削る前と削ったあと
隣の馬は、立ち上がろうとするたび左前脚を胸元へ引き戻した。
代わりに右前脚を雪へ突っ張る。その蹄だけが深く沈み、肩まで細かく震えている。右が悪いから沈むのではない。痛む左を着けないせいで、右へ体重を集めすぎているのだ。
息を吐くたび、右前の繋ぎが沈み、蹄の周りの雪が暗く濡れた。左前は腹へ引き寄せられたまま、伸びた蹄先だけが敷藁を掻いている。このまま立つ回数だけを増やせば、右前も同じ熱を持つ。
私は馬の正面を避け、肩より後ろから近づいた。左前の蹄へ手の甲を寄せると、蹄壁に触れる前から熱が伝わる。右も熱い。けれど左は蹄の外側が硬く盛り上がり、伸びた先端が藁へ引っかかっていた。
「この馬の騎手は?」
一人の騎手が進み出た。眠っていない顔で、手袋を胸元へ握り込んでいる。
「昨日、立たせようと手綱を引きました。左を着けないのは、そのとき捻ったからでしょうか」
「それだけではありません。でも、今日も引けば右まで傷めます」
騎手の視線が、雪へめり込んだ右前へ落ちた。手綱を引いたことを責めても、馬の蹄は軽くならない。今必要なのは、次に同じことをしない目と手だった。
私は三十三頭を見渡した。
腹音が弱い馬。水桶へ鼻先を近づけても飲まない馬。後脚を投げ出したまま腫れの引かない馬。そして一番奥では、団長の馬が厚い藁の上で横たわっている。騎手たちが体位を替え、腹を毛布で包み、唇を湿らせるだけの水を間を置いて与えていた。痙攣は戻っていない。
私が距離を詰めると、団長の馬の耳が後ろへ倒れた。
足を止める。今日も、私の手は許されていない。
「この一頭を選びます」
私は左前を浮かせた馬を示した。
「今なら、左の蹄の角度を戻せます。今夜も右だけで立とうとすれば、明日は両方に体重を載せられなくなる。団長の馬は、いつもの騎手たちで保温と体位交換を続けてください。拒んだら給水も中断して、唇を湿らせるところからやり直してください」
選ばなかった三十二頭の夜も、待ってはくれない。
どの馬房からも湿った息と藁の擦れる音が届く。それでも私の二本の腕が夜通し冷やし、飲んだ量を確かめ、変化を追えるのは一頭だけだ。手を広げれば多くを救えるのではない。手順を薄めれば、選んだ一頭まで失う。
私は冷却布を替える時刻、水を置く間隔、腹音と排泄を記す欄を地面へ並べた板に書いた。後脚の腫れた馬には巻き布を締めず、濡れたまま放置しないよう頼む。呼吸の浅い馬からは重い毛布を一枚減らす。私が四頭目に夜通し付けば、その手順を守るのは騎手たちだった。
「手を貸してください。ただし、馬を押さえつけるためではありません」
名乗り出た騎手を馬の左前へ連れていく。
「手袋を外して、まず右の蹄へ手の甲を当てて」
騎手はためらいながら触れた。
「温かいです」
「次に左。先端、内側、外側の順で。同じ手の、同じ場所を使ってください。強く押さえず、三つ数えたら離して」
左の外側へ移った途端、騎手の眉が寄った。
「熱い。こんなに違うのか」
馬の皮膚がぴくりと動いたので、騎手は教える前に手を離した。私はうなずく。熱を知るために触れ続け、触れられることまで嫌わせてはならない。
「その違いを覚えてください。私が削ったから良くなるのではなく、削る場所、冷やす時間、水と餌、休ませ方まで合ったときにだけ変わります。一つでも飛ばせば、もっと熱くなる」
左前の蹄は、先端が伸びたうえに外側だけ高かった。踏み込むたび、伸びた部分が梃子のようになり、熱を持った内側を引っ張る。だから馬は左を着けず、右へ逃げている。
削蹄刀を見せると、馬の鼻孔が広がった。
いきなり蹄へ当てず、柄を藁の上へ置く。匂いを嗅がせ、耳が横へ戻るまで待った。騎手には脚を持ち上げさせず、馬が横たえたままの角度を保ってもらう。
最初に、伸びた先端を爪の幅より薄く落とした。
乾いた蹄の粉が藁へ散り、削蹄刀から硬い振動が指へ返った。ほんの薄片でも、熱を持つ蹄には大きな変化になる。
馬が脚を引いた。
すぐに刃を離す。
「まだ削れるでしょう」
「削れることと、削っていいことは別です」
馬が脚を藁へ戻すまで待ち、鼻先へ常温の水を一口分だけ置いた。唇は触れたが、飲まずに顔を背ける。ならば下げる。喉が乾いているからと流し込めば、次は桶そのものを拒む。
呼吸が落ち着いてから、今度は鑢を一度だけ外側へ滑らせた。
高い部分を一度。休む。
先端を一度。休む。
鑢を離すたび、蹄を藁へ戻して置き方を見る。最初は外側だけが先に触れた。次は蹄先と外側がほぼ同時に藁を押した。その小さな違い以上を欲張らない。
蹄底の柔らかい場所には触れず、右と同じ向きへ急に揃えようともしない。長いあいだ偏っていた角度を一度で変えれば、腱も肩もついてこられない。今日は、左を藁へ置ける分だけでいい。
三度目に刃を近づけたとき、馬は耳を伏せ、尾を藁へ強く打ちつけた。
私は道具を置いた。
「ここまでです」
「外側がまだ少し高い」
「残りは立てるようになってからです。嫌がる脚を押さえて仕上げれば、次に必要な処置まで拒みます」
削った蹄を、雪で冷やした布で包む。冷たすぎる水へ急に沈めると脚を引いたため、最初は雪を少なくした水に変えた。馬が布を蹴らなくなってから、少しずつ冷たくする。
布を巻くたび、耳と尾を見た。結び目へ鼻先を向けるだけなら待つ。脚を腹へ引こうとしたら、すぐ緩める。冷えている時間の長さより、次も巻かせてくれることのほうが大切だった。
右前も同じように冷やした。ただし左より短くし、布を外すたび左右の熱を確かめる。腹は毛布で温めた。蹄を冷やすからと体まで冷やせば、飲んだ水も腹も動かなくなる。
夕刻、馬は自分から水桶へ鼻先を伸ばした。
一口飲んだところで下げる。間を置いて二口。腹へ耳を寄せ、低い音が返ってからもう二口。濡らした干し草を数本置くと、匂いを嗅ぎ、一本だけ噛んだ。濃い飼料は与えない。立つ力をつけさせようと急いで腹へ詰めれば、また蹄の熱が増す。
夜は冷却布を替え続けた。
布を絞り、巻き、外す。水を二口置き、飲まなければ下げる。腹を温め、蹄を冷やし、乾いた藁を足す。
同じ動きを重ねるたび、袖口から入った冷水が肘まで伝った。指先は赤さを失い、布を絞る力も少しずつ弱くなる。それでも交換を一度延ばせば、布は蹄の熱を吸って生温かくなる。給水を一度まとめれば、弱った腹へ負担が寄る。省ける工程は一つもなかった。
その合間にも、選ばなかった馬の荒い息が厩舎を満たしていた。騎手たちは板に時刻を書き、二人ずつ交代して体位を替えた。一頭が水を拒めば桶を引き、別の温度で置き直す。団長自身も愛馬の首を支え、嫌がる前に手を離していた。
夜半、四頭目が左前を藁へ下ろした。
まだ体重は載せない。ただ、胸元へ抱え込まず、蹄の底を平らに置いている。肩の震えも、右だけで支えていたときより浅い。
「触ってみてください」
騎手が再び手の甲を当てた。右、左の先端、内側、外側。
「左はまだ熱い。でも、外側だけ焼けるようだった差が小さい」
「それが今夜守る変化です。冷やすのをやめず、水を急に増やさず、立っても歩かせないでください」
騎手は、自分の手の甲を見つめた。
「私は毎日、この蹄を洗っていた。それなのに、熱いと気づかなかった」
「今日、覚えました。明日は昨日より早く止められます」
夜明け前、馬が首を起こした。
左前を胸の下へ折り込み、削った先端を藁へ置く。右前は昨日ほど遠くへ突っ張らない。後脚を腹へ寄せたところで、左の蹄が一度滑った。
騎手が肩へ手を伸ばす。
「待って」
馬は耳を後ろへ向けていた。支えられるのを嫌がっている。私たちは離れ、蹄の後ろへ乾いた藁だけを足した。
一度目は胸を浮かせただけで、また横たわった。
雪と藁が胸の下で沈み、馬の息が白く広がった。騎手の喉が鳴ったが、手綱には触れない。失敗ではない。どこへ蹄を置けば痛みが少ないか、馬自身が確かめたのだ。
冷却布を巻き直し、水を一口置く。馬は飲み、しばらく目を閉じた。
二度目、左前が藁を踏んだ。
右へ逃げず、左だけにも偏らず、二本の前脚が肩幅に開く。後脚が雪を掻き、腰が持ち上がった。左肩が大きく震えたが、蹄先は折れず、削り残した外側も滑らなかった。
四頭目は、自分の四本の脚で立った。
騎手は手綱を取らなかった。代わりにしゃがんだまま、左右の蹄をもう一度触り比べた。
「歩かせません。水も、一度に飲ませません。残したところを勝手に削りません」
私ではなく、馬へ向けた言葉だった。
馬は耳を横へ戻し、鼻から長く息を吐いた。立った体はまだ揺れている。けれど騎手は、その揺れを止めるために手を伸ばさなかった。
団長が記録板へ目を落とす。
「次から、蹄の熱は騎手も測る。エマ一人が知っていては、間に合わない」
私はうなずき、冷却桶から手を抜いた。指は白く固まり、爪も掌も感覚がない。鑢を片づけようとしても、柄を掴めず藁へ落とした。朝になった今、この手でもう一頭の蹄を確かめることはできない。
その音に、二つ隣の馬が首をもたげた。
騎手が新しい飼葉を鼻先へ置く。馬はいったん濃い粒餌を口へ含んだが、奥歯を動かさない。次の瞬間、粘ついた飼料の塊を敷藁へ吐き戻し、空の腹を引きつらせるように激しく咳き込んだ。
「その桶を下げて!」
私は動かない指を胸元へ抱え、五頭目の馬房へ走った。
残り三十二頭。
(第5話へ続く)




