冷たさを一段戻す
床へ広がった冷水が、馬房の藁を黒く濡らしていた。
横たわる馬は壁際へ肩を押しつけ、前脚を腹の下へ縮めている。濡れた藁から冷気が上がるたび、薄い皮膚が波打った。騎手が落とした布は、桶のそばでまだ水を滴らせていた。
「その布は外へ。濡れた藁も、馬に近づかず取れる分だけ替えてください」
私は胸元に抱えた手を開こうとした。けれど、九頭目を夜通し冷やした指は白く固まり、一本も曲がらない。
今は触れられない。触れられなければ、蹄の熱も、皮膚の震えが冷たさによるものか痛みによるものかも確かめられない。
「冷やさないままでよいのですか」
「今もう一度冷水を当てれば、壁か桶で脚を傷つけます。乾いた布も巻かないでください。置くだけにして、近づけたときの耳を見て」
騎手が乾いた布を戸口へ置く。馬は片耳をそちらへ向けたが、伏せなかった。
それ以上は進めない。
今日の一頭分は、もう九頭目へ使い切っていた。
日が高くなるまで、私は火鉢の前で両手を布に包んだ。指が動かないあいだも、残る二十七頭の夜は止まらない。
騎手たちは交代で横臥した馬の体位を変え、下になった肩と腰を藁で支えた。口元には少量の水を運び、鼻先が逃げれば引き下げる。冷えた馬には毛布を足し、熱い蹄には、すでに受け入れている温度の布だけを当てた。
団長の愛馬には団長自身が付き添っていた。吊り帯へ体重を預け過ぎないよう張りを直し、首の向きを替え、唇を湿らせる量だけ水を含ませる。私が通路を横切ると、愛馬の鼻孔が大きくなった。耳が私の袖へ向き、首が反対側へ逃げる。
私は足を止めず、距離を取った。
最重症でも、まだ私の接触を選んでいない。今夜も選べない。
夕方、ようやく指が掌へ届くまで曲がった。
私は改めて、冷水を拒んだ馬の前へ座った。
他の二十六頭は、呼吸、蹄の熱、飲んだ水の量が記録板の範囲内に収まっている。けれど、この馬だけは蹄の熱が昼のあいだにも上がり、近づく濡れ布へ前脚を振るようになっていた。
冷やせなければ悪化する。無理に冷やせば、自分で脚を壊す。
「今夜の一頭は、この馬にします」
その選択は、残る二十六頭を今夜は立たせないという選択でもあった。
団長はすぐに人を集めなかった。必要な騎手一人だけを残し、三つの桶を運ばせた。
一つ目は馬房に置いて冷たさを抜いた水。二つ目は井戸水。三つ目は雪を入れた水。それぞれに別の布を浸し、混ぜないよう桶の持ち手へ縄を一本、二本、三本と結んだ。
私はまず、何も浸していない乾いた布を馬の鼻先から一腕離れた場所へ置いた。
鼻が動く。耳は前後に揺れたが、伏せない。
布を持った手を肩へ近づけると、皮膚が一度震えた。そこで止める。馬が息を吐き、鼻先を布へ寄せるまで待った。
許されたのは肩までだった。
肩へ触れ、毛並みに沿って短く撫でる。次に膝の上。球節の手前まで下りたところで、前脚が腹へ引き寄せられた。
私は手を離した。
「蹄まで行かないのですか」
「今のは、行くなという動きです」
しばらくして、馬は自分から脚を元の位置へ戻した。
もう一度、肩から同じ道をたどる。今度は球節に触れても脚が逃げない。掌を蹄冠へ添えると、熱が手の中央へ張りついた。指先では、血が強く押し返す拍動が続いている。
蹄の先は伸び、藁に斜めに刺さっていた。立とうとすれば、先端が止まったまま踵だけが遅れ、熱を持った内側を引っ張る形になる。
私は鑢を見せ、蹄の先へ触れる前に一度床へ置いた。馬が匂いを嗅いでも耳を伏せないのを待ち、先端だけを浅く三度削る。
四度目に鑢を当てると、脚が跳ねた。
すぐに中断した。
削れた量が少なくても、拒絶のあとへ重ねれば次は蹄を渡してくれない。前脚を休ませ、呼吸が戻ってから二度だけ削る。薄くし過ぎない。先が藁へ突き刺さらず、蹄底が面で置けるところで終えた。
次は冷却だった。
一つ目の桶から布を出し、固く絞る。冷たくない水では熱を奪う力が弱い。それでも、最初から雪水を当てて脚を振らせるよりよい。
布を直接巻かず、まず蹄冠へ端を触れさせた。
馬の首が上がる。耳は横を向いたが、脚は逃げない。
八つ呼吸を数えてから、ゆるく一周だけ当てる。布が温まったら外し、また同じ温度へ浸す。二度、三度と繰り返すうち、肩の震えが小さくなった。
そこで井戸水の布へ替えた。
馬は尾を強く藁へ打ちつけた。
「戻します」
私はすぐに布を外し、一つ目の温度へ戻した。
「熱は、下げたほうがよいのでしょう」
騎手の声には焦りがあった。
「下げます。ただし、この馬が受け入れられる幅で。嫌がるたびに押し切れば、冷却そのものを受けられなくなります」
団長が一つ目と二つ目の桶へ片手ずつ入れた。
「この差でも、これほど反応するのか」
「私たちの手には小さくても、熱を持った蹄には急すぎることがあります」
団長は騎手へ、布を替えた時刻だけでなく、尾を打った回数と戻した温度も記すよう命じた。
二度目に井戸水へ進めたのは、半刻後だった。
今度は一周させず、蹄冠の前半分へ四つ呼吸だけ当てる。馬の鼻孔が狭まる前に外した。馬房の水と井戸水を行き来し、受け入れられる時間を少しずつ延ばしていく。
雪水の布へ進めたときも、最初は端だけだった。馬が前脚を引けば中断し、井戸水へ一段戻す。進んでは戻り、戻っては待つ。
その合間に、馬房と同じ温度の水を浅い器へ入れた。桶の縁を打った記憶が残っているのか、深い桶には鼻先を近づけない。器を床へ置き、私は手を添えずに待った。
馬は匂いを確かめ、舌先だけで水面に触れた。
一口飲む。
続けて飲もうとしたところで器を奪うことはせず、量を少なく入れておいた水が自然になくなるまで任せた。間を置いて、また同じだけ注ぐ。
飼料桶に残っていた甘酸っぱい濃い餌は下げた。代わりに乾いた匂いのする清潔な乾草を三本だけ鼻先へ置く。馬が一本を噛み、腹の奥で小さく音が鳴った。それ以上は増やさない。弱った腹へ濃い飼料を戻せば、蹄を冷やしても熱はまた強くなる。
深く敷き直した乾いた藁へ脚を休ませ、少量の水、わずかな乾草、段階を戻しながらの冷却を夜通し繰り返した。
夜半、団長が雪水の布を取ろうとした騎手の手を止めた。
「耳が横を向いた。井戸水へ戻せ」
私が言うより先だった。
騎手は逆らわず、縄が二本の桶から布を取った。馬の耳がゆっくり前へ戻る。
冷たさを進めた回数より、戻した回数のほうが多い夜だった。それでも蹄冠の拍動は弱まり、張りついていた熱が少しずつ掌から遠ざかっていった。
夜明け前、馬は首を前へ伸ばした。
削った前蹄を胸の下へ入れる。先端は藁に刺さらず、蹄底が平らに床を押した。もう片方の前脚も寄せ、腰を浮かせる。
一度目は、冷えた布がずれると脚を引き、胸を藁へ戻した。
私は布を外した。誰も引き上げない。
馬は浅い器の水を一口飲んだ。六つ息をしてから、前脚を置き直す。
蹄が床を捉えた。
胸が上がり、後脚が腹の下へ入る。腰が揺れたが、壁へ逃げず、自分で右後ろを半歩開いた。四つの蹄へ順に重みが落ちる。
十頭目は、誰の綱にも引かれず、自分の四本の脚で立った。
歩かせず、その場で休ませた。蹄へ布を戻すときも、馬が鼻先を下げ、耳を前へ戻すのを待つ。立ったからといって、拒絶が消えたわけではない。
団長は三つの桶についた縄を確かめた。
「進めた温度だけを成功として記すな。戻した温度も、この馬を立たせた工程だ」
記録板へ書き込む騎手の返事が、静かな馬房へ響いた。
朝になり、雪水から抜いた私の指はまた白く固まっていた。掌を閉じることも、水差しを持つこともできない。もう一頭を立たせる力は残っていなかった。
そのとき、向かいの馬房で乾草の擦れる音がした。
横たわった一頭が、十頭目の桶からこぼれた一本へ首を限界まで伸ばしていた。腹が大きく鳴る。唇が乾草を挟みかける。
騎手が新しい飼料桶を運んで通路へ置いた。
木の底が床を鳴らした瞬間、馬は乾草を放し、鼻先を藁の中へ隠した。空腹で動けないのではない。腹を鳴らすほど空腹なのに、飼料桶を恐れている。
残り二十六頭。
(第11話へ続く)




