え、何か月もかけて作成したものだったが、ディートリヒ殿下からは難しい話ばかりだと一蹴され、結局、王宮の資料室に提出したままになっていたはずだったからである。


「公爵閣下が、あの報告書をお読みくださったのですか」


「ああ、ちょうど私の領地でも同じ問題を抱えていたのでね、君が提案していた排煙設備の改良について、技師たちと検討を始めたところなのだ」


 フェルディナント様はそうおっしゃると、わずかに微笑まれた。


「もし君が望むのであれば、いずれ領地の工場を案内したいと思っているし、実際の設備を見ながら、君の意見を聞かせてもらえればありがたい」


 私は胸の奥に、先ほどまでとは異なる温かさが広がっていくのを感じていた。


 十年間、殿下のお役に立ちたいと願って学び続けてきたことが、殿下には不要だと切り捨てられたその夜に、思いがけない方から必要だと言っていただけたことは、私にとって何よりも大きな慰めだった。


「ありがとうございます、公爵閣下、私のような者の意見でお役に立てるのでしたら、これほど嬉しいことはございません」


「君のような者、などと言う必要はないよ」


 フェルディナント様は穏やかに首を振られた。


「私は君の肩書きではなく、君自身の考えに価値があると思っているのだから」


 そのお言葉を聞いた瞬間、私はそれまで必死にこらえていた涙が、危うくこぼれ落ちそうになるのを感じた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、私は父ヴィルヘルムの書斎へ呼ばれた。


 父の書斎は、壁一面に並ぶ帳簿や契約書、国内外の新聞、各地の工場から届く報告書などで満たされており、幼い頃からその部屋に出入りしていた私にとっては、王宮の豪奢な応接室よりもずっと落ち着く場所だった。


 父は大きな机の向こうに座り、昨夜の出来事について記された新聞を何紙も並べていたが、私が入室するとすぐに立ち上がり、何も言わずに私を抱きしめてくれた。


「つらかっただろう、オフィーリア」


 その一言を聞いた瞬間、私はようやく、自分がどれほど深く傷ついていたのかを理解した。


「お父様、私は十年間、殿下のお役に立てるようにと努力してまいりましたのに、何もかも無駄だったのでしょうか」


「そんなことはない」


 父は私の肩に手を置き、真剣な眼差しで続けた。


「お前が身につけた知識も、努力してきた年月も、すべてお前自身のものだし、たった一人の男に必要とされなかったからといって、その価値が失われることなど決してない」


 私はその言葉にうなずきながらも、十年間の婚約が失われたという現実を、まだ十分に受け止めることができずにいた。


 父は私が落ち着くのを待ってから、王家との今後の関係について話し始めた。


「王家との融資契約については、これまでどおり履行するつもりだが、新たな融資については、これまで以上に慎重に判断することにした」


「それは、私の婚約が破棄されたからでございますか」


「婚約破棄そのものへの報復ではないが、王太子殿下がこれほど重大な約束を一方的に破棄なさる方であると分かった以上、将来の国王としての判断力を、これまでと同じように信頼することはできん」


 父はそうおっしゃると、机の上に置かれた契約書の束へ視線を落とした。


「私は商人でもあるし、金を貸す以上は返済の見込みを考えねばならんのだから、個人的な感情で契約を破ることはしないが、危険だと分かっている相手へ新たに金を出す義務もない」


 私はその説明を聞いて、父が娘のために怒ってくれていることを嬉しく思う一方で、父の判断が単なる感情的な報復ではなく、長年事業を営んできた者としての冷静な決断であることにも、深い敬意を覚えていた。


 もっとも、その日の午後、私は父の言葉とは別の意味で、昨夜の出来事を改めて考えさせられることになった。


 ミレーナ・ヴェルナー男爵令嬢が、私に会いたいと訪ねてこられたのである。


 ◇ ◇ ◇


「オフィーリア様、わたくし、どうしても謝っておきたいことがございますの」


 婚約破棄の翌日、クライゼン侯爵家を訪ねてこられたミレーナ様は、応接室の長椅子に浅く腰を下ろし、膝の上で両手を落ち着きなく組み替えながら、今にも泣き出しそうなお顔で私を見つめておられたが、昨日の舞踏会でディートリヒ殿下の腕に寄り添っていたときの幸福そうな様子とは打って変わって、ひどく憔悴しているように見えた。


「昨日は、あのようなことになってしまって、本当に申し訳ございませんでした、わたくし、オフィーリア様を悲しませるつもりなんて、少しもなかったんですの」


 私は彼女が何を謝罪しようとしているのかを尋ねることなく、ただ静かに続きを待っていたが、ミレーナ様は私の沈黙に耐えきれなくなったのか、とうとう決心したように顔を上げられた。


「実は、わたくし、ディートリヒ様とは、オフィーリア様とのご婚約が解消される前から、とても親しくさせていただいておりましたの」


 それは昨日の舞踏会で十分に察していたことだったので、私は驚くこともなくうなずいたが、ミレーナ様は私の反応を見て少しばかり安心なさったのか、さらに言葉を続けられた。


「それで、その、殿下がお仕事でお疲れのときには、お部屋でお話し相手を務めたり、一緒に夜遅くまで過ごしたりしていたのですけれど、あるとき、帰るには遅い時間になってしまいましたので、同じお部屋に泊めていただいたこともございましたの」


 私は手にしていた紅茶の杯を、音を立てないように受け皿へ戻した。


 婚約者のいる王太子が、ほかの令嬢と二人きりで夜を過ごしていたという事実だけでも十分に問題であるはずなのだが、ミレーナ様はそのことをどこまで理解しておられるのか、むしろ私に隠し事をしないことこそが誠実な振る舞いなのだと信じているようで、ますます真剣な表情になられた。


「でも、どうか誤解なさらないでくださいませ、わたくし、最初からオフィーリア様の婚約者を奪おうと思っていたわけではございませんのよ、ただ、殿下がわたくしと一緒にいると心が安らぐとおっしゃってくださったので、少しでもお役に立てればと思っただけなのです」


 私は、夜遅くまで王太子殿下のお部屋に留まり、同じ部屋で朝を迎えることが、少しでもお役に立つという言葉で説明できるものなのだろうかと考えたが、彼女の瞳には嘘をついている者特有の迷いがなく、どうやら本当にそれが善意から始まったことだと考えておられるらしかった。


「ミレーナ様、殿下と同じお部屋でお休みになったことは、ほかの方にもお話しになりましたか」


「いいえ、殿下から、これは二人だけの大切な思い出だから、ほかの方にはお話ししてはいけないと申しつけられておりますの」


 ミレーナ様はそこで少しだけ得意そうに微笑まれたが、私は、つい先ほどその大切な秘密を殿下の元婚約者へ打ち明けてしまわれたことについて、彼女がまったくお気づきでないらしいことに、返す言葉を失ってしまった。


「ですが、オフィーリア様にはきちんとお話ししなければ、失礼だと思いましたので……どうか、お許しいただけませんでしょうか」


 私はしばらく彼女を見つめていたが、その謝罪には少なくとも偽りがないことだけは理解できたので、静かに息を整えてから答えた。


「お話しくださったことには感謝いたしますが、お許しするかどうかについては、今すぐお返事できることではございません」


 ミレーナ様は悲しそうに眉を下げられたものの、それ以上私に許しを求めることはなく、深々と頭を下げてから応接室をあとにされた。


 私は彼女の小さな背中を見送りながら、昨日の舞踏会で殿下が宣言なさった真実の愛というものが、私の知らないところでずいぶん以前から育まれていたらしいことを理解したが、その夜の出来事について、それ以上深く考えることはしなかった。


 なぜなら、今の私にとって重要なのは、二人がいつから親しくなったのかということよりも、十年間の婚約を失った自分が、これからどのように生きていくかということだったからである。


 ◇ ◇ ◇


 ミレーナ様が帰られてから数日後、王宮から正式な婚約解消の通知が届き、私とディートリヒ殿下の十年間にわたる婚約は、書類の上でも完全に終わりを迎えた。


 私はその通知を読み終えると、長いこと机の上に置いたままになっていた王太子妃教育の資料を整理し始めたが、外交儀礼や財政制度、産業政策について書き込んだ膨大なノートを一冊ずつ手に取るたびに、それまで自分が積み重ねてきた年月の重みを思い知らされ、何度も手を止めずにはいられなかった。


 しかし、すべてを片づけてしまおうと考えていた私の手は、工場の排煙と排水についてまとめた報告書に触れたところで、自然と止まった。


 その報告書は、フェルディナント様が価値を認めてくださったものだった。


 私はしばらく表紙を見つめていたが、やがてその一冊だけを別の机へ移し、残りの資料を整理することにした。


 そんな折、ラウフェン公爵家から一通の手紙が届いた。


 差出人はフェルディナント様であり、そこには先日の舞踏会でお話しになった工場見学について、もし私が望むのであれば、いつでも案内する用意があると記されていた。


 私はその手紙を何度も読み返しながら、婚約破棄によって失われたと思っていた未来の先に、まだ自分の知らない道が続いているのかもしれないと、初めて考えることができた。


 そして、数日後に開かれた小規模な慈善事業の会合で、私は再びフェルディナント様とお会いすることになった。


 会合が終わったあと、私は以前から気になっていた工場の排煙設備についてお尋ねしようと考え、公爵閣下へ声をかけたのだが、フェルディナント様は私の質問に丁寧に答えてくださっただけでなく、私が提案した改善策について、実際の工場で試験的に導入する準備を進めていると教えてくださった。


「君の報告書には、技術者たちが見落としていた視点がいくつもあったし、現場の人々の暮らしまで考えられていたことが、何よりも素晴らしいと思っている」


 私はその言葉を聞いて、胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じた。


「公爵閣下、私はこれまで、王太子妃になるために必要なことを学んでいるつもりでおりましたが、殿下からは、そのような知識は女性に必要ないとおっしゃられることも多く、正直に申し上げれば、自分の努力が本当に意味のあるものだったのか、分からなくなっておりました」


 フェルディナント様は私の言葉を静かに聞いておられたが、やがて穏やかな声でお答えになった。


「君が学んできたことは、誰かの妻になるためだけのものではないし、君自身が何を考え、何を成し遂げたいのかを知るためのものでもあったはずだよ」


 私はそのお言葉を聞きながら、十年間の婚約が終わった今、自分が何を望んでいるのかを、初めて真剣に考え始めていた。


 王太子妃になるという未来は失われたが、私が関心を寄せてきた産業や環境の問題は、婚約が終わったからといって消えてしまうわけではなかったし、むしろ、これからは自分自身の意思で、それらの問題に向き合うことができるのかもしれなかった。


 そんな私の様子を見つめながら、フェルディナント様はしばらく考え込むように沈黙なさったあと、思いがけないことをおっしゃった。


「オフィーリア嬢、君に一つ、尋ねたいことがあるのだが」


「何でございましょうか、公爵閣下」


 フェルディナント様は、いつもの落ち着いた表情のまま私を見つめておられたが、その青灰色の瞳には、これまでに見たことのないほど真剣な光が宿っていた。


「私はこれまで、王族としての立場や領地の仕事を優先してきたため、結婚について真剣に考えることはほとんどなかったのだが、君と話しているうちに、これから先の人生を、ともに歩んでみたいと思うようになった」


 私はそのお言葉の意味を理解するまでに、少しばかり時間を必要とした。


「君は自分の考えを持ち、努力を惜しまず、目の前の問題から逃げることなく向き合おうとする女性だし、私はそのような君を心から尊敬している」


 フェルディナント様はそうおっしゃると、私の返答を急がせることのない穏やかな声で、静かに続けられた。


「もし君が望むのであれば、私の妻となり、これからの人生をともに歩んではくれないだろうか」


 私は息を呑んだ。


 つい先日まで、十年間の婚約を失ったことで自分の未来は閉ざされたのだと思い込んでいた私にとって、そのお申し出はあまりにも突然で、あまりにも思いがけないものだった。


 しかも、目の前にいらっしゃる方は、私を捨てた王太子殿下の叔父君であり、王国でも屈指の名門であるラウフェン公爵家の当主なのだから、私がその場で何も答えられなくなってしまったとしても、無理のないことだったと思う。


 けれども、何より私を驚かせたのは、フェルディナント様が私を王太子の元婚約者としてではなく、一人の女性として見つめ、私自身の考えや努力を尊重したうえで、人生をともに歩みたいとおっしゃってくださったことだった。


 私は胸の奥に広がる戸惑いと、まだ名前をつけることのできない温かな感情を抱えながら、静かにフェルディナント様を見つめ返した。


 十年間の婚約を失ったばかりの私に、王太子殿下の叔父君から求婚される日が訪れるなど、誰が想像できただろうか。


 そして、このときの私はまだ、このお申し出こそが、二十年後に国王となった元婚約者を、思いもよらぬ形で後悔させることになるとは、少しも知らなかったのである。


――前編・完――

次回本日12時更新

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