選ぶ順番
飼料桶の底が床を鳴らした途端、十一頭目は咥えかけた乾草を放した。
乾草は一本、唇に濡れたまま藁へ落ちた。
馬は鼻先を寝藁へ埋め、耳を後ろへ倒す。腹は長く、空っぽの高い音を立てている。それでも、もう一度乾草へ首を伸ばそうとはしなかった。
「桶を通路の外へ」
私が言うと、担当騎手はすぐに持ち上げた。
けれど、木の縁が飼葉桶へ触れて小さく鳴っただけで、馬の肩が跳ねた。前脚が腹へ引き寄せられ、乾いた唇の端から泡が一筋落ちる。
「見えないところまで運んでください。今は新しい餌でも同じです」
「腹は減っているはずです」
騎手の声は掠れていた。食べさせられない自分を責めているのだろう。だが、その焦りを馬の口元へ持ち込めば、木桶の音と一緒に餌まで恐れさせる。
「だから、この馬を今夜の一頭にします」
食べたがっているのに、食べ物へ近づけない。水も昨夜から二口だけ。空腹のままなら体力が落ち、立とうとしても脚を支えられない。反対に、濃い飼料を口へ押し込めば、また腹と蹄へ負担をかける。
どちらか一つを直せばいいのではない。蹄、冷却、給水、飼料、休養を、この馬が受け入れられる順番に組み直さなければならない。
今夜付き添えるのは一頭だけだった。
残る二十五頭には、騎手たちが体位交換と保温、支持具の確認、飲める量だけの給水を続ける。団長馬にも横臥した側を替え、吊り帯の張りを直し、胸が圧迫されないよう丸めた毛布を入れてもらった。
団長馬は、私の袖についた汗と湿布の匂いを嗅ぐと耳を伏せた。私は馬房へ入らず、戸口の外から手順だけを伝えた。拒まれたまま近づけば、必要な体位交換まで嫌がらせてしまう。
今日、私が夜を使うべきなのは十一頭目だ。
日が傾き、ようやく指が掌へ届くまで曲がった。私は改めて十一頭目の前へ座った。
まず、横たわったまま前脚へ触れた。掌を蹄壁へ添えると、両方とも体温より明らかに熱い。左前の蹄冠では、指の腹へ弱い拍動が、とく、とく、と返ってくる。
空腹だけを見て立たせれば、痛む左前をかばって再び倒れる。
私は蹄先に指を滑らせた。伸びた先端は薄く尖り、藁へ引っかかっている。脚を引くたびに、蹄壁がわずかにこじれ、馬の肩まで硬くなった。
「鑢を見せます」
いきなり脚を握らず、鑢を藁の上へ置いた。
馬は片耳だけをこちらへ向けた。鼻先は上がらない。私が鑢を持ち、左前へ近づけると、耳が横へ開いた。
そこで止めた。
鑢を下ろし、温い水で手に残った古い薬草の匂いを拭う。匂いは消えきらないが、少なくとも指先に残る湿布の強い香りは薄れた。
呼吸が三度、四度と過ぎるのを待つ。蹄を持ち上げず、鑢の平らな面を蹄先へ一度だけ触れさせた。
脚は引かれなかった。
一擦りごとに離し、耳と鼻孔を確かめた。金属のざらつく音がするたび、馬の皮膚が肩から脇腹へ細かく震える。音が止むと、鼻から細い息が抜けた。
削るのは、藁へ刺さっていた先端だけ。形を美しく整えるためではない。起き上がるとき、蹄が床へ置かれるのを邪魔しないところまでにした。
次に冷却布を左前へ当てる。十頭目に使った雪水ではなく、井戸水より少し温い水から始めた。
布の端が蹄冠へ触れた瞬間、馬が脚を縮めた。私はすぐに布を外した。
「冷やさないのですか」
担当騎手が尋ねた。
「今の冷たさは拒まれました。もっと温度を上げます」
「それで熱が取れますか」
「急いで冷やして、二度と布を当てさせなくなるよりいい」
水へ少量の湯を足し、私の手首で確かめる。冷たいというより、蹄にこもった熱だけをゆっくり奪う温度だった。
もう一度近づけると、馬は鼻から息を吐いたが、脚は引かなかった。
その布を短く当て、外して休ませる。右前は左前より熱が低いため、さらに短くした。同じ長さに揃えることより、触れた蹄から熱が戻る速さを見る。布を外すたび水へ浸し、絞り、また当てる。夜が終わるまで、その繰り返しになる。
飼料を用意するときは、馬房の外で音を立てないようにした。
よく干した乾草は手のひら一つ分。茎を折ると、青い匂いがかすかに戻る。薄い温餌は、穀粒がほとんど残らないほど湯でのばし、浅い陶器へ入れる。水も桶ではなく、縁の低い器にした。
三つを並べてはいけない。
「乾草は頭の近く、温餌は前脚の先、水は反対側へ置いてください。互いに、首を伸ばしても届かないくらい離して」
「食べ比べさせるのでは?」
「近くに濃い匂いがあるだけで、乾草まで放しました。この馬には、一つを選ぶことと、ほかを拒むことを分ける必要があります」
置き終えると、私たちは一歩下がった。
馬はすぐには動かなかった。耳だけが乾草へ向き、次に温餌へ向く。腹がまた鳴った。首が持ち上がったが、陶器の縁が見えると、鼻先を引いた。
担当騎手が温餌を遠ざけようとする。
「まだです。耳は伏せていません」
私は彼の手を止めた。
馬はしばらく温餌を見たあと、顔を背けた。それから乾草へ首を伸ばした。鼻孔が茎を揺らす。一本だけ唇で挟む。今度は放さない。
奥歯が、しゃり、と一度鳴った。長く間を置いてもう一度噛み、喉の皮膚が上下した。
私たちは何も足さなかった。
二本目、三本目。噛む間隔は長いが、喉は確かに動いている。用意した分の半分を食べたところで、馬は自分から口を止めた。
「残りも食べさせたほうが」
「止めたのも、この馬の順番です」
乾草を届かない位置へ下げた。空腹だからと続ければ、弱った腹へ量を押しつけることになる。食べたという一つの成功を、食べすぎで悪化させてはならない。
馬は目を半ば閉じて休んだあと、水の器へ鼻先を向けた。けれど、首を伸ばすだけでは届かない。担当騎手が寄せようとした瞬間、私は首を振った。
馬は前脚を少し動かし、胸をずらした。左前の蹄先が藁へ刺さらず、削った面で止まる。それから水へ届き、一口飲んだ。
二口目の前に顔を上げる。鼻孔から落ちた雫が、藁を小さく濡らした。
私は器を下げ、呼吸が整うまで待った。短い給水を三度繰り返すと、乾いて白く見えていた唇に湿り気が戻った。
それでも温餌には触れない。
日が落ちてからも、私は乾草、薄い温餌、水の距離を崩さなかった。乾草を食べたから、その隣へ温餌を置くこともしない。水を飲んだから、温餌を水でさらに薄めて口元へ運ぶこともしない。
馬が選んだ順序を、人の都合で近道に変えないためだった。
夜半、二度目の乾草を少量食べたあと、馬は水を選んだ。冷却を終えた左前を胸の下へ寄せ、少し体を起こして飲む。蹄冠の拍動はまだあるが、夕方より弱い。熱の戻りも遅くなっていた。
冷却布を絞る私の指は、もう赤みを失い始めていた。関節を曲げるたび、皮膚の内側で細い針が刺さる。それでも布の温度と蹄の熱を確かめるには、手袋をするわけにはいかなかった。
温餌を口にしたのは、空が白み始める直前だった。
馬は陶器へ鼻を近づけ、すぐに引いた。耳が横を向いたため、私は器へ触れない。押し戻さず、香りを嗅ぐ時間を残した。
やがて、もう一度鼻先が伸びた。
唇が表面をすくう。ほんの一口だった。馬は顔を上げ、長く息を吐いた。
それで終わりにした。
「一口だけで?」
「この馬は、乾草、水、温餌の順に選びました。次に同じ順序を選べるよう、今日はここで休ませます」
腹へ耳を寄せる。空っぽの高い響きは消え、湿ったものがゆっくり動く低い音へ変わっていた。
馬は首を前へ伸ばした。
右前を胸の下へ入れ、次に左前を置く。削った蹄先は引っかからず、蹄底が藁を押した。腰が浮きかけ、一度戻る。荒い息が藁を吹き分けた。
私は支えなかった。騎手にも綱を引かせない。今ここで人の力に驚いて脚を引けば、痛む蹄へ重みが偏る。
馬は水を一口飲み、息を整えた。乾草へ鼻先を触れたが、食べずに前脚を置き直す。
二度目に胸が上がった。
左前が床を捉え、右前がその横へ並ぶ。後脚が藁を掻き、腰が持ち上がる。大きく揺れた。担当騎手が息を呑む。
馬は自分で後脚を半歩開き、四本の脚へ重みを分けた。左前だけを浮かせることも、右へ倒れ込むこともなかった。
十一頭目は、自分が選んだものだけを腹へ入れ、自分の四本の脚で立った。
すぐには歩かせない。立った位置へ水だけを寄せ、乾草と温餌は離したままにする。馬は水を一口飲んだあと、乾草を選んだ。温餌は見ただけで、まだ口にしなかった。
団長は記録板に、食べた量より先に順番を書かせた。
「乾草、水、温餌。拒んだときは動かさず、選び直すまで待った、と」
担当騎手は頷き、さらに一行を書き加えた。
「立ったあとも、温餌を選ばなかった」
成功したあとまで拒絶を記録する。その言葉に、胸の奥の力が少し抜けた。立ったことだけを覚えれば、次は善意で工程を省いてしまう。何を嫌がり、どこで止めたかまでが、この馬を立たせた手順なのだ。
冷却布から手を離すと、私の指は白く固まっていた。夜通し水へ浸けた指は曲がらず、水差しも鑢も握れない。掌へ戻る痛みを待つだけで、腕まで震えた。
今日、もう一頭を診ることはできなかった。
団長は朝の飼料を運ぼうとした騎手たちを通路で止めた。
「全ての桶を置け。今日から、馬が食べ始める前に濃い飼料を近づけるな」
十一頭目の騎手が、空の木桶へ厚い布を巻いた。結び目を確かめてから、そっと床へ置く。
もう、音はしなかった。
残り二十五頭。
(第12話へ続く)




