13 地下の人類都市に住まう魔族たち
二人は再び極地の神殿都市へと足を向けた。人類の都市を蹂躙して築かれたこの廃墟にこそ、すべての謎が眠っていると確信したからだ。
「ハディージャ、もう一度、この都市を調べ直すべきだ」
「ええ、私もそう思うわ」
アフマドは周囲を見回した。極地ゆえに風化しにくいとはいえ、他の遺跡とは比較にならないほどの「現役感」が漂っている。
「……異様だ。人類の都市機能が、そのままの形で利用されすぎている」
「ええ。維持されているというより、今まさに『使い込まれている』と言うべきね」
注意深く観察すればするほど、ここは死に絶えた廃墟ではなく、生活の息吹を隠し持った空間に思えてくる。なぜ、ここだけが他の魔族勢力の攻撃を受けず、都市機能を保ち続けているのか。
「……結論は一つだ」
アフマドが低く呟くと、ハディージャも無言で頷いた。
「この街の魔族たちは、他の勢力との抗争に勝ち残ったのではない。……最初から、彼らだけが魔族同士の殺し合いという絶滅の連鎖を生き延びたのよ」
二人は言葉を交わさずとも、その戦慄すべき事実にたどり着いていた。ここは勝者の要塞であり、今もなお何者かが潜む生きた都市なのだと。
「それなら、戦いの終わったこの時代であれば、魔族たちはこの街なかを闊歩しているはずじゃないの?」
「そうだね……なぜ、出歩いていないのだろうか?」
「私たちを警戒している?」
「そうだな……町はずれに行って、そこで様子見をしよう」
二人は、長く隠れていられそうな場所を探した。
「この建物なら、地下室に隠れていられるはずよ」
「ええ……月夜だというのに、中は底なしの暗がりね。本当にここでいいのかしら」
二人は不安を抱えながらも、都市の静寂を縫うように建物の地下室へ潜り込んだ。そこで彼らは、この地で蠢く存在を待ち受けた。
やがて、闇の底から微かな旋律が漂ってきた。それは彼らが育った村の儀式や、神殿都市の補給ポイントで幾度となく耳にした『オルガヌム』の響きだった。だが、今の彼らは以前とは違う。かつてはただの不気味な音の羅列として受け流していたその響きに対し、二人は落ち着いて分析を始めていた。複数の詠唱が重なり合い、バラバラでありながら不思議な調和を保っている。旋律の背後には、地中深くへと続く巨大な空洞の存在を確信させる深い反響があった。
「……あの暗がりから響いてくる反響音。あれは地下の広大な空間へ通じているわね」
「ああ。あの先に、何かがいる」
「チカに相談したとしても……きっと『探せ』とだけ言われるだけだろうな」
その時だった。今まで沈黙を貫いていた携帯端末シェイベットが、チカの声を模して低く鳴った。
「ふん」
その一言だけが、闇の中に投げ出された。
「……あれ、今の声はチカだわ」
「やっぱりそうか。……つまり僕たちの対話を、最初から全て盗み聞きしていたんだな」
アフマドが不満を露わにすると、再び端末から疑似声音が響いた。
「さっさと行きなさい」
それは機械的な合成音声のはずだった。しかし、この時ばかりは、彼らを突き放すような冷徹さと、どこか遠くで彼らの成長を待ちわびるような、微かな「苛立ち」に似た熱を帯びていた。
二人は顔を見合わせる。それは、彼らの相談を「甘え」と切り捨て、今すぐにでも未知の領域へ踏み出すよう促す、チカからの最後通牒のように聞こえた。
多重な詠唱と疑似声音の混濁に意識が奪われていた、その時だった。
「……待っていたわ」
氷柱のように冷ややかな声が背後から響く。振り返った二人を待っていたのは、闇そのものを形にしたような女の魔族だった。次の瞬間、暗がりのあちこちから人狼の唸り声、吸血鬼の気配が溢れ出し、アフマドとハディージャは完全に包囲された。
アフマドは震える腕でハディージャを背に庇うが、喉は張り付き、ただ声を上げるのが精一杯だった。
「お、お前たちは……魔族……!」
「その通りよ」
サキュバスの女は、獲物を値踏みするような滑らかな動作で近づいてくる。
「……あんたたちは、何処から来たの?」
アフマドとハディージャは固く口を閉ざした。恐怖で心臓が早鐘を打つ中、彼らはただ本能的に、この存在に決して「答え」を与えてはならないと直感していた。女は二人の沈黙を気にも留めない様子で、核心を突く言葉を投げかけた。
「あの巨艦は、古代の魔族大艦隊を構成していた残滓……そうでしょう?」
沈黙が広がる。二人の拒絶の姿勢を見ても、女は苛立つ様子もなく、ただ淡々と問いを重ねる。その知的な眼差しは、二人の現れた背景を正確に分析しようとしていた。
「衛星軌道上の巨艦が、なぜ今になって現れたのか。そして、そこから降り立ったのがなぜお前たちのような『人類』なのか。……それが、何を意味するのかしら?」
答えれば破滅する――。二人はその直感に身を委ね、なおも沈黙を貫いた。その頑なな拒絶こそが、彼ら二人の命を、かろうじてこの瞬間につなぎ止めていた。
「あなたたちは、どうやら『消極的』すぎるようね」
ウェラステスの瞳が妖しく輝き、男を惑わす甘美な光を帯びる。呼応するように、背後のインキュバスがアフマドの腰を容赦なく蹴り上げた。衝撃で体勢が崩れ、アフマドの神経が過敏に高ぶる。サキュバスは恍惚とした表情で、抗い難い誘惑の視線を彼へと投げかけた。
「まずは、そちらの男から答えてもらいましょうか?」
「う……あ……」
アフマドの呼吸が乱れる。理性が熱で溶かされそうになったその瞬間、ハディージャが彼の背中を力任せに抓った。鋭い痛みが脳を突き抜け、霧が晴れる。彼は背後のハディージャを振り返り、ひきつった笑みを浮かべた。
「……痛いよ、ハディージャ! でも、ありがとう」
ウェラステスは冷めた目で二人を見つめ、優雅に名乗る。
「私は監察監のウェラステス……後ろの男は執行役のゼラフィよ! さて……あなたたちは誰? なぜここに来たの?」
アフマドは、背中の痛みを命綱にするようにして、必死に魅了を撥ね除けた。
「僕たちはここで囚われの身だ……でも何も答える気はないよ……あんたが何を打ち込んだのか知らないが、その程度の小細工に僕の意志は屈しない……とはいえ、名乗る礼儀くらいはある......僕はアフマド、彼女はハディージャだ」
ウェラステスは驚きもせず、ただ小さく舌打ちをした。
「ゼラフィの衝動器に耐えるなんてね。……そう、あなたの背後のその娘が邪魔なのね……いいわ、別の手段を考えましょう」
ウェラステスは優美な身のこなしで踵を返し、地下通路の奥へと歩き出す。彼女の背中は「従わなければ破滅する」という明白な拒絶を許さない意志に満ちていた。
入出管理ゲートで、彼らの腕に冷たい金属製のタグが刻印された。それは単なる識別番号ではなく、この地下世界から二度と出られないことを示す「逃亡不能」の証明だった。
「私たちは監察部隊だから自由だけれど……あんたたちは、もう外へは出られないわよ」
ウェラステスの冷酷な告白を背に、二人は幾重ものゲートを潜り抜けた。辿り着いた先は、驚くべき光景だった。広大な地下空間に広がっていたのは、かつて地上で目にした人類の都市と酷似した構造物だった。魔族の神殿都市とは根本的に異なる、人間的な生活空間。この地を支配する者たちは、人類を家畜として屠殺するのではなく、彼らの文明そのものを自らの住処として模倣し、吸収しようとしていたのだ。
しかし、その都市はあまりにも静かだった。人類そっくりの街路を歩いても、そこに人影は皆無だ。かつての主を滅ぼしながら、その抜け殻だけを丁寧に保存し、そこで人類になり代わったかのように振る舞う魔族たち。この都市のどこを探しても、人類の温もりはすでに消え失せていた。
「僕たちをどこへ連れて行くつもりなんだ!」
アフマドの叫びに、ウェラステスは冷笑を返した。
「尋問に答える気がないなら、もっと『直接的』な手段を講じるまでよ」
その瞬間、彼女は優美な身のこなしでハディージャに肉薄した。獣のような鋭い踏み込み。逃げる隙さえ与えず、ウェラステスはハディージャを組み伏せ、従者のゼラフィがその背後に回り込んで、何かを強引に押し付けた。
アフマドは反射的にゼラフィを蹴り飛ばしたが、時は既に遅かった。ハディージャの瞳から焦点が消え、掠れた悲鳴とともにその場に崩れ落ちる。
「あ、いやあ! はうっ」
この悲鳴とともにディージャは、タックルを受けた下腹部をギュッと手で押さえつつ気を失った。アフマドは倒れこむハディージャを受け止めるのが精いっぱいだった。
「ハディージャ!」
「アフマド……私、どうしちゃったんだろう…ううっ」
ハディージャはアフマドの名前を呼びながら顔を上気させて眉をひそめて目をつぶり、何かに耐えるようにしきりに首を動かしていた。アフマドは彼女の身体を必死に支え、震える指先でその肩や腕を撫でて正気に戻そうと試みる。だが、彼が触れるたびに、ハディージャは甘く、痛ましい吐息を漏らした。
「ハディージャ……!」
怒りで視界が赤く染まる。アフマドはウェラステスを睨みつけた。
「……お前たち、彼女に何をした!」
ウェラステスは勝ち誇ったように見下ろす。
「あんたが耐えたものと同じ刺激よ。ただ、彼女はずいぶんと『素直』ね。いま、彼女の精神は快感の奔流の中で溺れているわ」
「……なんだと」
「ふふ、驚いたわ。さっきまで彼女に指一本触れるのを恐れていた癖に、彼女の命に係わることになると人が変わるのね。……いいわ、面白いものを見せてあげる」
ウェラステスが妖艶な指先をこちらへ伸ばす。アフマドはその腕を荒々しく払い除け、牙を剥くように唸った。
「……わかった、ついていく……どこにでも行ってやる! だが、これ以上彼女に触れるな!」
降伏を突きつけられ、アフマドは震えるハディージャを抱きしめたまま立ち上がった。逃げ道はない。後ろには、魔族たちが獲物を追い詰めるように静かに続いている。アフマドの腕の中で、ハディージャは時折、苦悶と甘美が混ざり合ったような痙攣を繰り返していた。
__________________________
「ここは我々が『学園』と呼ぶ施設よ」
ウェラステスは学長室の窓から、キャンパスの全景を指し示した。様々な建物が連なるその広大な敷地は、一見すれば平和な教育機関のようだった。
「人類には教育という処置があったそうね。長い時間をかけて行動原理を律する、退屈な作業。けれど我々は従順な種族だから、短時間の刺激だけで同じ効果を得られるの」
「……短時間の刺激で、俺たちを矯正できるとでも思っているのか?」
アフマドはハディージャを抱きしめ、全身で敵意を剥き出しにした。ウェラステスは彼の怒りを意に介さず、愉悦を隠さずに続ける。
「ええ。あなたたちには、我々と同じ『生き生きと生きるための衝動』を与えてあげたわ! 夫婦なのに触れ合うことを避けるなんて、あまりに消極的でしょう? 私たちは、その消極性こそが文明を停滞させる癌だと考えているの」
「癌?」
「そう……いわば癌ね……我々は従順であるために、消極的な傾向にされている……だから、皇帝は我々の体内で最も衝動に感応する精神中枢近くに、衝動器を与えてくださった......我々が積極的に考え行動出来るようにね」
ウェラステスは、積極的行動が重要であるという点を強調するように、自信を見せながら説明した。それを聞きながらも、アフマドはウェラステスが何を言い始めているのか、まだ理解できなかった。
「へえ……それがどうしたんだよ」
「あんた達も消極的だから、あなたたちにも、それと同じものを埋め込んだわ」
アフマドの喉が引きつる。「埋め込んだ」という言葉の響きが、耳の奥にへばりついて離れない。
「……どこにだ。精神の中枢神経の近くと言ったのか?」
「短時間の観察と計算の結果、最も効率的な場所を特定したわ」
ウェラステスは、あたかも医学的な処置を説明するように無機質な声を続けた。
「私たち魔族には、身体構成情報を交換して次世代を複製するメカニズムがある......調べたところ、あなたたちにもそれに酷似した……『生殖器』と呼ばれる器官があるようね? 不思議なことに、衝動器の刺激に対し、その器官は驚くほど過激な反応を示したわ」
アフマドは、自らの身体の奥深くに埋め込まれた異物を想像した。ハディージャの体内で何が起きているのか。彼女が感じている熱が、彼女の意思ではなく、魔族が組み込んだ機械的な「刺激」のせいなのだと悟った瞬間、アフマドの血の気が一気に引いていくのを感じた。
「あんたの女、ハディージャには衝動器が強く作用しているようね……今はまだ刺激の奔流に戸惑っているけれど、すぐに積極的な思考を手に入れるはずよ」
ウェラステスは満足げに微笑み、さらなる驚愕の宣告を下した。
「衝動器が定着すれば、あなたたちは次第に能動的に動き出すはず! だから、このキャンパス内での自由を許可するわ……住まいも与える……もう私たちに襲われる心配もないし、ここで自由に暮らしていいわ」
「自由だと? あんたたちが僕たちを襲わないだと?」
アフマドはハディージャを抱きしめたまま、その瞳の奥に宿る冷酷な企みを見抜こうと睨みつけた。彼女の言う「自由」とは、毒を盛られた者に与えられる、檻の中の散歩に過ぎないはずだ。
「ええ! 私たちの若年層が通う『学園』があるのよ……あなたたちにもそこで教育を受けてもらうわ」
ウェラステスは、獲物を手懐ける飼育員のような口調で続けた。
「まずは従順であることこそが、最もシンプルで幸せな生き方だということを学ぶの……そのうえで、あなたたちに衝動器が馴染めば、刺激を受けて、従順でありながら、より積極的に思考して行動できるようになる……そうすれば、従順と秩序を愛する私たちの素晴らしさを理解し、心から話したくなるはずよ」
彼女は愉悦に満ちた表情で締めくくった。
「さて、続きは学長のゼインスードに引き継ぎましょう……彼はあなたたちという『稀有な素材』をとても楽しみにしているわ」
ウェラステスの合図に応え、学長のゼインスードが恭しく首を垂れた。彼は淀みのない動作で踵を返し、黙して俺について来い、と背中で語るように歩き出した。
「これから、お前たちの宿舎へ案内する」
「宿舎……だと? 一人用でないと困る」
アフマドは咄嗟に声を上げた。だが、その声は、彼が抱き上げているハディージャの体温で蒸された狭い空間で、空しく響いた。ゼインスードが立ち止まり、ゆっくりと振り返る。彼の冷徹な眼差しは、アフマドの顔ではなく、彼に抱えられたハディージャへと向けられた。彼女は今や意識をはっきり取り戻してはいたものの、衝動の海で呼吸を乱し、アフマドの首と背中に絡みつけた指を食い込ませ、抗いがたい熱に身を委ね始めていた。
ゼインスードは、まるで熟成された高級なワインの香りを確かめるかのように、鼻を鳴らした。
「ふうむ、なるほど! 実に興味深いな……彼女はいい具合に『仕上がって』きている……だが……」
学長は皮肉げに口角を歪め、アフマドを値踏みするように見つめた。
「……お前の方は、相変わらず極端に消極的らしい……この刺激を与えられてもなお、その程度とはな」
__________________________
「ここが二人同室の宿舎だ。普段は精神波長の位相が近い者同士を充てるのだが……まあ、お前たちは観測が難しい。だが、二人で行動してきた実績を考慮し、同室を許可した」
ゼインスードの事務的な口調に、アフマドは言葉を失った。やはり、というべきか。隣でハディージャも息を呑み、驚きと戸惑いに瞳を揺らしている。
「あ、あの……この部屋、二人で使うには少々狭すぎませんか?」
「寝台は二段式だ。問題ないだろう。仲が良いのであれば争いにもなるまい。……何か不都合でもあるのか?」
ゼインスードは、まるで当然の道理を説くかのように、純粋な好奇心で二人を見つめた。その眼差しには、人間の尊厳という概念が欠落している。ハディージャは不安げにアフマドの袖を握り、彼を見上げた。アフマドは、押し寄せる絶望と、それを振り切るための冷徹な理性を胸に刻み、深くため息をつく。
彼らは無言で視線を交わした。魔族の掌の上だとしても、互いを見失ってはならない。そう誓うように、二人は足を踏み入れた。
二人が落ち着いた頃、ゼインスードが再び声をかけてきた。
「さあ、ではあんた達の入学手続きは済んだ……彼女も意識をはっきり戻したらしいな……それならば、もうすぐ放課後だが、今日のうちに同じクラスとなる奴らのところへ案内しよう」
学長ゼインスードが二人を連れて行ったのは、「15〜16歳」と記されたクラスだった。そこには、地球の公転周期を基準とした年齢で選別された魔族たちが闊歩していた。
扉が開かれた瞬間、視線が一斉にハディージャへと突き刺さる。
「おっ、学長が女子生徒を連れてきたぞ!」
声を上げたのは、吸血鬼のヴェラだった。それに続くようにマーシーやワラクといった美貌の少年たちが、ハディージャを囲い込む。彼らの目は、新しい玩具を見つけた幼子のように、あるいは獲物を狙う捕食者のように輝いていた。
「名前は?」「まずは自己紹介からだろ?」
隙のない美男子たちに囲まれ、ハディージャは戸惑いながらも、どこか怯えたような、しかし抗い難い愛嬌を浮かべてしまった。衝動器の影響か、彼女の反応は以前より過剰で、はにかむ仕草さえもが魔族たちの興奮を誘う。
それを見ていたアフマドは、胃の底に泥が溜まるような不快感に苛まれていた。周囲の男たちの品定めするような視線。自分には許されていないほど親密な空気。アフマドはついに堪えきれず、毒づいた。
「おい……ハディージャに手を出してみろ。次の日に生きていられると思うなよ」
「へえ……お前、彼女の連れ合いか?」
男たちが面白がるようにニヤつき、アフマドを侮るように視線を逸らす。アフマドは奥歯を噛み締め、それ以上何も言えず、窓の外の無機質な夜景を睨みつけることしかできなかった。
その夜。アフマドはハディージャを置き去りにして宿舎へ戻った。背後で彼女が追いかけてくる足音が聞こえたが、振り返ることもしない。狭い二段ベッドの壁際に背を向け、彼は自分の心臓が刻む苛立ちの音を聞いていた。
「ねえ、アフマド……どうして無視するの?」
ハディージャの問いかけが響く。彼女自身も、何が起きているのか理解できていないはずだ。衝動器という名の呪いに犯され、思考さえも魔族に都合よく書き換えられようとしている。アフマドは、そんな彼女にどう接していいのか分からなかった。突き放すべきか、抱きしめるべきか。
「ねえ、私、何か悪いことをしたの? ……謝るから」
彼女の懇願が続くが、アフマドは自分と彼女とを守るための沈黙を貫いた。喉まで出かかった言葉を飲み込み、そのまま意識を深い闇へと沈める。
背後で、ハディージャが小さく「ばか!」と吐き捨てた。その声が消え、彼女がベッドにもぐりこむ気配がした。静寂が宿舎を支配する。二人の間にある狭い空間が、今は数光年分も離れているように感じられた。




