触れないという手当て
動かない指先へ、二頭分の荒い息が届いていた。
団長の馬は首を反らし、毛布の下で後脚を細かく震わせている。もう一頭は右腹を大きく膨らませ、横たわったまま後脚で腹を蹴ろうとしていた。雪を掻いた蹄が、凍った地面を鈍く鳴らす。
「明日の一頭を、今ここで決めてくれ」
団長の声は掠れていた。
「今の手では、どちらにも触れません」
桶から抜いた私の指は白く固まり、掌へ曲げることさえできない。感覚のない手で蹄を探れば、熱の差も、脈の強さも読み違える。昨日の一頭を夜通し冷やし、給水を繰り返した代償だった。指が戻らないうちに次へ手を出せば、救うための処置そのものが害になる。
「ですが、今夜まで生かすためにできることはあります。団長の馬を押さえつけないでください。首の周りの藁を退けて、頭を打たないよう丸めた毛布を置いて。痙攣が止まるまでは、水を口へ流し込まないでください」
騎手たちが動いた。手綱を短く持とうとした者を、団長自身が止める。革の張る音が消えると、馬の喉から漏れる息だけが耳に残った。
私は腹の張った馬にも近づかなかった。転がろうとするたび、右腹が硬く持ち上がる。だが、呼びかけには左耳がこちらを向き、差し出された乾いた藁の匂いも嗅いだ。意識は保たれている。
「こちらは横倒しのままにしないで。胸を下にできるなら、肩の脇へ畳んだ毛布を入れてください。嫌がって脚を突っ張ったら、そこで中断を」
「団長の馬を選ばないのか」
誰かが言った。
「選ぶのは、手が戻ってからです」
その返事をする間にも、団長の馬の奥歯が鳴った。団長の肩が強張る。私も駆け寄りたかった。けれど、焦って触れることと、正しく手当てをすることは違う。
痙攣の間隔は少しずつ長くなった。騎手たちは毛布で風を遮り、呼吸の数を声に出してつないだ。波が収まったところで、団長が鼻先へ器を置く。馬はすぐには飲まず、匂いを確かめてから一口だけ舌を浸した。
団長が器を傾けようとすると、馬の顎がわずかに引かれた。彼はその仕草を見て手を止め、器を雪へ戻した。
無理に飲ませなかったことで、二口目は馬自身が選んだ。
昼を過ぎるころ、私の指に刺すような痛みが戻った。血が通うたび、爪の裏へ細い針を差し込まれるようだった。曲げ伸ばしを繰り返し、乾いた布を掴み、落とし、もう一度掴む。布を絞れるまで待つ。まだ冷たさが骨に残っていたが、夕方には触れたものの硬さを判じられるようになった。
私はまず団長の馬の前に膝をついた。
触れる前に、手の甲を見せる。
馬の鼻孔が開いた。私の手と袖には、昨日までの馬の汗と、湿らせた藁と、蹄を冷やした布の薬草臭が染みついている。鼻先が近づきかけ、すぐに引かれた。両耳が首へ貼りつくほど伏せられる。毛布の下で、肩の筋肉まで硬くなった。
私は手を止めた。そのまま膝を後ろへ引き、馬が首を伸ばしても届かないところまで離れる。
「触れません」
「痙攣したんだぞ」
団長が馬のそばへしゃがむ。その手には馬が鼻を寄せた。強張っていた鼻孔が少し狭まり、息が団長の袖を温める。
「最も重い状態です。だからこそ、嫌がるまま蹄を持ち上げれば、残っている力まで奪います。今夜は団長たちが体位を替え、腹を冷やさず、受け取る量だけ水を与えてください」
「それだけで朝まで持つのか」
「分かりません」
嘘で安心させることはできなかった。団長の馬を選べば助かるとも言えない。受け入れられない処置は、正しい順番で行うことさえできないのだ。
「でも、拒んでいる処置を強行すれば、もっと悪くなります」
団長は自分の馬の伏せた耳を見た。しばらくして、手綱を雪の上へ置く。
「押さえつけるな。こいつが嫌がったら、全部止めろ」
その言葉を聞いてから、私は腹の膨れた馬を選んだ。
この一頭は、右腹の張りが呼吸を浅くし始めている。息を吸うたび、肋が途中で押し戻され、鼻孔だけが大きく動いた。朝まで放っておけば、内側から膨らんだ腹に肺まで追い詰められる。一方、私が近づくと耳を向け、手の匂いを嗅いでも退かなかった。今夜の処置を受け入れられるのは、この馬だった。
「今日の一頭は、こちらです」
その選択は、団長の馬を見捨てることではない。
けれど、私が夜通し冷却と給水を続けられるのは一頭だけだ。こちらへ膝をつくことは、団長の馬を含むほかの三十三頭の夜を、騎手たちへ預けることでもあった。
まず口元へ掌を置く。唇の内側は乾き、歯茎へ押した指の跡がゆっくりとしか戻らない。腹へ耳を寄せると、左からは短い音が返るのに、樽のような右側は張った皮が軋むだけだった。汗と湿った毛の匂いに、古い飼料の甘酸っぱさがまとわりついている。
腹を揉もうと手を滑らせると、尾が強く振られた。
「これは嫌なのね」
すぐに離す。代わりに腹の下へ乾いた毛布を寄せた。押し当てず、冷えた雪から隙間を作るだけにする。馬は脚を突っ張らなかった。呼吸にも乱れがない。ここまでは受け入れている。
前蹄は二つとも熱かった。特に右前は、蹄冠の下で脈が指を押し返す。腹が痛むたび前脚へ力を集めたせいで、伸びた蹄先に負担が偏っている。
私は蹄を持ち上げず、横たわった姿勢のまま外へ張り出した縁へ鑢を当てた。一度に深く削らない。ざらりという音がするたび、馬の耳がこちらへ傾く。二度擦っては蹄を下ろし、耳と呼吸を確かめる。三度目に右前を引かれたので、そこで止めた。
まだ削れる余地はあった。だが、道具を受け入れられる余地はもうない。
左右を同じ形にするためではない。この馬が立つとき、伸びた先端ではなく蹄の中央へ重みを戻せる分だけでいい。
削ったあと、冷たい水に浸した布を蹄へ巻く。腹は毛布で冷やさず、蹄だけを冷やす。布が生温かくなるたびに交換した。冷やす場所を取り違えれば、腹の動きはさらに鈍る。蹄を冷やしても、給水と飼料と休養を組み直さなければ、熱はまた戻る。
水を鼻先へ近づけると、馬は上唇を持ち上げ、顔を背けた。
私は器を下げた。口をこじ開ければ、弱った喉へ水が入る。
しばらくしてから、濡らした布で唇だけを拭う。馬が布を舐めたところで、浅い皿に水を指一本分だけ入れて置いた。今度は鼻先を背けない。一舐め。間を置いて、もう一舐め。舌が皿の底を擦る小さな音を、腹へ耳を寄せたまま数えた。
空になっても、すぐには足さなかった。腹へ耳を当て、左の音が二度続いてから、同じ量を置く。
濃い飼料はすべて下げた。甘酸っぱい臭いが移った桶も使わない。腹音が途切れている間は、新しい飼料を押し込まなかった。夜半、右腹の張りがわずかに緩み、内側で初めて低い音が返ったところで、水に浸した干し草を一つまみだけ鼻先へ置いた。
馬は匂いを嗅ぎ、耳を伏せた。
私は干し草を退けた。
「食べさせないのか」
「今は、この一口も拒んでいます」
騎手が黙って頷いた。空腹に見えることと、腹が食べ物を受け入れられることは同じではない。
選ばなかった馬たちの夜も止まらない。騎手たちは時を決めて横向きの体を支え、湿った敷藁を替え、受け入れる馬にだけ少量の水を置いた。団長の馬には団長が付き、痙攣のたびに頭のそばの毛布を直した。私が近づかない間は耳を立て、団長の手から三口ずつ水を飲んだ。四口目に顎を引けば、団長も器を下げた。
私は一頭分の布を交換し続けた。
桶へ手を沈めるたび、いったん戻った指の感覚が削られていく。布を絞り、蹄へ巻き、温度を確かめる。水を一舐め分だけ置き、腹音を待つ。その順を一つも飛ばさなかった。
夜明け前、腹の張った馬が長く息を吐いた。尾が持ち上がり、腹の内側に溜まっていたものが音を立てて抜ける。樽のようだった右腹へ手の甲を当てると、皮膚の下に柔らかな揺れが戻っていた。
もう一度、濡らした干し草を一つまみ置く。
今度は耳を伏せなかった。鼻先でほぐし、数本だけを唇で拾った。
それを飲み込むのを待ってから、蹄の布を外す。熱は残っているが、右だけが焼けるような差は小さくなっていた。削った縁を指でなぞり、乾いた藁を前脚の下へ厚く差し込む。
馬が首を起こした。
前脚を胸の下へ折り、いったん止まる。私は肩へ触れようとしたが、皮膚が細かく震えたので手を引いた。
「自分で選んで」
馬は鼻を鳴らし、右前を少し外へ置き直した。蹄先ではなく、中央が藁を踏む。後脚が腹の下へ寄り、腰が上がった。
一度、大きく揺れた。
誰も支えなかった。
四本の脚が震えながら雪を捉える。馬は右腹をかばって首を低くしたまま、それでも自分の力で立っていた。
団長が駆け寄りかけた騎手たちを手で制した。
「歩かせるな。立てたことと、戻ったことは別だ」
私は馬の前へ水を少量だけ置き、濡らした干し草を一つまみ残した。濃い飼料へ戻すのはまだ先だ。腹音、蹄の熱、飲んだ量を記録し、乾いた馬房で休ませなければ、今夜の工程は簡単に崩れる。立った脚へすぐ負荷をかければ、蹄の熱も腹の痛みもぶり返す。
桶から手を抜く。指はまた氷水で固まり、布を掴もうとしても滑り落ちた。朝の光が昇っても、この手ではもう別の蹄に触れられない。
立った三頭目が、下げられた古い飼葉桶へ鼻を寄せた。
食べるのかと思った次の瞬間、馬は耳を伏せ、桶を前脚で蹴り倒した。底にこびりついた餌の塊が雪へ転がり、割れた芯から白い湯気と甘酸っぱい臭気が上がる。
その音に反応した隣の馬が起きようとし、伸ばした左前脚をすぐ胸元へ引き戻した。右前の蹄だけが、雪の上へ深く沈んでいた。
残り三十三頭。
(第4話へ続く)




