↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「馬を怯えさせる厄介者」と牧場を追われた私、倒れた近衛馬を一日一頭ずつ立たせていたら、最後の三十六頭目は騎手団長の愛馬でした  作者: ろくさんだ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/15

声を置く場所

 十二頭目は、人の声が高くなるたび、藁の上で小さく震えた。


 脇腹へ寄せていた後脚が伸び、蹄が壁を擦る。耳は声のしたほうへ向くのではなく、首へ張りつくほど伏せられた。息は鼻先だけで刻まれ、胸が浅く上下している。


「こいつが今、顔を上げたんです!」


 担当騎手が叫ぶと、馬の肩が跳ねた。


 起き上がりかけた首が藁へ落ち、四肢が固く伸びる。


「声を止めてください」


 私が言うと、騎手は口を閉じた。けれど喉の奥には、次の言葉が詰まっている。十一日間、横たわった愛馬がようやく顔を上げたのだ。喜ぶなというほうが無理だった。


 私は馬房の外から耳を見る。


 左耳が一度だけ前へ戻り、すぐに騎手の荒い呼吸へ引かれて伏せられた。蹄冠には熱があり、前脚の脈も強い。ただ、今すぐ最も危ういのはその熱だけではなかった。立とうと力を集めるたび、担当騎手の声に筋肉を固めてしまう。このままなら、脚を腹の下へ畳めない。


 隣では、別の馬が腹を鳴らしていた。さらに奥では、冷却布を替える騎手が時刻を読み上げ、団長馬の馬房では体位交換のための支持布が静かに動いている。


 残る二十四頭のどれにも、今夜がある。


 団長馬は耳を伏せ、私の袖に染みついた汗と湿布の薬草の匂いから鼻先を遠ざけた。近づかずに蹄の向きだけを見る。騎手たちが保温、少量の給水、体位交換を続けられている。今夜も私の手を受け入れる様子はない。


「今日の一頭は、この馬にします」


 私は十二頭目の記録板を取った。


「立つ力が戻り始めています。でも、声に驚くたび、その力を自分でほどいてしまう。今夜を逃せば、蹄の熱を抱えたまま何度も踏ん張って、腱まで傷めます」


 担当騎手が唇を噛んだ。


「俺が黙っていればいいんですね」


「いいえ。あなたの声で手当てをします」


 騎手の目が上がった。その瞬間、また息が大きく吸い込まれる。馬の耳が伏せた。


「まず、吐いてください。話すのはそのあとです」


 私は自分の鼻から短く吸い、口から細く吐いて見せた。


 騎手が真似る。最初の息は途中で切れた。二度目は肩が上がった。三度目でようやく、胸ではなく腹がゆっくり戻った。


 馬の耳が首から離れた。


「今の呼吸を三回。声は、馬房の向こうへ投げず、馬の前の藁へ置くつもりで」


「……ここにいる」


 低くなった声に、馬は跳ねなかった。


 私は手の甲を鼻先から十分離れた場所へ出した。袖には他馬の汗と薬草の匂いが残っている。鼻孔が狭まり、顔がわずかに背けられたので、すぐ手を引いた。


「今は私を嫌がっています。あなたが触れてください」


「俺が?」


 声の端が上がり、馬の前脚が震える。


 騎手は自分で気づき、口を閉じた。細く息を吐いてから、もう一度言った。


「俺が、やる」


 今度は馬の耳が伏せなかった。


 触れる場所も、順番も、十一夜のあいだに騎手たちへ見せてきたものと同じにした。けれど、省いてよい工程は一つもない。


 騎手は手の甲を馬の鼻先へ出し、自分から触れてくるのを待った。鼻先が指へ近づき、匂いを確かめる。そこで初めて頬へ触れ、首、肩、前脚へ下りた。


「蹄を持ち上げないで。横たわったまま、蹄冠から触れてください」


 右前は熱い。左前も熱いが、右ほど脈が指を押し返さない。右の蹄先は長く、内側だけが擦れていた。立とうとして脚を畳むたび、先端が藁へ引っかかり、内側へねじれていたのだ。


 私が鑢を取ろうとすると、日が傾いてようやく曲がり始めたばかりの指が柄の上で強張った。


 担当騎手が手を伸ばしかけ、途中で止める。


「勝手には削りません。角度を教えてください」


 四頭目の夜から守られてきた言葉だった。


 私は蹄の縁を指先で示した。騎手に削る前の傾きを触らせ、鑢を一度だけ引かせる。そのたび蹄を藁へ戻し、熱と脈を確かめた。


 三度目に鑢の音がすると、馬の尾が強く藁を打った。


「中断です」


 騎手はすぐ鑢を離した。


 馬が二度息を吐く。耳が前へ戻るまで待ち、騎手は低い声で「もう一度、触る」と告げた。鼻先へ手の甲を出す。馬が自ら触れてきたあとで、蹄冠へ戻った。


 削ったのは、右前の引っかかる縁だけだった。左右を同じ形にはしない。蹄底が藁へ平らに触れるところで終えた。


 次は冷却だった。


 井戸水へ浸した布を、騎手自身が絞る。いきなり蹄へ巻かず、肩へ近づけ、馬の耳を見る。耳が横を向いたので止める。離す。前へ戻ってから、前脚の途中へ触れ、また離す。


「こんなに何度も止めていたのか」


 騎手が呟いた。


 私は頷いた。


「止めるところまでが手順です」


 三度目に、馬は布を受け入れた。


 騎手は右前の蹄冠を包み、砂時計を返した。時間になる前に馬が脚を引いたので、すぐ外す。布を温ませたまま続けず、水へ戻す。次は短く当てる。


 給水も同じだった。深い桶を顔へ押しつけず、浅い器へぬるい水を少量だけ入れる。騎手は器を置き、綱を引かずに下がった。


 馬は匂いを嗅ぎ、一度は顔を背けた。


 騎手の喉が鳴る。飲め、と言いそうになった口を閉じ、先に息を吐いた。


「ここに置く。嫌なら飲まなくていい」


 馬は耳を動かし、しばらくしてから一口だけ飲んだ。


 それを夜通し繰り返した。


 右前を冷やし過ぎないよう、外した時間も記録する。水は一口ごとに間隔を空ける。乾草は鼻先から少し離して置き、濃い飼料は近づけない。寝返ろうとしたときは引き起こさず、肩と腰がねじれないよう藁を足す。


 私は手順を告げ、熱を触り比べた。担当騎手は布を替え、水を量り、馬が耳を伏せるたびに止まった。


 夜半、奥の馬房で一頭が脚をばたつかせた。二人の騎手が体位を替え、別の一頭には温めた水が少量ずつ運ばれていく。団長馬にも団長自身が支持布を入れ直していた。


 選ばなかった二十四頭の夜も、放置されてはいなかった。ただ、私が蹄を組み直し、朝まで付き添える一頭は、この馬だけだった。


 明け方、十二頭目が首を持ち上げた。


 担当騎手が息を呑む。


 馬の肩が震えた。


 騎手は声を出す前に、細く長く息を吐いた。膝をついたまま、藁へ向けて静かに言う。


「急がなくていい。俺は、ここにいる」


 馬の震えが止まった。


 右前が胸の下へ入る。削った先端は引っかからず、蹄底が藁を押した。左前も寄る。後脚が腹の下へ畳まれた。


 一度、腰が浮き、落ちた。


 騎手の手が動いたが、綱には触れなかった。呼吸を三つ整え、同じ声量で告げる。


「もう一度でも、休んでもいい」


 馬は浅い器から水を一口飲んだ。


 右前を置き直す。胸が上がった。左前が床を捉え、後脚が藁を踏む。腰が大きく揺れたが、騎手は叫ばない。馬は自分で右後ろを半歩開き、四つの蹄へ重みを分けた。


 十二頭目は、担当騎手の静かな声を聞きながら、自分の四本の脚で立った。


 騎手は顔を両手で覆った。肩が震えている。それでも馬へ聞かせる声は整えていた。


「立ったな。……よく、自分で立った」


 私は歩かせず、立った位置へ水を寄せた。右前の蹄冠へ短く布を当て、耳が横を向けば外す。起立は処置の終わりではない。休ませ、飲ませ、熱が戻らないか確かめるところまで続く。


 団長は記録板を担当騎手へ渡した。


「エマが何を言ったかだけでは足りない。おまえが息を整えた回数と、声を止めた時刻も書け」


 騎手は涙を袖で拭い、頷いた。


「次の当番にも、俺が教えます。同じ声ではなく、同じ確かめ方を」


 その言葉を聞いたとき、夜通し冷却布に触れていた私の指は、もう白く固まっていた。曲げようとしても関節が動かない。今日、もう一頭の鑢も水差しも握れない。


 朝の見回りが始まると、十二頭目の騎手は通路の中央に立った。


「馬房へ入る前に、全員、一度息を吐いてください」


 興奮した報告の声が飛び交っていた通路が静まる。


 騎手たちは一人ずつ息を吐き、それぞれの馬の耳を見てから歩き出した。


 その静けさの奥で、次の馬房から、敷き藁を一定の間隔で打つ音が聞こえた。


 前脚ではない。


 横たわった十三頭目が、腫れた後脚だけを、何度も床へ打ちつけていた。


 残り二十四頭。


(第13話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。