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3 氷河を越えて

 ケチェットは守護神カミーユブーバルの神殿へと昇っていく。

 カミーユブーバルの神殿は、村から少し離れた小高い丘にある。階段や神域を覆う針葉樹林林と静寂。境内には、小さな祠のような神殿とベッドほどの大きさの石製祭壇だけがあるだけ。


 神殿への石段を登るケチェットの足取りは重い。針葉樹の森に囲まれた聖域は、本来なら厳かな静寂に支配されているはずの場所だった。しかし、今は、近づくにつれて体温を伴った蠢きが増すばかり。


 此処で普段執行される儀式では、村の住民たちから薄く広がる「生命エネルギー」を、神殿の守護神カミーユブーバルが整然と取り込む。ところが今日は、「生命エネルギー」は感じられず、代わりに貪欲を感じさせる渦動ばかりが目立った。其れに共鳴するように、重層的な詠唱が不協和音となって神域を痺れさせる。


 そんな思いにふけりながら神域に至ったケチェットが我に返ったのは、神殿から響く、娘の悲鳴を聞いたからだった。ケチェットは、まさか、と心を騒がせながら足を速める。

 境内で彼が目にしたのは、信仰が完全に変質した光景である。石の祭壇に仰向けに拘束され、力なく抵抗するハディージャ。その周囲を囲む息子たちは、本来ならば村の信仰の秩序を司るはずだった。

 彼らの瞳には、もはや聖なる守護神の神官たる威厳などはない。欲望の権化と化した守護神を、まるで自分の身体に取り込んだような様子。つまり、彼ら神官ばかりでなく守護神までが、欲望をぎらつかせる。


――これは、もはや儀式ではない。


 カミーユブーバルはもはや守護神と呼べるのだろうか。彼に捧げられるのは、穏やかな生命の旋律ではなく、空気を痺れさせる重層的詠唱。渦巻くエネルギーの密度は尋常ではなく、まるで獣が獲物を囲い込み、貪り食う直前の飢えた狂気そのものだ。

 そして、その狂気を切り裂くように、聞き覚えのあるハディージャの悲鳴が神殿の奥から響き渡った。

「いやー! やめてー!」


 彼の息子の一人が、獲物を値踏みするような下卑た笑みを浮かべる。

「父上、見てください。この少女は格別です……あの日、彼女が纏った竜巻……あれはきっと溢れ出る生命の暴走ですよ......カミーユブーバル様がこの『器』を欲されるのも当然でしょう」


 ケチェットは耳を疑う。愛し、育ててきた息子たちは、守護神という役を捨て去ったカミーユブーバルの欲望を垂れ流すだけの「猟犬」に成り果てた。


「正気か! あれは、この娘や彼女の弟の生命エネルギーなどではない......あれは二人を取り巻いていた妙な力だ......おそらくは、この世界の理(ことわり)を超えた異物!......そんなものを牧神様に取り込めば、我らなど消し飛ぶ......我らの守護神たる牧神様自身すら、どう変質するか分からんのだぞ!」


 このとき、神殿の奥から返ってきたのは、警告を虫けらの羽音のようにあしらう、威圧的な神の声だった。

「アフマドはまだか……あの二人は、抜きん出て『鮮度』が高い……早く連れてこい」


 その声を聞いた瞬間、ケチェットの血が凍りつく。彼が長年仕えてきた「守護神」に見た正体。それは、村や住人の存続など欠片も願っておらず、ただ、自分たちを牧神の家畜として永劫に縛り付け、その絶望を養分にするだけの、飢えた捕食者だった。

 神殿を支配する重圧の中で、ケチェットの思考は死に絶えた。抗うことは、この絶対的な摂理の前では無意味である。震える手で儀式の準備を始める彼の背中で、聖であるはずの詠唱が、ハディージャという命の終わりを告げる葬送曲となって空気を震わせた。


 彼の息子である神官スレクレットの詠唱。それは、神への祈りというよりも、家畜の屠殺場に響く事務的な手順の確認に聞こえる。

「ナシュ・ヴラディカ! ティポズナフシィ スタドヌユプリロードゥ リュジェー  スゴニャーエシ イフヴォエディーノ  パスョーシイフ  スローヴナスコート  イ イスポリズエシ イフプロチ イドゥーフ  ヤヴリャーヤ ヴトム モシスヴォユ  オグラジ イヴェジナス   クレプコ! クレプコ! クレプコ!  デルジ ナスフ スヴォエイヴォレ......」

 異国の言語で奏でられるその呪文は、神殿の空間を澱ませていった。


 ハディージャは祭壇の上で、神官たちの汚らわしい手に組み伏せられた。

「放して! 私は生贄になんてならない!」

 ハディージャの必死の抵抗に対し、スレクレットは冷酷な慈悲を向けるかのように笑う。

「光栄に思え......我ら人類が放牧されているのは、まさにこの時のためだ……守護神たる牧神の食卓に供されるという最高の栄誉を、なぜ理解できぬ」


 ハディージャの悲鳴が、ケチェットを正気に戻す。

「……何をしているのか、と聞いているのだ!」

 スレクレットの平然とした視線。その瞳には、血の繋がりすらも家畜を捌くための障壁にはならないという、異常な陶酔が宿った。


「父上、これはカミーユブーバル様のご慈悲ですぞ……まず守護神が味わい、次いで我ら神官が分け与えられ、残滓は牛鬼の餌となる......実に効率的な『再利用』ではないですか」

 スレクレットは、平然とした顔を父に向けて答える。それは、父ケチェットを絶望へと打ちのめすに十分な言葉だった。


「うぉー」

 神殿の闇から、他の神官たちの下卑た歓声が湧き上がる。それは人間を食い物にする寄生虫たちの合唱だった。


「儀式を開始せよ」

 スレクレットの号令とともに、神官たちはハディージャへ殺到する。ハディージャの脳裏には、アフマドとあの杖とが浮かんだ。だが次の瞬間、彼女の服の生地が裂け、布が引き剥がされる。

「ぎゃー!」

 ハディージャが上げた断末魔の叫びは、この神殿の石壁に吸い込まれ、誰にも届くことなく冷たく霧散した。

__________________________


 神殿から遠く離れた村。そこに彼女の断末魔が届くはずもない。しかし、神殿の奥深くに奉納されていた杖が、その持ち主である彼女の危機を察知して共鳴する。その鋭い震動はアフマドの魂を突き上げ、彼はただならぬ予感に突き動かされるように神殿へと走る。


 階段を登り切ったアフマドの視界には、地獄が広がった。

 上空には黒雲が渦巻き、守護神カミーユブーバルがその頂点から守護神カミーユブーバルが冷酷に見下ろす。周囲の杜からは、牛鬼たちが獲物の肉を汚すように醜悪な笑い声を響かす。

 すでに目の前では、神官が冷徹に解体用の長刀を掲げるばかり。裸身を晒すハディージャの悲鳴が、張り詰めた空気を切り裂いた。


「ハディージャ!」

 アフマドの叫びは、神殿の重苦しい静寂を粉砕した。彼が祭壇へと躍り出た瞬間、神殿にあった杖から逆巻く暴風。神官たちは物理的に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。同時に、奉納されていた杖が雷光を引き起こしながら、アフマドの左手に吸い込まれた。


 アフマドは神官の一人から長刀を奪い取る。右手に長刀、左手に杖を握りなおした時、彼の周囲の微かな力場が沸騰した。周囲の者たちがそれにひるんだすきをついて、彼はハディージャの束縛を断ち切る。と同時に、彼は震える彼女を肩に抱え、アフマドは牧神の支配領域から真っ直ぐに駆け出した。


 これまで誰一人として反逆することのなかった「家畜」が、牧神に牙を剥いた。牧神は放心したように沈黙。それがアフマドたちの唯一の脱出のチャンスとなった。


 次の瞬間、カミーユブーバルの激高とともに怒声が上がる。

「逃がすな! 引きずり戻せ!」

 それは、牧神たる自分の所有物を奪われたことに激昂する、卑俗な支配者の叫び。もはや威厳ある守護神は、どこにもいなかった。


 アフマドはひたすら走り抜ける。

 突然、前方の両サイドから大地を揺るがす地響きが始まった。それは、牛鬼の湯気と殺気。ハディージャという「獲物」を奪われた牛鬼たちは、空腹と怒りに狂った獣の群れになり果てた。


「このままでは捕まってしまう」

 アフマドはそう言いつつ足を速める。前方にはわずかな隙間しかない。彼はそこををめがけて突っ込んだ。

 激しく走るアフマドの肩には、ハディージャが背負われたまま激しく揺らされる。彼女は激しくゆらされて開きがちになる両脚を、閉じるのに一生懸命だった。

「アフマド、あの、お尻の手を......」

「なに、どうした?」

「ね、ねえってば! うう......」

「なに? うえ?」


 アフマドは、ハディージャの声をきいて頭上の影に目をやる。それは、いままで守護神の威光を纏っていたはずの巨大な「黒い怪物」の輪郭。それがいまや、その歪な正体を現し始めた。

 黒煙の中から、黒い異形の姿が浮かび上がる。それは、カミーユブーバルが守護神の仮面をかなぐり捨て、正体を現した瞬間だった。かれは、ハディージャという獲物を追い詰めるために、そのまま低空へと舞い降りた。


 アフマドは、しゃにむに森の奥へ向けて走り続ける。カミーユブーバルの、守護者から死の帳(とばり)を広げて追いすがる捕食者への変貌。もはや、彼らにとって村は帰る場所ではなく、前に進むしかないことを意味した。

 村の境界を突き抜け、濃密な樹林地帯を通り過ぎ、肺の焼け付くような痛みを感じながらも、アフマドは牛鬼の咆哮が聞こえなくなるまで、むしゃらに駆け続けた。

 

 どのくらい走り続けただろうか。アフマドは、ようやく追跡を振り切れたように感じる。このとき、アフマドが飛び込んだのは、かつて両親から「万が一の備え」として教えられていた隠れ家。それが、朽ちた姿で森の向こう側に潜んでいた。

 隠れ家には、小さな室(むろ)が傍らにある。父が狩り、母が鞣(なめ)した毛皮の外套とマント、ハディージャの予備のベール、そして冬に備えたブーツと干し肉。それらは、数年前にニールとカーラが秘かに隠していた装備であり、おそらくは、この日のために備えて用意してくれた「別の人生」への切符に違いなかった。


 アフマドは重い扉を閉める。地獄からの生還。外界の殺気が遠ざかり、室(むろ)の中には二人の震えるほど頼りない呼吸音だけが響いた。アフマドたちは、ようやく荒い呼吸を整えることが出来た。

 だが、安堵を覚える余裕など二人にはなかった。神殿の石床で受けた傷と凍傷、張り詰めていた恐怖が、ようやく遅れて彼らの身体を襲い始めていた。


「あ、あの……ハディージャ、怪我は……ないか?」

 アフマドは、十歳を過ぎてから一度も触れたことのない彼女の柔らかな肌の感触に、あらためて激しく動揺する。祭壇の上で、薄布一枚さえ残されていなかった彼女を抱きかかえた手の震えは、恐怖からなのか、それとも込み上げた熱い感情からなのか、彼自身にも判別がつかなかった。

 ハディージャもまた、激しく打ち鳴らされる心臓の音を隠すように、俯く。彼が命を賭して自分を連れ去ってくれたという事実。その手の温もり、腕の力強さ。恐怖に凍りついていた心は、今や彼への信頼と、言いようのない昂ぶりで満たされた。


「う、うん……大丈夫……」

 蚊の鳴くような声で答える彼女の頬は、夕闇の中でも分かるほど真っ赤に染まっている。アフマドは気まずそうに視線を彷徨わせ、あわてて取り繕った。

「こ、この周囲を調べてくる....…地図を確認して……その、身支度を整えていてくれ!」

「うん……気を付けてね、アフマド」


 離れがたい後ろ髪を引かれながら、アフマドは廃屋の外へ飛び出した。途端に、冷たい夜気が火照りきった二人の肌を静かに冷ます。


 地図によれば、さらに北へ進めば、氷雪と凍土の世界が広がっているはずだ。それは、あの牛鬼たちでさえ足を踏み入れることを拒む。樹林地帯の向こうに広がる荒涼としたツンドラ、その背後にそびえる山岳地帯、そして氷河。そこからさきは人類はおろか、守護神カミーユブーバルさえも干渉できない「未踏の領域」のはずだった。

 地図の氷河地域には、「氷河の中の残骸?」という不穏な書き込みと、「ハディージャとアフマドの眠っていたところ」という、自分たちを指し示す言葉が記されていた。


 アフマドは木立の影から、氷河の全貌を見渡す。

「森林までは村の者たちも狩りに来きているのかもしれない。でもこの先は……何がいるのか、まったく見当もつかない」


 彼は地図上の古い筆跡――おそらく父のものだろう――を指先でなぞる。「氷河の中の残骸」と記された場所。両親は、そこまで来たのか。

「父さんたちがそこへ行ったのなら……僕たちも、行くしかない」

 アフマドはそう静かに独りごちると、ハディージャの待つ廃屋へと踵を返した。


 廃屋の隣にある「室(むろ)」へ戻ったアフマドだが、ハディージャはまだ、ろくに服を身に着けていなかった。

「ええ!? ハディージャ、どうしたんだ? 何か不具合でもあったのか?」

 アフマドの戸惑いに、ハディージャは少しだけ頬を染め、恥じらうように体を抱え込んでいる。

「あ、アフマド。そんなに凝視しないで!」

「あっ、すまない!」


「あのね、ここに準備されていた服は数年前の子供用なの。どうしても……身体に合わなくて」

「そうか。僕には女の子の服装の仕組みが分からなくて……」

「嘘よ! アフマドは幼い頃からずっと一緒に生活してきたんだから、私が普段何を身につけているか、知らないはずないでしょ?」

 彼女の指摘に、アフマドはタジタジと後ずさった。


「ぼ、僕は……見ないようにしていたんだ」

「今更何を恥ずかしがっているの?」

「だ、だから、見ちゃいけないものだと思って......」

「……もう! あんなに長いこと見つめておいて……エッチ!」

「うう、悪気はなかったんだ……」


 二人は、幼馴染でありながら十歳を境に互いの肌を避けてきた。アフマドにとって、この閉鎖空間で彼女の肌や衣類に触れることは、神殿の怪物と対峙するよりも遥かに困難な試練だった。


「とにかく今は、私が最初に身に着けたいものがないの......」

「最初に身に着けたいものって?」

「もう! わからないの!? 下着のことよ!」

「ええ? それを僕が見つけて来い、というの?」

「でも、私、こんな格好で外へはいけないわ! 室(むろ)に行くには一端は外に出なければならないのよ」

「僕が、探すの?」


 アフマドにとっては、室の中で、彼にとって見てはいけないものを探すということは、非常に困難な作業だった。

「こんなこと、いやだなあ 目にしたくないのに......目にしちゃいけないのに......目にしなくちゃいけないのかよ」


 アフマドは独り言を言いながら、とにかく一生懸命探し続けた。すると隣の廃屋から、ハディージャの不安そうな声が聞こえてきた。

「あ、あの、アフマド......見つかったかしら……」

 それでも、意を決して探し当てたのは一枚の白い布帯だった。


「……これかな? その……下着というのは?」

 隣の廃屋から、おずおずと差し出す。ハディージャはそれを受け取ると、困ったように眉を下げた。

「ありがとう……でも……ええと、これってただの布よね? これをどうしろって言うの……」


 結局、ハディージャの身体をすっかり覆えるような下着は存在しなかった。二人の逃亡生活は、ささやかで、そして少しだけもどかしい「試練」から始まった。

__________________________


 翌朝、二人は毛皮の装備に身を包む。最後にハディージャがベールを深く被り直せば、準備は万端。かれらは、父母の願いが詰まった隠れ家に別れを告げた。

 彼らが向かう先は、誰も足を踏み入れない氷河の領域。村の記憶を背後に置き去りにして、二人は荒野へと足を踏み出した。


 ツンドラは、牛鬼という「家畜」が統制されていた村周辺とは異質な、弱肉強食の世界だった。

「あんなに……たくさんの魔獣が」

 地平線を埋め尽くすような獰猛な魔獣の群れに、アフマドは言葉を失う。元はといえば、これらもかつて魔族たちが家畜として持ち込み、野生化した成れの果てだ。


 二人が戦慄し、立ち尽くしたその時。ハディージャが手にしていた杖「シェイベット」が、まるで意思を持つかのように細かく震え始めた。次の瞬間,杖の先端から放たれた目に見えない電流の奔流が、魔獣たちの群れを貫く。生物としての本能を強烈に刺激されたのか、魔獣たちは死の恐怖に駆り立てられたように、一斉に逃げ出した。


 静寂が戻った荒野で、ハディージャは震える杖を強く握り直す。二人が改めて認識したのは、自分たちが歩む道にもはや庇護者など存在しないこと。自分たち自身が、この凍てつく世界の捕食者にならなければ生き残れないのだと。二人は決意を新たに、氷河が牙を剥く山脈の奥へと歩みを進めた。


挿絵(By みてみん)



「ねえ、アフマド、私たちは、どこへ向かっているの?」

「……あそこには村を見下ろす神殿がある。もう、僕たちの居場所はどこにもないんだ」

 二人は夜の闇に紛れ、凍てつくツンドラを歩む。振り返れば、故郷の丘がはるか後方へ遠ざかっていた。


「お父さんとお母さんが用意してくれたこの服……どう見ても、婦人用というよりは大きな子供用ね」

「そうか? まあ、何とか凌げているならいいだろう」

 アフマドは一人で納得している。隣を歩くハディージャは居心地悪そうにもじもじ。

 服は確かにある程度サイズは合っている。とはいえ、それは所詮「子供の遊び着」。すっかり大人の女性となっていた彼女にとって、その服装はあまりにも屈辱的であり、かつ心もとなかった。


「ねえ、もし、もしちゃんとした服を見つけたら、買いたいな」

「ちゃんとした服? 足りないなら、僕の予備を使えばいい。パンツもシャツもあるぞ」

 アフマドの無垢な提案に、ハディージャは思わず立ち止まり、彼を射抜くような視線で睨みつけた。


「……ねえ、アフマド。本気で私にそれを着せるつもりなの?」

「もちろんだ! 洗濯してあるから清潔だし、子供用よりはサイズも合うはずだし……もし穿き方が分からなければ、教えるぞ?」

 ハディージャは、自分の連れ合いがあまりに異性や女性の心に無頓着であることに、愕然とする。深い溜息。彼女はそれ以上何も言わずに歩き出した。


 アフマドはハディージャの態度の変化を察知する。ただし、悟ったのは、自分が何か地雷を踏んだことだけ。その後、時間がいくらたっても、何が彼女を不機嫌にさせたのか、最後まで理解することはなかった。

 二人の間の、凍てつく荒野よりも冷たい沈黙。ぎこちないまま、二人はツンドラを越えていった。


 氷河を前に、二人はふと足を止めて振り返る。遥か後方、月光に浮かぶ針葉樹林の向こう。そこに、神殿のある丘が小さく見えた。あそこは、かつて自分たちの日常があった場所。今はただ、冷酷な管理者が獲物を待つ檻にしか見えなかった。


 氷河地帯に入ると、足元を寸断する幾重もの亀裂(クレバス)。二人は命を繋ぐようにして肩を寄せ合い、凍てつく崖を這い登っていく。クレバスを飛び越えるたび、アフマドはハディージャの手を強く引き寄せ、彼女を支え続けた。そのたびに重なる指先の熱が、凍てつく冷気をかき消していく。


 険しい氷の崖を一つ越えたところで、ハディージャが足を止めた。彼女は、心に決めたことを口に出すのを恐れるように、しばらく躊躇ってから小さな声で囁く。


「ねえ、アフマド……お願いがあるの」

「え、なんだ?」

 ハディージャは俯き、羞恥に頬を染めながら言葉を絞り出す。

「……私の手を、ずっと握っていてほしいの」

「手、をか? だが、僕なんかがハディージャとそんな……軽々しく触れ合ってもいいのか?」

「お願い。ひとりで歩くのが、怖いの......」


 震える彼女の声に、アフマドは胸が締め付けられる。今まで知らなかった衝撃のような感情。彼女が恐れているのは氷河の底ではなく、自分を見失ってしまうほどの孤独なのかもしれない。彼は祈るような手つきで、彼女の細い指をそっと包み込んだ。

 繋いだ手のひらから伝わる体温。二人は多少ぎこちなくなりながらも、互いの存在を確認するように力強く手を取り合い、どこまでも続く白銀の絶景へと進む。やがて、氷河が尽きるあたりに、地図が示す洞窟の入り口が姿を現した。


「あそこに、洞窟があるわ」

 アフマドは感慨深げにその黒い口を見つめた。

「ここが……僕たちの始まりの場所か? 両親が、眠っていた僕たちを見つけたという……」

「ゆりかごの中に、この杖(シェイベット)も一緒に入っていたのね」


 二人は、両親がかつて抱いたであろう想いを推し量りながら洞窟へと入り込む。その奥で待ち受けていたのは、赤ん坊だった二人を包んでいたと思われる双胴のカプセルと、涙滴型の飛行装置の残骸。アフマドたちは言葉を失った。アフマドの分析によれば、それらの残骸ははるかに高度な科学技術によるものだった。


「この星の宇宙船は、たしか放射線を遮断するための氷柱でできているのよね」

「そうだった。でも、目の前で残骸になっているこれらの機体は、強靭なチタニウムカーバイトの装甲だよ。しかも、電磁場を発生させて宇宙線を防ぐ装置も伴っている」


 二人の脳裏に、かすかに覚えている過去の記憶がよみがえる。そんな遠い異郷からこの星へと、彼らを運び届けた静かなる残骸。そして、これかrなお途方もない孤独と、未知の系譜がよぎる。


「これが……私たちを運んできたものなの? でもおかしいわ」

 ハディージャが感じた理屈に合わないこと。目の前の残骸には、動力源が見当たらず、噴射口も、翼もない。


「ねえ、アフマド.......この機体はいったいどうやって飛んできたのかしら」

 ハディージャの呟きに、アフマドも困惑を隠せない。

「打ち上げ花火にだって推進装置はあるのに、ここには噴き出し口一つない……ということは、誰かがわざわざ運んできたのか?」

「誰かって……空を飛べる何かが? まさか、コウノトリの伝説が本当だなんて言うつもり?」


 ハディージャの荒唐無稽な推測に、アフマドは苦笑しかけたが、それすらもこの異常な空間では真実味を帯びて聞こえた。

「コウノトリなんてバカな……だが、他に何が考えられる?」

 二人は行き詰まる思考を抱えたまま、さらに双胴のカプセルの内部を探索し始めた。静まり返った洞窟の奥で、異星の時間が音もなく刻まれていた。

「じゃあ......どういうことかしら? 何が運んできてくれたのかしら?」


 カプセルを調べていた二人の手は、搭乗席に置かれた一枚の羊皮布で止まった。そこには、古びた文字でこう記されていた。

『氷河の向こう、幻の都市......神殿都市こそは魔族の巣窟……警戒せよ』と。

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