立つことと、歩くこと
十三頭目が腫れた後脚を藁へ打ちつけるたび、鈍い音が馬房の壁を震わせた。
乾いた藁が跳ね、冬の湿気を含んだ獣舎の空気へ細かな埃が舞う。音のたびに近くの馬が耳を動かした。
昨夜までは、下になった脚を圧迫しないよう騎手たちが体位を替えていた。それでも右後ろの飛節から下は熱を持ち、皮膚が張っている。馬は首を伸ばして腹を振り返り、また脚を打った。
「立たせて歩かせろ」
通路から声が飛んだ。
「腹が止まっているなら、歩かせて動かすしかない」
二人の騎手が綱を持ち、馬房へ入ろうとする。金具が触れ合う音に、十三頭目の鼻孔が大きく開いた。
「待ってください」
私は戸口へ腕を伸ばした。
「歩かせません。まだ、自分で立つ準備ができていない」
「寝かせたままでは、ますます腹が動かなくなる」
「だからといって、綱で起こして歩かせればいいわけではありません」
立てない馬を人の都合で引き起こせば、腫れた脚を置く場所まで人が決めてしまう。腹が痛むのか、脚が痛むのか、それとも両方なのかも分からないまま歩かせれば、逃げ場のない痛みを増やすだけだ。
私は馬の脇へ膝をついた。湿った藁の冷たさが衣服を通して膝へ染みる。十二頭目を夜通し冷やした指は白く固まったまま、掌を開くこともできない。今は触れられない。触れられないなら、耳で確かめるしかなかった。耳を腹へ近づけた。
何も聞こえないわけではない。けれど、間隔が長すぎた。かすかな水音が一度してから、次の音まで十を数えても足りない。耳を寄せた頬の下で、腹の皮膚は冷たく、薄く震えていた。
十三頭目が右後ろを打ちつける。
私はすぐ顔を離した。馬の耳が横へ伏せ、尾が強く藁を払ったからだ。頬に残った冷たさだけを確かめ、それ以上は追わない。
「後脚の腫れだけを見てはいけません。腹へ触れられるのも嫌がっています。歩かせる前に、横たわったままでできることがあります」
団長が綱を持つ二人を見た。
「命令は取り消す。綱を置け」
二人はためらったものの、馬房の外へ綱を置いた。床に落ちた革の音を聞いて、十三頭目の伏せていた耳がわずかに戻った。
指が曲がるのは夕方になる。それでも、今日の一頭は今のうちに決めなければならない。
残る馬たちの中には、蹄の熱が下がりきらない馬も、まだ濃い飼料の匂いだけで顔を背ける馬もいる。団長馬は奥の馬房で、騎手たちが支持具を確かめながら胸を起こしていた。少量の水を与え、濡れた藁を替え、拒めば止める。その手当ては続けられている。
通路を見渡せば、二十四の馬房から異なる息遣いが重なって聞こえた。今夜、私の手が届くのは、そのうち一頭だけだ。
十三頭目の腹音は今朝になって急に弱くなった。後脚を打つ回数も増えている。このまま腹が冷え、飲めない時間が延びれば、明日まで待てない。
「今日は、この馬を看ます」
その一言は、ほかの二十三頭へ今夜付ききれないという意味でもあった。胸の内で数え直しても、選択は変わらなかった。
私は夜番の騎手たちへ、残る馬の冷却布と給水の時刻を読み上げた。団長馬には二人を残し、体位を替える前に耳と鼻先を確かめるよう頼む。蹄を冷やす馬、腹を保温する馬を取り違えないよう、桶と毛布を馬房ごとに分けさせた。
「嫌がったら、決めた回数の途中でも止めてください。時刻を守ることより、馬の返事を守ることが先です」
騎手たちがそれぞれの桶を持って散っていく。その足音が遠ざかるころ、日が傾き、ようやく指が掌へ届くまで曲がった。私は改めて十三頭目の脇へ膝をつき、右後ろへ手の甲を近づけた。
蹄そのものの熱は強くない。腫れは飛節の外側に集まり、下側になっていた皮膚ほど硬い。指先で押さなくても、毛の流れが押し広げられ、皮膚が張っているのが分かる。長く同じ向きで横たわった圧迫が重なっている。
冷たい布を飛節へ当てると、馬の耳が後ろへ向いた。
すぐに外す。
井戸水より一段ぬるい布へ替え、今度は腫れの中央を避けて、その上下へ短く当てた。耳は横へ動いたが、伏せきらない。尾も止まっている。
「冷やし続けないでください。腹まで冷えます。十息当てたら外して、皮膚の硬さを確かめます」
騎手が馬の呼吸に合わせて十まで数え、布を外した。冷やした箇所だけを急に擦らず、私は手の甲を浮かせたまま熱の境目を探った。
四つの蹄を順に触れる。前蹄には弱い熱が残るが、左右差は小さい。今、削る必要はない。代わりに、蹄先が藁へ沈んで腹の下へ寄せにくくならないよう、敷き藁を薄く均し、その下へ乾いた板を入れた。後ろは腫れた脚へ重みが集中しないよう、左右の高さを揃える。
「立たせるために削るのではありません。今は削らないことも調整です」
削れば元には戻せない。蹄の形を変えるより先に、蹄を置く床を変える。十三頭目が自分で脚を畳める余地を残しておく。
次は体位だった。
右後ろを下にしたままでは腫れが引かない。けれど人が脚を引けば、馬は驚いて腹へ力を入れる。
私は馬の肩側へ丸めた毛布を置き、反対側の藁を低くした。騎手には首と腰へ手を添えるだけにしてもらう。
「押さないでください。この馬が首を動かした分だけ、毛布をずらします」
馬の鼻先へ手を近づける。私の袖には、十二頭分の汗と湿布の薬草の匂いが染みついている。鼻孔が狭まり、顔が背けられた。
追わなかった。
代わりに担当騎手が空の掌を藁へ置いた。十三頭目は荒く息を吐き、その掌を嗅ぐ。見慣れた者の匂いを確かめるように鼻先を留め、首が少し持ち上がった。
毛布を半分だけ抜く。
馬が前脚を曲げ、胸を起こした。そこで待った。肩の筋肉が細かく震え、息が二度、三度と荒く抜ける。呼吸が落ち着いてから、肩を傾ける。後脚が自分で藁を掻き、体がゆっくり反対側へ転がった。
右後ろが上になる。
騎手たちは息を吐いたが、誰も歓声を上げなかった。大きな声で驚かせれば、今できたばかりの楽な姿勢を崩しかねない。
腹の下へ、乾いた毛布を二枚重ねた。上から掛けるだけでは、雪に近い床から冷えが戻る。脇腹には湯気の立たない程度の温水を入れた革袋を、布で包んで置いた。
最初に袋が触れた瞬間、馬の腹が強く縮んだ。
「外して」
すぐ離す。
もう一枚布を重ね、直接当たらないよう腹から指一本分離して置く。温めるのは腹を押すためではない。冷えた空気を遮り、馬自身の熱が逃げるのを遅らせるためだ。今度は耳が前後へ動いただけだった。
温めている間、水差しを見せた。口へ流し込まず、浅い器へほんの少し注ぐ。水面が器の底をようやく覆うほどの量だった。
馬は匂いを嗅いだが、飲まない。
「次を足すな」
団長の声に、水差しを持つ騎手の手が止まった。
待っていると、十三頭目は一度だけ器の縁を舐めた。そこで器を引く。四つ息を置いて、同じ量を戻す。
二度目は一口飲んだ。舌が水を巻き取り、喉が小さく動く。飲めたからといって続けて注がない。
腹へ耳を寄せると、遠くで湿った音がした。まだ弱い。それでも先ほどより間隔が短い。
少量の給水、腹の保温、飛節への短い冷却を順に繰り返した。どれか一つを続けすぎない。水を二口飲んだあとに顔を背ければ休ませ、温めた布へ尾を打てば外した。冷却布がぬるくなるたび桶へ戻し、絞るたびに冷水が手首まで伝った。
夜半、腹音は三つ息の間に一度聞こえるようになった。
十三頭目は後脚を打たなくなっていた。上になった右後ろを一度伸ばし、自分で曲げ直す。藁を擦る蹄の音は先ほどまでの打撃より軽い。飛節の皮膚にはまだ熱があったが、張りはわずかに緩んでいる。
「そろそろ歩かせられるか」
先ほど命令した騎手が尋ねた。声から焦りは消えていたが、視線は置かれた綱へ向いていた。
「まだです」
私は首を振った。
「立つことと、歩くことは別です。この馬にはまず、立つかどうかを選ばせます」
綱は床へ置いたままにした。水の器を鼻先から前脚一つ分だけ離し、誰も腰を押さない。届かないほど遠くも、首だけで届くほど近くもしない。
十三頭目は水へ首を伸ばした。
右前を胸の下へ畳む。左前も寄せようとして、蹄先が藁を掻いた。薄く均した藁の下で、乾いた板が低く鳴る。私は床を崩さないよう、離れて見守った。
一度、胸が上がる。
だが、後脚が腹の下へ入らず、馬は横へ戻った。脇腹から重い息が漏れ、鼻先が藁へ沈む。
騎手が近づこうとしたので、団長が腕で止めた。
「本人の二度目を待て」
十三頭目は荒い息を吐いた。私は浅い器を戻し、一口だけ飲ませた。腹から革袋を外し、脚の周りにも何もない状態にする。立ち上がるときに触れる物が一つでもあれば、それを避けようとして腫れた脚を捻るかもしれない。
しばらくして、馬は首を高くした。
両前脚を胸の下へ入れる。蹄底が板の上の薄い藁を押した。胸が持ち上がり、肩が大きく揺れる。後脚が折り畳まれる。
腫れた右後ろが一度震えた。
それでも人の綱には頼らなかった。左後ろで床を押し、腰を上げる。遅れて右後ろが蹄底を着き、馬自身が半歩外へ開いた。
四つの蹄へ、ゆっくり重みが分かれた。
鼻から長い息が抜ける。鬣の根に浮いた汗が灯火を鈍く返した。十三頭目は歩かされることなく、自分の力で立った。
私はすぐ水を近づけ、歩かせずに休ませた。腹音を確かめ、右後ろへ短く布を当てる。馬が尾を振れば外し、また十息休む。立ったあとも、冷却、給水、休養の順を崩してはいけない。
「立ったから歩ける、とは記録しないでください」
団長は頷き、命令を書いた札を裏返した。
表には『起立後、歩行』とある。裏へ団長自身が書き直す。
『起立後、その場で休養。歩行は別に判断する』
朝、私の指は温水と冷却布を往復したせいで、また白く固まっていた。爪の際まで感覚が薄く、水差しを持ち上げようとしても関節が曲がらない。両手で挟んでも器は持ち上がらず、担当騎手に渡した。
十三頭目が立っている。その事実で、消耗した身体が戻るわけではない。今日もう一頭を看る力は残っていなかった。
私は夜番の記録板に、新しい欄を作ってもらった。
「今夜は全頭、二刻ごとに腹音を書いてください。聞こえないときは、聞こえないまま記すこと。聞こえたことにして空欄を埋めれば、次に選ぶべき一頭を間違えます。明日の一頭は、その記録を見てから選びます」
立った十三頭目の足元で、裏返された命令札が乾いた音を立てた。
残り二十三頭。
(第14話へ続く)




