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14 矯正講義 学園の魔族たち

 翌日、二人は魔族たちの「矯正講義」という名の洗脳カリキュラムへ駆り出された。


 最初に教わったのは「先史君臣学」。皇帝への従順こそが、失われた先史人類の英知を継承する唯一の手段であるという、耳当たりの良い権威主義の講義だった。


 続く「同調学」は、自由な懐疑を一定の枠内で許容しつつ、組織全体を支配下に置くための高度な心理誘導術だ。そこでは、男女の奔放な関係さえも「許容された自由」としてカリキュラム化されていた。


 そして三つ目が「収斂数学」だった。変動を繰り返す事象が、いつか必ず特定の均衡値へと収斂する――。この学問は、人類がかつて陥った「衆愚の雷同」とは一線を画す、魔族による新しい統治理論だった。批判を許容する余地を残しつつ、最終的には帝国の意思へと全員を誘導する。それは、人類との共生というよりは、効率的に人類をシステムに組み込むための高度な行動管理学に他ならなかった。


 この講義の順序には、悪意に満ちた意図があった。人類がフェイクや噂話に踊らされて自滅していく様を「反面教師」として示し、「批判的な態度を許す秩序」こそが理想だと説くことで、二人の価値観を根底から塗り替えようとしていたのだ。

 だが、講義室に並ぶ魔族たちがこの内容を貪欲に吸収する一方で、アフマドとハディージャは激しい嫌悪感を覚えていた。魔族が説く「共生」や「自由」の概念は、彼ら二人にとって、あまりに冷淡で、血の通っていない機械仕掛けの理想郷にしか聞こえなかったからだ。


 義室の魔族たちは、その高度な理論をスポンジが水を吸うように吸収していた。彼らにとって、これら三つの講義は単なる知識ではなく、種としてアップデートされるためのOSのようなものなのだろう。

だが、アフマドとハディージャにとっては、すべてが毒を含んだ甘い蜜のように感じられた。


 魔族たちが説く「人類への敬意」には、どこか博物館の展示物を磨き上げるような、冷徹な管理の響きがあった。何より二人を凍り付かせたのは、カリキュラムに組み込まれた「自由な男女関係」という名の奔放な振る舞いだ。魔族たちがそれを「秩序を守るための自由」として美化するたび、二人は背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。彼らの教義はあまりに理路整然とし、かつ人類という種を飼い慣らすための計算高さに満ちている。

 アフマドとハディージャは、自分たちに埋め込まれた衝動器が、この「魔族的な合理性」に同調させられようとしていることを肌で感じていた。授業内容がどれほど人類賛美の形を取っていようと、その根底に流れる「管理と支配」の匂いに、彼らの本能が激しい拒絶反応を示していたのだ。だからこそ、二人はその授業の一切を、記憶の底に定着させることを無意識に拒んでいた。彼らにとって、この洗脳教室は、人類の魂を解体し、魔族のシステムへと再構築するための「屠殺場」に近い場所だったからだ。

__________________________


 こうして一日目の授業が終わり、放課後を迎えた。アフマドはなぜか不機嫌のまま、ハディージャを置いて一足先に帰ってしまった。残された彼女は彼女で、彼を追って直ぐ帰る気にならず、白夜のキャンパスをさまようように歩く。そうして彼女は、講義棟から離れた針葉樹の並木下で、道端の根元に寄りかかって眠る吸血鬼ヴェラの姿を見つけた。


 極地の寒気の中でも、ヴェラは疲れ切ったように深く眠り込んでいる。彼の端正な鼻筋から吐き出される白い息は、冷気に触れて幻想的な霧の輪となり、まるで生き物のように周囲へ漂っていた。ハディージャは足を止めた。アフマドとの苦いやり取りなど、霧の向こう側に溶けていくようだった。


(なんて、きれいな顔……)


 ヴェラの静謐な寝顔を見つめる彼女の瞳には、かつてアフマドに向けたような慎み深い感情はなかった。ただ、魔族特有の気高い美しさと、吐息さえもが芸術品のように見えるその光景に、彼女は吸い寄せられていた。それは彼女自身の意志か、あるいは脳内に埋め込まれた衝動器が、この「完璧な被食者」への接近を命じているのか。ハディージャはその境界さえ見失ったまま、静かにヴェラのそばへと歩み寄った。

 その時、針葉樹の深い影から、もう一つの視線がヴェラに向けられていることに気づいた。同じクラスのサキュバス、ティアだ。 彼女はハディージャが来る前からそこにいたのだろう。ヴェラの呼吸と完璧に同調し、吐き出される白い息さえも同じリズムと位相を刻んでいた。

 ティアはハディージャに一度だけ冷ややかな視線を投げた。ハディージャが「邪魔はしない」と無言の合図を送ると、彼女は再び獲物のような執着でヴェラを見つめ続けた。

「……あの子、もしかして彼を慕っているの?」

 ハディージャは針葉樹の背後に身を潜め、息を殺した。遠くから見つめるだけでは足りないのか、ティアが音もなく立ち上がる。彼女の動きは、まるで磁石に引き寄せられる針のように正確で、抗いがたい情動に支配されていた。足音を殺し、ヴェラの寝姿へと近づいていくティアの横顔には、乙女の恥じらいと、理性を焼き切るほどの強烈な熱情が同居していた。


 彼女がヴェラの頬に唇を寄せた瞬間、ハディージャの胸が奇妙な高鳴りを見せる。

(嘘……頬に触れるだけなの?)

 だが、ティアの行動はそこで止まらなかった。意を決したように瞳を閉じると、彼女は深い溜息と共に唇を重ねた。ヴェラの寝顔に、禁忌のキスが落とされる。

 ハディージャは驚きに口を覆った。直後、獲物を盗み出した盗賊のように顔を紅潮させ、ティアが走り去っていく。


(なんて大胆なの……)


 ハディージャの中で、アフマドに対する慎ましい距離感とは真逆の、甘く危険な「衝動」がざわめき始めていた。ティアの中に宿る、乙女らしい可憐さと捕食者のような大胆さ。そのあまりのギャップに、ハディージャは戦慄にも似た驚きを覚えていた。


「……彼らの精神中枢には、衝動器が埋め込まれている……そういえば、私たちも同じものを埋め込まれたのよね……確か、この辺りに……」

 ハディージャは自分の鼠径部のあたりに手を当てた。ふと、自分の中に芽生えたざわめきに意識が向く。魔族の教育は、単なる知的な啓蒙ではない。身体の奥底に眠る「何か」を強制的に起動させるものだ。自分とアフマドの身体も、これからどう変質していくのか。その想像は彼女を不安にさせ、同時に逃れようのない熱を呼び起こした。


 そこへ、ヴェラが微睡みから目を覚ました。彼は唇と頬に指を当て、不審げに周囲を見渡す。

「……誰かが触れたような……」

 だが彼は、夢と現実の境界を曖昧なままに、すぐに再び深い眠りへと落ちていった。


「ティア……一生懸命で、なんて可愛いんだろう」

 ハディージャは、ヴェラの無防備な鈍感さに呆れつつ、かすかな嫉妬にも似た感情を抱いた。

「……それに比べて、あのヴェラときたら。信じられないくらい鈍感ね。まるで、私の隣にいるあの頑固者アフマドと同じだわ」

 誰の視線も届かない場所で、彼女はそっと立ち上がる。立ち去る背中には、先ほどまでの慎ましいハディージャの姿はなく、自らの内に潜む未知の「衝動」を、どこか楽しむかのような余裕が漂っていた。

__________________________


 宿舎に戻ると、アフマドは既にベッドに入り、壁に向かって背中を向けていた。

 ハディージャは立ち尽くし、その背中を見つめた。今まで意識したことなどなかったはずなのに、なぜか今夜の彼の背中はやけに広く、がっちりと逞しく見えた。ふと寝返りを打った拍子に見えた彼の寝顔は、普段のあどけなさを消し去り、どこか鋭い男のそれに見えた。


(男の人、なんだわ……)


 彼女の指先が、抗いがたい力に導かれるように彼の頬へと伸びる。胸が高鳴り、指先が微かに震える。だが、アフマドが小さく身じろぎした瞬間、ハディージャは心臓が跳ね上がるほどの衝撃を受け、反射的に手を引っ込めた。

 暗い宿舎の中に、二人の荒い呼吸の音だけが響く。結局、彼女は震える手で自分の胸を押さえることしかできなかった。こうして、彼女は互いの存在を肌で感じながらも、その溝を埋められないまま、長く張り詰めた夜が過ぎていった。

__________________________


「学生諸君、お知らせがある。これからのカリキュラムについて、一部変更を加える」

翌朝、学長ゼインスードは淡々とそう告げた。

「昨日の観察で、一部の学生に理解の遅延が見られた。補習の対象は、今回のクラスに所属する人類の二人、アフマドとハディージャだ」

 学園の方針は合理的だった。理解の早い者には『自由』という名の実践的実験を許し、遅れた者には徹底的な『矯正』を強いる。それは、すべての個体を同じ土俵へと引き上げるための、冷徹なまでの救済措置だった。

「さあ、こちらへ」

 案内されたのは『集中学習室』と呼ばれる、窓一つない狭小な密室だった。そこで待っていたのは、際限のない情報の波だった。昨日叩き込まれた論理を、今度は骨の髄まで浸透させるかのような濃密なカリキュラム。それは知的好奇心を満たすための学びではなく、彼らの思考の型を魔族のそれへと強制的に変形させるための、精神的な彫刻作業のようだった。


 放課後、学習室の重い扉が開き、二人はようやく外の世界へと押し出された。外は昨日と変わらぬ、果てのない白夜だった。刻一刻と自分たちが本来持っていたはずの感覚が麻痺し、魔族の論理に侵食されていく。その感覚が、アフマドとハディージャを静かに追い詰めていた。

 他のクラスメイトが自由を謳歌する中、ハディージャは昨夜と同じ針葉樹の並木で足をとめた。そこには、ヴェラとティアが昨日とは別人のような距離感で寄り添っていた。


「ヴェラ、朝から何を考えているの?」

 ティアは甘い吐息と共にヴェラの首に腕を絡める。先ほどまで添い寝をしていただけだったはずが、彼女は衝動のままに彼の唇を奪った。ヴェラもまた拒むことなく、その首筋に腕を回して応える。二人の間には、もはや言葉さえ不要なほどの濃密な時間が流れていた。


 ハディージャはその光景から目を離せず、隣に立つアフマドに視線を向けた。

「ねえ、アフマド……昨日は遠くから眺めるだけだったあの子が、あんなに大胆に……」

「……興味ない」

 アフマドは硬い声で拒絶する。しかし、ハディージャは止まらない。彼女の中で、衝動器がもたらす熱が、異種族の情愛を「教育的な観察対象」へとすり替えていた。

「どうしてあんなに積極的なのかしら? 衝動器が彼らの本能を……」

「やめてくれ!」

「ねえ、一緒に考えようよ!」

 ハディージャの呼びかけに、アフマドが低く唸る。

「……一緒になんて、冗談じゃない! 一緒に過ごすなんてことになったら、僕の意志など一瞬で焼き切れる……君がそれを理解していないのが恐ろしいんだ!」

 彼はハディージャの言葉を遮り、逃げるように背を向けた。宿舎へと駆け出す彼の背中を見つめ、ハディージャは途方に暮れる。

「なんで一緒に考えないのよ……」

 彼女の呟きは、誰にも届かない。ハディージャは彼が去った道を見つめながら、魔族たちの楽しげな息遣いと、自分の胸の奥で高まる奇妙な鼓動のどちらが正しいのか、分からなくなっていた。

__________________________


 宿舎に帰り着いてみると、案の定、アフマドは背中を見せたままベッドにもぐりこんでいた。

「ねえ、アフマド、起きているんでしょ?」

「起きているさ、でも、さっきハディージャが言った、一緒に何かをやるのはいけない......結婚前の男女が何ということを!」

「ねえ、結婚前の男女って、私たちのことじゃないでしょ! 私たち結婚式は済ませているのよ......その後あなたは私の手も握ってくれないけど」

「手を握っていない? ああ、僕たちは、まあ結婚式は済ませているけど......あのね、ハディージャ....…僕が話しているのは、あの針葉樹の根元に居たヴェラとティアのことだよ」

「だから、一緒に……」

「僕たちも一緒に、彼ら二人と同じ事をしろというのか」

「え、違う! そうじゃなくて一緒に考えたいことがある、と言っているのに」

「あ、何だ、そうかあ、安心した」

「唐変木!」

「え、何か、言ったか?」

「……」

 ハディージャは無言のまま、補習授業の内容を振り返ることにした。このままでは、彼らのおぼえの悪さが原因で、授業が進みそうになかったからだ。


「ねえ、アフマド、あなたは補習授業を振り返らなくてもいいの?」

 しばらくたってから、ハディージャはベッドに横になっているアフマドに問いかけた。彼は既に寝息を立てていた。ハディージャは、その寝息がなぜか気になり、アフマドのベッドに座り込んだ。

 彼は仰向けになって、軽いいびきをかいていた。その吐息とリズム、また彼の身体の匂いが、彼女に軽いめまいを引き起こした。

「アフマド……」

 そうつぶやいた彼女の目に、彼の顔が灯りに照らされて浮かび上がった。精確には彼の半開きの口もとと頬だけが、明かりに照らされていた。それが、彼女に昨夜のヴェラとティアの光景を思い出させた。ハディージャは、そっとアフマドのほほに手を伸ばした。それは、彼女にとって初めてアフマドの柔らかいところに触れる経験だった。


「私も、昨夜、あなたの寝顔を……」

 ハディージャが独り言ちながら遠慮がちにアフマドのほほを触れていた時、アフマドがゆっくり目を開けていた。彼は、先ほどから彼女の顔を見つめていたようだった。ハディージャは、アフマドの目に照明が当たっていないせいで、そのことに気づけなかった。

「なあ、ハディージャ、僕の頬が汚れているのかな? 先ほどから掃除をしてくれているようだが……」

「え! 起きていたの?」

 ハディージャは慌てて手を引っ込めた。アフマドはハディージャを見つめつつも、それ以上語らなかった。


 彼はその後もしばらく無反応だった。彼自身、どんな態度を取ればいいのか、整理がつかないためでもあったが、起き上がった時に彼女が何をしてくるか、若しくは彼が何をしてしまうかが恐ろしかったためでもあった。それでも、ハディージャは身を清めるために浴室に入り、その間にアフマドはなんとか落ち着きを取り戻すことが出来たのだった。


「あ、あの、お風呂をどうぞ」

「あ、ああ」

 二人は目を合わせることなく交代した。ただ、この時二人は目を合わさなかった。いやそうではなく、互いに互いを見ることが出来なくなっていた。それでいて、アフマドは風呂上がりのハディージャにいたく刺激を受けた。また、ハディージャも自らの風呂上がりの姿が、アフマドを十分に刺激していることを認識していた。

 彼らにとって困ったことに、この状態は、次の日の朝を迎えても続いた。いや、二人は眠れないまま長く張り詰めた夜が過ぎていった。

___________________________


「なんだ、お前たち……ひどい寝不足のようだな」

 声をかけてきたのは、学長のゼインスードだった。彼は二人の憔悴した様子に気づくと、薄く笑みを浮かべた。

「ああ、そうか! 昨日は特別補習という名の負荷をかけたのだったな……徹夜で復習に励んだか?」

 ゼインスードは少しの沈黙の後、思案を巡らせるように告げた。

「学習効率が芳しくないな……仕方がない、お前たちに埋め込まれた衝動器の刺激レベルを、今日一日『最大』に引き上げておく……キャンパスで自由に過ごしてみるがいい」

 彼は淡々と、恐ろしい命令を言い渡した。

「周囲の学生を見ろ! 彼らは『従順』でありながらも積極性を失わず、議論や対人関係の実践を通じて効率的にシステムへ適応している……お前たちにも、そのバランスを学んでもらおう……もっとも、ただ観察するだけで済むとは思わぬことだ。衝動器が最大出力に達すれば、必然的に身体が『実践』を求めるはずだ……我々は理解度の確認として、その成果を観察させてもらう」

 逃げ場のない「自由時間」を強制されたアフマドとハディージャは、二人連れ立ってキャンパスへと歩き出した。


 二人はキャンパス内を徘徊することになった。周囲を見渡せば、至る所で男女が衝動のままに愛を交わしている。二人は強まる衝動に抗いながら、なんとか理性を繋ぎ留めようと必死に歩を進めた。

「アフマド……私たちは、どうすればいいの?」

 ハディージャの震える問いに、アフマドは硬い声で返す。

「……見て回れということだろう。周囲の『正解』を学習するようにと」

「ただ、観察するだけでいいのかしら……」

「僕は、そうあってほしい。これ以上、この衝動に深入りしたくないんだ」


 だが、学長の言葉はそんな淡い期待を否定していた。沈黙が続く中、ハディージャが俯いたまま小さく呟く。

「……イニシアティブを、取るべきなのよね、男が……女を導くように」

「イニシアティブ、だと?」

「あなたが私に話しかけて、触れて……そうやって、関係を構築するのよ」


 アフマドは愕然とした。彼にとって議論や対話は社会を形作る崇高な営みだが、肉体的な接触は未知の領域だった。

「触れる、だと? どこを、どうやって……そんなこと、できるはずがない!」

「でも、私たちは結婚しているわ! 啓典の主の下で結ばれた二人なのよ!」

 ハディージャは頬を紅潮させ、夢見るような視線を空中に彷徨わせた。昨夜見たヴェラとティアの光景が、彼女の中で純粋な憧憬と混ざり合う。

「昨夜の二人を見ていたでしょう? 互いを身近に感じたとき、どちらかが頬に触れ、キスをするの......そうやって愛を交わすのよ……私も、あなたのキスを待っているの」

 アフマドはその言葉に、得体の知れない恐怖を覚えた。少女が魔族的な理屈で変容していく様子が、何よりも恐ろしかった。

「僕が、ハディージャの、唇に……身体に触れるのか……?」

「私の身体、そんなに魅力がない?」

「いや、違う! 逆だ……」

「それなら......私の唇も、胸も……それに……私の胸って魔族よりも大きくなったのよ……私のすべてはアフマドだけのものなのよ」

 アフマドは言葉を詰まらせ、苦悶の表情で立ち尽くした。ハディージャの体には、魔族の影響なのか、かつてないほど濃密な生気が宿っている。愛おしさと、背徳感と、衝動器が強制する獣のような熱が、彼の中で濁流となって渦巻いていた。


「大切なんだ……触れることさえ、汚してしまうようで……」

「……それなら、せめて私の頬、口、胸を…」

 ハディージャの言葉が途切れる。我に返った彼女が目にしたのは、極限の緊張で石像のように固まったアフマドの顔だった。彼女もまた、自分の口から出た言葉の破壊力に気づき、火を吹くほど顔を赤くして沈黙するしかなかった。

 二人の衝動器は、冷酷なまでにその出力を上げ続けている。思考と本能のあいだで引き裂かれそうな二人の時間は、キャンパスの喧騒とは対照的に、酷く重苦しく停滞していた。


 二人以外の学生たちは衝動器の制御下で、まるでプログラムされたかのように集い、熱っぽく議論を交わしていた。その光景は、アフマドとハディージャに対し「互いを知り、触れ合い、同調せよ」という無言の圧力をかけていた。それは彼らが生き残るために必要なプロセスなのかもしれない。

 しかし、キャンパス各所で見かける光景は、二人の倫理観を根底から揺さぶるものだった。そこにあるのは、男女という枠組みを超越した混濁だった。男同士、女同士、あるいは三人以上の多人数で構成された群れが、周囲の視線を気にする素振りもなく、性的な接触を伴う「交流」を行っている。

 それは、愛や親密さの延長にある儀式というよりは、魔族が規定した「秩序ある営み」そのものだった。単なる二人組という形にとらわれない彼らの奔放な関係性は、かつてのアフマドたちには理解の範疇を超えた、異質な熱狂として映った。


 二人の足取りを重くしているのは、抗いがたい羞恥と、幼い頃から姉弟として育ってきたという根深い絆がもたらす精神的な防壁だった。互いを異性として意識し始めたばかりの彼らにとって、獣のように本能を剥き出しにする周囲の光景は、あまりに異質で、受け入れがたいものだった。衝動器が強制する熱を理性の最後の一線で押し留め、二人は一歩も踏み出すことができない。

 睦まじく愛を交わす群れの間を、二人はただ沈黙のうちに歩き続けた。


 その光景を遠巻きに観察していたゼインスードの表情には、明確な困惑が浮かんでいた。洗脳カリキュラムを施してもなお、二人の精神構造は魔族の論理に染まりきらず、むしろ「人間」としての結びつきを強固に保っている。それは、完璧なはずの管理システムに生じた、決して無視できない「誤差」だった。


「……君たち、学びの成果はどうかな」

 ゼインスードの声に、二人は逃げ場を失ったように硬直した。

「あ、あの……今、女性への適切な接し方を、慎重に学んでいるところでして……」

 アフマドは追い詰められた表情でハディージャを振り返る。彼女もまた、この場を凌ぐため必死に言葉を絞り出した。

「私も、彼に触れてもらうための準備を……その、周囲のカップルから……作法を学んでいたところです」

 ゼインスードは二人の支離滅裂な言い訳に、半分呆れたような溜息をついた。彼の思考回路において、衝動と行動は即座に直結すべきものだ。しかし、この二人にはその論理が全く機能していない。

「衝動の波に晒されながら、そんな悠長な検討をしているのかね……理解に苦しむな」

 学長は困惑を隠そうともせず、二人を見下ろした。

「議論や対話の能力は問題ない……システムとの親和性も高いはずだ……だが、なぜその先の一歩が踏み出せない……お前たちの精神中枢に刻まれた衝動器は、これまでにないほど高い負荷をかけているはずだぞ?」

__________________________


 翌日、二人は皇帝宮殿へ呼び出された。ゼインスードの管理下で沈黙を貫いた二人を、ついに「管理者」である皇帝が直接審問するということだった。

 迎えに来たのは、あのサキュバスの女監察監ウェラステスだった。彼女の案内で地下都市の心臓部、皇帝宮殿へと導かれる。謁見の間は静寂に包まれ、玉座には皇帝が静かに二人を待っていた。

「……あの巨艦には、ほとんど生命の痕跡がなかった……そこから降り立ったのが我々魔族ではなく、人類であるお前たちだけだったという事実は、興味深い……お前たちは『飼い慣らされた家畜』ではないと、我々は判断した……だからこそ、ここに招待したのだ」

 皇帝の言葉は柔和だが、その瞳は深く、すべてを見透かすような冷たさを秘めていた。


「安心せよ…我々が求めるのは、盲目的な崇拝ではない……この星において、お前たち以外の同種は既に絶滅した……だからこそ、提案がある」

 皇帝は二人を交互に見つめ、意味深な微笑を浮かべた。

「我々が守護するこの世界で、二人で『世界を再開』してみないか? お前たちが人類として語り合い、触れ合い、絆を紡ぐ姿を、我々はモデルとして渇望している……積極的な交流、そして我々が構築した秩序への従順――それこそが、先史文明から我々が継承した『人間の理想形』なのだから」

 皇帝は、二人の戸惑いなど意に介さず、魔族がなぜ人類と共存を選択したのか、その「哲学」を語り始めた。

「誤解を解いておこう……我らはもはや、家畜人類からの搾取を必要としない……我々が重んじているのは、衆愚に陥らずに勝利した先史人類の叡智だ! 他の都市では、魔族がAIを用いて人類を『雷同』させ、家畜へと貶めた結果、争いを招き共倒れした……だが我々は、批判の自由を許容する高度なAIシステムを選択した。結果、魔族と人類は戦火を免れ、共に生き延びる道を選んだのだ」

 それはこの都市だけが例外的に保全されている理由を、残酷なほど理路整然と説明していた。最後に皇帝は、二人を慈しむかのような口調で結んだ。

「我らはAIの指導のもと、議論を重ね、触れ合い、性的な結びつきさえも積極的に楽しんでいる。……見ての通り、理想の社会であろう? さあ、お前たちも、この『楽園』の一部となるがいい」

__________________________


 皇帝宮殿を出ると、サキュバスの女監察官ウェラステスが待機していた。

「……どうだった。皇帝の言葉は理解できたかね」

「この星の歴史、あなたたち魔族の成立の経緯、そして人類と共存してきた事情……すべて語られた」

 アフマドが簡潔に応えると、ウェラステスは満足げに細い目を細めた。彼女はアフマドたちの動揺を観察するように、一歩距離を詰める。

「皇帝陛下は、性的な自由を担保することでこの社会の均衡を保っている……この秩序は、かつて我らと共に生き残った人類が築き上げたものだ……だが……皮肉なものだな……性的な自由を掲げながら、当のあなたたち二人が互いに指一本触れられていないことは、我々も把握している」

 図星を突かれ、二人は言葉を失った。ウェラステスは冷ややかな微笑を浮かべ、核心を突く。

「我々には、解けない謎がある……かつて我らと共存した人類は、勝利を収めながら、なぜか最後には自滅した……ひょっとすると、その滅亡と、あなたたちが抱く『規範的な恥じらい』には、何か因果関係があるのではないか?」

 彼女の瞳に、獲物を観察する捕食者のような光が宿る。

「だからこそ、我々は再び人類を待ち続けたのだ。あなたたちが我々の論理に従い、議論し、触れ合い、本能のままに行動すること。それが、人類が滅びを回避するための鍵になるかもしれない――。期待しているよ。我々と共に生き、その脆い理性を壊す手助けをさせてくれ」

__________________________


 帰宅したアフマドとハディージャは、二人を待ち受ける「選択」について、検討せざるを得なかった。重苦しい沈黙を破ったのはハディージャだった。

「……ここの魔族は、何かが根本から狂っているわ」

 アフマドも、皇帝の柔らかな口調と、その裏にある冷徹な論理を反芻しながら深く頷く。

「ああ……皇帝も、我々の概念を根本から揺さぶる……本来、魔族とは先史人類が『救い』を求めて偶像を崇拝した際、その信仰を逆手に取って同族を家畜化し、支配階級へと変質した存在のはずだ……だが、ここの連中は違う」

「ええ……彼らは人類を家畜化せず、むしろ『理想の人類像』を提示し、我々をその型にはめようとしている……魔族でありながら、魔族としての本分であるはずの支配や搾取を捨て、システムによる『統治』を最優先しているのよ」

 ハディージャの鋭い分析に、アフマドは戦慄を覚えた。

(彼らは人類を家畜として飼うのではなく、「人類というOSを、自分たちのシステムに最適化して走らせている」のだ。)

「……搾取なき支配、か……それが彼らの言う『共存』の正体なのかもしれない」


 二人は互いの瞳を見つめた。そこには、魔族たちが築き上げた「楽園」に対する根源的な拒絶と、逃れられない恐怖が混ざり合っていた。

「何かが……決定的に、おかしいわ」

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