2 逃亡
「あ、あいつらぁ!」
「見ぃたなぁ?」
再びの叫びが湿地帯に響いた。それは、牛鬼たちの叫びだった。アフマド達は、過去にもその叫び声に遭遇したことがあった。
「あの人間ども、俺たちの秘密を見やがった!」
「くそぉ、くそぉ」
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ハディージャとアフマド、そして同じクラスの少年少女たちは、すでに14歳になっていた。彼らはもうすぐ成人となる式を迎えるほどに成長していた。
成人式を過ぎれば、彼らは家庭を形成することになっていた。成人式以降は、家庭の構成メンバー以外の異性と、もしくはステディ以外の異性と出かけることは、タブーだった。そこで、子供たちは、成人式の前に男女混合での最後の異性との自由なレクリエーションとして、ハイキングに出かけることになっていた。それは、また、未だに家庭を形成する約束をしていない男女の、最後の出会いの時でもあった。
「おい、いくぜ!」
「そうね、これでクラスメイト達と自由に出かけられる季節は終わるのね」
成人式直前の男女たちは、意気込んで出かけようとしていた。あまり出て行くことを好まないハディージャとアフマドも、この時ばかりは同級生たちに引っ張り出されて、ピクニックに出かけるのだった。
「ハディージャ、アフマド、お前たちも行くんだよ!」
「ねえ、ハディージャ、あんたはアフマドと何の関係もないのよね」
少女のスティアーは、このころアフマドに好意を寄せていた。ただし、問いかけを受けたハディージャは、スティアーの思いに気づいているはずもなく、単純に言葉を返した。
「そんなことはないわ……私とアフマドは同じ家族よ」
「へえ、じゃあ、私が彼を誘って家庭を持ってもいいわよね」
スティアーの確認は、引っ込み思案のハディージャに、不意の強い反応を呼び起こした。ちいさな、しかし予想していなかった嫉妬心だった。
「それはダメ!」
「どうして? あんたとアフマドは兄妹なんでしょ? だから、私、アフマドと結婚してあげてもいいのよ?」
スティアーは、嘲るように語尾をあげた。この言葉は、あまりに挑戦的だった。ハディージャは、スティアーのこの言葉に明らかに嫉妬と棘を感じ取った。アフマドを取られるのかもしれないという思いが、普段大人しいハディージャに強い調子の返事をさせた。
「え? そんなことはないわ……私とアフマドは一緒に育ったけれど、血はつながっていないもの!」
「え、兄妹じゃなかったの?」
「兄妹だけど....」
ハディージャの声は小さくなった。スティアーは畳みかけるように言葉をつづけた。
「兄妹で結婚はできないでしょ!」
「お母さんが言っていたもの……私とアフマドは血がつながっていないらしいって......」
「じゃあ、ハディージャはアフマドが好きなんだ!」
「そんなこと……考えたことはなかった……」
このやり取りをきっかけに、アフマドとハディージャの関係が他の男女たちにも知れ渡った。そのこともあって、ハディージャは余計に自分のアフマドに向けた気持ちを隠すようになった。
さて、このハイキングには別の意図があった。それは、村の外での様々な環境において生き抜く知識と経験とを獲得することだった。その一つに彼らは牛鬼からの逃亡訓練があった。その訓練は、最後のピクニックの際ではあっても、家庭を構成する大人になるためには必須の学びだった。
「いいか! みんな、決して湿地帯に入り込むな」
「はい」
この退避訓練をもって、牛鬼からの逃亡訓練が最後であるということもあって、この訓練は牛鬼たちの生息域である湿地帯近くで行われることになっていた。それだけに指導する神官も少年少女たちも、緊張していた。
「それでは、訓練のために警報を流す」
「ボワ!ボワ!ボワ!」
鈍く不快な警報音が一帯に響いた。それと同時に、警戒者たちの声が響いた。
「さあ、訓練だ! 牛鬼が出たぞ!」
「さあ、訓練を開始しろ!」
少年少女たちは、その声を聞くと、一斉に互いに声を掛け合った。
「牛鬼だ」
「さあ、神殿へ逃げよう」
「カミーユブーバル様に助けを求めよう」
ほぼ全員が神殿めがけて走り出した。だが、最後尾に居たエリアスは、訓練に参加するふりを見せながら、あろうことか反対側へ走り出した。
「俺が様子を見に行ってやる! 湿地帯のどの辺りに棲んでいるのか見極めてやるんだ!」
こう言いだしたのはエリアスだった。アフマドは慌ててエリアスをとどめようとした。
「いけないよ! それは熟練老人の果たす役目のはずだよ! その熟練老人でも、何人かは調査をし始めて早々殺されているんだよ!」
だが、既にエリアスは湿地帯の中へ走りこんで姿が見えなくなっていた。アフマドも仕方なく湿地帯に入り込んだ。
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少年少女たちも学んだ過去の経験によれば、湿地帯にいったん入り込んでしまうと、すぐにでも牛鬼たちが現れるはずだった。だがこの時は、牛鬼たちの一頭すら姿を示さなかった。
「へえ、奴ら、出てこないじゃないか!」
エリアスは、湿地帯をある程度突っ切ったところで立ち止まり、しばらく周囲を見渡した。そこに、だいぶ経ってから、アフマドも追いついた。
「なあ エリアス、大丈夫なのかな?」
「ああ……奴らは一頭も出てこないぜ」
「そう……だね」
二人はそう言いながら、湿地帯全体を歩き回った。しばらく行くと、湿地帯が山間に入り込んだところで、その谷あいの奥地に牛鬼たちが数十人単位で入り込める、ある程度の規模を有するとみえる洞窟を、二人は見出した。
「アフマド、こ、この大きな穴は…?」
「これは洞窟だよ……そう、確かに洞窟には違いないだろうけれど、僕たちが村の近隣でよく見かける小さな洞くつとは違って、巨大だ……おそらく、湿地帯も過去に石灰岩が侵食された谷あいに形成されたものだろうから、この洞窟は石灰岩が侵食されて、巨大な洞窟になったに違いない」
「アフマド、そんなことを知っているのか?」
「ああ、かつての担任だったゼニスから聞いたことがあるんだ」
「へえ、よくそんなことを覚えているなあ......そう言えば、お前もハディージャも、変に知恵が回るよな」
エリアスは、目の前のアフマドを、誰か別の友人を見るかのような目つきで見つめた。アフマドは、それに気づきながらも、エリアスの気を損ねないように、静かに答えた。
「そんなことはないさ.......ゼニスの教えは、エリアス、あんたも含めて全員聞いているはずだよ」
彼らは、漆黒の奥へと少しずつ入り込んでいった。
「なあ、アフマド.......湿地帯にはいこんだら、牛鬼たちがすぐに出てくるのが常じゃあないのか?」
「うん、そのはずだよね」
「奴ら、何かに忙しいのだろうか?」
エリアスがそう言いながら、洞窟の遥か下方を見ると、そこには灯りの揺らぎがチラリと見えた。
「エリアス、あれって……」
「う、嘘だろ、あれは俺の父親だぞ」
エリアスは思わず立ち上がった。アフマドは慌ててエリアスを引き下ろした。その遥か下方では、祭壇のような寝台に縛り付けられた人間のオスが、牛鬼たちに拠って拷問のようなものに縛り付けられ、処置を受けていた。
「うっ、うわあ…やめてくれ」
この声の主はそう言ってガクリと首を垂れた。牛鬼たちはたった今、エリアス達の目の前で、エリアスの父親から何かを搾り取ったところだった。牛鬼たちは、その体液を自らの局部に擦り付け、同時に犠牲者の傍らに寝かせていた若い女に塗りつけ始めた。
「きゃー」
目覚めた女は悲鳴を上げた。そこへ、今度は複数の牛鬼達が殺到した……。
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アフマド達が見たのは、牛鬼たちが隠しに隠していた生殖の実態だった。牛鬼たちは、捕らえた成人の男女たちを利用していた.......
牛鬼たちは、放牧主のカミーユブーバルに対しても秘密にしていたことがあった。それは、彼らがいつの間にか全員がオスになっていたことだった。彼らは、生殖の際に、自分たちには無い卵子細胞のかわりに自分たちに生物学的に近い人類の卵子を用いるようになっていた。精確に表現するなら、放牧主が大切に放牧管理している人間たちの卵子に対して二匹以上の牛鬼たちが二種以上の精子を送り込み、人間の遺伝子を追い出しながら自分たちの遺伝子を植え付けることで、自分たちの子孫を得ていた。得られた牛鬼の子供は、人間のメスの子宮の中でそのまま胎児として育っていく。牛鬼の子供がある程度成長すると、今まで寄生していた宿主の人間のメスの身体をすべて食べ尽くしながら、外に出てくるのだった。
また、自分たちの精子を送り込む際には、人間のオスに体液を分泌させて人間のメスの生殖器に塗り付けて「濡らす」という行為もしていた。当然、人間のオスたちはその際に殺されていた。つまり、牛鬼たちは、カミーユブーバルの大切な財産のはずの人類の男女たちを、秘密のうちに捕らえて、生殖に利用していたのだった。
アフマド達がピクニックの際に目撃したのは、彼らが人類のオスを捕らえて強制的に分泌液を出させては殺し、その後に人類のメスを使って自分たちの子孫をそのメスの子宮に寄生させる行為だった。
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「くそ! 親父を殺しやがって……そうか、牛鬼達が大人たちを捉えていたのは、このためだったのか!」
エリアスは苦悶の表情を見せた。アフマドも吐き気を覚えながらエリアスに言い聞かせた。
「今は、このことをみんなにしらせないと」
「くそ!」
エリアスの悪態が洞窟内に響いた。すると、今まで行為に夢中だった牛鬼達がエリアスの方に向いた。
「あ、あいつらぁ!」
「見ぃたなぁ?」
再びの叫びが湿地帯に響いた。それは、牛鬼たちの叫びだった。アフマド達は、過去にもその叫び声に遭遇したことがあった。
「あの人間ども、俺たちの秘密を見やがった!」
「くそぉ、くそぉ」
人間たちにはもちろん、牛鬼たちの放牧主カミーユブーバルにも絶対に見られてはいけない光景だったのだ。
「ぜったいつかまえろ!」
「逃すな!」
「おお、若いオスじゃないか!」
牛鬼たちは、少年たちを追いかけた。
エリアスはアフマドより足が速かった。彼は先に仲間たちのところに行き着いて叫んだ。
「牛鬼が来る! 奴らはなかなか姿を見せなかった……奴らは隠れて俺の親を捕まえて何かをしていた! それと......女の人たちを捕らえて何かを植え付けていやがった」
「えー!」
「に、逃げろ」
少年少女たちは、湿地帯近くから逃げ出し、広葉樹林から針葉樹林帯、そしてカミーユブーバルの神殿へと逃げ続けた。
かつて、少年少女たちは、10歳のころ、牛鬼たちに襲われたことがあった。この時に、カミーユブーバルによって助けられたことを覚えていたのだった。他方、牛鬼たちにとっては、カミーユブーバルにも秘密にしていた生殖の実態を少年たちに目撃された以上、このまま少年少女たちを逃がすわけにはいかなかった。
「まてぇい」
「こうなったら、全員つかまえろ」
この時、たまたま訓練の呼びかけに応じてカミーユブーバルが近くにまで来ていた。尋常でない叫び声を聞いたカミーユブーバルは、悲鳴と怒号を聞きつけてそのまま少年少女たちの逃げ惑うところに駆け付けた。
「カミーユブーバル様!」
「牛鬼達が、恐ろしい剣幕で!」
「襲いくる様子がいつもと違います」
少年少女達が各々に訴えるのを聞き、彼は牛鬼達の前に仁王立ちとなった。その背後には、先ほどの少年少女たちが逃げ込んだ人間たちの村があった。
「お前たち、何しに来た! 此処から先は俺の物、人間たちの村だぞ…お前達は通さぬ」
彼はこう言って牛鬼たちを鎮めようとした。だが、ちょっとした油断があった。
「へへえー」
従順に従うように見せながら、牛鬼の一人が頭を下げた…彼はそのままカミーユブーバルの足元を抜けて先へ走り出した。
「な、なんだ? 牛鬼、お前たち! 何をするつもりだ?」
いつもなら、牛鬼たちは従順であるはずだった。ところが、牛鬼たちのたった一頭が、彼を出し抜くようにして、足元を走り抜けた。カミーユブーバルはそれに驚いてのけぞってしまい、牛鬼たちに恐れを見せてしまった。これを見た牛鬼たちは、先ほどカミーユブーバルの足元を通り抜けた先頭に続いて、次々とカミーユブーバルを無視するように走り抜けていった。
「ブモウ」
「ブモモーウ」
「ブォー」
「お、お前たち、何処へ行くつもりだ!」
カミーユブーバルは、のけぞってしりもちをついた。彼にできたことは、走りすぎていく牛鬼たちの様子をただ眺めることだけだった。
牛鬼たちは、そのまま人間の村に突入した。こうなっては、村を襲う魔獣の群れと同じだった。 彼らは村に突入すると、村に逃げ込んだエリアスやアフマドを探し回った。
村の人間たちは、巨大な牛鬼たちが動き回る中を逃げ惑った。そこに神官のケチェット・ベリナウアーが駆けつけた。彼が冷静に牛鬼たちを観察すると、彼らが血眼になって探しているのが少年少女たちであることが分かってきた。
「どうしてだか分からんが、こいつらは少年少女たちを狙っているらしい……今は少年少女たちを地下の奥へ隠しておくのだ」
神官は村の人間たちに大声でそう告げた。すると、牛鬼たちは一瞬行動を止め、互いに顔を見合わせた。
「おい、仲間たち、地下室だとよ」
「承知!」
彼らは人間の言葉を解していた。
「きゃー」
「うわあ」
たちまち、隠れていた少年少女たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。
ニールとカーラは、自宅の洞穴から村の近くに来て、この様子を観察していた。
「みんな、こっちに逃げて来いよ」
ニールが大声を掛けると、少年少女たちは一斉にニールとカーラの呼びかける方へ、つまり彼らの洞窟の方へと逃げ始めた。すると、ものすごい形相の牛鬼たちが少年少女たちを追って、ニールとカーラの洞穴へと殺到した。
「みんな隠れるんだ!」
少年少女たちが洞穴へと逃げ込んでいった。最後に走ってきたのは、ハディージャとアフマドだった。彼らは、ほかの少年少女たちに気おされて逃げ始めるのが遅れ、やっとのことで洞穴の前庭辺りまで逃げて来たのだった。
「このままだと、ハディージャが危ない!」
アフマドが大声を上げて、ハディージャをかばうように立ちはだかった。この時、二人は互いをかばおうとしてもつれて転んでしまい、二人は恐怖を前にして最後に抱き合った。
「きゃー」
「ハディージャ、危ない!」
このときに突然生じたのが、二人の周囲にだけ渦を巻くような竜巻だった。
「退け」
そんなノイズのような音声が竜巻の中から響くと、牛鬼たちの大きな叫びと悲鳴が辺りに大きく響いた。
「ぐぉー」
「ぐぅぇー」
「がるるるーぐぁー」
竜巻は、迫りくる牛鬼たちの巨体の集団だけを、一瞬にして十数キロ離れた湿地帯へと吹きとばしたのだった。
竜巻と牛鬼たちの大きな叫びとは、一瞬にして静寂に変わった。ハディージャとアフマドは、周囲の様子を見渡し、震えながら立ち上がった。二人は体を寄せ合って祈ることしかできなかった。
洞窟の外は、風が吹いた痕跡が残っていたものの、今まで怪物たちが殺到してきた痕跡はすっかり消えていた。だが、すっかり腰を抜かした少年少女たちは、なかなか洞窟の中から出てくることはできなかった。
暫くしてから、ふしぎな竜巻を見た村の人間たち、そして神官ケチェット・ベリナウアーとその息子の神官見習いたち、そして、彼らの背後にカミーユブーバルが到着した。彼らが牛鬼たちのいた場所を見ると、そこで見たのは震えながらも祈りつづけているハディージャとアフマドの姿だけだった。
「何が起こったのだ?」
神官ケチェット・ベリナウアーとその息子の神官見習いたちは、唯一現場に残っていたハディージャとアフマドに訊ねた。
「エリアスが湿地帯に入り込んで……」
「湿地帯に入り込んだのか?」
「そしたら……牛鬼たちが、奥地で、彼のお父さんやほかの村の人たちが牛鬼に襲われているのを見たんだ」
アフマドの説明を聞いたケチェットは、様々なことから一つのことを推定した。もともとケチェットは洞察力がすぐれていた故に神官にまでなった男だった。
「湿地帯に入り込んだなら、牛鬼がすぐ出てきそうなものだが....…すぐに出てこなかったのだな......そして父親やほかの村人たちが襲われているのを見かけたのか......エリアスは父親を助けたいと思ったのだろう……それはいい……問題はその後だ.......湿地帯に入り込んだのに、牛鬼たちはすぐには出てこなかった……そして、牛鬼たちがエリアスの父親やほかの人間たちを捕らえて何かをしていた....それをお前たちが見たのをきっかけにして、お前たちを牛鬼たちが追いかけ始めた……そういうことか?」
ケチェットは、ハディージャ達の震えが止まっていないことを見て、この二人が遭遇した恐怖が想像できた。ハディージャ達はそれに気づく余裕はなく、引きつった表情のまま説明をつづけた。
「そうしたら、奴らは僕たちやほかの仲間たちを追いかけ始めたんだ」
「それでどうしたのだ?」
「奴らはここまで追いかけてきた……みんなが洞穴に逃げ込んで…」
「それから?」
「ハディージャが転んで牛鬼たちに捕まえられそうになったから……僕も残ったら......」
この時、アフマドが息をのむようにして、虚空を見つめた。それに合わせてハディージャも虚空を見つめた。その様子を見て、ケチェットたちは、さらに大きなことが起きたのだと悟った。
「それで、何が起きたのだ?」
「突然にハディージャと僕の周囲に竜巻が生じて、あっという間に牛鬼たちが......」
「それで!?」
「あの巨大な牛鬼たちが、次々に吹きとばされて......みんないなくなった」
「あの巨獣どもが、吹きとばされたのか......」
神官たちは、周囲の状況に表情をさらに引きつらせながら、ハディージャ達の説明を聞き続けたのだった。
カミーユブーバルは、神官たちの様子を観察しながら、何が起きたのかを徐々に把握した。彼にとっても予想しえない状況が生じていることは、明らかだった。
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カミーユブーバルは、神官ケチェットや息子の神官見習いたちをして、すぐに牛鬼たちが吹きとばされた前後の状況を調査することにした。
「神官たちよ、すぐに湿地帯へ行け……牛鬼たちは竜巻によって湿地帯の方へ吹きとばされたようだ」
「カミーユブーバル様......分かりました……ただ、我々だけでは……」
「わかった、俺も行こう」
彼らは、こうして牛鬼たちの様子を偵察しに出かけた。彼らがそこで見たのは、湿地帯のいたるところで転がっている牛鬼たちの様子だった。その牛鬼たちのどれもが、したたかに体を打ち付けて倒れ、唸っていた。放牧主であるカミーユブーバルが、牛鬼の一頭一頭の様子をうかがうと、牛鬼たちは一様に体を起こそうとした。しかし、牛鬼たちは皆、そこで再び身を横たえざるを得ないほど、したたかに打撃を受けていた。
「これほどの打撃を、あの二人が与えたのか......いや、彼等も怖がっていた......とすると、あの二人に関連する何かが、それも恐ろしい何かが......」
そういうと、守護神カミーユブーバルは、村に戻った。そして、彼はハディージャとアフマドの二人を不思議そうに見つめた後、去っていった。
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ハディージャ達同年齢の少年少女たちは、15歳となった。そしてこの日は、彼らが成人と成る儀式 成人式が予定されていた。成人式のあと、少年少女たちは、それぞれ数人の男女が組となって新たな家庭を構成することになっていた。だが、その日、一人の少女が成人式の会場に現れなかった。
「来なかったのは、ハディージャです」
同年齢の少女スティアーが、司式者の神官ケチェット・ベリナウアーにそう告げた。ケチェットは戸惑いながら答えた。
「そうか、ありがとう……ただし、このままでは儀式を進めて良いのかのう? この後すぐに、すべての少年少女たちが、気に入った男女と家庭を持つ儀式になるのだが…」
「来ない者は村の一員になれないことになってますよね」
スティアーはそう指摘すると、ケチェットも渋々それを肯定した。
「確かにその通りだが…」
「それなら、組を決められずにいるアフマドも、私の家庭の一人に加えて私が愛してもいいのですよね?」
この時、スティアーは既にエリアスともう一人の少年を男として選び、家庭を持とうとしていた。アフマドは慌てて反論した。
「待ってください……僕はハディージャと家庭を持つつもりです」
「でも、ハディージャは来ていないじゃない? 彼女はアフマド以外相手にしたくないらしいから、此処に来なかったのよ! だから、逃げ出したんじゃないの?」
スティアーはそう指摘すると、アフマドの顔に自分の顔を近づけて、言い寄った。
「ねえ、アフマド……この際、私のところに来なさいよ」
「僕の相手はハディージャだけだよ」
アフマドは顔を伏せながら、小さく反論すると、会場から飛び出していった。この様子を見ていた神官ケチェット・ベリナウアーは儀式を延期することにした。
式を次の日に延期すると、神官ケチェット・ベリナウアーはこの日の成人の儀式を中断するに至った事情を知ろうと、ニールとカーラの洞穴を訪ねた。だが、ハディージャは家におらず、アフマドも帰宅していなかった。
「これは神官様…今日は成人の儀式を司式することになってませんでしたか?」
「ああ、その通りなのだが…」
「どうしたのですか」
「実はあんたたちの娘ハディージャが失踪したんじゃ」
「え? 彼女はアフマドの後を追って家を出ましたよ…失踪したといっても、どこへ行けるというんですか?」
「それはそうなのだが…」
神官は儀式を延期した事情をニールとカーラに説明した。その後もいろいろ調べたのだが、ハディージャとアフマドがどうしているのか、さっぱり手掛かりはなかった。ケチェットはとりあえず神殿に戻った。
神殿に戻ると、ケチェットは驚いた。
いつもの儀式では、神殿の頂上から、力場のような何か、しいて表現するならば、人間たちの生きる力、いわば生命エネルギーが集約されて、守護神カミーユブーバルがそれを取り込むのだった。
この日は、いつもの儀式に増して、異常なほどの生きがよく質の高い生命エネルギーが発せられていた。それは尋常ではなかった。
ケチェットが神殿に至ると、そこにはハディージャが捕らえられ、息子の神官たちがハディージャを祭壇の上に仰向けに拘束している情景だった。ケチェットは慌ててる事情を息子の神官たちに訪ねた。
「彼女は、私が司式する本日の成人の儀式の娘ではなかったか......名は、ハディージャだ」
すると息子たちは、意外な答えを口にした。
「ああ、そうかもしれぬ」
「あの少女は、竜巻を纏えるほど生き甲斐いに違いないよ」
「そうだ、生命エネルギーに満ち溢れている!」
「彼女はカミーユブーバル様が御所望なんだよ……もう一人の少年アフマドも、ハディージャと同じように生命エネルギーに満ち溢れているに違いないんだ.......カミーユブーバル様が彼もご所望だったので捕まえようしたのだが、彼はたまたま別々に行動していたので捕まえられなかったんだ」
息子たちはそう言って、アフマド再捕獲の相談を始めていた。息子たちは、父のケチェットと比べるとはるかに愚かな者たちばかりだった。
「なんてことを!」
ケチェットは息子たちがしでかしたことを憂慮した。
「このままでは、恐ろしいことが起きるぞ……我々ばかりではない......我らの神にも何かが起きるかもしれないのに......」
このとき、カミーユブーバルの声が響いた。
「アフマドをまだ捕まえていないのか? ハディージャとアフマドは、抜きん出て生きがいいのだ…早く二人を連れてこい」
ケチェットは、カミーユブーバルが欲しているのが、家庭をまだ構成していない成人なりたての生きのいい男女であると気付いた。しかも、それは、村人たちがカミーユブーバルに対して従順であることを示す象徴であるに違いなかった。
「そういうことですか......」
ケチェットにとって、カミーユブーバルの考えがどこにあるのかまるで理解できなかったものの、それが神カミーユブーバルの意思であることを確信すると、それに従うしかないと考え、それ以上思索することを止めてしまった。
こうして、儀式は始まった。




