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4 神殿都市

 吹雪が強まる。先程まで眼下に広がっていた都市の灯りは、あっという間に白い闇の中へとかき消された。

「……しばらくは、ここで耐えるしかない」

 アフマドの言葉に、隣にいたハディージャの震えが目に入った。その肌は驚くほど冷たい。

「寒い、ね……」

「ハディージャ? しっかりしろ!」

「アフマド、眠い……」

「寝るな! 目を開けろ!」

 アフマドは咄嗟に身を寄せ、彼女を抱きしめた。

「あったかい……ありがとう……」

 力が抜けていくハディージャの声に、アフマドは心臓が凍りつくような恐怖を覚えた。このまま雪原で夜を明かせば、彼女は二度と目覚めない。

 決断は一瞬だった。アフマドは自身の上着と外套を脱ぎ、ハディージャの背中を包み込むように着せると、凍てつく冷気に身を晒したままに彼女を背負い上げた。思考が白く染まりそうになる中、アフマドは歯を食いしばる。吹雪という遮蔽物を逆手に取り、敵の目を欺いて都市へ飛び込む。それが、二人を救う唯一の道だった。


 夜の帳が下りる頃、彼らはなんとか都市の結界内へ潜り込んだ。外の猛吹雪が嘘のように、そのすり鉢状の谷あいは暖かな空気に満ちていた。

 二人は都市の縁にある岩陰に身を潜めた。しかし、ハディージャの容態は深刻だった。呼びかけても、肩を揺さぶっても、彼女は微動だにしない。アフマドの焦燥は頂点に達していた。

「頼む、戻ってくれ……!」

 アフマドは彼女を静かに横たえると、救うためにできる限りの手を尽くした。身を寄せ合って体温を分け合うだけでは足りない。彼は迷わず自らの肌を晒して彼女の肌に密着させ、凍りついた彼女の身体をその熱で溶かすように抱きしめた。


 朝日が差し込む頃、ハディージャは微かな温もりの中で目覚めた。夢の中、彼女はアフマドの胸に抱かれ、その肌の温度を心地よく感じていた。……夢? そう思った瞬間、現実の感触が脳裏に蘇る。

 それでも未だ夢心地のままに視線を落とせば、昨夜から一秒たりとも離れず、自分を温め続けてくれていたであろうアフマドの腕が、確かに自分を包み込んでいた。丸一日、彼が身じろぎもせず自分を支えていた事実をぼんやりと思い、彼女の心臓が一回だけ大きく跳ねた。


 再び闇が訪れる頃、ハディージャは寝言混じりに目を覚ました。夢の続きのような心地よい重みに浸っていたが、意識が鮮明になるにつれ、肌と肌が触れ合っている現実に気づき、弾かれたように身を引こうとした。

「こ、これって……!」

 だが、彼の腕は力強く、簡単には解けない。両手に力を込め、ようやく彼の懐から離れた瞬間、アフマドも目を覚ました。

「気がついたんだね。よかった。あっ」

 アフマドは彼女の姿を認めると、慌てて視線を逸らした。ハディージャの胸元が、無防備に晒されていたからだ。

「っ、きゃあ!」

 急いで両手で身を隠そうとした拍子に、またしても彼の胸に飛び込んでしまう。

「ち、違うんだ、落ち着いて! 貴女が低体温で倒れたから、その、体温を上げるために……」

 アフマドは真っ赤な顔で必死に弁解した。ハディージャもまた、羞恥心に震えながら、彼を背にして急いで衣服をまとった。東の空が、いつの間にか白み始めていた。


 翌夜、二人は都市の縁から眼下を見下ろした。夜の静寂に沈んだ谷間は、昼間とは別の顔を見せているようだった。

 朝日が昇ると、全貌が白日の下に晒される。谷の中央にそびえる黒い建造物群。網の目のような道路に沿って、かつて氷河越しに見た「虫」の正体――黒い巨大な怪物たちが蠢いていた。彼らは意志を持つかのように、整然と建造物へ出入りしている。

 その最奥、崖を威圧するように鎮座する巨大な城郭。そこから、上空の結界を震わせるほど重々しい呪文が響き渡った。

「われらが守護神よ、人間を雷同させて導き、人間を飼い、人間を活用し、それにより力を現わされる守護神よ。強く、強く、強く守り導き給え」

 響いてくる異国の調べは、二人の耳に忌まわしい記憶を呼び起こす。

ーナシュ・ヴラディカ! ティポズナフシィ スタドヌユプリロードゥ リュジェー  スゴニャーエシ イフヴォエディーノ  パスョーシイフ  スローヴナスコート  イ イスポリズエシ イフプロチ イドゥーフ  ヤヴリャーヤ ヴトム モシスヴォユ  オグラジ イヴェジナス   クレプコ! クレプコ! クレプコ!  デルジ ナスフ スヴォエイヴォレ......

 カミーユブーバルの神殿で耳にした、あの儀式の呪文。耳を塞ぎたくなるようなその響きに、二人は確信した。この場所こそ、羊皮紙に記されていた『神殿都市』であると。


挿絵(By みてみん)


 再び夕闇が訪れた。アフマドとハディージャはすり鉢状の縁から、眼下に広がる巨大な広場へと滑り降りた。そこだけは、人工的な強光に照らされ、異様な静寂に支配されている。

 その時、頭上の空を切り裂くように巨大な影が降下してきた。氷の柱を削り出したかのような無機質な船体。それが轟音もなく広場の一角に着陸すると、ハッチから整然と列をなして怪物たちが吐き出され、また別の隊列が吸い込まれていく。

 あれは生物ではない――空を駆ける艦船だ。この都市は、未知なる空域と繋がっているのだ。


 さらに、別の「氷の柱」が結界を突き破り、夜空へとせり上がった。みるみるうちにその姿は星の光に溶け、明滅しながら天の深淵へと消えていく。まるで、彼らの知らない世界の奥底へ、獲物を運び去るように。

 その先に何があるのか。二人はただ、言葉を失って空を見上げるしかなかった。

 

 二人は闇に紛れ、広大な発着場を横切った。迫りくる神殿の威容に呼応するように、ハディージャの持つ杖――シェイベットが細かく震え、疑似声音を紡ぎ出す。

「……あの建造物に、幽閉されている者がいる」

「幽閉? 誰が?」

 アフマドが反射的に問い返すと、杖は静かに返した。

「『誰が』と問うてはならぬ……『どなたが』、と問うべきであろう」

「……それは、どういう意味ですか?」

 ハディージャがたしなめるように袖を引いた。アフマドは即座に息を呑み、杖に対して深々と頭を下げる。反発や怒りなど微塵も浮かばない、彼特有の穏やかな謙虚さ。それを感じ取ったのか、シェイベットは言葉を続けた。

「地下最奥にて、彼は力尽きようとしている」

「僕たちのような、あまりに非力な者が、そのような困難に挑むのですか? もっと意志の強い誰かがやるべきではないのでしょうか……」

「アフマドよ、ではなぜ貴方はハディージャを助けたのだ?」

 杖の問いに、アフマドは言葉に詰まる。

「意思の強さも、威勢の良さも、外見の華やかさも、神は選ばぬ。貴方が従順で、そして何より、弱きを放っておけぬ心を持っていたからこそ、彼女を助けたのだろう。その静かな献身を、あの方は御存じだ。ゆえに、幽閉され、刻一刻と命の火を消しかけている者たちを、お前たちに託す」

「……」

「ほう、私の言葉に反発もせずただ黙して受け入れるか? 良いことだ」

「……どういうことですか?」

「どんなことにも激昂せず、ひたすらに控えめに在ること。それこそが、命の傍らに寄り添う者に最も必要な資質だ。弱き者が求めるのは、力や眩い光ではない。そっと傍らに在り、ただ寄り添い続けること。今は理解できずとも、いずれ分かる時が来る」


 美貌や頭脳、闘争心といった輝かしい才は、啓典の父が選ぶ基準にはない。英雄や賢者と謳われる者たちも、この役割には選ばれない。かといって、何者でもない平凡な者が選ばれるわけでもない。

 では、何が分かれ道となるのか。アフマドとハディージャは答えを見出せぬまま、ただ一つ確かな衝動に突き動かされていた。救いを待つ命がそこにあるという事実。それだけで、彼らは神殿の深淵へと足を踏み出す決意を固めたのである。それは二人が知らぬ間に、何者かによって「選ばれた」証であり、彼らの今後の歩みが、啓典に記された薔薇の美しさをその身に宿すことになる……という予兆であった。とはいえ、二人が無謀な若者でないことは確かだ。彼らは鳩の慎重さと蛇の狡猾さをあわせ持ち、神殿という名の要塞に安易に立ち入るべきではないことを理解していた。


「あの建造物の中には、確かに人がいる。怪物たちに熱狂し、盲目的な祈りを捧げる者たちがな……それこそ、お前たちの村の者たちも含まれている」

 (シェイベット)が紡ぐ疑似声音は、どこか冷ややかで重々しい。

「自分たちに都合の良い偶像を求め、怪物の軍門に下った人間たちの成れの果てだ」

「では、やはり、あれが『神殿』だったのですね!」

 アフマドが昂ぶりを見せた瞬間、杖の声音が氷のように冷めた。

「アフマドよ。普段は冷静な貴様が、なぜこれほどせっかちになっている。隣にハディージャがいるからとて、浮足立つな」

「ご、ごめんなさい……!」

 ハディージャが真っ赤になり、アフマドの袖を強く引いた。アフマドもまた、己の稚拙な昂揚を恥じ、肩をすぼめる。

 杖はその反応を楽しんでいるかのように、静かに続けた。

「神殿の話は一旦置こう。私が今教えたいのは、そんな熱狂の渦中にありながら、決して飲まれていない『精神的存在』が一人、あの中にいるということだ」

「熱狂に浸っていない……存在?」

「そうだ。それこそが、信実を見抜く目を与える『使い』となる」

 言い終えると、杖はピタリと沈黙した。二人がいくら問いかけても、その疑似声音が二度と響くことはなかった。

 二人は顔を見合わせ、重い沈黙の中で巨大な神殿を見据えた。

__________________


 二人は神殿の外壁に取り付いた。修理用か、あるいは監視用か。壁面に沿って頂上へ伸びる細い階段を伝い、ようやく天蓋へと辿り着く。

 そこから見下ろした光景に、二人は息を呑んだ。この巨大建造物は、結界の心臓部だった。頂上からは、かつて村を滅ぼしたカミーユブーバルの神殿で感じたものと同じ、おぞましい「生命エネルギー」が波動となって四方へ拡散されていた。


「ハディージャ、やはりここは……」

「ええ、神殿よ。けれど、祈りの場所じゃないわ。あの地下にいるという『熱狂に浸っていない存在』……彼らから生命の源を吸い上げ、都市全体へ強制的に循環させているのよ」

 二人の確信は、確かな絶望となって胸に刺さった。

「エネルギーは、あの噴出先へ流れているのか」

「確かめるしかないわ。下に降りて、その深淵を覗きましょう」


 アフマドとハディージャは、神殿のような中央の巨大建造物の天蓋から降りていった。彼らが改めて都市の中を観察すると、いたるところに詠唱のような言葉がつづられたプレートが設けられていた。

二人は神殿の天蓋から下層へと降りていった。都市を改めて観察して気づいたのは、いたるところに無機質に配置されたプレートの存在だった。そこには、あの呪文が刻まれている。


「われらが守護神よ、人間を雷同させて導き、人間を飼い、人間を活用し、それにより力を現わされる守護神よ、強く、強く、強く守り導き給え」

「ナシュ・ヴラディカ! ティポズナフシィ スタドヌユプリロードゥ リュジェー  スゴニャーエシ イフヴォエディーノ  パスョーシイフ  スローヴナスコート  イ イスポリズエシ イフプロチ イドゥーフ  ヤヴリャーヤ ヴトム モシスヴォユ  オグラジ イヴェジナス   クレプコ! クレプコ! クレプコ!  デルジ ナスフ スヴォエイヴォレ......」


 黒い怪物がそのプレートに近づくたび、天蓋から注がれるエネルギーが、彼らの肉体を蠢く闇で満たしていく。二人は息を呑んだ。あれは神殿の祈りの場ではない。プレートは生命力を吸い上げ、怪物の糧とするための「補給ポイント」だったのだ。


 アフマドの脳裏に、かつて見た風景がフラッシュバックする。村の人々、そして囚われた者たち……。搾取の果てに命を擦り減らす彼らの姿が、鮮明なイメージとなって突き刺さる。

「……人間を、飼い、活用する?」

 ハディージャの震える声に、アフマドは言葉を失った。ここは神を崇める場所などではない。生命エネルギーを収穫するための、忌まわしい『家畜小屋しえいき』に過ぎなかったのだ。

衝撃のあまり、二人の顔から血の気が失せていく。それは、見てはいけない「世界の裏側」を覗いてしまった瞬間だった。


「アフマド、見て。都市の外縁にあるプレート、これ……等間隔に配置されているわよね」

「……本当だ。ただのエネルギー補給源にしては、あまりに規則的すぎる」

 二人は顔を見合わせ、同時にある可能性に気づいた。

「都市を包む、あの『結界』のため……?」

「そうよ、あれが結界の基点なのよ!」

 アフマドは思わず小さく拳を握った。パズルが解けたような爽快感と、同時に訪れる緊張。二人は頭を寄せ合い、即座に作戦を練り始めた。

「目的はただ一つ。『熱狂に浸っていない存在』の救出よ」

「ああ! そのためには、まず奴らの兵力を無力化しなきゃいけない」

「……怪物の動きを止めるには、彼らの力源である『補給プレート』を叩くのが一番ね」

「そうだね。それから……脱出路を確保するために、あの結界プレートを遅延させて破壊する......そうすれば都市は大混乱に陥るはずだ」

 二人の瞳には、迷いが消えていた。手元には、即席で組み立てた時限発火装置。神殿都市の機能不全を狙う、大胆かつ繊細な破壊活動の幕が上がった。

__________________


 再び夜が訪れた。大地を照らす周回衛星がすべて地平線の下に隠れ、世界は漆黒の闇に包まれる。

 ハディージャとアフマドは、再び天蓋から巨大建造物へと忍び込んだ。彼らは地表と同様に、天蓋内に設置された呪文詠唱プレートへ次々と時限発火装置を取り付けていく。そのまま地下のゴミ捨て場を通り抜け、最下層――地下牢の入り口へとたどり着いた。

 二人はそこで第一波の時限発火装置が起動するのを待った。やがて神殿や地表の各地でプレートが一斉に炎上し、破壊音が響き渡る。静寂は破られ、地上の怪物たちの間で大混乱が巻き起こった。

 警備室から漏れ聞こえる叫び声が、都市の混乱を物語っていた。二人はその喧騒を背に、闇を縫うように地下牢へ潜入する。そこには多数の人間が寝かされ、生命を搾取される異様な光景が広がっていた。

 シェイベットの震えが頂点に達し、一行は氷の巨大な地下空間へと突き当たる。

「ここに『熱狂に浸っていない存在』がいる」

 杖の告げる場所には、何もなかった。二人は息を潜め、空間の隅々まで眼を凝らす。彼らが想像していたのは、自分たちのカプセルを運んだような偉大な存在だ。しかし、そこにいるのは冷たい静寂だけだった。

「いない……まさか、ここではないのか?」

 落胆と疲労がアフマドを襲う。彼は力尽きたように大空間の中央へと座り込んだ。その時だった。

「……ブブーン」

 凍てつく空気に、微かな羽音が混じった。アフマドが視線を落とすと、床に丸まる小さな影があった。それは六枚の花弁のような羽根を背負い、死に体で震えている……小さなウミウシのような虫だった。

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