選ばれた薄い温餌
「その桶を下げて!」
私が馬房へ飛び込むと、騎手は濃い粒餌の桶を抱えて後ずさった。
馬は敷藁に横たわり、首だけを苦しそうに伸ばしていた。噛み砕けなかった飼料が唇の端に粘りつき、咳のたびに顎から落ちる。胃から戻したのではない。口に含んだものを飲み込めず、押し出したのだ。
騎手が水桶を鼻先へ運ぼうとする。
「待って。今、一度に飲ませたら、残った餌まで喉へ流れます」
私は馬の耳を見ながら、動かない指を胸元へ抱えた。今この手で触れれば、熱も硬さも読み違える。騎手には首の周りの藁を退け、咳と呼吸を見守ってもらった。水も餌も口へ入れず、嫌がったら何もせずに離れるよう頼む。
昼を過ぎるまで、私は乾いた布で手を包み、曲げ伸ばしを繰り返した。指に刺すような痛みが戻り、布を掴んでも落とさなくなってから、もう一度馬房へ入った。ようやく曲がる指で、まず鼻孔へ掌をかざす。左右から息は通っており、餌の混じった鼻水も出ていない。
顎の下へ触れると、馬は耳を横へ倒した。首筋を撫でながら喉へ指を進めた瞬間、皮膚が細かく震え、鼻先が私の肩から逃げる。
私は手を離した。
「触らないのですか」
「嫌だと言っています。喉を押して確かめるのは中断します」
代わりに唇の外へ残った飼料だけを、濡らした布でそっと拭う。馬が布を噛もうとしたので、それもすぐにやめた。
前脚は胸の下へ折り込まれていた。蹄へ触れる許しを待ち、鼻先が私の袖から離れて耳が前へ戻ってから、手の甲を蹄冠へ当てる。両前とも熱いが、左前の先だけが硬く尖り、立とうとした跡が敷藁を深く抉っていた。
腹へ耳を近づける。かすかな音はある。完全に止まってはいない。ただ、速く浅い呼吸の合間に、空腹で腹壁が引きつっていた。
「昨日から、どれだけ食べましたか」
「粒餌を二度出しました。でも、二度とも口から落として……食べないなら空腹にさせろと言われて」
騎手は抱えた桶を見下ろした。
この馬は、残った三十二頭の中で最も激しく暴れているわけではない。団長の馬は今も支持布で体位を変えられ、少量の水を受けながら横たわっている。脚の腫れた馬もいる。高い熱の続く馬もいる。
けれど、この馬は水も餌も取れなくなり始めていた。腹音が残っている今なら、無理に流し込まず、自分で選んだ一口から繋ぎ直せる。今日を逃せば、明日は選ぶ力そのものがなくなるかもしれない。
「今日の一頭は、この馬にします」
選ばなかった三十一頭の夜について、団長へ伝える。体位交換は二刻ごと。腹を圧迫しない向きへ寝かせ、飲める馬には一口ずつ水を置く。蹄の布は騎手が熱を触り比べて交換し、耳を伏せたり脚を引いたりしたら、その処置は止める。
団長の馬には、私が近づかない。私の袖が馬房の柵へ寄っただけで、馬は鼻孔を狭め、耳を伏せた。汗と湿布の薬草、それに他の馬の口元を拭った酸っぱい臭いが、手と袖へ染みついている。私が離れ、別の騎手が清潔な毛布を直すと、強張っていた首が藁へ下りた。
触れないまま支える夜を、今日も選ぶしかない。
「腹を空かせれば、血統のいい馬は自分から食う」
馬房の外からガレスの声がした。
雪を踏みつけて入ってきた彼は、騎手の抱える桶へ顎をしゃくった。
「新しい餌だ。食わせろ。こんな牧場女に一頭ずつ遊ばせていたら、春までかかるぞ」
「新しくありません」
私は桶の縁に付着した塊を木匙ですくった。表面は冷えているのに、割ると中から甘酸っぱい湯気が立つ。
横たわった馬がその臭いを嗅ぎ、上唇を引きつらせて顔を背けた。
「拒んでいるものは食べさせません」
「好き嫌いで軍馬を扱う気か」
「食べないことと、食べられないことは違います。空腹を押しつけても、喉と腹は整いません」
団長がガレスと馬房の間へ立った。
「今日の一頭はエマが選んだ。処置の順も彼女に任せる」
昨日までなら、そこまで言ってはくれなかっただろう。
私は古い桶を遠ざけ、浅い器を三つ用意してもらった。
一つ目は、ぬるい水だけ。
二つ目は、乾いた干し草を細かくほぐし、ぬるま湯をたっぷり含ませたもの。匙ですくえば形が崩れるほど薄くする。
三つ目は、それをさらに水でのばし、匂いだけが残る程度にした温餌だ。
どれも口へ押しつけない。馬の鼻先から同じ距離へ置き、一つずつ匂いを嗅げるよう、器の間を広く空けた。
馬は最初の水へ鼻を寄せたが、唇を開かなかった。二つ目の温餌には耳を伏せる。
「下げます」
すぐに二つ目を遠ざけた。
騎手が驚いた顔をする。
「せっかく作ったのに?」
「今はいらないと答えました。置き続ければ、残りの二つまで警戒します」
三つ目を嗅いだとき、馬の鼻孔がゆっくり広がった。水面へ唇をつけ、一度だけ舐める。私は器を引いた。
「もっと飲みたがっています」
「だからこそ、一口で休ませます」
飲めたからと続ければ、乾いた飼料の残る喉がむせる。馬が咳をせず唾を飲み込むまで待ち、次の一舐めを置く。三口目で耳が前へ向き、五口目のあと、腹の奥から小さな音が返った。
そこで初めて蹄を整えた。
左前の尖った先を一度だけ鑢で撫で、角度を急に変えず、雪を掻いたときに引っ掛かる縁だけを落とす。二度目の鑢で馬が脚を引いたため、それ以上は削らない。
両前脚へ冷たい布を巻く。凍るほど冷やさず、布が蹄の熱を吸ってぬるくなったら交換する。腹には乾いた毛布を掛け、冷えた背へは重ねない。蹄を冷やすことと、腹を冷やすことは別だった。
夜は、一口ずつの水と薄い温餌、蹄の冷却を繰り返した。
二刻目、馬は水を選んだ。
三刻目には温餌へ鼻先を入れ、ふやけた干し草を二筋だけ唇で拾った。奥歯がゆっくり動く。飲み込んだあとも咳は出ない。
騎手が次の器を差し出しかけたので、私は首を振った。
「今は休養です。食べた直後に続けないで。腹音が変わらないか待ちます」
騎手は器を戻し、馬の耳を見た。
「食べさせることだけが世話ではないんですね」
「待つところまでが一つの工程です」
夜半、蹄の布を外す。左右の熱はまだ残るが、左前だけが焼けるような差は薄れていた。馬は胸の下へ前脚を寄せ、いったん首を起こす。
騎手が身を乗り出した途端、馬の耳が後ろへ動いた。
私たちは同時に離れた。
馬は立とうとせず、また顎を藁へ置く。
その選択を失敗にはしない。乾いた藁を蹄の後ろへ足し、次の冷却と一口の水へ戻った。工程を飛ばして引き起こせば、せっかく戻った腹音も蹄の熱も悪化する。
夜明け前、馬がもう一度首を上げた。
左前を胸の下へ置く。削った先は藁に引っ掛からない。右前を肩幅に開き、後脚を腹へ引き寄せる。
一度、腰が上がりかけて落ちた。
馬は横倒しにならず、胸をついたまま息を整えた。目の前へぬるい水を置くと、自分で二口飲む。
次に腰を持ち上げたとき、誰も手綱を引かなかった。
前脚が震え、左の蹄が藁へ半分沈む。だが尖った先へ逃げず、蹄全体が地面を捉えた。後脚が伸び、空腹で薄くなった腹が持ち上がる。
五頭目は、自分の四本の脚で立った。
騎手は喜びの声を呑み込み、温餌の器をすぐには差し出さなかった。呼吸が落ち着き、馬が自ら鼻先を伸ばすのを待ってから、選んだ薄い器だけを前へ置く。
「濃く戻すのは、まだ先ですね」
「ええ。立てたことと、元の餌へ戻せることは別です」
団長は記録板へ、飲んだ量、選ばなかった器、冷却布を替えた時刻まで書き込ませた。
私は桶から手を抜いた。指は白く強張り、木匙を持ち上げることさえできない。夜通し布を替え、水を量った手は、朝になれば役に立たなくなる。今日、もう一頭を立たせることはできなかった。
ガレスが鼻で笑った。
「腹が減った馬が餌を食って立った。それだけだ。偶然を手柄にするな」
そう言って古い飼料桶を持ち上げ、雪へ捨てようとする。
「置け」
団長の声に、ガレスの手が止まった。
「なぜ捨てるのです。偶然なら、残して調べても困らないはずだ」
「酸っぱいのは上の層だけだ。底の塊まで熱を持っているわけではない」
馬房が静まった。
桶の底は、まだ誰も割っていなかった。
団長が記録板を騎手へ差し出す。
「今の言葉も記録しろ。桶も、一粒も捨てさせるな」
残り三十一頭。
(第6話へ続く)




