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1 村

「ここはどこなの?」

「おっかしいな? さっきまで……」

 他の人が聞けば、この二人の会話は異国風の発音に聞こえただろう。

「ここは、海岸なのかしら?」


 ハディージャが掌に力を込める。杖の冷たい表面が汗ばんだ指先に張り付き、心臓の鼓動が耳の奥で嫌な音を立てて波打った。彼女は、掠れそうな声を必死に喉の奥で踏みとどめ、隣のアフマドを振り返る。

 横にいたアフマドは、ハディージャの心細そうな視線に気づく。しかし、彼自身も心臓の鼓動と乾ききった喉が、彼女に掛けるべき言葉を止めた。


 ふたりは、さきほどまで針葉樹林、そしてその遥かな下方の混合樹林帯と村とを見下ろす山頂に居たはず。それが、今、目の前には、見知らぬ星の島の海岸風景と、そこから見た水平線。しかも、経験していないはずの記憶によれば、その水平線のかなたには、かつて大きな島影があったということまで、思い出された。


「僕はこんなところ、知らないぞ」

「かつての大きな島影が、きれいさっぱり消し飛ばされたなんて......」

 目の前の光景は、普段はおとなしく控えめな二人に驚きの声をあげさせるほど、驚きに満ちたものだった。


 このとき、ハディージャの持つ杖が、まるで生き物のように手に細かな振動を伝える。その振動は次第に細かく、やがて聞こえてきたのは甲高く震える音声。単に聞いているだけだったら、その声は、したったらずなアラビア語訛を話す中性的な喋りに聞こえたかもしれない。


「これは、ある星の上における、太古の最終大戦の痕跡だ。この後、この星のほとんどの人間たち、つまり狭き門を通り携え挙げられた者を除いた人類と魔族たちは滅びへ向かうこととなった。たとえ、大宇宙へと逃げ去っても......」


 その中性的な音声が、次第に誰かの声のように変化して、目の前の幻がさらに広がった。

「『あの星』って? 何のことなの?」

「太古の最終対戦?」

......それは誰かの記憶。それをこの杖が二人に見せた。

__________________________


「その杖を、また持ち出したのか? なにをしようとしたのだ」

 背後から恐ろしく鋭く大きな声が響く。その途端に消える幻。目の前には、いつもの針葉樹林を見下ろす風景が戻った。


 ハディージャとアフマドが首を縮めながら恐る恐る後ろを振り返る。そこには普段優しいはずの両親ニールとカーラの厳しい形相。怒鳴るその声は、おとなしい小さな二人の子供を震え上がらせるには十分なほど大きく、また鋭かった。

 それがまた、二人の子供をさらに混乱させる。


「ご、ごめんなさい」

 ハディージャとアフマドは、そう返事をするのが精いっぱい。彼ら二人は、先ほどまで声を出していた杖を黙って父の手に返した。


「また、これを持ち出したのか? そうか……この杖には二人を惑わす魔力があるに違いない」

 杖は、今、何の変哲もない木の棒にみえる。父親のニールの手元にある杖。彼から見ると、その杖の表面は冷たく、使い込んだ杖以外の何物でもなかった。


 カーラは、子供たち二人へ家に戻るように促す。そのまぎわに、ニールに声をかけた。

「その杖、普通の木の棒にしか見えないのに、不思議ね。さあ、子供たちも見つかったし、帰りましょう」

「ああ、そうだな。この杖はどうしようか? 折ろうとしても、この杖はおれないんだよな。まるで......その....俺たちの言うことをなかなか聞き入れてくれないこの子たちみたいな。そう、この二人は、不思議に何かを秘めているように思えるんだが、彼らはなかなかその意思を折ってくれないよな。そうだな、この杖は、もう、カミーユブーバルさまの神殿に奉納してしまったほうがよいだろう」

 確かに神殿におさめてしまえば、子供の手でその杖を持ち出すことは不可能だ。


「でもニール、これは元々は子供たちの傍らにあったものよ」

「それはわかっている......この二人が成人してから返してやることを考えているよ」

「そうね」

 大人の二人はそう言いながら、家路につく。その後に続いてとぼとぼ歩くハディージャとアフマド。ふたりは、父親に怒られたうえに、先ほどの光景に圧倒されたせいもあって、その後はずっと無言のままだった。


「ごめんなさい」

 家に帰ると、ハディージャとアフマドは小さく謝ってから子ども部屋へ戻る。部屋へ入る直前に振り返った子供たちの目。普段は優しいはずの父母の目が、まだ厳しくそして寂しげに光るのをみて、子供たちの気持ちは更に重くなった。

_________________


 ヘンダーセン家の二人の子供は、ハディージャ・ヘンダーセンとアフマド・ヘンダーセンという名前を持つ。彼らは、ともに黒い瞳、褐色の皮膚、うねる黒髪、狭い鼻を持った子供。二人は共通した特徴を有していたが、そのどれも育ての親であるヘンダーセン家の両親とは、似ても似つかなかった。


 彼らを赤子の時から育ててきた父母、ニールとカーラの家は、この村の外れの洞穴にある。この父母二人は、灰青色の目とグレーホワイトの肌。この家を含んだ広大な混合樹林・農業地域一帯にすむ典型的な人類と同様だった。


 朝になり、彼らの棲む横穴の煙突からは、薪の匂いがする。それとともに舞いあがるのが、香草で鶏肉を煮詰めたスープの香り。当然ながら、スープと薪の香りがハディージャとアフマドの部屋まで充満した。


「ニール、そろそろ朝食ができるわ」

「そうか、もう、追加の薪は必要ないだろうか? わかった。カーラ、僕が子供たちを起こしてこよう」


 時を置かず、ニールに急き立てられるようにして、幼子二人が来る。眠そうな目をこすりながらダイニングへ。二人の子供は、目の前のご馳走にたちまちいつもの無邪気さを取り戻した。


「おはよう、カーラ」

「ええ、おはよう」

「あ! 香草の鶏肉野菜スープだ! いい香り!」

「早く食べたい!」


 カーラは微笑みながら、彼女の連れ合いと二人の子供とを食卓へと促す。

「さあ、早く席に着きなさい!」

「ニール、今朝は貴方が食膳の祈りを捧げて!」

「わかった! 我らを守る神にして収穫とこの星の支配者たる神、カミーユブーバルよ! 我らに今朝も食事を与えたもう! 感謝します」


 村の隅々まで染み渡るカミーユブーバルの教えは、正義を教える。「子づくり」とそのための「三人以上での情の交換」こそが正義だった。それらの教えは、この星の人間たちに強迫観念となって深く刻まれる。


 三人以上の家族形態、ブーバル牧神の紋章を刻んだ衣服、それらがない家庭は、まるで腐った果実のように疎まれる。ニールとカーラは、そんな村の湿った雷同、つまり同調圧力に決して馴染めなかった。彼らが選んだのは二人きりの均衡。二人の男女が作る家庭は、彼らの肌に刻まれた誓いの印と相まって、村人たちからみれば「変わり者」の烙印だった。


 そんな彼らにとっても、ハディージャとアフマドはあまりにも唐突な存在である。森で見つけた二人の子供ということが、育ての親にとってはあまりにも脆い過去。カプセルという異質な器から弾け出したあの小さな影たちの、肌の色も瞳の輝きも、この星のどんな生命とも異なる異物であることを、ニールとカーラは肌で理解した。


 いつか、彼らが何者であるかが暴かれるだろう。そんな予感に静かに怯える二人。それでも、彼らは、二人の小さな幼子を固く守り抜くことを誓った。

___________________


 七歳を迎え、ハディージャとアフマドは学び舎へ通い始める。他の子供たちと混ざり合うことがない雰囲気。彼らの褐色の肌やうねる髪も、この村の灰青色の肌を持つ者たちにとって、理解不能な「異質さ」の象徴だった。


 遊び場での騒ぎの中にいても、彼らの周囲には常に、目に見えない薄い膜が張られる。両親であるニールとカーラがこの社会の規範から逸脱しているという事実。その疎外感は、そのまま子供たちへのレッテルとなり、彼らを教室の隅、カーストの最下位へと自然と押し込んだ。


 学び舎での勉強は、主に『生産と避難』、『倫理』、『観察描写表現』、『理科・観察分析』という学問がである。


「さて、今日の『理科・観察分析』の授業だが、今日は石、岩、木材などを観察してみたいと思う」

 担任教師のゼニス・ギルバートソンはそういうと、手で持てるほどの立方体の石、岩、木材を十数個、実験台の上に乗せた。児童たちは、何が始まるのだろうと目を輝かせて実験台の周囲に集まった。


 女児のスティアーが声を上げる。

「え、この石や木材の何を観察すればいいの?」

「それぞれの硬さと形とを観察するんだ」

 ゼニスがそういう。皆がゼニスを見つめた。


「硬さと形?」

 スティアーはハディージャをちらりと睨みながら、怪訝そうな顔をする。離れたところにいた男児のエリアスも不満めいた口調で続いた。

「何が面白いのさ」

「みんなの家は何でできているのかな?」


 ゼニスが話題を変え、改めて子供たちに質問をする。比較的知恵が回る男児たちが返事をした。

「杉の木だよ」

「そうさ! 木を同じ長さに切って、互いにたてかけるんだ」

「簡単だよ」

 エリアスやほかの子供たちは、歓声を上げる。それにゼニスは呼応した。

「そうだ、簡単だ......そしてすぐ壊れる」

「簡単だから、すぐ作れるし、すぐ修繕《なお》せるよ」

 エリアスはゼニスに反駁する。ゼニスはさらに指摘した。

「そうだ、簡単だからすぐ修繕《なお》せる。そして、すぐ壊れる」

「でも、それが此処での昔からのやり方だから……」


 ほかの男児がエリアスに同調する。エリアスは気をよくしてさらに続けた。

「そうだよ、お父さんもお母さんもそう言って、僕たちに教えてくれているよ」

「そうか。だが、ここで言っておきたい。簡単に壊れるということは、丈夫にする工夫がないということになるんだよ」

 ゼニスがまとめると、子供たちは黙った。


 それでも、エリアスが再び声を上げる。

「アフマドとハディージャは、岩の穴に棲んでいるんだぜ……手で作った家じゃない、岩の穴だぜ」

「こいつらの家は、ネズミの穴蔵あなぐらだぜ」


 スティアーもまたそう言って茶化した。ハディージャとアフマドは顔を伏せたが、それでも小さな声で反論する。

「岩は私たちにとって、最も安心できるところなんです」

 この時、アフマドは小さな声で独り言のように言った。


『......啓典の主こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら......私は決して、ゆるがされない」

 その言葉は、かつて幼い時に手に持っていたあの杖が語った言葉だった。


 アフマドの呟きに、ハディージャはわずかな震えを伴って声を重ねる。

「私たちは岩山の中に棲んでいます。そこには、石を組み合わせた『アーチ』という構造がみえます……だから頑丈で……」


 担任教師のゼニスは困惑し、眉間に皺を寄せながら二人を凝視した。その視線にふくまれるのは、教育的な関心というよりは、理解不能な異物を見るような戸惑い。

「アーチ……? それは何のことだ?」


 アフマドは、喉の奥が熱くなるのを感じた。杖から流れ込んできた『三日月の工学』の叡智。その知恵は、この村で見ることのできる技術レベルとあまりに乖離する。

「ここでは、どうしてアーチを応用しないのですか? 石や木を観察すれば、重力を分散させるための構造が見えてくるはずでしょう?」

 「アーチ」「重力分散」という単語を繰り返すアフマドの瞳には、論理的な確信が宿る。しかし、ゼニスの耳にはそれはただの奇妙な呪文のようにしか響かない。


 ハディージャもまた、抑えきれない熱量で会話に割り込んだ。

「授業の目的が『分析』であるならば、その先には必ず『応用』があるはずです。堅牢な構造へと行き着くための、必然の帰結として!」


 教室が水を打ったように静まり返る。ハディージャの切実な声が、薄汚れた壁に虚しく反響。そこにゼニスの冷ややかな言葉が、二人の足元をすくい上げた。

「何を言っているの?」


 アフマドとハディージャは、同時に口を閉ざす。杖が囁く輝かしい叡智と、周囲の子供たちが向けてくる粘りつくような嫉妬と憎悪。肌を刺すような敵意に、二人は、自分たちがこの教室という空間において、どれほど決定的な「異端」であるかを痛いほど理解した。

......スクールカーストの最下位の僕たちが、口を開くべきではなかったのかな……


 アフマドは、自分の心臓の音だけが、教室の冷たい静寂の中で大きく響くのを感じた。ハディージャは俯き、掌の中に冷たい汗を握りしめる。自分たちがどれだけ正しい知識を持っていても、この村の澱んだ空気の前では、それはただの傲慢な叫びにすぎなかった。


 ゼニスは生徒たちの間に流れる張り詰めた空気を読み取れず、ただ困惑したまま宙を仰ぐ。その鈍感さこそが、二人にとっては救いようのない絶望だった。


 この時、救いのように、授業の終わりを告げる鈴が鳴り響いた。

「では、今日の授業を終えます」

 その冷徹な宣言を聞き、二人はようやく呼吸をすることができた。

___________________


 日を改めて、別の重要な授業が行われた。「安全指導・避難訓練」――その響きだけで、教室の空気は重く沈む。


 担任のゼニスが、教卓の上に魔獣の精巧なミニチュアを置いた。その黒い角と禍々しい鉤爪を見た瞬間、生徒たちの間からすっと息を呑む音が漏れる。

「この魔獣の名を答えられる者はいるか?」

「……しらない」


 スティアーたちの声は小さく、ひどく掠れる。彼らの視線は魔獣から逸らすこともなく、まるで置物そのものが今にも牙を剥くのではないかと怯えているかのよう。ゼニスは溜息を吐き、教卓を指で叩いた。


「この獣は、村を囲む針葉樹林の外、あの湿地帯の奥に潜むものだ」

「まさか、牛鬼?」

 エリアスの口から出た言葉は、恐れというよりも呪詛に近い響きを持った。ゼニスは静かに頷く。


「そうだ」

「そいつは、怪物だ! 僕は見たんだ……僕を守るはずの魔獣が、従姉妹たちを、家族を、暗闇へ引きずり込んでいくのを」

 エリアスの顔は青白く変色し、全身が激しく痙攣し始める。ゼニスが慌てて彼にかけたのは意識を奪う鎮静の術。その後、教室には、エリアスの荒い呼吸音だけが長く残り、他の子供たちは皆、氷水に浸かったような恐怖で身を強張らせた。


 ゼニスは気を取り直して、ふたたび口を開く。

「みんなも知ってほしい……牛鬼は恐ろしい存在だ。だが、基本は村を守ってくれる魔獣なんだ。本当はまずこの映像を見てほしかったんだが……」


 彼はそういうと、詠唱とともにある映像を白壁に投影した。

 それは、皆が見たことのない巨大な熊のような、獅子のような怪物の数頭が、針葉樹めがけて突進する姿。それ等が牛鬼の領域に差し掛かると、池や沼から大量の牛鬼たちが出現した。


 双方は、そのまま激突し、牛鬼たちはその鋭い牛角と牙とつま先とによって、たちまち怪物たちを引き裂いた。彼らはそのまま怪物たちの肉にたかるようにして、怪物たちを喰い尽くす。やがて、牛鬼たちが沼や池に姿を消すと、そこにはきれいに食べ尽くされた怪物の骨だけが残った。


 白壁に投影された圧倒的な暴力の光景に、子供たちは胃の腑が締め上げられるような感覚を覚える。

「皆も分かったはずだ......牛鬼は、守護神カミーユブーバル様に飼い慣らされた『守護の盾』であるのだが、それは守護神が我々を統制下に置いているという証左でもある」


 ゼニスの冷徹な言葉。スティアーが震える声を上げる。

「しっかり管理されていれば……ということは、管理が外れることもあるのですか?」

「そうだ」

 ゼニスは低く、言い切った。


「誰か一人でも神の教えに背けば、ブーバル様の目は我々を直視せざるを得なくなる。その瞬間、守護の盾は牙を研ぐ野獣へと変貌する。管理という名の鎖が解かれた時、牛鬼たちは獲物を我々へと切り替えるのだ」

 神への信仰がそのまま「生存確率」に直結する――その残酷な真実を突きつけられ、子供たちは誰一人として声を上げることができなかった。


 スティアーは、納得したように何度も深く頷く。

「そうか、じゃあ私たちは、守護神カミーユブーバル様を誰よりも大切にして、怒らせないようにしなきゃいけないのね!」

「その通りだ」

 ゼニスは、子供たちが教義を疑いなく受け入れたことに安堵の表情を浮かべる。だが、その瞳の奥には、彼らが生きていく世界の残酷さが影のように揺れた。

「ただし、忘れるな。奴らはあくまで野獣だ。姿を見かけたら、理性など捨てて一目散に逃げること。生き残る道はそれしかない」 


 この説明により、教室全体に沈黙が走る。スティアーが小さく呟いた。

「でも……私たち、今まで牛鬼がどんな姿をしているのかすら知りませんでした。守護神の使いなのに、まるで伝説の生き物みたいに……」


 彼女の指摘は鋭く、そして痛々しいほどに正論である。実物を見たことのあるのは、エリアスのような悲劇的な遭遇者だけ。この村のほとんどの子供たちは、実物を見ることなく「守護神の家畜」という観念だけで牛鬼を捉えた。


 ゼニスは教卓のミニチュアを指先でなぞり、重苦しい声で応じる。

「そうだ。奴らは死の匂いとともに現れ、狩り以外では姿を消す......だからこそ、今こうしてミニチュアで形を叩き込んでいるのです……いいか、奴らの姿を肉眼で確認したとき、逃げ切れる者は極めて少ない……だが、頭の中で完璧に解像できていれば、コンマ一秒の差で生き残れるかもしれない......これは遊びではない......お前たちの命を繋ぐための、最低限の準備なのだ」


 ゼニスの口調から慈悲が消え、冷徹な生存の論理が教室を支配する。青ざめる子供たちはの顔。彼らは頷くことしかできなかった。


 しばらくの沈黙ののち、ゼニスは空気を切り替える。今度は「怪物」と呼ばれる別の脅威。彼女は、その後も繰り返し未知なる脅威についての説明をしつづけた。

___________________


 ハディージャやアフマドたちが十歳前後から、成長期を迎える。この日、少年少女たちを誘ったのは春の新緑。それに従うように、彼らは馴染みの岩山へピクニックに出かけた。


 娘たちは可憐さを増し、少年たちは筋肉を少しずつ逞しく成長する。穏やかな風が吹く頂上で、彼らの眼下に広がる世界。かれらは、そこから針葉樹林の向こうに村を見下ろし、視線を湿地帯の沼地へと這わせた。


「あそこには牛鬼がいるのね」

 誰かの呟きが、空気をわずかに冷やす。


「牛鬼なんて、どこにもいやしないさ!」

 沈黙を破ったのは、ディンゴと彼の取り巻きたち。彼らは威勢よく笑い飛ばした。

「ただの脅しだよ。本当に神様が牛鬼を管理してるっていうなら、その姿をどこで見せてくれるんだよ?」


 神を嘲るような言葉が湿った空気に吸い込まれる。その直後に、湿地帯の彼方から骨の髄まで凍りつくように響く低音の咆哮。それは重なり合い、岩山全体を飲み込むような地響きとなって足元を震わせた。


 同時に、霧が急激に発生する。――いや、それは霧ではない。異形の身体からもうもうと立ち上る、むせ返るような生温かい湯気だった。


 全員の顔から血の気が引く。霧の向こうから、かつて授業で見たあの禍々しい角と巨大な影が立ち上がった。ぬらりと現した獣たちは、獲物を品定めするように頂上を見上げ、岩壁を這い上がるように迫る。


「ねえ、あれ……牛鬼なの?」

 スティアーの震える声に、アフマドは言葉を失った。

「僕たちを、狩る気なのか?」


 ハディージャが悲鳴に近い声で「逃げなきゃ」と促す。だが、脳が警告を発しているのに、足は地面に釘付けになったまま。底知れぬ恐怖が脊髄を凍らせ、彼らの筋肉から自由を奪った。


「俺たちは愚弄されたぞ」

「愚弄した奴、出てこい」

「愚弄した奴を、許さないぞ」

「愚弄した奴を、俺たちは喰う」

 頂上は、こう怒鳴り続ける牛鬼たちですっかり囲まれた。


「ディンゴたちは確かに牛鬼を嘲った……でも、あんな嘲りだけで牛鬼たちが子供全員を相手に襲い来るのか?」

 アフマドは思わずハディージャの顔を見つめる。ハディージャもまた、不安いっぱい。ただ、ハディージャの心にふと、杖に言われていた言葉が浮かんだ。


「わたしはけっしてあなたを見捨てない」 

 ハディージャは、震える手を合わせて天を仰ぐ。


 牛鬼たちの喉奥から響く唸りが、頂上を支配した。

「グルルル、まずはお前を喰ってやる」

 その濁った眼球は、牧神を嘲笑ったディンゴたちに固定された。


 アフマドは、考えるより先に動く。手元の石を掴み、渾身の力で投げ放つ。その瞬間、彼の背後、遥か神殿の方角から目に見えない「意志」が奔流となって溢れ出し、石を加速。極限まで研ぎ澄まされた質量は、弾丸のように牛鬼の一頭を貫き、その巨体を岩壁へと叩きつけた。


「グルルルウォー!」

「おまえ、やったな……殺す!」

 怒号とともに、残りの牛鬼たちが一斉にアフマドへ牙を剥く。逃げ惑う最中、アフマドは石段に膝を強打。激痛に歪む顔。周囲では子供たちの絶叫と、獣が肉を引き裂く不穏な湿り気が入り混じった。


 見れば、禁忌の領域であるはずの針葉樹林を埋め尽くすほどの牛鬼が押し寄せる。それらは獲物をすぐに喰らわず、遊び道具のようにあつかう爪先。ハディージャとアフマドもまた、巨大な鉤爪の間で翻弄され、極限の死の恐怖に思考が白濁した。


 このようにして絶望が頂点に達した時、岩山の麓から必死に叫ぶ親たちの声が届く。金属の礫が雨のように降り注ぎ、牛鬼がわずかに怯んだ隙に、子供たちは本能のままに岩山を駆け下りた。しかし、後方にいたディンゴが、鋭い爪に掴み上げられ宙に浮いた。彼の父親が鋤を振り上げ、狂ったように突進していく姿が見えた。

「この化け物め!」

 ――その一撃は牛鬼の脚を深く抉ったが、湧き出るような数の牛鬼の前では、あまりに無力だった。


 その時、空気が裂ける。

「牛鬼ども! なにをしている!」

 轟音とともに舞い降りたのは、飼い主カミーユブーバル。彼の威圧感は、それまでの混沌を一瞬で凍りつかせるほどに峻烈だった。


「この馬鹿ども、俺様に隠れて……ただでは済まさんぞ!」

 牧神の叫びが雷鳴となって響き渡る。先ほどの凶暴さが嘘のような牛鬼たち。カミーユブーバルは怒りのままに落雷を叩き落とし、獣たちを叱り飛ばした。


「人間に、俺様の所有物に手を出したな!」

「グァ、おらたちが悪かっただあ……ぶたねえでくでえ!」

 絶対的な飼い主の怒り。牛鬼たちは従順な家畜へと成り下がり、湿地帯へと追い立てられた。

___________________


「あの石を投げたのは誰なんだ......俺様の神殿の宝物庫から不思議な力が、あの石をめがけて飛んでいったんだぞ」

 牛鬼たちが帰っていくのを確認すると、カミーユブーバルは解放された子供たちを一人一人眺めながら、そう独り言を言った。


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