声を置く場所
十二頭目は、人の声が高くなるたび、藁の上で小さく震えた。
脇腹へ寄せていた後脚が伸び、蹄が壁を擦る。耳は声のしたほうへ向くのではなく、首へ張りつくほど伏せられた。息は鼻先だけで刻まれ、胸が浅く上下している。
「こいつが今、顔を上げたんです!」
担当騎手が叫ぶと、馬の肩が跳ねた。
起き上がりかけた首が藁へ落ち、四肢が固く伸びる。
「声を止めてください」
私が言うと、騎手は口を閉じた。けれど喉の奥には、次の言葉が詰まっている。十一日間、横たわった愛馬がようやく顔を上げたのだ。喜ぶなというほうが無理だった。
私は馬房の外から耳を見る。
左耳が一度だけ前へ戻り、すぐに騎手の荒い呼吸へ引かれて伏せられた。蹄冠には熱があり、前脚の脈も強い。ただ、今すぐ最も危ういのはその熱だけではなかった。立とうと力を集めるたび、担当騎手の声に筋肉を固めてしまう。このままなら、脚を腹の下へ畳めない。
隣では、別の馬が腹を鳴らしていた。さらに奥では、冷却布を替える騎手が時刻を読み上げ、団長馬の馬房では体位交換のための支持布が静かに動いている。
残る二十四頭のどれにも、今夜がある。
団長馬は耳を伏せ、私の袖に染みついた汗と湿布の薬草の匂いから鼻先を遠ざけた。近づかずに蹄の向きだけを見る。騎手たちが保温、少量の給水、体位交換を続けられている。今夜も私の手を受け入れる様子はない。
「今日の一頭は、この馬にします」
私は十二頭目の記録板を取った。
「立つ力が戻り始めています。でも、声に驚くたび、その力を自分でほどいてしまう。今夜を逃せば、蹄の熱を抱えたまま何度も踏ん張って、腱まで傷めます」
担当騎手が唇を噛んだ。
「俺が黙っていればいいんですね」
「いいえ。あなたの声で手当てをします」
騎手の目が上がった。その瞬間、また息が大きく吸い込まれる。馬の耳が伏せた。
「まず、吐いてください。話すのはそのあとです」
私は自分の鼻から短く吸い、口から細く吐いて見せた。
騎手が真似る。最初の息は途中で切れた。二度目は肩が上がった。三度目でようやく、胸ではなく腹がゆっくり戻った。
馬の耳が首から離れた。
「今の呼吸を三回。声は、馬房の向こうへ投げず、馬の前の藁へ置くつもりで」
「……ここにいる」
低くなった声に、馬は跳ねなかった。
私は手の甲を鼻先から十分離れた場所へ出した。袖には他馬の汗と薬草の匂いが残っている。鼻孔が狭まり、顔がわずかに背けられたので、すぐ手を引いた。
「今は私を嫌がっています。あなたが触れてください」
「俺が?」
声の端が上がり、馬の前脚が震える。
騎手は自分で気づき、口を閉じた。細く息を吐いてから、もう一度言った。
「俺が、やる」
今度は馬の耳が伏せなかった。
触れる場所も、順番も、十一夜のあいだに騎手たちへ見せてきたものと同じにした。けれど、省いてよい工程は一つもない。
騎手は手の甲を馬の鼻先へ出し、自分から触れてくるのを待った。鼻先が指へ近づき、匂いを確かめる。そこで初めて頬へ触れ、首、肩、前脚へ下りた。
「蹄を持ち上げないで。横たわったまま、蹄冠から触れてください」
右前は熱い。左前も熱いが、右ほど脈が指を押し返さない。右の蹄先は長く、内側だけが擦れていた。立とうとして脚を畳むたび、先端が藁へ引っかかり、内側へねじれていたのだ。
私が鑢を取ろうとすると、日が傾いてようやく曲がり始めたばかりの指が柄の上で強張った。
担当騎手が手を伸ばしかけ、途中で止める。
「勝手には削りません。角度を教えてください」
四頭目の夜から守られてきた言葉だった。
私は蹄の縁を指先で示した。騎手に削る前の傾きを触らせ、鑢を一度だけ引かせる。そのたび蹄を藁へ戻し、熱と脈を確かめた。
三度目に鑢の音がすると、馬の尾が強く藁を打った。
「中断です」
騎手はすぐ鑢を離した。
馬が二度息を吐く。耳が前へ戻るまで待ち、騎手は低い声で「もう一度、触る」と告げた。鼻先へ手の甲を出す。馬が自ら触れてきたあとで、蹄冠へ戻った。
削ったのは、右前の引っかかる縁だけだった。左右を同じ形にはしない。蹄底が藁へ平らに触れるところで終えた。
次は冷却だった。
井戸水へ浸した布を、騎手自身が絞る。いきなり蹄へ巻かず、肩へ近づけ、馬の耳を見る。耳が横を向いたので止める。離す。前へ戻ってから、前脚の途中へ触れ、また離す。
「こんなに何度も止めていたのか」
騎手が呟いた。
私は頷いた。
「止めるところまでが手順です」
三度目に、馬は布を受け入れた。
騎手は右前の蹄冠を包み、砂時計を返した。時間になる前に馬が脚を引いたので、すぐ外す。布を温ませたまま続けず、水へ戻す。次は短く当てる。
給水も同じだった。深い桶を顔へ押しつけず、浅い器へぬるい水を少量だけ入れる。騎手は器を置き、綱を引かずに下がった。
馬は匂いを嗅ぎ、一度は顔を背けた。
騎手の喉が鳴る。飲め、と言いそうになった口を閉じ、先に息を吐いた。
「ここに置く。嫌なら飲まなくていい」
馬は耳を動かし、しばらくしてから一口だけ飲んだ。
それを夜通し繰り返した。
右前を冷やし過ぎないよう、外した時間も記録する。水は一口ごとに間隔を空ける。乾草は鼻先から少し離して置き、濃い飼料は近づけない。寝返ろうとしたときは引き起こさず、肩と腰がねじれないよう藁を足す。
私は手順を告げ、熱を触り比べた。担当騎手は布を替え、水を量り、馬が耳を伏せるたびに止まった。
夜半、奥の馬房で一頭が脚をばたつかせた。二人の騎手が体位を替え、別の一頭には温めた水が少量ずつ運ばれていく。団長馬にも団長自身が支持布を入れ直していた。
選ばなかった二十四頭の夜も、放置されてはいなかった。ただ、私が蹄を組み直し、朝まで付き添える一頭は、この馬だけだった。
明け方、十二頭目が首を持ち上げた。
担当騎手が息を呑む。
馬の肩が震えた。
騎手は声を出す前に、細く長く息を吐いた。膝をついたまま、藁へ向けて静かに言う。
「急がなくていい。俺は、ここにいる」
馬の震えが止まった。
右前が胸の下へ入る。削った先端は引っかからず、蹄底が藁を押した。左前も寄る。後脚が腹の下へ畳まれた。
一度、腰が浮き、落ちた。
騎手の手が動いたが、綱には触れなかった。呼吸を三つ整え、同じ声量で告げる。
「もう一度でも、休んでもいい」
馬は浅い器から水を一口飲んだ。
右前を置き直す。胸が上がった。左前が床を捉え、後脚が藁を踏む。腰が大きく揺れたが、騎手は叫ばない。馬は自分で右後ろを半歩開き、四つの蹄へ重みを分けた。
十二頭目は、担当騎手の静かな声を聞きながら、自分の四本の脚で立った。
騎手は顔を両手で覆った。肩が震えている。それでも馬へ聞かせる声は整えていた。
「立ったな。……よく、自分で立った」
私は歩かせず、立った位置へ水を寄せた。右前の蹄冠へ短く布を当て、耳が横を向けば外す。起立は処置の終わりではない。休ませ、飲ませ、熱が戻らないか確かめるところまで続く。
団長は記録板を担当騎手へ渡した。
「エマが何を言ったかだけでは足りない。おまえが息を整えた回数と、声を止めた時刻も書け」
騎手は涙を袖で拭い、頷いた。
「次の当番にも、俺が教えます。同じ声ではなく、同じ確かめ方を」
その言葉を聞いたとき、夜通し冷却布に触れていた私の指は、もう白く固まっていた。曲げようとしても関節が動かない。今日、もう一頭の鑢も水差しも握れない。
朝の見回りが始まると、十二頭目の騎手は通路の中央に立った。
「馬房へ入る前に、全員、一度息を吐いてください」
興奮した報告の声が飛び交っていた通路が静まる。
騎手たちは一人ずつ息を吐き、それぞれの馬の耳を見てから歩き出した。
その静けさの奥で、次の馬房から、敷き藁を一定の間隔で打つ音が聞こえた。
前脚ではない。
横たわった十三頭目が、腫れた後脚だけを、何度も床へ打ちつけていた。
残り二十四頭。
(第13話へ続く)




