三つの桶が選ばせたもの
十六頭目の馬房では、敷き藁が乾いたままだった。
汗で濡れた腹の下も、尾の付け根も、昨夜替えた藁には尿の跡がほとんどない。水桶の縁へ鼻先を寄せた跡はあるのに、水面は印を付けた高さから指一本分も下がっていなかった。
馬は左を下にして横たわり、右前脚を胸の前へ投げ出している。耳は人の足音を追う力を残していたが、鼻孔は乾き、唇の内側にも粘りがあった。
私は首の皮膚を指でつまみ、放した。
皺がゆっくり戻る。
「昨日から、これだけですか」
敷き藁の端に置かれた記録板を示すと、担当騎手は唇を噛んだ。
「夜明け前に一度。量は、両手に受けられるほどでした。色も濃かった」
尿が少ない馬はほかにもいた。だが十六頭目は、冷却を外した直後だけ左前を胸の下へ戻すと記録されている。立つ準備をする力は残っているのに、水が足りず、血の巡りも筋肉の動きも追いついていない。
今日の一頭は、この馬にする。
私は通路を振り返った。選ばなかった二十頭には、騎手たちが二刻ごとの体位交換を続けている。腹を温める布、脚を支える帯、浅い器での少量給水。団長馬の馬房でも、団長が自分の手で鼻先へ水を運び、顔を背けられればすぐに引いていた。
今夜、私が付ききりになれるのは十六頭目だけだ。
「ほかの馬は記録どおりに。飲まないときは量を増やさず、拒んだ時刻を書いてください。団長馬の体位は右へ替えたあと、胸が圧迫されていないか呼吸を数えて」
団長は頷いた。
「こちらに必要な物は」
「同じ温度の水を三桶。塩を入れないもの、ごく薄いもの、それより少し濃いものです。匂いが混じらないよう、別々の柄杓もお願いします」
運ばれた水は、どれも人肌より低い同じ温度に揃えた。温度まで変えれば、十六頭目が水温を選んだのか、塩分を選んだのか分からなくなる。
最初の桶には水だけ。
二つ目には、舐めても塩辛さをほとんど感じないほどの塩。
三つ目には、それより少し多く溶かす。
私は騎手にも順に指先を浸して舐めてもらった。
「濃い水を飲ませれば早く戻る、という意味ではありません。この馬に必要な濃さを、こちらで決めつけないためです」
担当騎手は三つ目の桶を見た。
「尿が出ないなら、一番濃いものを飲ませるのでは?」
「喉が渇いていても、濃すぎれば顔を背けます。背けた水を口へ流し込めば、むせるだけです。選んだ桶からも、一度に飲ませません」
桶を等しい間隔で並べ、人は下がった。
十六頭目はすぐには動かなかった。左耳だけが三つの水音を追う。やがて首を持ち上げたが、胸を起こす前に息が速くなった。
私は近づかず、首が藁へ戻るまで待った。
休んだあと、馬はもう一度鼻先を上げた。最初の桶へ顔を向け、匂いを吸う。だが唇を開かない。二つ目へ首を動かし、水面へ鼻を近づけた。
ひと息。
鼻先が水面に触れた。
馬は自分から一口だけ吸い、顔を上げた。
「これです」
私はほかの二桶を離してもらった。選ばなかった水を途中で混ぜれば、次に拒んだ理由が分からなくなる。
浅い器へ二つ目の水を移し、唇の高さまで運ぶ。十六頭目は一口飲んだ。二口目を欲しがるように器を追ったが、私はいったん下げた。
「なぜ止める」
団長の問いは責める声ではなかった。工程を確かめるための声だった。
「乾いた身体へ一度に入れると、腹が張り、弱った腸の負担になります。飲めることと、続けて飲ませてよいことは別です」
十息待ち、呼吸を数える。腹へ耳を当てると、弱い音が一度した。もう一口。再び待つ。
三度目のあと、十六頭目は器へ鼻先を押しつけた。私は動かさずにいたが、耳が後ろへ伏せた瞬間、器を下げた。
飲みたい仕草と、もう止めてほしい仕草が同時に出ることもある。都合のよい方だけを拾ってはいけない。
次は蹄を確かめた。右前の蹄冠には熱が残り、左前は冷却布を外したところだけ毛が寝ていた。私は肩から脚へ手を下ろし、耳の向きを見ながら蹄先へ触れる。
伸びた先端が藁を掻き、胸の下へ引き込む動きを邪魔していた。蹄刀で削るのは、左前の先をほんの薄く一枚だけにする。踵と蹄底には触れない。
刃を当てると、馬の耳が横へ開いた。
私は止めた。
手を離し、呼吸が戻るのを待つ。もう一度、肩、脚、蹄の順に触れる。今度は耳が前へ戻った。薄く削り、すぐ刃を外す。
右前はまだ熱があるため、冷たすぎない布を短く当てた。左前は冷却しない。昨日までと同じ時間を両脚に当てれば、せっかく胸の下へ戻しかけた左前をまたこわばらせる。
水を一口。
短い冷却。
乾いた布で水気を取って休ませる。
腹音が二度続いたところで、濃い飼料は与えず、湯でふやかした薄い温餌を小皿に載せた。十六頭目は匂いを嗅ぎ、ひとつまみ分だけ唇で取った。顔を離したので、皿も離す。
夜半、敷き藁に小さな濡れ跡ができた。
担当騎手が声を上げかけ、両手で口を覆った。量はまだ少ない。色も濃い。それでも、身体へ入った水が出るところまで巡った証だった。
私は濡れた藁を替えながら、騎手へ尋ねた。
「倒れる前、この馬はどのくらい水を飲んでいましたか」
「訓練のあと、水桶へ行こうとしました」
騎手の答えは途切れた。
「行こうとした?」
「手綱を引きました。汗をかいた直後に飲ませると身体が鈍る、腹を壊すと言われて……口をすすぐ量だけにしろと」
向かいの馬房から、別の騎手が顔を上げた。
「俺の馬もです。水桶へ鼻を入れたので、三口で離しました」
「私も止めました」
さらに奥から声がした。
「夕方の水も、飼料を残さず食べるまで待てと」
馬房ごとの偶然ではなかった。
私は記録板の余白へ、倒れる前の給水量と、止めた時刻を書いてもらった。誰が命じたかを今ここで争えば、馬の呼吸を数える耳が人の怒声へ向いてしまう。まず事実を一頭ずつ残す。
「思い出した順で構いません。ただし、見たことと聞いたことを分けて書いてください」
団長が通路にいた騎手たちへ命じた。
「全員、訓練後と給餌前後の給水について記録を出せ。自分が手綱を引いたなら、それも省くな」
担当騎手は十六頭目の鬣へ触れようとして、手前で止めた。
「俺が止めた水を、今、この馬に選ばせているんですね」
「はい。だから選んだあとも、飲む速さはこの馬に決めてもらいます」
夜明け前、十六頭目は二つ目の水をもう一口飲み、首を高く上げた。
左前を胸の下へ畳む。削った蹄先が藁を押し、滑らずに止まった。右前も引き寄せる。胸が床から離れたが、そこで身体が揺れた。
誰も綱を引かなかった。
馬は胸をいったん藁へ戻した。
私は水を勧めず、右前の熱と呼吸を確かめた。拒む耳の動きはない。だが冷却布もすぐには戻さない。立とうとした筋肉が落ち着くまで、何もしない時間を置く。
やがて十六頭目は鼻から長く息を吐いた。
もう一度、左前を胸の下へ入れる。右前が続き、胸が持ち上がる。後脚が腹の下へ折り畳まれ、腰が半分まで浮いた。
一度沈む。
それでも左前は外へ逃げなかった。
後脚が床を押した。腰が上がり、大きく揺れた胴を四本の脚が受け止める。右前を自分で半歩開き、重みを分ける。
十六頭目は、選んだ水を一口ずつ取り戻した朝に、自分の力で立った。
私は歩かせず、その場で休ませた。選んだ水を浅い器で一口だけ渡し、右前は熱が上がっていないことを確かめてから短く冷やす。薄い温餌も増やさない。立ったあとこそ、給水、冷却、飼料、休養の順を崩せば逆戻りする。
朝日が桶の水面へ差すころ、私の指は氷水で白く固まっていた。記録板へ線を引こうとしても指が曲がらず、木炭を床へ落とした。
団長が拾い、私の代わりに『自力起立』と書いた。
もう一頭を診る力は残っていない。選ばなかった二十頭の朝の処置は、記録を手にした騎手たちへ託すしかなかった。
その直後、通路の机へ二十枚を超える報告板が置かれた。
どの板にも、倒れる前の同じ時間帯に『給水を止めた』という記載があった。
残り二十頭。
(第17話へ続く)




