四つの蹄
十六頭目が立った朝、通路の机には、倒れる前の給水記録が重ねられていた。
水を渡した時刻、飲んだ量、残した量。騎手ごとに違う筆跡が、同じ夜へ向かって並んでいる。
けれど、今すぐ全てを読み合わせることはできない。
馬房の奥で、短く床を蹴る音がした。
十七頭目は胸を起こしかけては、四肢を投げ出すように倒れていた。藁が擦れるたび、鼻孔から熱い息が噴き出す。首筋には細かな汗が浮き、濡れた毛が何本も束になっていた。
前脚だけではない。後脚も、蹄冠から球節にかけて熱を持っていた。
私は馬房の外で待った。朝の処置は記録を手にした騎手たちに任せ、固まった指を温水へ浸しては開くことを繰り返す。昼近く、昨夜の氷水で固まっていた指が曲がることを確かめてから中へ入った。節にはまだ鈍い痛みが残っている。それでも、掌を開き、一本ずつ握り直すことはできた。
「右前から触れます」
声をかけ、肩へ掌を置く。皮膚の下で筋肉が強張ったが、耳は伏せない。
脚を下り、蹄冠へ指先を当てた。
熱い。
指を押し返すような熱だった。左前も同じだった。後脚へ移る前にいったん手を離し、耳と呼吸を待つ。十七頭目が鼻から長く息を吐いたところで、腿から飛節、蹄冠へ順に触れた。
右後も、左後も熱かった。
「四つともですか」
担当騎手の声がかすれた。
「はい。一本をかばって、ほかの脚が熱くなったのではありません。四本とも、重みを受ける準備ができていません」
その言葉を聞いたように、十七頭目が首を振った。右前を胸の下へ引こうとし、蹄先が藁を掻く。届かず、乾いた床を擦る音だけが残った。
担当騎手が反射的に脇へ手を伸ばした。
「立たせないでください」
私はすぐに止めた。
「ですが、自分から起きようとしています」
「だから今日、この馬を選びます」
残る二十頭のうち、呼吸の浅い馬も、脚の腫れが強い馬もいた。団長の愛馬は今日も騎手たちが体位を変え、腹を圧迫しないよう胸元へ敷料を入れ、少量の水を渡している。
私が近づけば、まだ耳を伏せて鼻先を背けた。あの拒絶を越えて触れることはできない。
ほかの馬も今夜、放っておくわけではなかった。騎手たちが記録に従い、保温、体位交換、少量給水、排泄の介助を続ける。だが、蹄の変化を一晩中読みながら冷却を組み直せるのは、一頭だけだ。
十七頭目は、自分で立とうとする力が残っている。その力が、今は四つの蹄をさらに傷めかねなかった。
「熱が下がれば、立たせられますか」
「熱が下がった直後には、立たせません」
担当騎手が目を見開いた。
私は十七頭目の蹄先を一つずつ確かめた。四肢とも、伸びた蹄先が床を捉えにくくしている。けれど蹄底まで薄くすれば、熱を持った内部へ負担が近づく。
前脚を胸の下へ置ける分だけ、先端の角を少し落とす。後脚も同じだった。一度削るたびに蹄を床へ戻し、耳と呼吸を確かめる。削り屑は薄く、乾いた木の皮のように藁へ落ちた。
左後の蹄刀を当てたとき、尾が強く振られた。
私は刃を離した。
「まだ揃っていません」
「四本を同じ形にしなくていいんですか」
「同じに削ることより、この馬が拒んだところで止めるほうが先です。形を揃えるために、受け入れられない処置を続ければ、立つための脚をこちらが傷めます」
記録板には、左後だけ削った量が少ないことと、尾を振った時刻を書いてもらった。
次に、四つの蹄を順番に冷やした。前脚二本を冷やしている間、後脚は乾いた布で包む。後脚へ移るときは、前脚の水気を拭き、蹄冠の温度が急に戻らないか確かめる。
水へ布を沈めるたび、桶の中で氷が硬く鳴った。冷えた布を絞る指先から、少しずつ感覚が遠のいていく。
十七頭目は最初の冷却を受け入れた。
けれど三度目、右後へ冷たい布を巻こうとすると、脚を腹の下へ引き込み、耳を横へ倒した。
「中断します」
布を外すと、耳がわずかに戻った。水の冷たさを一段戻し、少し温度を上げた水へ替える。呼吸が落ち着いてから蹄冠へ短く当てると、今度は脚を引かなかった。
水は一度に飲ませなかった。浅い器を鼻先へ寄せ、二口飲んだら下げる。滴が口端から落ち、藁を小さく濡らした。腹音を待ち、また一口だけ渡す。
濃い飼料は使わず、匂いの弱い乾草を少量置いたが、十七頭目は鼻先を寄せるだけで口にしなかった。
「食べさせますか」
「いいえ。今は水を選んでいます。乾草は置いたまま、押しつけません」
夕刻には、前脚の熱が先に下がった。夜半には後脚も、触れた指へ刺さるような熱ではなくなった。
担当騎手が期待を込めて綱を手にした。
「もう起こせますね」
「まだです」
「熱は引きました」
「熱が引いたことと、四つの蹄が身体を支えられることは別です」
冷却で触れた表面が冷えても、その下で傷んだ部分がすぐ元へ戻るわけではない。そこで歩かせれば、一歩ごとに全体重が蹄へ落ちる。立てたという結果を急げば、今夜下げた熱を、私たち自身がまた上げることになる。
私は馬房の敷料を深くするよう頼んだ。
乾いた藁を薄く広げるのではなく、胸と腹の周りへ厚く積む。横になったままでも脚を身体の下へ畳みやすく、立ち損ねても硬い床へ蹄や膝を打ちつけない深さにした。
騎手たちが藁を運ぶ間も、私は十七頭目の耳を見ていた。鼻先へ舞った粉に顔を背ければ手を止め、落ち着いてから遠い側へ静かに足してもらう。
さらに、馬体の左右へ支持具を組んだ。
幅の広い帯を胸と腹の下へ通す。ただし、吊り上げるほど張らない。十七頭目が自分で胸を上げたときだけ、倒れる方向を小さく制限する。帯と腹の間には掌が入る余裕を残した。
「これは立たせる道具ではありません」
私は帯を引こうとする騎手の手を止めた。
「立つまで待つための道具です」
十七頭目は一度、胸を起こした。
右前を藁へ置き、左前を引き寄せる。だが後脚を畳む前に呼吸が速くなった。脇腹が大きく上下し、鼻孔がまた開く。
支持具が身体をわずかに受けた。騎手たちは引かず、馬が自分で胸を敷料へ戻すのを待った。
「今のは失敗でしょうか」
担当騎手が尋ねた。
「いいえ。倒れずに休めました」
冷却布はすぐに戻さなかった。呼吸が下がってから蹄へ触れ、熱の戻りがないことを確かめる。水を一口。腹音を待つ。乾草はまだ食べない。
夜は長かった。
四つの蹄を一度に冷やし続ければ、冷えすぎる脚が出る。私は一本ずつ布を外し、蹄冠へ指を置き、次に冷やす脚を決めた。冷却を終えた脚には乾いた布を当て、深い敷料の中で不自然に折れていないか確かめる。
触れるたびに指の感覚は曖昧になった。そこで手首の内側も当て、前の記録と比べる。感覚が鈍ったまま同じ冷たさを続けることはできない。桶の水を替え、布を絞る時間を変え、そのたび時刻を書き足してもらった。
ほかの十九頭の馬房からも、騎手たちの足音が途切れなかった。決められた時刻に体位を変え、水を拒めば器を下げる。
団長の愛馬の馬房では、団長自身が支持帯の緩みを直していた。私がそちらへ目を向けても、今夜の一頭から手を離すことはできない。
夜明け前、十七頭目が初めて乾草を一本だけ噛んだ。
乾いた茎が歯の間でゆっくり折れる。その小さな音を、担当騎手も息を詰めて聞いていた。
すぐには追加しない。噛み終え、腹が低く鳴るのを待った。
馬は首を持ち上げた。
右前を胸の下へ入れる。深い藁が蹄を包み、滑りを止めた。左前も続く。胸が持ち上がったが、支持具の帯はまだ弛んでいる。
後脚が腹の下へ畳まれた。
一度、腰が沈む。
担当騎手の手が動きかけ、止まった。握りしめた指だけが震えていた。
十七頭目は自分で鼻から息を吐いた。右後を半歩、身体へ近づける。左後の蹄先が藁を押した。
腰が上がった。
四つの蹄が、深い敷料の底で床を捉える。身体は大きく揺れたが、支持具は倒れる向きを塞ぐだけで、馬体を持ち上げてはいなかった。
十七頭目は首を低く伸ばし、右へ寄った重みを左後へ返した。次に前脚へ分ける。四肢を小刻みに震わせながら、それでも自分の力で立った。
担当騎手が綱を持とうとした。
「歩かせません」
私は立った馬の前へ浅い水の器を置いた。
十七頭目は一口だけ飲んだ。その場で右前をわずかに浮かせ、自分で楽な位置へ置き直す。私は蹄冠へ短く触れた。熱の戻りはない。それでも支持具は外さず、深い敷料も崩さない。
「いつ歩かせるんですか」
「熱が戻らず、立ったまま四本へ重みを分けられる時間が増えてからです。今日ではありません」
熱を下げるだけなら、夜半に処置は終わっていた。
削る量を抑え、冷却を止める時刻を選び、水と飼料を少しずつ戻し、支持具と敷料の中で休ませる。待つ工程を抜けば、冷えた蹄で再び傷むだけだ。
朝日が馬房へ届くころ、私の指は四つの冷却水で白く固まっていた。支持帯の留め具を確かめようとしても指が曲がらず、金具の上を滑った。
団長が代わりに掌一枚分の緩みを測った。
今日、もう一頭を診ることはできない。
私は机に積まれた給水記録と、見張り付きの別小屋に保管された飼料桶を見た。
「明日は、保管した飼料と今の乾草を、同じ場所へ並べてください。馬たちがどちらへ鼻を向け、どちらから退くか、全員の前で確かめます」
冷却の回数ではなく、倒れる前に共通していたものを確かめる番だった。
残り十九頭。
(第18話へ続く)




