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3 氷河を越えて

 ケチェットは守護神カミーユブーバルの神殿へと昇っていく。

 カミーユブーバルの神殿は、村から少し離れた小高い丘にあった。神殿へ昇っていく階段の周囲やそのほかの神域は、全て森と静寂とにおおわれている。階段を上り詰めた境内には、小さな祠のような神殿とベッドほどの大きさの石製祭壇だけがあるだけで、その周囲は背の高い針葉樹林が迫っていた。


  神殿への石段を登るケチェットの足取りは重かった。村から離れた小高い丘にある聖域。針葉樹の森に囲まれたそこは、本来なら厳かな静寂に支配されているはずの場所だった。しかし、近づくにつれ、彼の肌を刺すような「熱」が立ち込めていた。

 本来ならば、儀式では少しばかりの「生命エネルギー」が守護神カミーユブーバルに整然と取り込まれるはずだった。ところが今日は、「生命エネルギー」が異常な密度で渦巻いている。神殿内には、重層的な詠唱が不協和音となって響き渡り、空気が痺れるような緊張を孕んでいた。そして、あろうことか、神殿のほうからは、娘の悲鳴のような声が聞こえた。ケチェットは、まさか、と心を騒がせながら階段を駆け上がった。


 そこに広がっていたのは、信仰が完全に変質した光景だった。石の祭壇には、ハディージャが拘束されている。そして、その周囲を囲んでいたのは、村の秩序を司るはずの息子たちだった。彼らの瞳には、もはや聖なる守護神の神官たる威厳などはなく、欲望の権化と化した守護神を取り込んで欲望をぎらつかせたオーラだけを宿していた。


――これは、儀式ではない。

 守護神カミーユブーバルに捧げられるべき穏やかな生命の旋律は消え、代わりに不協和音のような重層的な詠唱が、空気を痺れさせていた。渦巻くエネルギーの密度は尋常ではなく、まるで獣が獲物を囲い込み、貪り食う直前の、飢えた狂気そのものだった。

 そして、その狂気を切り裂くように、聞き覚えのある娘の悲鳴が神殿の奥から響き渡った。

「いやー! やめてー!」


 息子の一人が、獲物を値踏みするような下卑た笑みを浮かべた。

「父上、見てください。この少女は格別です……あの日、彼女が纏った竜巻……あれは溢れ出る生命の暴走でした......カミーユブーバル様がこの『器』を欲されるのも当然でしょう」

 ケチェットは耳を疑った。愛し、育ててきた息子たちが、神の欲望を垂れ流すだけの「猟犬」に成り果てている。

「正気か! あれは、この娘や弟の生命エネルギーなどではない......あれは二人を取り巻いていた力だ......おそらくは、この世界のことわりを超えた異物!......そんなものを牧神様に取り込めば、我らなど消し飛ぶ......我らの守護神たる牧神様自身すら、どう変質するか分からんのだぞ!」


 このとき、神殿の奥から返ってきたのは、警告を虫けらの羽音のようにあしらう、威圧的な神の声だった。

「アフマドはまだか……あの二人は、抜きん出て『鮮度』が高い……早く連れてこい」

 その声を聞いた瞬間、ケチェットの血が凍りついた。彼が長年仕えてきた「守護神」の正体は、村の存続など欠片も願っていない。ただ、自分たちを牧神の家畜として永劫に縛り付け、その絶望を養分にするだけの、飢えた捕食者だった。

 神殿を支配する重圧の中で、ケチェットの思考は死に絶えた。抗うことは、この絶対的な摂理の前では無意味に等しい。震える手で儀式の準備を始める彼の背中で、聖なる詠唱が、ハディージャという命の終わりを告げる葬送曲となって空気を震わせていた。


 神官スレクレットの詠唱は、神への祈りというよりも、家畜の屠殺場に響く事務的な手順の確認に聞こえた。

「われらが守護神よ、人間を雷同させて導き、人間を飼い、人間を活用し、それにより力を現わされる守護神よ、強く、強く、強く守り導き給え」

「ナシュ・ヴラディカ! ティポズナフシィ スタドヌユプリロードゥ リュジェー  スゴニャーエシ イフヴォエディーノ  パスョーシイフ  スローヴナスコート  イ イスポリズエシ イフプロチ イドゥーフ  ヤヴリャーヤ ヴトム モシスヴォユ  オグラジ イヴェジナス   クレプコ! クレプコ! クレプコ!  デルジ ナスフ スヴォエイヴォレ......」

 異国の言語で奏でられるその呪文は、神殿の空間を澱ませていく。


 ハディージャは祭壇の上で、神官たちの汚らわしい手に組み伏せられていた。

「放して! 私は生贄になんてならない!」

 ハディージャの必死の抵抗に対し、スレクレットは冷酷な慈悲を向けるかのように笑った。

「光栄に思え......我ら人類が放牧されているのは、まさにこの時のためだ……守護神たる牧神の食卓に供されるという最高の栄誉を、なぜ理解できぬ」


 ハディージャの悲鳴が神殿に反響し、ケチェットは正気に戻った。

「……何をしているのか、と聞いているのだ!」

 スレクレットは平然と父を見据えた。その瞳には、血の繋がりすらも家畜を捌くための障壁にはならないという、異常な陶酔が宿っていた。

「父上、これはカミーユブーバル様のご慈悲です……まず守護神が味わい、次いで我ら神官が分け与えられ、残滓は牛鬼の餌となる......実に効率的な『再利用』ではないですか」

 スレクレットは、平然とした顔を父に向けて答えた。それは、父ケチェットを絶望へと打ちのめすに十分な言葉だった。


「うぉー」

 神殿の闇から、他の神官たちの下卑た歓声が湧き上がった。それは人間を食い物にする寄生虫たちの合唱だった。

「儀式を開始せよ」

 スレクレットの号令とともに、神官たちはハディージャへ殺到した。ハディージャの脳裏には、アフマドとあの杖とが浮かんだ。だが次の瞬間、彼女の服の生地が裂け、布が引き剥がされた。

「ぎゃー!」

 ハディージャが上げた断末魔の叫びは、この神殿の石壁に吸い込まれ、誰にも届くことなく冷たく霧散した。

__________________________


 神殿から遠く離れた村では、彼女の断末魔は誰の耳にも届かなかった。しかし、神殿の奥深くに奉納されていた杖が、その持ち主である彼女の危機を察知して共鳴した。その鋭い震動はアフマドの魂を突き上げ、彼はただならぬ予感に突き動かされるように神殿へと走った。

 階段を登り切ったアフマドの視界には、地獄が広がっていた。上空には黒雲が渦巻き、その頂点には守護神カミーユブーバルが冷酷な眼差しで座乗している。周囲の森には、獲物の肉を喰らおうと飢えた牛鬼たちが群がり、その醜悪な笑い声が神殿を汚していた。

 すでに目の前では、神官が冷徹に解体用の長刀を掲げる。ハディージャの悲鳴が、張り詰めた空気を切り裂いた。


「ハディージャ!」

 アフマドの叫びは、神殿の重苦しい静寂を粉砕した。彼が祭壇へと躍り出た瞬間、神殿にあった杖から激流の渦が逆巻く。神官たちが物理的に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。同時に、奉納されていた杖が雷光のごとき速さでアフマドの左手に吸い込まれた。

 彼が右手に奪い取った長刀を構え、左手に杖を掲げると、いままで彼を取り巻いていた微かな未知のエネルギーが激昂し、アフマドのまなざしに力と怒りを与えた。周囲の者たちがその異様な気配に凍りつく隙を突いて、アフマドは服を剥ぎ取られたハディージャの束縛を断ち切る。震える彼女を肩に抱え、アフマドは牧神の支配領域から真っ直ぐに駆け出した。


「逃がすな! 引きずり戻せ!」

 上空から響いたカミーユブーバルの声は、もはや威厳ある守護神のものではない。牧神たる自分の所有物を奪われたことに激昂する、卑俗な支配者の叫びだった。これまで誰一人として反逆することのなかった「家畜」が牙を剥いたことに、牧神は一瞬だけ呆然と沈黙した。

 その遅れが、アフマドたちの唯一の勝機となった。

「ぐぉぉぉぉぉぉ!」

 背後で、大地を揺るがす地響きが始まる。ハディージャという「獲物」を奪われた牛鬼たちが、獲物を食い殺さんとばかりの殺気で殺到してきた。彼らはもはや、指示を受けて動く兵士ではない。空腹と怒りに狂った獣の群れだ。

 そして牛鬼たちの頭上では、守護神の威光を纏っていたはずの影が、その歪な正体を現していた。立ち昇る黒煙の中から浮かび上がったのは、巨大な「黒い怪物」の輪郭。カミーユブーバルは守護神の仮面をかなぐり捨て、黒い異形の姿を晒しながら、獲物を追い詰めるために低空へと舞い降りた。

 神殿の頂から見下ろす守護者から、死のとばりを広げて追いすがる捕食者へ。その変貌を目の当たりにし、アフマドは死の気配を背中に感じながら、遮二無二森の奥へと駆け出した。


 アフマドはハディージャを抱えたまま、村の境界を突き抜け、濃密な樹林地帯へと飛び込んだ。肺が焼け付くような痛みを感じながら、獣の咆哮が聞こえなくなるまで、彼はがむしゃらに駆け続けた。

ようやく追跡を振り切ったと確信したとき、かつて両親から「万が一の備え」として教えられていた隠れ家が、朽ちた姿で森の中に沈んでいた。

 隣接する小さなむろには、数年前に父母が秘かに隠していた装備がそのまま眠っていた。父が狩り、母がなめした毛皮の外套とマント、ハディージャの予備のベール、そして冬に備えたブーツと干し肉。それはかつて、何らかの絶望に備えて用意された「別の人生」への切符だった。アフマドは重い扉を閉め、ようやく荒い呼吸を整えた。外界の殺気が遠ざかり、室の中には二人の、震えるほど頼りない呼吸音だけが満ちていた。

 地獄からの生還。だが、安堵を覚える余裕など二人にはなかった。神殿の石床で受けた傷と凍傷、張り詰めていた恐怖が、ようやく遅れて彼らの身体を襲い始めていた。


「あ、あの……ハディージャ、怪我は……ないか?」

 アフマドは、十歳を過ぎてから一度も触れたことのない彼女の柔らかな肌の感触に、激しく動揺していた。祭壇の上で、薄布一枚さえ残されていなかった彼女を抱きかかえる手の震えは、恐怖からなのか、それとも込み上げる熱い感情からなのか、彼自身にも判別がつかない。

 ハディージャもまた、激しく打ち鳴らされる心臓の音を隠すように、俯いたままだった。彼が命を賭して自分を連れ去ってくれたという事実。その手の温もり、腕の力強さ。恐怖に凍りついていた心は、今や彼への信頼と、言いようのない昂ぶりで満たされていた。

「う、うん……大丈夫……」

 蚊の鳴くような声で答える彼女の頬は、夕闇の中でも分かるほど真っ赤に染まっている。アフマドは気まずそうに視線を彷徨わせ、あわてて取り繕った。

「こ、この周囲を調べてくる....…地図を確認して……その、身支度を整えていてくれ!」

「うん……気を付けてね、アフマド」

 離れがたい後ろ髪を引かれながら、アフマドは廃屋の外へ飛び出した。冷たい夜気が、火照りきった二人の肌を静かに冷ましていく。


 地図によれば、さらに北へ進めば、あの牛鬼たちでさえ足を踏み入れることを拒む、氷雪と凍土の世界が広がっているはずだった。アフマドは、樹林地帯の向こうに広がる荒涼としたツンドラと、その背後にそびえる山岳地帯、そして氷河を目視で確認した。そこは人類はおろか、守護神カミーユブーバルさえも干渉できない「未踏の領域」のはずだった。

 地図の氷河地域には、「氷河の中の残骸?」という不穏な書き込みと、「ハディージャとアフマドの眠っていたところ」という、自分たちを指し示す言葉が記されていた。


 アフマドは木立の影から、氷河の全貌を見渡す。

「森林までは村の者たちも狩りに来るが、この先は……何がいるのか、まったく見当もつかない」

 彼は地図上の古い筆跡――おそらく父のものだろう――を指先でなぞった。「氷河の中の残骸」と記された場所。両親は、ここまで来たのか。

「父さんたちがそこへ行ったのなら……僕たちも、行くしかない」

 アフマドはそう静かに独りごちると、ハディージャの待つ廃屋へと踵を返した。


 廃屋の隣にある「むろ」へ戻ったアフマドだが、ハディージャはまだ、ろくに服を身に着けていなかった。

「ええ!? ハディージャ、どうしたんだ? 何か不具合でもあったのか?」

 アフマドの戸惑いに、ハディージャは少しだけ頬を染め、恥じらうように体を抱え込んでいる。

「あ、アフマド。そんなに凝視しないで!」

「あっ、すまない!」


「あのね、ここに準備されていた服は数年前の子供用なの。どうしても……身体に合わなくて」

「そうか。僕には女の子の服装の仕組みが分からなくて……」

「嘘よ! アフマドは幼い頃からずっと一緒に生活してきたんだから、私が普段何を身につけているか、知らないはずないでしょ?」

 彼女の指摘に、アフマドはタジタジと後ずさった。

「ぼ、僕は……見ないようにしていたんだ」

「今更何を恥ずかしがっているの?」

「だ、だから、見ちゃいけないものだと思って......」

「……もう! あんなに長いこと見つめておいて……エッチ!」

「うう、悪気はなかったんだ……」


 二人は、幼馴染でありながら十歳を境に互いの肌を避けてきた。アフマドにとって、この閉鎖空間で彼女の肌や衣類に触れることは、神殿の怪物と対峙するよりも遥かに困難な試練だった。


「とにかく今は、私が最初に身に着けたいものがないの......」

「最初に身に着けたいものって?」

「もう! わからないの!? 下着のことよ!」

「ええ? それを僕が見つけて来い、というの?」

「でも、私、こんな格好で外へはいけないわ! むろに行くには一端は外に出なければならないのよ」

「僕が、探すの?」


 アフマドにとっては、室の中で、彼にとって見てはいけないものを探すということは、非常に困難な作業だった。

「こんなこと、いやだなあ 目にしたくないのに......目にしちゃいけないのに......目にしなくちゃいけないのかよ」

 アフマドは独り言を言いながら、とにかく一生懸命探し続けた。すると隣の廃屋から、ハディージャの不安そうな声が聞こえてきた。

「あ、あの、アフマド......見つかったかしら……」

 それでも、意を決して探し当てたのは一枚の白い布帯だった。


「……これかな? その……下着というのは?」

 隣の廃屋から、おずおずと差し出す。ハディージャはそれを受け取ると、困ったように眉を下げた。

「ありがとう……でも……ええと、これってただの布よね? これをどうしろって言うの……」

 結局、ハディージャの身体をすっかり覆えるような下着は存在しなかった。二人の逃亡生活は、ささやかで、そして少しだけもどかしい「試練」から始まった。

__________________________


 翌朝、二人は毛皮の装備に身を包んだ。最後にハディージャがベールを深く被り直すと、父母の願いが詰まった隠れ家に別れを告げた。彼らが向かう先は、誰も足を踏み入れない氷河の領域。村の記憶を背後に置き去りにして、二人は荒野へと足を踏み出した。

 ツンドラは、牛鬼という「家畜」が統制されていた村周辺とは異質な、弱肉強食の世界だった。

「あんなに……たくさんの魔獣が」

 地平線を埋め尽くすような獰猛な魔獣の群れに、アフマドは言葉を失う。元はといえば、これらもかつて魔族たちが家畜として持ち込み、野生化した成れの果てだ。

 二人が戦慄し、立ち尽くしたその時。ハディージャが手にしていた杖「シェイベット」が、まるで意思を持つかのように細かく震え始めた。次の瞬間,杖の先端から放たれた目に見えない電流の奔流が、魔獣たちの群れを貫く。生物としての本能を強烈に刺激されたのか、魔獣たちは死の恐怖に駆り立てられたように、一斉に逃げ出した。

 静寂が戻った荒野で、ハディージャは震える杖を強く握り直した。二人は知っていた。自分たちが歩む道には、もはや庇護者など存在しない。自分たち自身が、この凍てつく世界の捕食者にならなければ生き残れないのだと。二人は決意を新たに、氷河が牙を剥く山脈の奥へと歩みを進めた。


挿絵(By みてみん)


「ねえ、アフマド、私たちは、どこへ向かっているの?」

「……あそこには村を見下ろす神殿がある。もう、僕たちの居場所はどこにもないんだ」

 二人は夜の闇に紛れ、凍てつくツンドラを歩んでいた。振り返れば、故郷の丘が遠ざかっていく。


「お父さんとお母さんが用意してくれたこの服……どう見ても、婦人用というよりは大きな子供用ね」

「そうか? まあ、何とか凌げているならいいだろう」

 アフマドは一人で納得しているが、隣を歩くハディージャは居心地悪そうにもじもじとしていた。ある程度サイズは合っているとはいえ、それは所詮「子供の遊び着」に過ぎない。体はすっかり大人の女性となっていた彼女にとって、その服装はあまりにも屈辱的であり、かつ心もとなかった。


「ねえ、もし、もしちゃんとした服を見つけたら、買いたいな」

「ちゃんとした服? 足りないなら、僕の予備を使えばいい。パンツもシャツもあるぞ」

 アフマドの無垢な提案に、ハディージャは思わず立ち止まり、彼を射抜くような視線で睨みつけた。

「……ねえ、アフマド。本気で私にそれを着せるつもりなの?」

「もちろんだ! 洗濯してあるから清潔だし、子供用よりはサイズも合うはずだし……もし穿き方が分からなければ、教えるぞ?」

 ハディージャは、自分の連れ合いがあまりに異性や女性の心に無頓着であることに、愕然とした。深い溜息をつき、彼女はそれ以上何も言わずに歩き出す。アフマドは自分が何か地雷を踏んだことだけは察知したものの、何が彼女を不機嫌にさせたのか、最後まで理解することはできなかった。

 二人の間には、凍てつく荒野よりも冷たい沈黙が流れた。そうして、二人はツンドラを越えていった。


挿絵(By みてみん)


 ふと足を止め、二人は振り返った。遥か後方、月光に浮かぶ針葉樹林の向こうに、神殿のある丘が小さく見えた。あそこは、かつて自分たちの日常があった場所。今はただ、冷酷な管理者が獲物を待つ檻にしか見えない。


 氷河地帯に入ると、大地は幾重もの亀裂クレバスによって寸断されていた。二人は命を繋ぐようにして肩を寄せ合い、凍てつく崖を這い登っていく。クレバスを飛び越えるたび、アフマドはハディージャの手を強く引き寄せ、彼女を支え続けた。そのたびに重なる指先の熱が、凍てつく冷気をかき消していく。

 険しい氷の崖を一つ越えたところで、ハディージャが足を止めた。彼女は、心に決めたことを口に出すのを恐れるように、しばらく躊躇ってから小さな声で囁いた。

「ねえ、アフマド……お願いがあるの」

「え、なんだ?」

 ハディージャは俯き、羞恥に頬を染めながら言葉を絞り出す。

「……私の手を、ずっと握っていてほしいの」

「手、をか? だが、僕なんかがハディージャとそんな……軽々しく触れ合ってもいいのか?」

「お願い。ひとりで歩くのが、怖いの......」

 震える彼女の声に、アフマドは胸が締め付けられるような衝撃を受けた。彼女が恐れているのは氷河の底ではなく、自分を見失ってしまうほどの孤独なのかもしれない。彼は祈るような手つきで、彼女の細い指をそっと包み込んだ。

 繋いだ手のひらから伝わる体温。二人は多少ぎこちなくなりながらも、互いの存在を確認するように力強く手を取り合い、どこまでも続く白銀の絶景へと歩みを進めた。


 氷河が尽きるあたりに、地図が示す洞窟の入り口が姿を現した。

「あそこに、洞窟があるわ」

 アフマドは感慨深げにその黒い口を見つめた。

「ここが……僕たちの始まりの場所か? 両親が、眠っていた僕たちを見つけたという……」

「ゆりかごの中に、このシェイベットも一緒に入っていたのね」


 二人は、両親がかつて抱いたであろう想いを推し量りながら洞窟へと歩を進めた。その奥で待ち受けていたのは、異様な光景だった。赤ん坊だった二人を包んでいた双胴のカプセルと、涙滴型の飛行装置の残骸。それは、この星の技術とは明らかに一線を画す精巧な造りだった。

 アフマドたちがその輝きに言葉を失う中で、これらが「単なる乗り物ではない」ことが直感的に伝わってくる。この星の宇宙船は、たしか放射線を遮断するための氷柱でできているとされていた。しかし、目の前の機体は強靭なチタニウムカーバイトの装甲で覆われ、電磁場を発生させて宇宙線を防ぐという高度な構造を持っていた。

 二人の脳裏に、途方もない孤独と、未知の系譜がよぎる。遠い異郷からこの星へと、彼らを運び届けた静かなる残骸。

「これが……私たちを運んできたものなの?」

 ハディージャの問いかけに、異星のテクノロジーは沈黙で答えるだけだった。動力源が見当たらない。噴射口も、翼もない。


「ねえ、アフマド.......いったいどうやって飛んできたのかしら」

 ハディージャの呟きに、アフマドも困惑を隠せない。

「打ち上げ花火にだって推進装置はあるのに、ここには噴き出し口一つない……ということは、誰かがわざわざ運んできたのか?」

「誰かって……空を飛べる何かが? まさか、コウノトリの伝説が本当だなんて言うつもり?」

 ハディージャの荒唐無稽な推測に、アフマドは苦笑しかけたが、それすらもこの異常な空間では真実味を帯びて聞こえた。

「コウノトリなんてバカな……だが、他に何が考えられる?」

 二人は行き詰まる思考を抱えたまま、さらに双胴のカプセルの内部を探索し始めた。静まり返った洞窟の奥で、異星の時間が音もなく刻まれていた。

「じゃあ......どういうことかしら? 何が運んできてくれたのかしら?」


 カプセルを調べていた二人の手は、搭乗席に置かれた一枚の羊皮布で止まった。そこには、古びた文字でこう記されていた。

『氷河の向こう、幻の都市......神殿都市こそは魔族の巣窟……警戒せよ』

「魔族の巣窟……」

 ハディージャの顔から血の気が引く。

「ここに残るか、それともそこへ向かうか。どちらにせよ、私たちは追い詰められているのね」

「……ハディージャ、ここで待っていてくれ! 危険すぎる! 僕一人で行く」

 アフマドの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ハディージャが猛然と彼を睨みつけた。普段の大人しい彼女からは想像もつかない、鬼気迫る剣幕だった。


「そんなの嫌! 私を置いていくつもり? 一緒に行くわ!」

「だけど、君を失うのが怖いんだ......僕には君を守れる自信がない」

「いいのよ、私の命は最初から貴方のものだもの」


 ハディージャの言葉が、洞窟内の冷気を一瞬にして塗り替えた。それは愛の告白というよりも、これからの過酷な旅路を共に切り抜けるという、彼女なりの誓いだった。アフマドはその重みに圧倒され、思わず口をついて出る。


「僕の命も……ずっと君のものだ」


 言った途端、アフマドの顔が熱くなる。だが、ハディージャは安堵したように、ふわりと柔らかく笑った。その微笑みに、アフマドもつられて笑う。


 行き止まりの過去(洞窟)から、未知なる明日(神殿都市)へ。二人は互いの手をしっかりと握り直し、再び、氷河を遡る過酷な道を歩み出した。

 天空へと伸びるかに見えた氷の道は、上流へ進むほどにその幅を広げ、巨大な氷塊を抱く荒ぶる大氷河へと変貌していた。深さを増すクレバス、牙のようにそびえる氷壁、そして断崖から容赦なく降り注ぐ氷水の滝が、二人の行く手を幾重にも阻む。


 鉛色の空から吹き荒れる猛吹雪。限界まで削られた体で、二人はようやく崖の淵へと辿り着いた。強風に煽られながら眼下を見下ろした瞬間、アフマドとハディージャは息を呑んだ。

「あれは……何だ?」


 氷河に挟まれたU字型の広大な谷底。そこに、眼下を埋め尽くすほどの広大な「都市」が広がっていた。山間部からは想像もつかない、圧倒的な人工物の集積地。

「あそこだけ、氷河に飲み込まれていない……」

「村なんて規模じゃないわ! これは、都市よ」


 吹雪が視界を遮る中、都市空間では黒い影が蠢いていた。それは虫のように見えるが、あまりに巨大だ。そして、都市の最奥には、雪さえ寄せ付けないほど重厚な、山のような城郭が鎮座している。

「何かが動いている……虫かしら? いや、あれはもっと巨大だわ」

「あの奥の巨大な建物……あれが、地図にある神殿都市?」


 二人は極寒の淵に立ち、その光景をただ見つめた。そこには、二人が知る世界とは全く別のことわりで動く「何か」があった。

 今まで見たことのない規模の都市。こんな山奥に隠された、あまりに異質な文明の残滓。自分たちが何を見つけようとしているのか、その途方もない事実に、二人はただただ身動きを忘れて立ち尽くすしかなかった。

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