冷やしすぎない夜
指が曲がるまで、十五頭目の汗は止まらなかった。
湯気の立つ布で腹を温めてもらい、私は馬房の外から様子を見続けた。黒い首筋は濡れ、鬣の先から雫が敷き藁へ落ちている。横腹は細かく上下し、鼻孔は一息ごとに大きく開いた。
けれど、寒さに震えているのではない。
耳の付け根は熱いままなのに、汗で濡れた脇腹だけが冷え始めていた。騎手が替えの毛布を掛けようとすると、十五頭目は耳を伏せ、首を振った。
「掛けないでください。濡れた身体へ重ねれば、熱と湿気が逃げません」
私はそう告げ、乾いた布で押さえるよう頼んだ。擦れば皮膚を刺激し、余計に呼吸が上がる。騎手は布を当て、吸わせては替えた。
腹音が消えたという記録も気になった。だが、今の荒い呼吸のまま無理に体位を変えれば、腹を捻る。水を口へ流し込めば、飲み込む呼吸さえ奪ってしまう。
私は曲がらない指を温水へ浸し、出しては掌を開こうとした。昨夜の冷却で固まった関節は、すぐには戻らない。
その間にも、他の二十一頭には夜番がついていた。
団長馬は支持具で胸を起こされ、担当の騎手が少量の水を鼻先へ運んでいる。耳が伏せれば器を下げ、二刻ごとに体位を替える。別の馬房では腫れた脚の包帯へ指二本分の隙間があるか確かめ、さらに奥では腹音の弱い馬へ薄い温餌を近づけていた。
どの馬にも夜がある。
けれど、私が朝まで呼吸を数え、冷却と給水を組み直せるのは一頭だけだ。
指先の感覚が戻るころ、十五頭目の呼吸は一分に五十二回あった。口元へ水を置いても、鼻先を背ける。右前の蹄冠に触れようとすると、耳が後ろへ倒れた。
私は手を引いた。
「今日は、この馬にします」
団長が十五頭目の記録板を見た。
「腹音が消えたからか」
「それだけではありません。汗で水分を失い続けているのに、呼吸が速すぎて飲めない。蹄の熱も確かめられないほど触れられるのを嫌がっています。このまま待てば、乾いた身体の中で熱だけが残ります」
選ばなかった二十一頭には、今夜も騎手団の支持療法を続けてもらう。私は体位、保温、少量給水の時刻を一頭ずつ確かめた。それ以上の変更はしない。今日の一回を十五頭目へ使う以上、別の馬の飼料や蹄を途中までいじることはできない。
乾いた布で汗を吸わせると、十五頭目の脇腹がはっきり見えた。浅く速い呼吸の合間に、腹が硬く引きつっている。
私は聴診筒を当てる前に、馬の肩へ手の甲を近づけた。耳は動かない。肩に触れ、待つ。脚へ下りようとすると、尾が強く振られた。
そこで止めた。
しばらくして尾が下がり、鼻から短い息が漏れた。もう一度、肩から脚へ手を滑らせる。今度は耳が横を向いただけだった。
右前の蹄冠は、汗に濡れた皮膚より明らかに熱かった。左前も熱いが、右ほどではない。蹄先がわずかに伸び、横たわった姿勢で右前だけ内側へ巻き込まれている。
「先に冷やしますか」
担当騎手が氷水の桶へ手を伸ばした。
「いいえ。今は冷やし続けません」
十五頭目は熱を持っている。だからといって、熱い場所をすべて同じ時間だけ冷やせばよいわけではない。汗で皮膚はすでに冷え始めている。呼吸の速さを見ずに蹄を冷やし続ければ、身体が冷えに抵抗して震え、また呼吸が増える。
私は右前の蹄先だけを、鑢で二度撫でた。角度を大きく変えるのではなく、起きるときに藁へ引っかかる縁を落とす。三度目を当てようとすると、馬が脚を縮めた。
鑢を置いた。
「ここまでです。引かれた脚を追わないで」
蹄底と踵には触れない。左前も熱を確かめるだけにした。削ることが目的ではない。今の十五頭目が、胸の下へ脚を戻せる形にするための二往復だった。
次に、冷却布を右前の蹄冠へ当てた。
最初は二十息。
布を外し、十息休む。呼吸を一分数える。五十回。
新しい冷却布を当てる。今度も二十息。外して汗を吸い、浅い器を鼻先から少し離れた場所へ置く。馬は飲まなかったが、背けもしなかった。
四度繰り返したところで、呼吸は四十六回まで下がった。
「下がってきました。冷やす時間を十五息にします」
担当騎手が驚いて私を見る。
「熱が残っているのに、短くするんですか」
「呼吸が下がったのは、長く冷やしても平気だという合図ではありません。今までと同じ長さを重ねれば、汗で冷えた身体には強すぎます。蹄の熱が少し抜けた分だけ、次は短くします」
私は十五息で布を外した。休みは十息のまま取る。
十五頭目の耳が布を追った。嫌がってはいない。しかし、受け入れているからといって時間を延ばしてはいけない。
呼吸が四十二回になると、冷却は十息にした。
そのたびに布を外し、脇腹の濡れを乾いた布へ吸わせる。水は一口分だけ浅い器へ入れた。最初、馬は上唇を触れただけだった。私は器を押しつけず、床へ戻した。
二度目に鼻先を寄せ、一口飲んだ。
飲み込んだあと、呼吸が乱れないことを確かめてから、次の一口を入れる。三口目を拒んで首を背けたので、そこで止めた。
腹へ耳を当てると、ごく小さく、水の揺れるような音がした。
「鳴っていますか」
「一度だけです。戻ったと決めるには早いです」
記録板には、聞こえた時刻と、その後また聞こえなかった時刻の両方を書いてもらった。
夜半、呼吸は三十六回まで下がった。冷却布を当てるのは五息だけにした。蹄冠から外した布はすぐ桶へ戻さず、手の中で温度を確かめる。冷たすぎる布には替えなかった。
汗の雫は減った。首筋の毛はまだ湿っているが、新しい汗は浮いてこない。
私は薄い温餌を掌に載せず、小皿へ入れて鼻先へ置いた。十五頭目は匂いを嗅ぎ、耳を横へ向けた。口はつけない。
「今は下げます」
食べさせれば腹音が戻るわけではない。拒んだ餌を置き続けるだけでも休養を邪魔する。小皿を馬房の外へ出し、次の腹音を待った。
やがて、短い音が二度続いた。
水を一口。休養。五息の冷却。乾いた布で汗を吸う。
順番を崩さず繰り返した。
明け方、呼吸は二十八回になった。私は冷却布を持ったまま、十五頭目の耳を見た。耳は横を向き、皮膚が小さく震える。
「もう当てません」
「まだ右前は温かいです」
担当騎手が言った。
「はい。でも、熱さではなく温かさです。呼吸がここまで下がったのに同じ冷却を続ければ、今度は冷やしすぎます」
私は冷却布を桶へ戻した。
何かを続けるより、終える時刻を決めるほうが難しい。団長は記録板へ『冷却終了』と書き、その横へ呼吸数を記した。
十五頭目は鼻先を小皿へ向けた。薄い温餌を少しだけ戻すと、自分から唇で取り、ゆっくり噛んだ。すぐに追加せず、腹音を待つ。今度は間を置いて三度鳴った。
馬は首を持ち上げた。
右前を胸の下へ引き寄せる。削った蹄先が藁を滑らずに止まった。左前も畳まれ、胸が半分浮く。
そこで呼吸が速くなり、首が落ちた。
誰も綱を引かなかった。
「休ませます」
私は水を一口だけ近づけた。十五頭目は飲み、目を閉じた。蹄へ布は戻さない。呼吸が下がるのを待つことも、立つための工程だった。
しばらくして、馬はもう一度首を上げた。
両前脚を胸の下へ置く。胸が持ち上がり、濡れた毛が藁から離れた。後脚が腹の下へ入る。腰が一度沈んだが、右前は逃げなかった。
後脚が床を押した。
大きく揺れた身体を、十五頭目は自分で支えた。右前を半歩外へ置き直し、四本の脚へ重みを分ける。鼻から長い息が抜けた。
汗は新しく浮かなかった。
十五頭目は、冷やす時間を少しずつ短くされた夜の終わりに、自分の力で立った。
私は歩かせず、その場へ水を寄せた。薄い温餌も一度に増やさない。起立後の呼吸を数え、腹音を聞き、右前の蹄冠へは乾いた手を短く触れるだけにした。
団長は冷却記録を通路の壁へ留めた。
「長く冷やした回数ではなく、短くした時刻を全員に読ませる」
担当騎手も頷いた。
「良くなったら処置を減らす。それも同じ工程なんですね」
「はい。止め時を誤れば、正しい処置も負担になります」
朝日が差すころ、私の指はまた氷水で白く固まっていた。水差しの取っ手を握ろうとしても、指が閉じない。団長が代わりに器を持ち、十五頭目の口元へ置いた。
今日、もう一頭を診ることはできない。
その日から騎手団の記録板には、処置を始めた時刻の隣に、必ず新しい欄が作られた。
――短くした時刻。
――終えた理由。
そして昼の見回りで、次の馬房の騎手がその欄を指さし、私へ告げた。
「十六頭目は、冷却を外した直後だけ、左前を胸の下へ戻します」
残り二十一頭。
(第16話へ続く)




