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「馬を怯えさせる厄介者」と牧場を追われた私、倒れた近衛馬を一日一頭ずつ立たせていたら、最後の三十六頭目は騎手団長の愛馬でした  作者: ろくさんだ


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14/15

肩、脚、蹄の許可

 二刻ごとの記録板には、聞こえなかった腹音も、飲まなかった水も、そのまま残されていた。


 空欄を都合のよい言葉で埋めないこと。それが、騎手たちのあいだにもようやく根づき始めている。湿った藁と薬草の匂いがこもる馬房で、炭筆の黒い跡だけが、夜の長さを刻んでいた。


 十四頭目の欄には、腹音も給水量も途切れず記されている。横向きに寝たままだが、鼻先へ運ばれた水は一口ずつ飲み、薄い温餌も少量なら噛めていた。


 それでも夜のあいだに三度、胸を起こそうとしている。


 一度目は前脚を胸の下へ入れられず、二度目は右前を床へ置いた途端に脚を引き、三度目は肩を上げただけで倒れ直した。そのたびに担当騎手は綱を引かず、起立を止めて休ませていた。


 藁には、右前を擦った短い跡が三本残っている。どれも途中で外へ曲がり、その先で深く抉れていた。


 私は十四頭目の前へしゃがみ、右前の蹄を見た。


 蹄先だけが長く前へ伸び、外側の壁がわずかに反っている。寝た姿勢でも蹄冠には熱があり、球節の上まで筋が硬い。立とうとすれば、伸びた先端が床へ先に当たる。その力が梃子のように蹄壁を引き、痛む場所へ重みを集めてしまう。


 ただし、今すぐ掴んで削れる蹄ではなかった。


 担当騎手が右前へ手を伸ばしただけで、馬は脚を腹の下へ強く引き込んだ。首が反り、耳が後ろへ伏せられる。藁を打った蹄が、乾いた音を立てた。白目が細く覗き、鼻から短い息が続けて漏れる。


「触れられるのが嫌なのではない。触れられたあと、蹄を持ち上げられるのが怖いんです」


 私は騎手の手を下げてもらった。騎手は唇を結び、馬の届かない位置まで静かに退いた。


 団長が記録板を見ながら問う。


「今日は、この馬か」


「はい。腹と水は今夜を越えています。けれど、立とうとするたびに蹄先で痛みを増やしています。自分で立つ力が残っているうちに、床へ置ける形へ戻します」


 ほかの二十二頭も、安全だったわけではない。


 腹音の弱い馬には温めた布を替え、飲み込みの遅い馬には一口の量を減らす。横臥の長い馬は騎手たちが時刻を決めて体位を変え、胸と腰へ支持具を入れていた。団長馬には、団長自身が少量の水を含ませ、濡れた藁を替えている。私が馬房の前を通ると、団長馬の耳は今朝も伏せられた。鼻先も壁際へ向けられる。私は足を止めたが、中へは入らなかった。


 支持療法は続けられる。けれど夜通し蹄を冷やし、給水を繰り返し、変化を見落とさず付き添えるのは一頭だけだ。


 今日の一回を、十四頭目に使う。


 私は蹄刀も鑢も手にせず、馬の肩から腕一本分離れた場所へ座った。藁の冷たさが衣服越しに膝へ染みてくる。


 馬は私を見た。鼻孔が広がり、伏せた耳が小さく動く。他馬の汗と湿布の薬草が染みた袖を嗅いだが、顔は背けなかった。


 掌を見せて近づけることもしない。ただ膝の上へ置き、呼吸が落ち着くのを待った。こちらが急げば、その焦りは肩の力や息の速さになって伝わる。立たせたいという人間の都合まで、馬に背負わせてはいけない。


 やがて馬の首が藁へ戻った。耳が後ろから横へ開き、肩の皮膚を走っていた細かな震えが止まる。


 私はそこで初めて、指の背で肩へ触れた。


 馬の皮膚が一度だけ縮む。


 すぐに手を離した。


「今のが拒絶ですか」


 担当騎手が小声で尋ねる。


「驚いただけかもしれません。でも、驚きと拒絶をこちらの都合で分ければ、次は脚で答えます。もう一度、馬が戻るまで待ちます」


 十息ほどして、馬は鼻から長く息を吐いた。温かな息が藁を揺らす。肩が私のいる側へわずかに沈み、耳は横を向いたままだった。


 もう一度、同じ場所へ触れる。


 今度は皮膚が逃げなかった。


 肩への許可だった。


 私は掌を滑らせず、触れては止まりながら、肩から前腕へ下りた。肘に近づくと筋が硬くなる。指の下で、細い縄を張ったような強張りが浮く。そこで手を止める。圧を加えず、脚を持ち上げようともせず、ただ温度だけを確かめた。


 筋の硬さがほどけるまで待つ。


 馬は一度、右前を腹へ引いた。私は触れるのをやめた。


 浅い器を鼻先へ置くと、馬は水を一口飲んだ。舌が水面を押し、小さな波が器の縁へ当たる。二口目を促さず器を下げ、また休ませる。次に肩へ触れたときは皮膚が逃げない。前腕へ進み、球節の上で止まる。


 馬が自分から脚を少し伸ばし、踵を藁へ置いた。


「今ですか」


「まだ蹄には触れません。脚を伸ばしても、蹄を預けるとは限りません」


 私は球節の上へ手を置いたまま、さらに待った。熱を持つ蹄冠とは違い、球節の上には夜から残る張りがあった。ここで掴めば、馬はまた腹の下へ脚を隠す。


 馬の鼻先が私の袖へ寄った。匂いを確かめ、押し退けることなく離れる。それから右前の力を抜き、蹄先を藁の上で横へ倒した。


 脚への許可だった。


 私は蹄冠へ指一本だけ触れた。


 耳が後ろへ動く。指を離す。


 もう一度、肩から始めた。肩に触れ、止まる。前腕へ下り、止まる。球節を包まず、手の甲を添えて待つ。


 三度目に蹄冠へ触れたとき、馬の耳は横を向いたままだった。右前は引かれない。蹄先が藁から指二本分だけ浮き、私の掌へ重みが移った。


 ようやく、蹄への許可が出た。


「道具を」


 担当騎手が差し出した蹄刀を受け取る。金属の柄は朝の空気を吸って冷たかった。


 蹄を高く持ち上げれば、肩と脚で得た許可まで失う。私は蹄先を藁につくすれすれの高さに保ち、外へ反った壁の先端だけを薄く落とした。


 乾いた角質が、薄片になって藁へ落ちる。


 一削りごとに蹄を戻す。


 耳を見る。鼻孔を見る。肩の硬さを見る。


 長く伸びた先端を一度に正そうとはしなかった。白く崩れた角質と、床へ最初に当たっていた縁だけを削る。蹄底には刃を入れず、踵も触らない。形の美しさではなく、立ち上がるときの引っかかりを減らすための最小限だった。


 三度目に蹄を戻したところで、馬が脚を腹へ引いた。


「まだ外側が残っています」


 担当騎手が言う。その視線は、わずかに反った蹄壁へ向いていた。


「残します。嫌だと言ったあとまで削れば、次に必要な冷却まで拒まれます。今日立つために必要なのは、完全な形ではありません」


 削蹄を終え、右前へ冷却布を近づける。肩へ触れ、脚へ触れ、蹄冠へ触れる。同じ順番で待ち、耳が横へ戻ってから布を当てた。


 冷たさに蹄が一度浮く。すぐ布を外す。冷やすために押さえつければ、痛みより先に布を恐れるようになる。少し温度を戻してから再び当て、十息で外した。


 給水は一口ずつ。温餌は薄くし、鼻先へ置いても食べなければ下げた。馬は二度目に匂いを嗅ぎ、三口だけ噛んだ。顎の動きが止まれば、残りはその場に置かず片づける。


 夕刻には、外気が下がるたび冷却布の冷たさも変わった。私は同じ時間を当て続けず、布を手首の内側へ触れさせてから蹄へ運んだ。馬が肩を固くすれば外し、水を飲んだあとは息が整うまで何もしなかった。


 夜半、蹄冠の熱は残っていたが、球節の上の筋は柔らかくなった。私は冷却布を替え、馬が脚を引けば止め、肩から許可を取り直した。眠気で指先の感覚が鈍るたび、冷却水へ手を入れて布の温度を確かめる。水の冷たさは骨まで染み、曲げ伸ばしのたびに指の節が軋んだ。


 明け方、十四頭目は自分から首を上げた。


 右前を胸の下へ入れる。削った蹄先が藁に引っかからず、蹄底がほぼ同時に床へ着いた。左前も寄る。


 胸が浮いた。


 一度、右前が震える。馬は起き上がるのを止め、鼻から荒い息を吐いた。私は支えず、騎手にも綱を持たせなかった。浅い器を寄せると、馬は水を一口飲んだ。


 鼻先から落ちた雫が藁へ染みる。馬は首を下ろしたまま休み、右前の置き場を探るように蹄をわずかに動かした。


 しばらく休み、もう一度、前脚を置き直す。


 胸が上がり、肩が床を離れた。後脚が腹の下へ入り、腰が持ち上がる。右前の蹄先は滑らず、外へ逃げなかった。大きく揺れた身体を、馬は左前と二本の後脚へ少しずつ分け、自分で右前を半歩だけ開いた。


 四つの蹄が床を押した。


 鞍も綱もない背が、朝の薄い光の中へ持ち上がる。担当騎手は声を飲み込み、握っていた両手をゆっくり開いた。


 十四頭目は、肩、脚、蹄の順に触れることを許し、自分の力で立った。


 私は歩かせず、その場へ水を寄せた。立てたことと、歩けることは同じではない。右前を冷やすときも、立ったからと順番を省かない。肩へ触れ、脚へ下り、蹄冠で耳を確かめてから布を当てる。


 団長は記録板へ三つの欄を作らせた。


『肩』『脚』『蹄』


 それぞれに、許された時刻と、中断した回数が記された。


「削った量も書きますか」


 担当騎手が尋ねる。


「削らなかった場所も書いてください。蹄底と踵は触らなかった。外側も途中で止めた、と」


 成功した工程だけを残せば、次の者は中断を失敗だと思う。止めたことも処置の一部だった。


 朝の光が馬房へ差すころ、私の指は冷却水で白く固まっていた。蹄刀を置こうとしても指が開かず、団長に柄から抜き取ってもらう。指先を掌へ戻そうとしても、半分までしか曲がらない。もう水差しさえ握れなかった。


 今日、もう一頭を診ることはできなかった。


 そのとき、夜番の騎手が通路の奥から駆けてきた。手には十五頭目の記録板がある。荒い足音に十四頭目の耳が動き、騎手は馬房の手前で速度を落とした。


「二刻前から、腹音がありません。体位を変えても、水を近づけても戻りません」


 私は動かない指を胸元へ抱え、記録板の空白を見た。焦って今触れても、冷え切った指では腹の張りも温度も正しく読めない。


「温めた布を腹へ。水は無理に飲ませないでください。私は指が戻り次第、最初にその馬を見ます」


 立った十四頭目の隣で、次の一日がもう始まっていた。


 残り二十二頭。


(第15話へ続く)

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