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2 逃亡

 湿った風が吹き抜け、木々がザワザワと騒いだ。成人式直前の浮き足だった気分で騒ぐ同級生。もうすぐ訪れる「家庭形成」という名の区切り時を前に、彼らは男女の垣根を越えて最後の自由を謳歌する。


「ねえ、ハディージャ。これが最後なのよ」

「成人式が終われば、もうこうして勝手に連れ立って歩くこともできないんだぜ」

 クラスメイト達の明るい声に、ハディージャは押し黙る。成人式を過ぎれば、入るのは家庭という名の管理下。数人の構成メンバー以外の異性と交わることは禁じられ、過去のものになる交流の自由。このハイキングは、いわば人生の「最後の夏」のようなものだった。


「ハディージャ、アフマド、お前たちも行くんだよ!」

 出発しかけたクラスメイトがアフマドとハディージャへふり返り、声をかける。隣のアフマドをちらりと見るハディージャ。二人は、触れ合わないほどの距離にもかかわらず、お互いの鼓動が聞こえそうなほどの緊迫感にあった。この時が、「異性と自由に出かけられる最後の日」だという事実が、二人を妙に沈黙させる。


「ねえ、ハディージャ。あんた、アフマドとは何の関係もないんでしょ?」

 スティアーが意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。無防備な顔のまま首を傾げるハディージャ。

「……同じ家族だもの。関係がないなんてこと、ないわ」

「へえ、家族ね……じゃあ、私が彼を誘って家庭を築いても、文句はないわよね?」


 カッと、ハディージャの視界が熱くなった。嫌な音を立てて跳ねる心臓。

(家族、だから、どうだっていうの。)


「それは、ダメ!」

 思わず声が裏返る。スティアーが面白がるように目を細めた。

「どうして? 兄妹なら家庭を構成できないでしょ? だから、私があんたの代わりに彼と家庭を持ってあげてもいいのよ?」


 スティアーの嘲るような声音が、ハディージャの鼓膜を突き刺す。ハディージャは唇を噛み締め、震える声で吐き出した。

「……血は、つながっていないの......」


 場の空気が凍りついた。驚きに見開かれるスティアーの目。その目をハディージャは舞いあがったままの意識の中で見つめる。


「は? あんたたち、兄妹じゃなかったの?」

「兄妹だけど……お母さんが言っていたもの、私たちに血のつながりはないって……」

 言った。言ってしまった。ハディージャは耳まで赤く染め上げ、うつむくことしかできない。


「あら、そうなんだ。あれ? ハディージャ、あんた、アフマドのことが好きなのね!」

 スティアーの声が周囲に響き渡る。一斉に突き刺さる他の同級生たちの視線。ハディージャは世界の中心で裸にされたような羞恥に震え、必死に否定した。

「そんなこと……考えたこともないわ」


 その日を境に、ハディージャは自分の感情に鍵をかける。視線を避け、濁す言葉。彼女は、それ以降誰もいない場所でだけ、自分の中の確かな熱を確かめた。


 ハイキングの当日。

 ハイキングの真の目的は、遊ぶことではない。過酷な外の世界で生き抜くための「知識」を叩き込むこと。なかでも牛鬼からの逃亡訓練は、成人を控えた彼らにとって避けては通れない、恐怖の洗礼だった。


「いいか、肝に銘じろ。決して湿地帯へは足を踏み入れるな」

 神官の声が、湿った空気に重く沈む。周囲の気圧が変わったような緊張感が、少年少女たちの肩を強張らせた。これが最後の訓練だ。失敗は許されない。


「それでは、開始する」

 神官が合図を送ると同時に、鈍い警報音が鼓膜を震わせた。

「ボワ、ボワ、ボワッ……!」

 不快な音が空気を切り裂く。


「訓練開始! 牛鬼が出たぞ、動け!」

 罵声に近い怒号が響く。周囲の景色が、先ほどまでのピクニックのそれから、一変して戦場のような緊迫感に支配された。


「牛鬼だ……」

「早く神殿へ! カミーユブーバル様のもとへ逃げるんだ!」

 訓練とはいえ、少年たちの顔から血の気が引く。足音が一斉に乱れ、彼らは死に物狂いで駆け出した。


 逃げ惑う少年少女たちの群れから、最後尾にいたエリアスだけが、不自然に身を翻した。周囲の喧騒を背に、彼は訓練の列を外れ、あろうことか禁忌の地である湿地帯の奥へ向かって駆け出した。


「待て、エリアス! どこへ行くんだ!」

 アフマドは声を限りに叫び、追いすがる。

「俺が様子を見に行ってやる! 奴らの巣がどこにあるのか、この目で確かめてやるんだ!」


 エリアスの瞳には、恐怖を通り越した狂気ともいえる輝きがあった。アフマドは恐怖で足がすくみそうになりながらも、必死で彼を制止しようとする。

「やめろ! それは調査の役目だろう。熟練の老人たちでさえ、調査に入った途端に消えているんだぞ!」

 アフマドの警告も、エリアスの耳には届かない。


 湿地帯の谷あいには、先日の牛鬼たちがまき散らした湯気が漂う。その湯気が巻き上げるのは、好気性分解特有の臭気。それに加えて、牛鬼たちの足跡からも、牛鬼の脚の臭気が巻き上がる。その光景は、まるで方々からの湯気が、強烈な異臭を伴って湿地帯一帯を覆い尽くしているように見えた。

 その湯気に隠された一角 洞窟の漆黒は、湿地帯の空気とは比べものにならないほど重い。それに加えて感じる濃密さ。洞窟を進むにつれ、鼻を突く血と獣の悪臭が強くなる。


 その霧の中へ、エリアスの影が瞬く間に吸い込まれていく。

「くそっ……!」

 アフマドは唇を噛み切り、死の淵へと続く足跡を追って、湿った泥の深淵へと飛び込んだ。


 エリアスは、湿地帯をある程度突っ切ったところで立ち止まる。彼が警戒する周囲。そこに、だいぶ経ってから、アフマドも追いついた。


「へえ、奴ら、出てこないじゃないか!」

「なあ。エリアス、大丈夫なのかな?」

「ああ、奴らは一頭も出てこないぜ」

「そう……だね」

 二人はそう言いながら、湿地帯全体を歩き回る。しばらく行くと、湿地帯が山間に入り込んだところで見出した洞窟。それは、その谷あいの奥地に牛鬼たちが数十人単位で入り込めるほどの大きさだった。


「アフマド、こ、この大きな穴は…?」

「僕たちが村の近隣でよく見かける小さな洞くつとは違うね。とても大きい。多分、出来方が違うんだろうね。ここの谷あいの両側を見てごらん、石灰岩の崖だよ。この谷あいは石灰岩が侵食されて出来たんだ。この洞窟も、同じように石灰岩が侵食されて出来たんだよ」

「アフマド、そんなことを知っているのか?」

「ああ、かつての担任だったゼニスから聞いたことがあるんだ」

「へえ、よくそんなことを覚えているなあ......そう言えば、お前もハディージャも、変に知恵が回るよな」

 エリアスは、目の前のアフマドを、誰か別の友人を見るかのような目つきで見つめる。アフマドは、それに気づきながらも、エリアスの気を損ねないように静かに答えた。

「そんなことはないさ.......ゼニスの教えは、エリアス、あんたも含めて全員聞いているはずだよ」


「……なぁ、アフマド、牛鬼ってのは、俺たちが奴らのテリトリーに入った瞬間、獲物を求めて現れるんじゃなかったのかよ.......例えば、この洞窟とか......」

 エリアスの苛立ちが、洞窟の壁に反響する。アフマドが感じるのは、もっと深い、禁忌の領域に踏み込んでいる予感。アフマドは答える代わりに、深く息を殺した。

(何かがおかしい。この静寂は、狩りを放棄した者の沈黙ではない)


 遥か下方、祭壇のような岩床に、微かな灯りが揺れる。二人が身を隠し、覗き込む光景。二人の思考が凍りついた。

「……嘘だろ。あれ、親父だぞ」


 エリアスの声が震え、全身が硬直する。二人が身を隠したのは冷たい岩肌。アフマドは咄嗟に彼の口を塞いだ。


 下では、牛鬼たちが機械的な動作で群がっている。それは殺戮の光景というよりも、悍ましい「農作業」。男の体から搾り取られていく粘液。犠牲者の男は断末魔にも似た呻きを上げ、力なく首を垂れた。


 牛鬼たちはその液体を自らの局部に塗りたくり、傍らに放置されていた若い女へと這い寄る。

「やめてえ……!」

 女の悲鳴が洞窟に響く。それが合図。複数の牛鬼が女の身体を覆い隠すように殺到した。


 アフマドは、胃の底からせり上がる嘔吐感を必死に飲み込む。かつてゼニスが語った「種族の保存」という教科書的な概念。脳内で、その概念が目の前の醜悪な現実と結びついた。

(そうか。彼らは人間を、単なる「肉の器」として消費しているのだ)


 全員がオスと化した彼らは、彼らだけで繁殖する能力に欠けていた。その代りに、彼らが選んだのは、生物学的に近い人間という種。人間男女を獲物とすると、彼らの生殖細胞の遺伝子を、自分たちのそれに強引に書き換える。その際、彼らが必ず行うのは、犠牲者の徹底した利用。彼らは改編した生殖細胞の持ち主の身体を内側から食い破り、自分たちの代わりに子孫を妊娠させるのが常だった。


 今、目の前で行われているのは、ただの暴力ではない。人類という種が、牛鬼という捕食者に効率よく「養分付き容器」として還元される、徹底して合理的な搾取の儀式だった。


「……殺された。親父が、あいつらに……!」

 エリアスの声は、怒りと信じがたい光景への絶望で震える。アフマドは、吐き気を抑え込みながら彼の肩を叩いた。

「今は、このことを……この悍ましい真実を伝えるんだ!」


 その瞬間、洞窟の空気が一変する。今まで獲物の処理に没頭していた牛鬼たちの背筋が、不気味に揃ってこちらを向く。

「あ、あいつらぁ……!」

「見ぃたなぁ?」


 地響きのような咆哮。それは狩猟の合図だった。

「あの人間ども、俺たちの秘密を見やがったぞ」

「逃すな! 一人残らず捕らえろ」

「おお、若いオスだ。 最高の器だ」

 背後で、湿地帯の泥を蹴る悍ましい音が迫る。


 エリアスは、獣の気配を振り切るようにして疾走する。アフマドの足がもつれそうになる中、エリアスは仲間たちの集団へ飛び込み、悲鳴にも似た叫びを上げた。

「来るぞ! 牛鬼が、神殿まで来る!」


「エリアス? 何言って……」

「奴らは隠れていたんだ! 親父から体液を搾り取って奴らの『種』にしあげてから……女たちの腹に、親父の体液を利用して奴らの『種』を植え付けていやがったんだ!」


 エリアスの言葉の凄惨さに、周囲の少年少女たちが息を呑む。嘘であってほしいと願う間もなく、森の奥から地鳴りが響き渡った。

「逃げろ! 死にたくなければ、走れ!」


 凍りついていた少年たちの背中を、エリアスの絶叫が突き飛ばした。湿地帯から広葉樹林へ、そして針葉樹林帯へ。彼らは恐怖に突き動かされ、カミーユブーバルの神殿を目指してなだれを打つ。


 少年たちが見たのは、牛鬼たちの秘密である。カミーユブーバルにも秘密にしていた生殖の実態。それを少年たちに目撃された以上、このまま少年少女たちを逃がすわけにはいかなかった。

「まてぇい」

「こうなったら、全員つかまえろ」


 この時、たまたま訓練の呼びかけに応じてカミーユブーバルが近くにいた。そこまで届いた尋常でない叫び声。カミーユブーバルは、悲鳴と怒号を聞きつけてそのまま少年少女たちの逃げ惑うところに駆け付けた。

「カミーユブーバル様!」

「牛鬼達が、恐ろしい剣幕で!」

「襲いくる様子がいつもと違います」


 かつて10歳のとき、この守護者は、少年少女たちを窮地から救ってくれた。その守護者の姿に託す一筋の希望。カミーユブーバルは仁王立ちで村の入り口を塞ぎ、迫りくる牛鬼たちを威圧した。

「お前たち、何事だ! ここから先は俺の領分、人間たちの村だぞ……一歩たりとも通さぬ!」


 その声には、絶対的な権威と、傲慢なまでの余裕があった。だが、その慢心こそが彼の死角だった。

先頭の牛鬼が、卑屈なまでに頭を垂れて近づいてくる。

「へへえ……お許しを」


 従順を装ったその牛鬼は、そのままカミーユブーバルの足元を滑るように駆け抜ける。

「なっ……! 貴様、何を——!」

 守護者の驚愕と怯み、一瞬の隙。カミーユブーバルが狼狽し、大きくのけぞった瞬間、牛鬼たちの「従順」という仮面が剥がれ落ちた。


 牛鬼たちは、もはや飼い主を恐れていない。彼らは守護者の足元を笑うように飛び越え、獲物を求めて村の中。カミーユブーバルが見せたその一瞬の動揺は、彼らに「この神はもはや脅威ではない」と確信させるには十分すぎた。

 

 牛鬼たちは、整然とした動きで村を蹂躙する。それは獣の突進というよりも、標的を確実かつ冷酷に追い詰める掃討作戦。村の広場は、巨大な肉塊が暴れ回る地獄と化した。


 神官ケチェット・ベリナウアーが剣呑な空気の中へ駆けつける。彼は瞬時に牛鬼たちの視線を読み取り、凍りついた。奴らは村全体を襲っているのではない。執拗に、特定の「対象」を狩ろうとしている。

「少年少女を狙っているのか。皆、急げ! 子供たちを地下の奥深くへ隠すんだ!」


 ケチェットの悲痛な叫びが響いた瞬間、牛鬼たちの動きがピタリと止まった。

「仲間たちよ、聞いたか」

 一頭の牛鬼が、歪んだ口元をひしゃげて笑う。その声は、村の人間たちが聞き知っているはずのない、流暢で抑揚のある「言葉」だった。


「地下室だとさ。ご丁寧に居場所まで教えてくれた」

「承知、狩りの続きを始めようか」

 彼らは獣の皮を被った知性体。意思疎通を図る悪魔の群れに囲まれていると悟った村人たちの顔から、血の気が引いていく。


「きゃー」

「うわあ」

 悲鳴が村中を支配する。

「みんな隠れるんだ!」

 ニールが洞穴から手招きする。雪崩のように駆け込む少年少女たち。その最後尾は、アフマドとハディージャ。だが、背後の「獲物」を狙う飢えた殺気は、容赦なく二人を追い詰める。


「きゃー」

「ハディージャ、危ない!」

 アフマドが彼女を庇おうと身を翻した瞬間、二人はもつれ合うように泥にまみれた。迫りくる牛鬼の巨大な影が、二人を完全に覆い隠す。


 死を直感した二人は、互いの身体を強く抱きしめた。

「ハディージャ。ごめん、君を守り切れなかった」

「いいの、アフマドが一緒にいてくれるだけで……」

 

 その刹那――世界が白く反転した。二人の周囲の空気が、まるで意志を持つかのように高密度で旋回を始める。突如として発生した暴風の渦。それらが周囲の岩をも砕きそうな勢いで大地を抉った。


「退け」

 その声は、人間の言語ではなかった。思考がそのまま音響となったような、ノイズ混じりの威圧的な響き。

 そこに生じたのは、周囲の巨岩を重力を無視するかのように放り投げる竜巻。直後、十数体もの牛鬼がまるで羽虫のように天空へ浮き上がる。すると、その一群はいくつもの不気味な咆哮と共に、空の彼方へ消え去った。

 その後も、牛鬼たちの大きな群れがいくつかの塊になり、不気味な咆哮を残して舞いあがる。何回も何回も。こうして、全ての牛鬼たちが、十数キロ先まで弾きとばされた。


――静寂。

 嵐が去った後の洞窟前庭には、風の唸りと二人の荒い呼吸だけが残る。立ち尽くす二人だったが、その周囲では、すでに怪物たちの殺到した形跡すら消滅。ハディージャとアフマドは、自分たちの手から生じた、彼らを守る得体の知れない「力」の余韻に震え、互いを確かめるように祈り続けた。

 

 しばらくして、神官たちと守護神カミーユブーバルが現場に到着する。彼らが目にしたのは、世界から隔絶されたような静けさ、ただ寄り添う二人の姿。神官ケチェットの凍りついた視線が、物理法則を超えた破壊の爪痕と、そこに立つ二人の幼い影を交互に捉えた。


挿絵(By みてみん)



「何が起きたのだ?」

 神官ケチェット・ベリナウアーの鋭い視線が、震える二人を射抜く。ハディージャとアフマドは、湿地帯の悍ましい光景を断片的に語り出した。


「エリアスが湿地帯に入り込んで……」

「湿地帯に入り込んだのか?」

「そしたら……牛鬼たちが、奥地で、彼のお父さんやほかの村の人たちが牛鬼に襲われているのを見たんだ」


 ケチェットは、彼らの言葉の端々から事態の輪郭を組み立てる。エリアスの無謀、牛鬼の異常な行動、そして少年少女たちを追った死の行軍。聡明な神官の脳裏で、すべてが論理的に繋がった。

「……なるほど。エリアスたちは見たくないものを見てしまったのだな」


 ケチェットの問いかけは、次第に核心へと迫る。しかし、最後の「竜巻」のくだりに差し掛かったとき、同時に止まった二人の呼吸。虚空を見つめる彼らの瞳には、恐怖だけではない、何か別の「残響」が宿っていた。

「……ハディージャと僕の周りに、渦が起きたんだ」


 アフマドの言葉に、神官たちは息を呑む。

「僕たちが祈り、叫んだ瞬間、空間が歪んで……あの巨獣たちが、まるで枯れ葉のように吹き飛んでいったんだ」

 アフマドの言葉に周囲の空気が凍りついた。物理法則を無視した破壊の爪痕が、その証言を裏付けている。


 ケチェットの傍らで、神殿の守護神カミーユブーバルが、静かにその様子をうかがう。少しもかわらぬようにみえる彼の顔色。だが、この時、二人の周囲を取り巻いていた微かなエネルギーが異質に高まったことを、彼は誰よりも鋭敏に察知していた。


 もはや、ここは安全な場所ではない……この二人が無意識に放った力は、村の秩序にとっても彼にとっても「脅威」。カミーユブーバルがかすかに目を細めたことに、ケチェットだけが気づいた。


 カミーユブーバルは神官たちを伴い、湿地帯へと急行した。

 現場は、まるで天災が通り過ぎたかのような惨状。あれほど屈強だった牛鬼たちが、湿地のあちこちで肉塊のように転がり、虫の息で呻ぐ。彼らの身体は、内側から激しい衝撃を受けたかのように歪んでいた。


 カミーユブーバルは一頭の牛鬼をみおろす。彼らの無残な姿。牛鬼は恐怖に支配された目で守護神を見上げ、再び力なく泥の中に沈んだ。


「……これほどの破壊を、あの二人の子供が?」

 カミーユブーバルの声に、初めて微かな揺らぎが混じる。彼が恐れているのは、竜巻の威力そのものではない。二人の周囲を取り巻いていた微かな「何か」――自らの牧神としての管理能力や理解の範疇を超えた、制御不能なエネルギーの存在だった。


 あの時、現場で見たアフマドとハディージャの怯えた瞳。その瞳には、自分という守護神すら塵芥(ちりあくた)に変えうる、理不尽な「力」の残滓が映っていたはずだ。


 村に戻ったカミーユブーバルは、祈るように身を寄せ合うハディージャとアフマドを見つめた。視線は以前よりも深く、鋭い。それは慈愛の目ではなく、危険な火種を値踏みし、どう封じ込めるかを計算する「支配者」の眼差しだった。


 彼は言葉もなく、ただ重苦しい沈黙を残して去った。その背中には、初めて「獲物」に対する疑念と、拭いきれない畏怖が纏わりついていた。


_____________________________


 牛鬼たちが撃退され、村は表面上平静を取り戻し、15歳の成人式の日を迎えた。

 成人式とは、「家庭形成」という名の区切り時である。個としての自由が終わり、管理社会の細胞として組み込まれる「死刑宣告」に等しい日でもあった。

 そんな大切な式であるがゆえに、式を司る神官と牧神は、内心の疑念と畏怖を隠しつつ、生詩人式の準備を進めた。



 さて、会場にハディージャの姿がなかった。スティアーの冷ややかな声が、静まり返った会場に響いた。

「来なかったのは、ハディージャです。……神官様、規定通り、村の一員としては認めないのですよね?」


 スティアーの瞳には、愛する者を手中に収めたいという所有欲と、気に入らない者を排除したいという歪んだ正義が混在していた。彼女は既に他の少年たちを「家庭の構成員」として確保し、今まさに最後の獲物であるアフマドを追い詰めている。


「待ってください。僕はハディージャを待つ。彼女と家庭を持つんだ」

 アフマドの叫びは、支配的な村の空気の前ではあまりに無力だった。スティアーは嘲笑うように、挑発的に距離を詰める。

「彼女はもういないわ。逃げ出したのよ。ねえアフマド、大人しく私のものになりなさい」

 彼女の吐息が肌を汚すように感じられ、アフマドは耐えきれずに会場を飛び出した。


 その後、ケチェットは儀式の延期を決めた。


 儀式の延期を決めたケチェットが、ニールたちの住居へと向かうと、既にハディージャの気配は消えていた。


「これは神官様…今日は成人の儀式を司式することになってませんでしたか?」

 洞穴でケチェットを迎えたのはニールだった。ケチェットは、ニールとカーラに事情を説明しながら彼らの家に入りこんだ。

「ああ、その通りなのだが…」

「どうしたのですか?」

「実はあんたたちの娘ハディージャが失踪したかもしれんのじゃ」


 ケチェットは、ハディージャの部屋へと通される。空っぽの部屋。そこに残る微かな痕跡は、たしかにそこにいたという、ハディージャの匂いと、彼女がここから「消去」されたという決定的な冷たさ。

 ケチェットは、この失踪が単なる子供の家出ではなく、村の管理システムに対する最大の背信行為であることを察し、背筋に冷たいものが走った。


「え? 彼女はアフマドの後を追って家を出ましたよ…失踪したといっても、どこへ行けるというんですか?」

「それはそうなのだが…」

 神官は儀式を延期した事情をニールとカーラに説明する。その後もいろいろ調べたのだが、ハディージャがどうしているのか、手掛かりはさっぱり。ケチェットはとりあえず自宅へ戻ることにした。


 夕食の刻を過ぎても、ハディージャは戻らない。ニールとカーラは食卓を囲みながら、平静を装うのに必死。そこに、泥にまみれたアフマドが、ひょっこりと姿を現した。


「アフマド! 一体どうしたんだ? 神官たちがハディージャがいなくなったと村中を騒ぎ立てている。何があった、何か聞いているのか!」

 ニールが問い詰める。だが、アフマドの表情は硬いまま。

「僕にも……何も分からないんだ。僕は成人式から逃げ出したけれど、会場に彼女の姿なんて最初からなかったんだ」


 家の中に凍りつくような沈黙が流れる。牛鬼の襲撃以来、自分たち家族に向けられる、村の皆から注がれる視線。その意味するところは、どこか異質な者を見る目。それを二人は肌で感じていた。

 先日の異能の騒動……あれが、今回の失踪と無関係であるはずがない。 


 ニールとカーラは、最後に神官ケチェット・ベリナウアーの住まう住居を訪ねる。

「神官様、あの後ハディージャについて近所の人たちにも聞き回ったんです。けど、誰も見かけなかった、というんです。先日の騒ぎのこともあるし、心配で…」

「そうか。あいにくだが、私は力になれないよ」


 ニールとカーラを迷惑そうに見るケチェット。

「あんた達のところの子供達は、我々の間ではもう触りたくない存在なのだよ…あんた達の子供は、まるで牛鬼達を吹き飛ばしたように見えたから……」


 この神官の心の中には、次々に疑問が浮かぶ。

「カミーユブーバル様は、彼ら二人をなぜ興味ぶかそうに見つめていたのか? アフマドとハディージャは恐ろしい現象を起こしたかもしれない存在だぞ。それなのに、守護神様は興味を持つというのか? それもどのような点に興味を持つというのか?」


 その後、ケチェットは、何か胸騒ぎのようなものを覚えて、彼らの守護神カミーユブーバルの神殿をたずねることにした。


 帰宅したニールとカーラはほとんど無言。

「近所の人も誰も見ていないし、神官様もどうしようもないと言うし……」

 カーラが血の気を失った顔で呟く。その言葉を聞いた瞬間、アフマドの胸の奥で、ぼんやりとしていた不安が鋭い焦燥へ。

 彼女は失踪したのではない。何者かに「排除」されたのだ、と。


 アフマドは、握りしめた拳が震えるのを隠すようにして立ち上がる。家を出る彼の背中に、見送る親たちは無言のまま。ただ、これが二人の平穏な日常の、決定的な終わりであることを誰もが悟った。

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