馬が先に触れた
翌日の夕刻になっても、向かいの馬房の一頭は首を上げなかった。
眠っているのではない。
黒い耳だけが、通路を行く靴音へ向き、桶の鳴る音へ向き、離れた馬の咳へ向く。右耳と左耳が別々の音を追い続け、瞼は一度も深く閉じない。横たわった脇腹は小刻みに上下し、鼻先を置いた藁は浅い息で乾いていた。
誰かが戸口を通るたび、首筋が板のように張る。けれど逃げようとはしない。逃げるために脚を動かせば、周囲の人間が一斉に近づくと覚えてしまったのだ。
「水は?」
「昨夜から飲んでいません。桶を寄せると、顔を背けます」
その馬の騎手が答えた。唇には乾いた飼料の粉が貼りつき、鼻孔の内側にも湿り気が少ない。汗で濡れた首を触れなくても、水分を失い始めていることは見えた。
残る馬房も回った。
後脚の腫れが残る一頭は、騎手が炭の線を守って包帯を巻き直している。腹音の弱い二頭には、薄い温餌を無理に食べさせず、鼻先の届く場所へ置いてあった。器に口をつけなければ下げ、匂いを嗅ぎ直したら新しいものを少量だけ置く。その手順も記録板に残されている。
団長の馬は支持具で胸を支えられ、団長の手から一口ずつ水を受けていた。体位も定刻に変えられている。私が通路へ入ると耳を伏せたため、それ以上は近づかなかった。
今夜も、あの馬ではない。
拒絶したままの馬へ私の一晩を押しつけることはできない。少量の給水と保温、体位交換を受け入れているなら、騎手たちの手で夜を越えられる。
一方、耳を動かし続ける馬は、人影がある限り水にも休養にも届かない。このままもう一晩を越せば、乾いた体では立ち上がる力まで失う。
「今日は、この馬にします」
「触れられないのにか」
ガレスが通路の奥から言った。
「触れるところから始めません」
私は戸口に集まっていた騎手たちへ頼んだ。
「この馬の視界から出てください。覗かないで。励まそうと声をかけるのもやめてください」
騎手たちはためらった。倒れた愛馬から離れることは、見捨てることに似ている。その馬の騎手は、進みかけた足を何度も止めた。馬が水を飲まないたびに名を呼び、首へ手を伸ばしてきたのだろう。その善意まで、今の馬には逃げ場を塞ぐ壁になっていた。
最初に団長が通路を出た。
「聞いたとおりに。窓の外にも立つな」
その馬の騎手も唇を噛み、戸口から離れた。最後に私も綱の外へ下がる。馬房には馬と、浅い水を張った桶と、乾いた藁だけが残った。
人影が消えても、耳はすぐには止まらなかった。
壁の向こうで革帯が鳴る。片耳がそちらへ向く。屋根から雪が落ちる。両耳が跳ねる。遠くの馬が蹄を擦る。また右耳だけが動く。
私たちは待った。
厩舎の冷気が衣服の隙間から染み込み、立ったままの騎手たちが何度も足の重心を移した。その小さな衣擦れさえ聞かせまいと、団長が無言でさらに遠くへ下がらせる。誰も馬の名を呼ばなかった。
日が落ち、馬房の床に伸びていた格子窓の影が消えた頃、耳の動く幅がようやく小さくなった。鼻孔から、長い息が一つ出る。固まっていた首筋がわずかに緩み、顎が藁へ深く沈んだ。
私はまだ入らない。
戸口から三歩離れた場所へ腰を下ろした。両手は膝の上に伏せる。七頭分の汗と、湿った布と、薬草の匂いが袖に残っていた。
馬の右耳が私を捉えた。
白い目の縁が少し広がる。
私は動かなかった。急いで一歩を詰めれば、これまで待った時間がすべて人間の都合に戻ってしまう。
馬は顔を背けた。しばらくして、またこちらを見る。首が指一本分だけ浮き、止まった。息を三度吐いてから、鼻先が藁の上をゆっくり進んだ。
それでも、私からは近づかない。
やがて鼻先が戸口の綱を越えた。届くはずのない距離で一度止まり、さらに首を伸ばす。温かい息が、伏せた私の手の甲に触れた。
馬が先に触れた。
私は指を開かず、手の甲のまま匂いを嗅がせた。馬は鼻先を離し、もう一度近づける。柔らかな唇が袖口をかすめた。耳は後ろへ伏せていない。
そこで初めて掌を返した。
鼻梁へ触れる前に、馬が顎を引いた。
私はすぐ手を戻す。
次に伸びてきた鼻先が掌へ留まるまで待ち、今度は指先ではなく手の側面を頬へ沿わせた。毛は汗で束になり、その下の皮膚は冷えている。けれど首の付け根は熱く、硬かった。周囲を警戒し続けたため、休んでいるはずの筋肉が休めていない。
耳の向きを確かめながら、肩、前脚へと手を下ろした。
左前の蹄は、外側だけが強く藁へ食い込んでいた。蹄壁を撫でると、外側は熱く、内側はそれより低い。伸びた外縁が床を先に捉え、脚を胸の下へ畳みにくくしている。立とうと力を込めるたび、そこだけが引っ掛かり、熱を重ねていた。
鑢を見せると、馬は鼻を鳴らした。音を立てずに外側へ置いた途端、尾が一度強く藁を打つ。
中断した。
鑢を引き、馬の視界に入る場所へ置く。鼻先が道具の柄を嗅ぎ、顔を戻すまで待った。
削ったのは外側の張り出した部分だけだった。一度擦るたびに手を離し、耳と鼻孔を見る。ざらりと削り粉が掌へ落ちる。二度目で鼻孔が狭くなれば休み、蹄を藁へ戻して自分で置き直させた。蹄全体を同じ形に整えようとはしない。今夜必要なのは、立つとき最初に引っ掛かる角を減らすことだけだ。
冷却布も、氷水のまま当てなかった。冷えた皮膚へ急に強い冷たさを重ねれば、驚いて脚を引く。水を一度絞り、私の手首で温度を確かめてから、熱の強い外側へ短く当てた。
二十数える前に耳が後ろへ動いた。
布を外す。
耳が戻ってから、もう一度。短い冷却と長い休みを繰り返した。濡れた毛の下で熱が少しずつ薄れ、外側へ偏っていた蹄の置き方が、休むたびにわずかずつ中央へ戻っていく。
水桶は口元へ押しつけなかった。鼻先から腕一本分離して置き、私も戸口の外へ戻る。馬は何度も耳で音を探したあと、自分から首を伸ばした。
一口。
顔を上げ、周囲を確かめる。
次の一口まで砂時計の砂を半分待った。水が腹へ落ちる音を確かめてから、ふやかした少量の草を水とは別の器へ置く。甘酸っぱい古い飼料は使わない。馬は匂いを確かめ、唇で二、三本を拾った。それ以上は鼻先を離したので、器を押し戻さなかった。
その夜、選ばなかった二十八頭にも夜は続いていた。
騎手たちは記録板に従い、保温、少量給水、体位交換を続ける。団長馬には私を近づけず、団長自身が支持具のずれを確かめた。誰かがこちらの様子を見に来るときも、馬房の前を横切らず、壁を大きく回った。
私は一頭のそばで、布を冷やし、水を量り、耳が動けば手を止めた。
夜半を過ぎると、馬は初めて両目を閉じた。
ほんの短い眠りだった。頭の重みで藁が沈み、耳からも力が抜ける。それでも目を開けたとき、首筋の硬さは薄れ、脇腹の呼吸も深くなっている。左前の外側に残っていた熱を確かめ、また短く冷やす。水を二口。休養。順番を一つも飛ばさない。
冷却桶へ手を入れるたび、指先の感覚が鈍くなった。布を絞る力も少しずつ失われ、手首と両肘を使って水を落とす。それでも温度を確かめる手だけは替えられない。冷たすぎれば馬が拒み、緩すぎれば蹄の熱が残る。夜通し繰り返せるのは、一頭だけだった。
夜明け前、馬が鼻先を私の肩へ押しつけた。
私は立ち上がったが、支えようとはしなかった。
馬は前脚を胸の下へ引き寄せる。削った左前の外縁は藁に刺さらず、蹄底が平らに止まった。右前を開き、首を前へ伸ばす。
一度目は腰がわずかに浮いただけで、胸を戻した。荒くなった息が肩越しに触れ、前脚の筋肉が細かく震える。私は水桶だけを届く位置へ寄せ、それ以上は触れなかった。
馬の騎手が壁の向こうで息を呑む音がした。右耳がそちらへ向く。
私は手を上げ、誰も入らないよう合図した。
馬は逃げなかった。呼吸を整え、水を一口飲み、自分で再び脚を畳む。
前脚が伸びた。胸が上がる。後脚が藁を掻き、腰が持ち上がる。左前は外側へ傾かず、蹄全体で床を捉えた。
八頭目は、誰にも囲まれず、自分の四本の脚で立った。
すぐには騎手を呼ばない。歩かせもしない。四肢の震えが収まり、呼吸が深いまま続くのを待った。馬は一度だけ左前の重みを抜き、置き直した。蹄は再び平らに着き、尾は静かに垂れている。
やがて馬自身が戸口へ鼻先を向けた。
そのときだけ、騎手に一人で入ってもらった。騎手は抱きつかず、腕を下ろしたまま待つ。馬が差し出された手の甲へ鼻を触れると、彼は声を震わせた。
「離れるのも、手当てだったのですね」
「離れたあと、いつ戻るかを馬に選ばせるところまでです」
団長は、誰もいなかった時間と、馬が最初に鼻先を伸ばした時刻まで記録させた。
私が冷却桶から手を抜く。指は白く固まり、記録板を受け取ることもできない。夜通し一頭へ使った手は、朝になればもう鑢も水差しも握れなかった。
そのとき、二つ隣の馬房から騎手の声が上がった。
「同じだけ冷やしたのに、右前の布は冷たいままです。左前の布だけ、湯気が出ています」
私は動かない指を胸へ抱え、立ち上がった。
「両方を同じに扱わないで。布を外して、誰も削らないでください」
残り二十八頭。
(第9話へ続く)




