26 湖水祭り
第二リングはどこへ行っても夜の部分はない。それでもハディージャとアフマドの二人が閉じこめられたのは、真っ暗な部屋。それは、前にも泊まったことのあるコリオレイヌスとダイアナの家の一角。二人は、コリオレイヌスの魅了を被ったうえ、後ろ手に縛られたまま家の一室に転がされていた。
アフマドは、後ろ手に縛られながらも、なんとか立ち上がる。
「どこも、逃げ出せるような隙間はないね」
「え、ええ」
ハディージャは生返事。とても脱出を考える余裕など無いようにみえた。
「あの、アフマド、これから起きることだけど、今のうちに謝っておくわ......」
ハディージャはそういうと、後ろ手に縛られたまま何とか立ち上がる。彼女が見つめるのは、後ろ手に縛られ仰向けになったままのアフマド。胸を突き出させるまでにきつく後ろ手に縛られたたままゆらりと立った彼女の姿は、暗闇にすすり泣きながら近づいてくる女の幽霊に見えた。
「ハディージャ、今は立ち上がらない方がいいのに.......」
「私、もう、耐えることが出来なくて......」
涙声で訴えながらユラリと近づくハディージャは、まるでアフマドを惑わせ迫る踊り子。後ろ手で縛られたアフマドは、どうしようかと考えながら身構えた。
「その思い、本当は受け止めてあげたいのだが…… 僕を見てごらん。今の僕はまるで両手をもがれたような姿だろ? 後ろ手に縛られて、君を受け止めることが出来ないんだ」
「今の私、貴方にふさわしくないから。だから、受け止めてくれなくていい。ただ、私はぶつけたいだけなの......」
アフマドは、ハディージャの涙声に胸騒ぎを感じ、仰向けのまま部屋の隅へ懸命に逃げる。だが、ハディージャから逃げることなどできるはずもなかった。
「わ、分かった、だが待ってくれ」
ハディージャは彼に応えず、すすり泣きながらアフマドを部屋の隅へ追い詰めるように近づく。アフマドは、いつくしむようにハディージャを見つめる。彼女は彼にすべてを預けるかのように目をつぶり、二人は倒れこんだ。
「どうしたんだ、一体全体......」
「私、貴方に触れたかったの......あなたにすべてを捧げたかったの。私のすべてをあなたのものにしてもらいたかったの....」
こう言われたアフマドだったが、いつもの恐慌とは違って心は静かなまま。ハディージャの言う彼女のすべてが何を意味するのか、彼には皆目見当がつかない。それでも、泣きはらすハディージャを目にしては、彼に頬と唇を寄せて縋り付く彼女の顔と体とを、自分の身体でただただ受け止めた。
「コリオレイヌス、アフマドには何も起きないではないか?」
「そ、そうですね。見てください、確かにハディージャには臣の魅了の術が明らかに発動しています」
「そうだが……では、なぜアフマドに何も起きないのか?」
外から二人を見るアガメムブーバルたちから見れば、今の彼はただハディージャを受け止めるだけにみえる。アガメムブーバルたちが期待したのは、金縛りのアフマド。しかし、彼らの目の前には、金縛りになどならなずに、苦しむハディージャをごく普通に受け止める彼が見えるだけであった。
「今まで、臣の施した魅了の術が聞かない人間など、今までいませんでした」
「それはそう。私もそなたの魅了の術の強さをよく知っている」
「ありがとうございます。その臣は、彼に確かに念入りに魅了を施しました」
「そうだった。それでは、アフマドが正気のままというのは、どういうことなのだろうか?」
その後も、部屋の中の二人は折り重なったまま。ハディージャは、泣きながらアフマドの身体に身を寄せ、頬ずりと接吻を繰り返す。アフマドは、ハディージャのすべてを受け止めるかのように身じろぎもしなかった。
アガメムブーバルたちには、観察することがもはやばかばかしく感じられる。その場から立ち上がるアガメムブーバル。それに倣うようにコリオレイヌスも立ち上がり、二人はその場をあとにした。
観察されている気配が無くなったのを、アフマドは察した。ハディージャも落ち着いた様子。そこで、彼はこの部屋から逃げ出す算段を本格的に探り始める。
「君を後ろ手で縛り上げている縄を見せてくれるかな......うん! 今なら、この縄を噛み切れる」
アフマドは、ハディージャの腕を縛り上げている縄の太さを見定める。彼の歯であれば、十分に噛み切れる程度の細さ。コリオレイヌスは、女性を縛り上げる程度の太さであればよいと考えたに違いなかった。
「ハディージャ、僕の縄の太さを見てくれるかな?」
「え、ええ」
残念ながら、アフマドは男であるがゆえに、彼の腕を縛る縄はそれなりに太い。息をのみ、言葉を飲み込むハディージャの顔つき。彼が察したように、彼の腕の縄はとてもハディージャが噛み切れるようなものではなかった。
「じゃあ、まず僕が君の縄を噛み切ってあげるよ」
「あ、ありがとう…ほ、本当に…ありがとう......これで…」
ハディージャは、アフマドの口元に後ろ手に縛られた手首を素直に近づける。ただし、彼女からの感謝から感じられる感情は、微妙に変化。気のせいなのか、彼女の心から彼が感じたのは、純粋な感謝だけだったものが次第にソワソワした何かだけになった。
「フウ、やっと噛み切ったぞ」
「ええ、ほんと、両手が自由だわ」
ハディージャはうれしそう。アフマドは微笑みながら、ハディージャに背中を向けて話しかけた。
「じゃあ、早速脱出できそうな箇所を探そう。さあ、僕の縄も、その辺りの刃物で切ってくれないかな」
ハディージャの返事がない。その代りに、彼が感じたのは彼の背中近くで凛と立ち上がったハディージャ。衣擦れの音に驚いて振り向いたアフマドの目には、ハディージャが胸元のボタンを解く姿がみえた。
「ハディージャ、何を?」
「アフマド、私、うれしかったの......頬と唇を寄せて縋り付く私の顔と体とを、貴方がただただ受け止めてくれた。その時、私は貴方に愛されていることを感じられたの」
「そうさ、僕は君を愛している。それも涙にくれた最愛の妻を、どうして放っておけようか!」
「うれしい、アフマド! アフマド! あなた!」
この言葉と共にハディージャから衣服の音が消えた。とたんに冷や汗を流し始めたアフマド。その彼の背中には、明らかにしがみついて離れない圧力が感じられた。
「ま、まさか!」
アフマドは、一瞬にしてハディージャがどんな格好で彼の背中に縋っているかを理解する。尋常でない危機的状況に、思わず逃げ出そうとするアフマド。だが、彼の両手が後ろ手に縛られたままであったこともあって、うまく動けない。彼は、不覚にももんどりうって床に仰向けに転がった。
「ね、ねえ、ハディージャ! ぼくはまだ後ろ手に縛られてまともに動けないんだよ」
「そう、そうよね」
ハディージャの謎めいた微笑。アフマドは彼女から視線を懸命に外す。
「なあ、脱出するんだよね? 今なら奴らはいなくなったみたいだし……」
「そうね、彼らはいなくなったみたいね。二人だけよね。だから、今は私を見て」
「それはまずい、このまま君を見たら、僕は情欲を以って女性を見ることになる。幾千倍にも罰を受けるに違いない」
「そんなことを言わないで......わたしを見て。私をかまって。私を受け入れて!」
ハディージャは涙声になる。求められて、アフマドは思わず彼女を見た。
「あ、まずい……あれ、うごけない。まずい、手も足も出ない」
それは、この場でのアフマドの最期の言葉。
最愛の妻ハディージャの泣きはらした顔と彼に押し付けられた柔らかい部分。それは夫であるアフマドを金縛りにすることを意味する。なぜなら、彼は確かに魅了を受けていたから。ただし、彼の強固な意志のせいで、魅了はよほどの刺激がなければアフマドを金縛りにできなかっただけ。
「うれしい、アフマド! アフマド! あなた!」
動けなくなったアフマドにハディージャが縋り付く。後のことはハディージャの意のまま。ただし、そのあとのハディージャによる教育と愛のふるまいは、アフマドにとってはもう......。
もちろん、彼はハディージャの悲鳴のような声しかおぼえていない。ハディージャは思いを遂げることが出来たものの、肝心の彼に対する教育は、彼の中に一切記憶されていなかった。
神殿へと戻る途上の女神アガメムブーバルと神官コリオレイヌス。
「なぜ、臣の魅了がアフマドに効かなかったのでしょう」
コリオレイヌスは、ずっと考えこんでもわけが分からないというように、首を振る。
「確か、奴は、女の姿を見た際に金縛りになる筈でした」
「そんな刺激で発動するのなら、女神である私の姿を見れば、既に金縛りになるはずではなかったか?」
アガメムブーバルは、自らの装いを確認しながらコリをレイヌスを見る。コリオレイヌスにとっては予想していた問いかけ。二人は、その後、分析と対策を検討しつづけた。
「しかしながら、マイロード、貴女様の姿を前に畏怖した場合、魅了など意味がないでしょう」
「そうか……ただ、服をまとった女を目にした程度の刺激では、単純には金縛りにならないということではないか?」
「では、もっと刺激を強くすべきであると?」
「そうだ。あの部屋の中で、ハディージャは服を着ていたではないか、これではアフマドも刺激が足らず、そなたの魅了も効き目が出なかったのではないか?」
アガメムブーバルの分析と指摘。コリオレイヌスは考え込んだ。
「ということは、女たちには素肌を晒せるように準備させましょうか。例えば、水着になる準備をさせれば......水着であれば、すぐに慰めに移れますし」
「そうか、そなたがよく行う慰めの儀式でも、それに似た展開をさせていたな」
「はい、ですから、慰めの儀式と似た展開の何かを考えませんか」
「そうだな、そなたに何かいい案はあるか?」
コリオレイヌスはそれを聞き、薄笑いを浮かべながら提案する。
「それでは、久し振りにアガメムブーバル様による湖水清めの儀、湖水祭りを開催しませんか? この際に、参加する村の女たち全てを水着着用にさせたうえで、アフマドたちも参加させましょう」
「ほほう、そなたの提案はよい考えだ。私も清めの儀にそのような装いを纏おう」
こうして、次の日、急に湖水祭りが開催されることになった。
_____________________________
「朝に村中に知らせがあったけど、今日は湖水祭りなのかな?」
アフマドが訝し気に効く。横で目覚めたばかりのハディージャが眠そうに答える。
「そうね」
「ふうん、単なる偶像崇拝の祭りじゃないのか? 僕たちも駆り出されるのか」
「儀式らしい儀式があるのかしら」
「湖水祭りというだけなら、村人全員が集まって、湖畔で遊ぶだけだろう」
湖水は村はずれにある。まるで大海のように見ることのできない向こう岸。アフマドたちがコリオレイヌスから見せられた映像記録によれば、村中の女たちが水着で湖畔に集まった様子は、海水浴といっても通用するような風景であった。ただし、湖水祭りは、村の男たちがいなくなってからは、開催されていないという。
「みんな、簡単だけど服は着ているぜ。服を着たままなんて、昔の僕たちの村の川遊びに似ているね」
「そうね。なんで、湖畔にこんなにたくさん枕みたいなものが並んでいるのかしら......それに、娘たちがみんなそわそわしてあなたを見ているわね」
「そ、そうだね」
アフマドは、ハディージャに言われて、急に感じた嫌な予感。
「そう言えば、昨夜の君も、そわそわした後、急に僕に縋りついて....」
「え?」
「あれは、僕を教育してくれたの? 僕の上に跨って何かいろいろ教えてくれたけど」
ハディージャは真っ赤な顔をアフマドに向ける。アフマドは訝し気にハディージャを見つめる。
「何度も悲鳴みたいな声を上げていたけど、それって痛かったの? 僕は何にもしていなかったつもりなんだけど」
「あの、それは、アフマドに女性を教えようとして......」
「でも、僕はハディージャの悲鳴しか覚えていないんだけど......」
アフマドはそう言って、しまったという顔をする。ハディージャの赤く恥ずかしそうな顔が、赤く怒り始めたからだ。
「ねえ、肝心なことはおぼえていないのかしら? 私の、…あの…、声しか覚えていないの?」
「あ、あの、覚えていなければならないことって、何かな? あっ」
これも言うべきではなかった。
「ねえ、アフマド、全然覚えていないのね。私が恥ずかしいのを我慢して、一生懸命に教えたのに」
「あ、そうだ、思い出した。昨日、ハディージャがソワソワしていたけど、ここの女の人たちも、そわそわしているね。そうか、そわそわの意味を、周囲の女の人に聞けばいいんだね」
アフマドはそういうと、ハディージャが手を伸ばして彼の袖をつかもうとした。だが、彼は、そんなハディージャの反応に気を留めるそぶりもなく、周囲の娘たちに聞きに行ってしまった。
「アフマドの、馬鹿!」
アフマドは、近くにいた娘たちに、近づくと。途端に娘たちは息をのみ、目が輝いた。アフマドは娘たちのソワソワが強くなったのを感じて、ちょうどいいと考えながら質問する。
「なあ、皆、そわそわしているみたいだけど、湖水祭りって何をするんだ?」
「え? そわそわ、そうね」
「うーん、そうね。みんなで体を寄せ合って、絡み合って盛り上がるの......」
「昔、男たちがいた時にしばしば行われていたのよ」
「そうそう、盛り上がるとみんな叫び合うのよね。喜びの声よね」
「そうね、それを思うだけで、そわそわしてしまうのよ」
「男たちだって喜びの声を上げるわ。何人かの男たちは喜悦に浸りながら、アガメムブーバル様に抱かれながら永遠の救いに入るのよね」
「村の男たちは、みんなそうやって救いに入ったのよね」
「そうね。神官様を除いて、男たちが全員がいなくなっちゃったから、湖水祭りはあれから暫く開催されていなかったのよ」
村の女たちの説明は、男も女も盛り上がる、永遠の救いに入る、ということだけ。アフマドには何が行われるのか見当もつかない。ただ、離れて聞いていたハディージャは、だんだん愁眉を寄せはじめた。
「村の娘たちに聞いても、何のことだかはっきりしないなあ」
「ねえ、私たち、引き返さない?」
「ああ、でも、これは退廃した偶像崇拝に違いない! 僕たちは、あのラタノルライによって教師に任じられたんだぞ。その彼があともう少しで帰って来るんだ。その前に、せめて彼女たちを目覚めさせるべきじゃないのか?」
「彼女たちを目覚めさせる? でも、その時私たちがどうなるか、分からないわよ」
「襲われるというのかい、それなら任せろ! 僕は君を守りきってみせるさ」
「でも、襲われるのは......」
この言葉は中断される。湖水祭りの始まりの宣言。コリオレイヌスの大きな声が響いた。
「久々の湖水祭りである」
「さあ、女たち、思い出せ。かつての祭りのことを!」
この掛け声とともに、村中の娘たちの歓声が上がる。そこに、アガメムブーバルも姿を見せた。
「牧神様 万歳!」
「牧神様、新たな男を与えてくださって、感謝です」
「万歳!」
娘たちが急に大騒ぎを始める。そして、次の瞬間、彼女たちが殺到した先はアフマド。アフマドは、引きつった笑いを浮かべながら、反射的に逃げ始めた。
「な、なんだ、貴女達は?」
「待ってよ!」
「なんで逃げようとするのよ」
アフマドは途端に目を見開く。ハディージャに向いた彼の引きつった笑い顔。だが、ハディージャはアフマドの笑いを見てそっぽを向いた。
「へえ、アフマド、良かったじゃない。かわいい女の子たちに追いかけられて」
「いや、これは驚いているのだが……」
「そうよね、うれしさが一気に押し寄せているから驚いているのよね」
「ち、違うよ」
「知らないわ」
「ね、おねがい、ハディージャ、助けて」
アフマドは情けない声を発しながら、ハディージャのところへ。だが、ハディージャはプイと後ろを向く。アフマドは逃げ場所を失い、そのまま走りすぎるしかなかった。
「なんで逃げ回るのよ」
「私たちを何で相手にしないのよ」
背中にぶつけられる女たちの恨み声。そのあとに、嫉妬と攻撃的な叫び声が続く。
「あの女だけがいいのね。なんて奴!」
「それなら、こうしてやる」
娘たちは、急に足元にある枕をアフマドめがけて投げ始める。アフマドの足にあたり、もんどりうって転ぶアフマド。すると、それめがけて、女たちの投げる枕が集中して当たり始めた。
「これは虐げだ……苛烈で陰湿な、明らかな暴虐。人道を踏みにじる破却行為、断じて許しはしない!……偶像崇拝者め!」
アフマドは娘たちを睨んだ。だが、娘たちの顔には、恐怖はおろか憚る気持ちや反省はみじんも感じられない。
「何よ、私たちを相手にできないの?」
娘たちの一人がそういうと、全員が一斉に声を合わせる。
「そうよ、私たちを相手にしてよ」
そこにコリオレイヌスが宣言のように呼ばわった。
「そうだ、今こそ貴女がたのためにアガメムブーバル様が用意された慰めが目の前にあるぞ。さあ、恩寵を受ける準備をしよう」
「なんだ? 準備って? まさか」
アフマドは離れて冷たく見つめているハディージャを見た。ハディージャは、アフマドを睨むと、そっぽを向く。アフマドの周囲に集まった女たちは、一斉にはおりを脱ぐ。
アフマドの顔は一瞬こわばる。だが、周囲の女たちは単に水着になっているだけ。アフマドは落ち着きを取り戻した。
「素肌を晒す戯れで僕を試すつもりか。無駄なことを……そのような愚行で、僕の心を縛る術など届きはしない」
アフマドはそういうと、彼を囲む村娘たちから簡単に逃げ出す。その様子を見たコリオレイヌスは彼の前に立ちはだかった。
「どうやら、女たちの素肌を見ても、魅了の術が発動しないようだな」
「そうさ、愛しているわけでもない偶像崇拝の輩に、僕が影響を受けると思ったか!」
「なんだと」
「さて、ここでラタノルライによって任命された教師として、証をしてやろう。いいか、よく聞け! そして目覚めるんだ」
「何を聞けというのかね」
「貴方が神官となって崇めているアガメムブーバルなどは、神ではない。単なる魔族にすぎないんだぞ。奴は偶像崇拝をさせて貴方たちを家畜にしているにすぎないんだぞ。目覚めろよ」
「な、なにを言う」
この時、女神アガメムブーバルがハディージャを抱えながら、コリオレイヌスの後ろに立った。途端に怒りを表わすアフマド。アガメムブーバルは、まるで毒女のように彼の反応を楽しみながら、ハディージャの髪を掴んで身体を引き寄せる。
アフマドは怒りのために顔が黒くなった。
「ハディージャを放せ」
「へえ、そなたはやっぱり威勢がいい男だね。だから、本当は種馬にしようと考えたんだが、どうやら素直ではないらしい。それなら、そなたをこの女と共に、私が強制的に救いに至らせてあげるよ」
そう言うと、アガメムブーバルはハディージャの体を強引に抱き抱えた。ハディージャの絶叫が湖畔に響きわたる。
両手両足を粗暴に引っ張られ、無防備な姿を晒される最愛の妻。その光景を目にした瞬間、アフマドの脳裏は真っ白に染まり、全身の血が氷ついた。呪縛のごとく魅了が発動し、指一本動かせぬ金縛りが彼を襲う。
——だが、次の瞬間、内側から湧きあがる激怒が金縛りの呪縛を叩き割った。たとえ女神が相手だとしても、彼の魂を焼き尽くすほどの殺意が筋肉の硬直を力任せに千切り飛ばす。血の出るほど強く唇を噛みちぎりながら、彼は地面から這い上がった。
ハディージャの手から転がり落ちたシェイベットを握り締めると、彼は獣のような足取りで、ゆっくりと女神アガメムブーバルの巨体へ肉薄する。
「ハディージャを放せ」
アフマドの低い押えた声。アガメムブーバルは執念深い女ならではの裏返ったような声で威嚇する。
「それ以上近づくと、この女を引き裂くよ」
「ほう、その前にお前は仲間に糾弾されるんじゃないのか?」
アフマドは、上空のシャトルのものらしい白い一筋の雲を一瞥しつつ、指摘した。だが、アガメムブーバルは勝ち誇る高慢な中年女のような態度。
「へえ、そんなことはないわ。私はこの領域を任された女神なのよ。それにしても、気に喰わないその物言い。それなら、今度はこの娘の品のよさそうな水着をどうしてやろうか」
予期せぬ、しかしあまりに卑劣な脅し。ただでさえ頼りない衣装に手を掛けるおぞましき魔族の手。ハディージャの尊厳が踏みにじられていく。
アフマドは、その凄惨な光景に思考が停止する。時間が止まったかのような錯覚。次の瞬間、彼を襲ったのは、金縛りという結果ではなく、全身の血が逆流するような、理不尽なまでの恐怖と怒りだった。
彼は、地面に倒れ伏しながらも、もう一度、金縛りの呪縛を力任せに千切り飛ばそうとする。だが、今回は身体が一ミリも動かない。真っ赤に染まった瞳からは、怒りではなく、危機に陥った女性をただ見ていることしかできないという、地獄のような無力さへの絶望が滲んでいた。
その目に写ったのは、屈辱と恐怖に震えながら、少しでも逃れようと虚空を睨んで泣き叫び続ける、ハディージャの姿だった。
「ほう、こうなると、そなたはやはり金縛りになるのだな」
「ハ、ディー、ジャ、待っ、ていろ......」
アフマドは口さえもろくに動かせない。アガメムブーバルは嘲笑した。
「何? どうやって助けるのかね?」
アガメムブーバルはゆっくりと向き直ると、コリオレイヌスや女たちを集めた。
「この女は、どうやらあの種馬を金縛りにする道具として使えるよ」
「マイロード、ということは、彼を金縛りにしたまま、女たちの慰めに用いてくださると?」
「そのとおりよ」
アガメムブーバルはコリオレイヌスに合図する。それを受けて、コリオレイヌスは高らかに宣言した。
「さあ、村の女たち、今こそ、湖水祭りの時ぞ。それぞれ持ち込んだ枕を整えよ。そして、順序良く種馬から慰めを受けよ」
村の女たちは、手際よく準備を整える。そして、金縛りのままのアフマドは最初の女のところへ引き出された。
「偶像崇拝の輩たちは、そうやっていじめをつづけるのか。だが、警告しておく。いつまでも、そんな行為が許されるものか!」
この時だった。
「アガメムブーバル、これはいったい何事か。なぜ勝手に私の人間たちを利用するのか。僭越だぞ」
アガメムブーバルの顔が引きつる。恐れおののくコリオレイヌスと村の女たち。それは、軍神と呼ばれたラタノルライの大声だった。
_____________________________
アフマドとハディージャは、ラタノルライの座乗する大型シャトルに、収容された。
「何とか、取り戻すことが出来た」
ラタノルライは、疲れ切ったためか身動きできないアフマドとハディージャを前にして、嘆息する。
「アガメムブーバルは、何でも自分のものだと考えがちだ。私のコリオレイヌスを勝手に神官にして使い倒しやがって......。親が親なら子も子だ。あのバカ息子もわたしのダイアナをさらおうとしたわけだ。ブーバル族というのは、同族ながらなかなか洗練された者が輩出されいないから嫌になってしまうよ」
彼はそう言いながら、配下の吸血鬼からなる海兵隊を見つめた。本来なら、ブーバル族は家畜人類を放牧する牧神にすぎず、高等な吸血鬼たちを配下にすることはまれだった。それほどラタノルライは優秀な軍人だった。
「とにかく、父上にこの二人を届けることが出来る。一安心だ」
ラタノルライは、疲れ切って動かないアフマドとハディージャを、居心地のいい客室に軟禁すると、大型シャトルを発進させた。
その下では、海兵たちによって逮捕されたアガメムブーバルが、別のシャトルに乗せられている姿が見えた。
居室は、疲れ切った二人のためにろうそく色の暗めの照明が灯された。しばらくすると、二人はおもむろに起き出す。
食事をとる二人は無言のまま。
アフマドは、ハディージャを複雑な表情で見つめる。
「そうか、ハディージャも今まで僕を苛めていたんだ」
「そんなことない」
「いや、そうだ。苛められた者にしか、いじめられた時の気持ちはわからないんだぞ」
「何よ、貴方は苛められたっていうの?」
「そうだよ、これは虐げだ……苛烈で陰湿な、明らかな暴虐。人道を踏みにじる破却行為!」
「へえ」
「最初は、奴らが慰めと呼ぶ行為を、擽りで悲鳴をあげさせていると悟ったつもりだった。ところが、村の女たちが襲うのは擽りで悲鳴を上げさせるためじゃなかった。いじめで悲鳴を上げさせるためだったんだよ。慰めといわれていたのは、実は苛めだったんだ」
「神官のコリオレイヌスが村の娘たちに与えていた慰めが、苛めだった?」
「そう、苛められて悲鳴を上げた僕だからわかるのさ」
「何を言っているか、分からないわ」
「ハディージャ、わからないのか?」
「わからないわよ」
「そうか、じゃあ、苛めてやるよ。そうすれば虐げられた人の気持ちがわかるだろうよ」
「え?」
「苛めてやるからな」
アフマドがハディージャを睨む。ハディージャの戸惑った表情。少し間をおいて、ハディージャは答えた。
「じゃ、じゃあ、私を苛めるの?」
「ああ」
「じゃあ、苛めて」
「ああ」
アフマドはそういうと、ハディージャを睨んで近づく。
だがしばらくすると、案の定.......
「あ、ダメだ、手になんか柔らかいのが」
同時に、ハディージャが高い声を出す。
「え、まだ苛めてないのに、なんでそんな悲鳴を上げるんだ? あ、ダメだ、変な気持ちになっちゃう」
上気した顔で、ハディージャが小さく訴える。
「やめないで、苛めて!」
「だって、変な気持ちになっちゃった」
「変な気持ちになってもいいから、やめないで」
「あ、だめだ」
アフマドの声が頼りなくなるのとは反対に、ハディージャの声が大きくなった。
「なんでやめちゃうの」
「だ、だめだ、いや、だめだ」
「ねえ 苛めて!」
ハディージャの声に怒りがこもり始める。アフマドの声はまるで虫の息。
「勘弁して......」
「もう、へたれ!」
疲れを回復しつつある二人だった。こうしてシャトルは目的地へ向かっていった。




