胸を塞がない順番
夜が明けても、私は七頭目の鞍に触れられなかった。
冷却桶へ浸し続けた指は白く固まり、留め金を外すどころか、拳を作ることさえできない。曲げようとすると、骨の内側へ細い針を差し込まれたような痛みが走った。六頭目に一晩を使った以上、今すぐ七頭目の処置まで始めることはできなかった。
「鞍を支えてください。引き抜かず、重さだけを持って」
騎手二人が戸板越しに手を入れ、胸の脇へずれた鞍を持ち上げる。革が軋み、七頭目の耳がその音を追って傾いた。腹帯は張ったままだ。横倒しになった馬の下側では、毛布が肘の後ろへ太く寄り、息を吸うたびに胸を押し返していた。
鼻孔は小刻みに開くのに、肋骨は上半分しか動かない。三度に一度、吸い込む途中で胸が止まり、そのあと短い息が二つ続く。吐かれた息は熱いのに、汗で濡れた胸の毛は冷え、藁が何本も貼りついていた。
「今、鞍を横へ引けば早いのでは」
「毛布の塊が肋骨を擦ります。驚いて身をよじれば、締まった腹帯がもっと食い込みます。私の手が戻るまで、重さを胸へ掛けないことだけ続けてください」
浅い水皿を鼻先へ置くと、馬は唇を濡らしただけで顔を背けた。無理には飲ませない。呼吸の途中で流し込めば、むせてさらに胸を使う。
私は今日の一頭を、この馬に決めた。
残る馬房には、熱い蹄を雪袋で冷やされる馬、腹を支えられて体位を替える馬、少量の水を騎手から受け取る団長馬がいる。団長馬は騎手の差し出す柄の長い器から二口飲んだが、私が通路へ入ると耳を伏せた。袖には六頭分の汗と湿布の薬草、腫れた脚から染み出した膿の匂いが残っている。
私は馬房の境より先へ進まなかった。
団長馬は今夜も騎手たちが交代で体位を替え、胸と腹を保温し、排泄を助ける。だが、蹄の角度まで決め直して立たせる一晩は使わない。この馬自身が私を拒んでいることに加え、七頭目の呼吸には、もう一晩待たせれば胸を起こす力そのものを失う危険があった。
「今日は七頭目です」
団長は団長馬の水皿を騎手へ預け、七頭目を見た。
「残る馬も、同じように支える。今夜、誰も放置はしない」
その言葉が各馬房へ伝えられた。立たせるための一晩を選ばなかった馬にも、冷却、保温、体位交換、決められた量の給水は続けられる。ただし、騎手だけの判断で削蹄や濃い飼料への変更はしない。
昼を過ぎ、ようやく指が曲がった。凍えが抜けるにつれ、今度は爪の下が脈に合わせて疼いた。留め金を扱えるところまで戻ったか、濡れた布の端を摘まみ、落とさず三度畳んで確かめた。
私は七頭目の鼻先へ手の甲を近づけた。馬は荒い息を掛けながら匂いを嗅ぐ。耳は横を向いたまま、歯も見せない。触れてよいという仕草ではない。ただ、まだ離れろとも言っていなかった。
まず、騎手に鞍の後橋を少しだけ持ち上げてもらった。私は腹帯の留め金へ指を掛ける。
「一度に外さないでください。息を吐いたときに、一穴だけ」
白い息が鼻から漏れる。
一穴緩める。
次の呼気を待ち、もう一穴。三つ目へ手を掛けたとき、馬の尾が強く藁を打ち、耳が伏せた。
「止めます」
私たちは手を離した。留め金を外したいからと続ければ、それは処置ではなく押しつけになる。
馬の呼吸が元の速さへ戻るまで待った。ぬるい水を鼻先へ置く。馬は一口だけ吸い、顔を上げた。喉が一度動いたのを見届けて、皿を遠ざける。
今度は騎手に鞍を持たせず、板へ重さを預けた。人の腕が震える感触を腹帯へ伝えないためだ。馬が息を吐くたびに一穴ずつ緩め、完全に外れても、鞍を横へ引かなかった。
「背骨の上へ戻してから、上へ」
ずれた鞍をわずかに背の中央へ寄せる。胸を圧迫していた下側の縁が浮いたところで、真上へ持ち上げた。汗を吸った革の重さが板へ移り、馬の鼻から細く息が抜けた。
残った毛布はまだ抜かない。肘の後ろで拳ほどに固まり、汗を吸って冷たくなっていた。
私は毛布の端を少し動かした。馬の皮膚が細かく震える。すぐ止める。呼気のたびに指二本分ずつ、胸の下ではなく尾の方へ送る。塊を薄くほどき、最後に馬自身が前脚を引いた瞬間だけ使って抜いた。
塞がれていた下側の肋骨が、初めて大きく膨らんだ。冷えた毛布の下で寝ていた毛が起き、汗の酸っぱい匂いが広がった。
馬は長く息を吐いた。けれど、これで立たせてはいけない。圧迫を除いただけで、乾いた口も熱い蹄も治ってはいなかった。
胸の前へ厚く藁を入れ、馬が首を起こしたときにだけ肩の下へ丸めた毛布を差す。横倒しから胸を下にした姿勢へ移れるようにしたが、手綱では引かない。馬は二度首を上げ、三度目に前脚を畳んで自分から胸を起こした。
左右の肺が使える姿勢になると、肋骨はまだ速いながら、途中で止まらず動いた。
私は蹄を一つずつ掌で包んだ。前二本が後ろより熱く、蹄の後ろへ触れる脈も強い。蹄裏には湿った飼料と泥が詰まり、左前の先だけが長く、立てば前へ滑る形になっている。
詰まりを掻き出したあと、四本を別々の冷却桶へ入れる。馬が左前を引こうとしたので、その桶だけ外した。冷たい布へ替えて蹄壁を包み、耳が戻ってから、もう一度だけ浅い桶を置く。
今度は脚を引かなかった。
冷却の合間に、ぬるい水を二口。飲むたびに器を下げ、呼吸が整ってから次を置く。空腹だからと飼料は戻さず、湯でふやかした薄い草を掌一杯だけ嗅がせる。馬は一度鼻先を寄せたが口を開かない。私は下げた。
桶の水はじきに生温くなった。私は蹄を離さず騎手に水だけを替えてもらい、熱が戻れば冷やし、震えが出る前に休ませた。水を足すたび、固まりかけた指を桶の縁で一本ずつ伸ばした。
蹄の熱が左右で揃ってから、長い左前の先を鑢で二度撫でた。三度目に耳が後ろへ向いたため、そこで終える。見栄えを揃えるための削蹄ではない。起き上がるとき、先端だけへ力が逃げない分があればいい。
夜半、馬が立とうとして首を高く上げた。
騎手たちが近づきかける。
「まだです」
呼吸がまた短くなっていた。勢いに任せて起こせば、酸素の足りない胸より先に脚が崩れる。
肩の支えを外し、馬が胸を藁へ戻すのを待つ。蹄の布を替え、水を一口。休ませる間も、鞍を戻す者はいなかった。
それからも、冷やす、水を置く、呼吸を数える、休ませる、を繰り返した。どれか一つを急いでも、馬の耳が横を向けば手を止めた。夜が薄くなる頃には、桶を替える騎手の足音まで藁を踏まぬ静けさになっていた。
夜明け前、鼻孔の震えが小さくなった。
馬は前脚を胸の下へ入れた。左前の削った先が藁を滑らず、蹄全体で止まる。首を前へ伸ばし、息を一つ吐く。後脚が腹へ寄った。
一度目は、腰が半分浮いたところで胸を戻した。
誰も触れない。
馬は四度呼吸し、自分で二度目を選んだ。
前脚が伸びる。胸が持ち上がっても、肋骨の動きは止まらない。右後ろが踏み、左後ろが続く。空になった背には何も載っていない。
七頭目は、自分の四本の脚で立った。
立位のまま呼吸を数え、すぐには歩かせない。水も一口ずつにする。膝の震えが収まり、四つの蹄へ均等に重さが落ちるまで、馬房には桶の水音だけがした。騎手は鞍を拾わず、外した順と、馬が尾を打って中断させた時刻まで記録板へ書いた。
「鞍を外せば治るのではなかったのですね」
「ええ。順番を飛ばせば、外すことでも悪くできます」
団長は七頭目の動く肋骨へ掌を当て、それから私へ場所を譲った。初めて、私の指で数えた呼吸と自分の掌の動きを照らし合わせていた。
冷却桶から抜いた私の手は、また白く固まっていた。朝になった今、鑢も水差しも握れない。今日もう一頭を立たせることはできなかった。
そのとき、安堵した騎手たちが七頭目の馬房前へ集まった。
向かいの馬房で、横たわる一頭の耳だけが激しく動いた。左右の足音を追い、背後の咳を追い、戸口を塞ぐ人影を追う。目には白い縁が現れているのに、首も脚も動かさない。
私は通路の綱を外し、騎手たちを一人ずつ外へ出した。団長も、そして私自身も馬の視界から退く。人影が消えるごとに耳の動きは狭くなったが、それを安心した合図とは決めつけなかった。
最後に戸口へ綱を張り、記録板の裏へ炭で三つ書いた。
入らない。囲まない。先に触れない。
残り二十九頭。
(第8話へ続く)




