12 熱いアンスロラス星系第四惑星
「都市化の痕跡が、まるで見当たらないんだ」
アラートとともに目覚めた黄金龍チカは、目の前のアンスロラス恒星系は、典型的な淡黄色の主系列恒星であることを確認した。そして、惑星を観測するにも十分な距離であることを見て取ると、第四惑星アンスロラスの長波からテラヘルツ波に至るまでの電磁波強度のスペクトル解析、可視光のスペクトル解析を念入りに行った。
「いいか、よく見ろ。約千年前の出発時、ここは人類の都市がひしめく星系だったはずだ。だが現在の長波からテラヘルツ波迄の電磁波強度のスペクトル、可視光付近の分光データはを見てみろ! さらにレイリー散乱は低く、植生は豊かだ……だが、これらのデータから見ると、文明という名の傷跡が一つもない、ただの野生の惑星の数値だ……都市なんてどこにもない、痕跡すら……」
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亜光速で飛翔する飛翔艦の外界は、通常の観察を拒絶する。後方からの光さえも艦の前方へ回り込み、中央は強烈な紫方偏移で輝き、周囲は虹の王冠のように青、緑、橙へと色が移ろい、外縁で赤方偏移して赤外線領域へと消えていく。その光芒の円環を纏いながら、その行く手の中央に、目的地であるアンスロラス星系があった。
「これが分光測定機器か? 魔族の技術には、波長ごとに位相を揃える光学系すらないのか……これでは天体ごとに反射光を分離してスペクトル分析することなど不可能だ」
黄金龍チカは、艦内のあり合わせの資材を組み上げ、独力で観測装置の改良を始めた。それだけでは足りず、自作の光学系まで追加して調整と観測とをくり返すこと幾度。ようやく得られた生データを検証し、一千年前の観測記録と照らし合わせる作業に、彼は没頭していた。
さて、ドラゴン愛はその思考が煮詰まるにつれ、その6枚の翼と長い首は無意識に蠢き始めた。その光景を、艦橋へやってきたアフマドが目撃していた。アフマドの目の前で、チカは6枚の翼を複雑にねじり、首を上下左右に振り回している。その異様な迫力に圧倒され、アフマドは声をかけるタイミングを逸した。
チカはさらに首を傾げたが、傾けすぎたのか、次の瞬間、脱力した長い首がフルフルと螺旋を描いて巻き戻り、あろうことか自身の翼に絡みついてしまった。
「う、ぐ……っ」
チカが苦悶の声を漏らし、慌てて首を解こうともがく。
「あ、いててて……」
ゆっくりと慎重に体を動かし、ようやく絡まりを解いたところで、背後の気配に気づいて顔を上げた。
「な、なんだアフマド、そこにいたのか」
「ええ、先ほどから……」
「……どのあたりからだ?」
「首が傾げ始めた頃からです」
「なぜ声をかけなかったんだ!」
「あまりに根を詰めていらしたので、その……」
チカは返事の代わりに、体中の激痛をこらえて唸り声を上げるしかなかった。
「う、ぐ……っ……うむ、さてと......ここへ来てみろ……アンスロラスの様子がおかしい」
唐突な呼びかけに、アフマドは欠伸を飲み込みながら駆け寄った。
「はい?」
「都市化の痕跡が、まるで見当たらないんだ」
「へ?」
眠気の抜けないアフマドの反応に、チカは舌打ちをしたいのを堪え、分析データをモニターに叩きつけた。
「いいか、よく見ろ。約千年前の出発時、ここは人類の都市がひしめく星系だったはずだ。だが現在の長波からテラヘルツ波迄の電磁波強度のスペクトル、可視光付近の分光データはを見てみろ! さらにレイリー散乱は低く、植生は豊かだ……だが、これらのデータから見ると、文明という名の傷跡が一つもない、ただの野生の惑星の数値だ……都市なんてどこにもない、痕跡すら……」
ようやく状況を理解したアフマドの声が、艦橋に響いた。
「……それって、人類がすべて魔族に滅ぼされたってことですか?」
「魔族が征服したというのなら、少なくとも彼らの文明活動の兆候があるはずだ……だが、それすらない」
チカの言葉通りだった。モニター上の電磁波データは沈黙を貫いている。かつて高度文明を証明していたはずの産業通信、あるいは知的な精神活動の残響さえもが、今や背景ノイズという誤差の海に完全に埋没していた。
その後も、チカとアフマドはデータの精査を続けた。そこに、目をこすりながらハディージャが現れる。アフマドは、彼女を横目で確認すると、何食わぬ顔で言葉を続けた。
「……まあ、現地の食料資源は豊富そうだ」
「どういう意味よ!」
ハディージャが反射的に腹筋に力を込めると、その直後、彼女の腹の虫が盛大に鳴り響いた。艦橋の空気が凍りつく。アフマドは平然と付け加えた。
「これから向かう惑星の話だ」
「く、屈辱だわ……! ふん、どうせ私は食いしん坊よ……でもね、覚えておきなさい! 私が行く先では、必ず食べ物が与えられるのよ」
ハディージャは、アフマドの分析を自分への当てつけだと曲解して息巻いている。このままでは口論が長引くと判断したチカは、即座に争いのネタを摘み取った。
「そうだ。……『二人』が向かう場所の話だな」
チカはタイミングを見計らい、深く息を吐いてから二人を制した。
「いいか、今の分析には『七転八倒』の苦労があったんだ……これ以上、君たちの喧嘩めいた熱量で私の身体を振り回されたら、この激しい筋肉痛がどうなることか……頼む、今はその痴話喧嘩を控えてくれ」
「ち、痴話喧嘩なんてしてないわ!」
顔を真っ赤にしたハディージャが、怒りの矛先をアフマドに向けた。彼女はアフマドの背中の肌を、これでもかと力いっぱい抓り上げる。
「いたっ……っ!」
アフマドは悲鳴を上げて身をそらすようにしてよじったが、威厳あるドラゴンを前にしては、痛みを訴えて取り乱すこともできず、ただ苦悶の表情でハディージャの様子を上目遣いでうかがうことしかできなかった。
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「減速を開始する。惑星間航行モードへ移行するぞ」
アフマドは、ようやく馴染んできた宇宙艦の操舵パネルを慎重に操作した。一方、観測室へと向かうドラゴンの背中に、ハディージャが声をかける。
「地表が視認できるようになったら、すぐに教えて!」
「ああ、間もなく単純望遠鏡の射程に入る」
やがて、艦は第四惑星の周回軌道へと静かに滑り込んだ。メインモニターに、アンスロラスの全貌が映し出される。そこにあったのは、生命の息吹に満ち溢れながらも、文明の残り香が微塵も感じられない、純然たる野生の惑星の姿だった。広大な地表は熱帯雨林や混合樹林といった濃緑の深海に覆われ、時折、茶褐色の砂漠や極地の氷河が、異質なほど無機質な彩りを添えている。かつて人類が築いたはずの都市の光は、一千年の時の彼方に沈み、もはやどこにも見当たらない。
「どこに着陸すべきかしら」
ハディージャの問いに、アフマドはモニター上の地形データを拡大していく。千年という時の経過は、地表を厚い森林のベールで覆い隠していたが、高度な観測機器はかすかな起伏を逃さなかった。平坦な地形の隙間に、不自然なほど規則的な幾何学模様が浮かび上がる。
「……見てくれ、これだ」
「道路? あるいは通路ね」
ハディージャが指し示したその『傷』を、アフマドは食い入るように見つめた。縦横に交差するそのパターンに見覚えがある。故郷の神殿都市で見たものと酷似していたからだ。さらにその軌跡を奥へ辿る。幾何学的な道路網の果てに、巨大な城郭の輪郭がぼんやりと影を落としていた。
「間違いなく、魔族の都市遺跡だ」
「全域が森林に飲み込まれているわね……。これだけの規模でありながら、生命の気配がまるでない。……数百年前、あるいはもっと昔に、この星の魔族たちは滅びたのね」
ハディージャの声には、確信と同時に微かな疲労が滲んでいた。しかし、その静寂がアフマドの脳裏に鋭い疑問を突き刺す。
「魔族の都市がこうして残っているなら……人類の都市の跡は、一体どこにあるんだ?」
かれらは、先ほどの魔族たちの都市跡の他に、人間の都市部跡を探した。だが、人間の都市部跡はなかなか見つからなかった。
「探し方が悪いのかな……」
「他にどうしろと言うのよ。魔族がこの星に来た目的を考えれば、答えは自ずと……」
二人は、魔族の都市遺跡と人類の居住跡との関係性を追い続けた。各地に残る神殿都市には、必ず魔族が『神域』として切り拓いた広大な平坦地が隣接している。それは、二人が育った故郷の惑星の光景と重なった。神殿都市を遠巻きにするように広がる放牧地――そこには、家畜として飼い慣らされた人類たちの、卑屈で味気ない生活圏があったのだ。
しかし、このアンスロラス星では、その面影すら見当たらない。魔族の神殿はあっても、かつて人類が営んだはずの都市の痕跡は、千年の風雪と熱帯の緑に完膚なきまでに塗りつぶされていた。唯一の例外が、極地付近の神殿都市だ。その傍らにのみ、氷結した大地から凍りついた町並みの一部が、墓標のようにひっそりと顔を出していた。
「……地表のどこにも、誰もいないのね」
「魔族の気配さえ消えている。……人類が生き残っている可能性は、絶望的だ」
「これから、私たちはどうすればいいの?」
アフマドとハディージャが途方に暮れる中、チカは静かに、しかし突き放すように告げた。
「ここからは、お前たち二人だけで進め」
「え……?」
「どうしてですか!」
チカは呆れを含んだ眼差しを二人へ向ける。
「二人とも、仲が良かったかと思えば痴話げんかに明け暮れる。……先ほど私の身体が小さくなったり震えたりしていたことに気づかなかったか? 君たちの不安定な精神状態が、私の肉体にまで悪影響を及ぼしているんだぞ」
「あっ」
二人は顔を見合わせ、言葉を失う。仲が良いのか悪いのか、他者には理解しがたいこの二人の距離感は、見守り役であるチカを疲弊させていたのだ。
「いいか、お前たちは未熟すぎる。お前たちのその『世界』に浸っている限り、真の成長など望めない」
「だって、アフマドがちっとも優しくないから……!」
「ハディージャだって、もっとレディらしく振る舞えば……」
「なによ、それ!」
再び始まった不毛な口論。この時、チカは唸るような声を漏らした。
「う、ぐ……っ……ほら見ろ、また……う、ぐ……っ」
先ほどまで大きくできていたチカの身体が、喧嘩が始まった途端に小さくなり始め、ドラゴンは再び筋肉痛の激痛に呻いた。
「……やめなさい! 二人とも」
ドラゴンの声は艦橋の空気を瞬時に凍らせた。
「アフマド……お前は夫だ……妻のために己を犠牲にする覚悟を持ち、慈しみを持って接せよ! ハディージャ、お前は……うむ、ただ従順であればよい」
アフマドは納得がいかない様子で顔を歪めた。
「待ってください、チカ! じゃあ僕は男だから、妻のどんな無理難題も聞かなきゃいけないんですか?」
「そうだ。男にはそれに見合う能力が与えられているのだからな。それができぬのなら、生きる資格などないも同然だ」
「そんな……じゃあ、男は偉いんじゃないのか!」
アフマドのあまりに幼い反論に、チカは深く溜息をつき、その巨大な瞳で彼を射抜いた。
「威張りたいのか? 妻の前で王のように振る舞う男を、啓典の主がお求めだと思うか? アフマド、お前も分かっているはずだ!」
その一言に、アフマドは毒気を抜かれたように押し黙った。過去の教えが彼の脳裏をよぎったのか、表情から先ほどまでの反発が消える。
ハディージャは、そんな夫を静かな眼差しで一瞥すると、チカに問いかけた。
「私は……ただ従うだけで、それでよいのですか?」
「ああ、そういうことだ」
チカは短く答えた。だが、その声の端には、ハディージャがただの従順な妻から、思考し、問いかける存在へと脱皮しつつあることへの、密かな期待が混じっていた。
沈黙ののち、ドラゴンは心持ち口調を改め、諭すように語り始めた。
「……さて、これからは二人で互いの在り方を見つめ直すがいい……知識や知恵を蓄えるのは良いことだ……だが、それは真の成長ではない! 精神の伴わぬ成長はただの空虚だ……」
彼は二人の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「啓典の主が求める義とは、相手が弱った時に相手に寄り添い、互いに慈しみ、愛し合うこと……その魂の成長を促すため、今はしばし、お前たちの身体の成長を止めさせてもらう! これから何が待ち受けているかは私にも分からん……だが、このシャトルには飛翔に十分なエネルギーを充填しておいた……お前たちが真に私を必要とした時、必ずや再び姿を現そう」
ドラゴンはそう言い残すと、二人をシャトルへと誘導した。
母艦から切り離され、小さな光となって惑星表面へと降下していくシャトル。そのシャトル内で、アフマドとハディージャは初めて、自分たちを縛っていた庇護という名の翼がなくなったことに気づき、言葉なく互いの手を見つめていた。
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二人は、相談の上で、惑星全域のスキャンデータからいくつもの神殿都市遺跡を調査対象とした。
彼らがまず目をつけたのは、赤道近くで海に没した都市遺跡だった。浅い海は、森林におおわれていないだけ調査が楽だった。ただ、彼らはその蒸し暑さのために簡略化した潜水道具を作り上げる必要があった。
「ねえ、この装備は何なの?」
アフマドは、ハディージャに声をかけた。彼女はちょうど一生懸命に何かを纏いながら、全身を覆う装備を縫い上げているところだった。声をかけられたハディージャは、顔を赤くしてアフマドを一瞥し、手を止めた。
「これは海に潜るための装備…」
「そこの浅瀬で泳いでいる熱帯魚みたいに、大きくて長い鰭をいくつもつけているように見えるよ……これじゃあ、潜水して細かいところに入り込めないじゃないか......何事も二人で相談しながら行動しなければいけないのに......」
「だって、私の髪と肌が露出することになるんでしょ? 恥ずかしいじゃない......」
「僕たち、夫婦なんだよ......一応......」
「へえ、それならやっと夫として私の肌を直視してくれるのね……夫のはずなのに、今まで私に触れようとしないばかりか、見ようともしなかったくせに......でも、そう言うんだったら、こうするわ!」
ハディージャは顔を赤くしながら、一気に纏っていた装具を外した。装具を外すと、そこには最小限の布だけ身に着けた若い妻の姿が現れた。ハディージャは、妻であるはずの自分を正面から受け止めてくれないアフマドに我慢ならなかったゆえの、行動だった。
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彼らが次に選んだ調査対象は、赤道付近で海に没した都市遺跡だった。海中であれば森林の遮蔽を免れるが、蒸し暑い環境での作業には工夫が必要だった。
アフマドは、ハディージャが全身を覆うような奇妙な装備を縫い上げている姿を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「ねえ、それは何だ? まるで熱帯魚の鰭みたいに大げさじゃないか! これでは狭い場所にも入り込めないだろう」
「……これは、海に潜るための装備よ」
「二人で相談して決めるべきだと言っただろう?」
「だって……私の髪や肌が露出するのよ?恥ずかしいに決まっているじゃない!」
ハディージャの必死の反論に、アフマドは溜息をつく。
「僕たち、夫婦なんだよ……一応、だけど……」
アフマドの言葉が、ハディージャの堪忍袋の緒を切った。
「へえ……そんなことを言うんだ」
「え? 何?」
アフマドはハディージャの開き直ったような声の調子に、顔をひきつらせた。彼のそんな表情を確かめながら、ハディージャはゆっくりと彼に言い返した。
「……いいわよ! .......やっと『夫』として私を直視してくれる気になったのね? 今まで私に触れようとも、まともに見ようともしなかったくせに!」
ハディージャは顔を真っ赤に染め上げ、乱暴に装具を剥ぎ取った。下から現れたのは、必要最低限の布を身に纏っただけの、若く滑らかな肌だった。アフマドに「妻」として認められたいという焦燥と、無視され続けたことへの苛立ちが、彼女を大胆な行動へ駆り立てた。
ここは二人のほか誰もいない場所だった。そうであれば、夫婦の二人は互いに隠し事がないはずだった。ところが、アフマドは、誰もいないところでさえいまだに夫としての覚悟はもちえないばかりか、ハディージャの連れであることさえ恥ずかしがるありさまだった。
「ハディージャの髪と肌は、やっぱり.......一応……隠しておかないと......」
「それは、夫である貴方以外の男性たちがいる場合でしょ? ここには貴方しかいないわ」
「僕も、ハディージャの髪と肌に耐えられないから......」
「私たち、夫婦のはずよね……」
ハディージャはそういうと、最小限の布を身に着けたままで、海へと入り込んでいってしまった。アフマドはというと、泳ぐかわりに、ハディージャの姿にどぎまぎして目が泳いでいた。
「これは、最小限の水着よ......なぜ、妻の私の水着でどぎまぎしているのよ......でも…..分かっているわ、私もそうだから」
「確かに、結婚式を挙げて、誓いも立てた......でも、情欲を以って異性を見てはならないというのは、守らなければならない」
「また言っている! チカも言っていたじゃない! 産めよ増やせよというのが啓典の主の命令だって!」
「う、うん、わかっている......でも、ダメなんだ、直視できない.......『直視してはいけない』と、何処からか叫ぶ声が聞こえるんだ......たぶん、僕は気が小さいからなんだろうな.......だから、やっぱりハディージャにふさわしくない」
「なんで、貴方だけの女である私の水着姿を見て、そこまで大げさに考えてしまうのかしら......今まで、手をつないでもくれないし...…」
「う、僕は自分の衝動を抑えられなくなってしまう......ダメだ…頼むから、ここは僕に先行させてほしい......少なくとも、ハディージャを視界に入れて自分を失うことだけは避けたい」
「もう!」
結局、アフマドはハディージャに気を取られつつも先行し、ハディージャはアフマドの後ろに居続けた。
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海底の都市廃墟は、彼らの見立て通り、魔族の神殿都市の遺跡だった。
二人は遺跡の狭い空間へと入り込んでいた。ハディージャは壁の表面を注意深く観察し、水中呼吸器を通じて言葉を紡ぐ。
「……ひび割れと変色、それに水生植物の付着具合。放棄されてから、かなり時間が経っているわね」
返事をしようとしたアフマドは、言葉に詰まった。
狭い空間の中で、ハディージャが身を屈めたり背伸びをしたりするたびに、彼女の輪郭が視界を占拠し、時に彼女の肌が彼の身体に接触すらしてしまう。アフマドは必死に目をそらし、あろうことか壁の苔や暗い床を見つめて両腕と身体を硬直させ精神を統一しようともがいていた。それが、また彼女の方へ彼の視線と身体とを接近させてしまい、再び猛烈な自己嫌悪に陥るという愚かなループを繰り返す。
「そうだな……放棄されてから、しばらくして水没した……のかな」
「それは見れば分かるわよ。私が聞きたいのは、どれだけの年月が経っているかという考察よ。……アフマド、どうしたの?」
ハディージャが怪訝そうにこちらを振り返り、視線を鋭く突き刺した。アフマドは水中で体勢を崩しかけ、慌てて視線を明後日の方向へ飛ばす。
「あ、ああ、そうだったね……ええと、破壊された跡が……その、ひどいな」
「真面目にやりなさいよ! 周辺にあるはずの人類居住区も確認しなきゃいけないんだから……ねえ、いまさら私の姿を前にしてそんなに動揺するなんて、一体どういうつもり?」
「……うう、これは拷問だ」
水中に漏れたアフマドの情けない溜息は、泡となって海中へ溶けていった。
二人は神殿都市の周辺領域へと調査の範囲を広げた。
このエリアは水流が荒く、足場も不安定だった。バランスを崩して声を上げるハディージャを支えるため、アフマドは否応なしに彼女の身体に触れなければならない。だが、それは単純な介助では済まなかった。不規則な激流は、アフマドに彼女の腰や胸を強く抱き寄せることを強いる。そのたびにハディージャが短い悲鳴を上げ、アフマドは慌てて彼女を突き放しては、再び流されそうになる彼女を抱き留める――そんな、心臓を締め付けられるようなやり取りが続いた。
激流を抜けた先には、調査すべき広大な空間が広がっていた。二人は懸命に仕事へ没頭しようと努めた。いや、正確には、アフマドは必死に仮面のような冷静さを装い、ハディージャはそんな彼の挙動不審さに当てられたのか、しだいに口数が減っていく。
「……ねえ、アフマド……これを見て……私じゃなくて、壁のここを……」
「あ、ああ、そうだったな……」
アフマドは掠れた声で応じた。目の前には、破壊された住居跡と、風化した魔族の白骨、そして無残に墜落した飛翔体の残骸が沈んでいる。だが、彼の視界の端には、すぐ隣で水流に揺れるハディージャの肌が映っていた。視線を逸らせば逸らすほど、その存在感は毒のように脳を侵食していく。
ハディージャは、多少はアフマドの苦しみが分かったのか、声に優しさを帯びていた。
「これって?」
「……ええと、破壊された住居跡と魔族たちの白骨、それに墜落した飛翔体の残骸が残っている」
「つまり、戦争でもあったのかしら?」
「破壊されずに残った石の壁などは、ひび割れの深さ、変色の具合から見て、攻撃され放棄されてから百年後辺りに水没したというところ、だね……それから、ここの海水の流れの速度と浸食の程度からすると、水没してから数百年は経っている」
「そう、戦闘の跡だったのかしらね」
「そうだね、数百年前におきた戦争の際に放棄されたとみていいかな」
「この印は、何かしら?」
ハディージャは、崩れ去った神殿都市や周辺地域の小さな祠跡などにつけられている印に目が行った。その印は、六角形のハニカム構造をいくつも重ねたデザインだった。
「攻撃を受けた側はハニカムの重なりの紋章……先ほどのチタニウム製の残骸には、別の紋章がついている……鰐に似たような印だ……この神殿都市一帯は、この鰐の紋章の別勢力から攻撃を受けて破壊され、放棄されたんだろうか」
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次に調査の対象としたのは、熱帯雨林に深く覆われた広大なエリアだった。シャトルのコックピットで、二人はモニター越しに密林の下に潜む廃墟を探索する。
「ここなら、少しは……安心できそうだ」
アフマドは独り言を呟き、映像信号から草木のイメージを丁寧に除去していく。ノイズが消えるたび、ひび割れた石壁や崩落した神殿の輪郭が、冷徹な光を放ちながら浮かび上がった。
「そうね! ドラゴンのチカが用意してくれた分析機器、本当に大したものね」
「ああ……全く、安心して使えるよ」
アフマドの返事は、わずかに上ずっていた。すぐ前には薄着のハディージャの姿が彼の目に焼き付く。そして、脳裏には先ほど見たハディージャの姿が目に焼き付いている。彼は機器を操る指先は震えを隠すように力み、視界に入る彼女の存在を、必死に「同僚」として処理しようと脳を酷使していた。
そんな彼の死闘を知る由もないハディージャは、モニターに映し出される太古の惨劇に没頭している。
「この遺跡も、植物の浸食度から見て数百年前に攻撃され、打ち捨てられたものね」
「……ああ」
アフマドは滲む汗を拭い、努めて事務的に言葉を返した。彼らの前には、神殿都市の廃墟と、かつて人類が息づいていた居住区の残骸が、残酷なまでに鮮明な映像として結ばれていた。
その後も、彼らはいくつもの神殿都市を巡った。いずれの廃墟も海底で見たそれと同様、徹底的に破壊され、死に絶えていた。
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二人はシャトルを駆り、極地の極度乾燥地域へと向かった。そこが、最後の調査対象だった。
「……寒い」
同時にこぼれたその一言が、白く凍てついて消えた。極度の乾燥気候ゆえか、発見した神殿都市は風化を免れ、数世紀前の姿を今に留めていた。周辺の人類居住区もまた、墓標のように原形を保ったまま沈黙している。
「これほどの乾燥地なら、魔族に征服される前の、オリジナルの人類都市がどこかに眠っているかもしれない」
アフマドは防寒ゴーグルの結露を拭いながら、乾ききった岩肌を見渡した。見渡す限り、生命の気配すら許さない砂と岩の地平。ハディージャもまた、その荒涼とした風景に言葉を失っていた。
平坦な領域をどれほど歩いても、彼らの視界に映るのは無機質な石の肌だけだった。神殿都市を探す苦労の十倍もの時間を費やし、ようやくその盆地にたどり着いた時、二人は息を呑んだ。谷あいの、さらに奥深い盆地の底に。何かから逃れ、何かを隠すようにして、その都市は息を潜めていた。
「隠されていたのね……まるで、絶滅を免れるために、世界そのものから身を隠すように」
二人は、都市廃墟の深部へと足を踏み入れた。
「ここは住宅かしら……」
ハディージャが恐る恐る覗き込んだ先には、かつての住民たちの生活の残滓が静かに眠っていた。極寒と乾燥が、この街を千年もの時、完全な防腐状態に保っていたのだ。
「集積された建物群に道路、張り巡らされた空中回廊……教えられた通りの、典型的な人類の都市形態だ」
「ええ……天井の高さや家具の配置を見ても、間違いなく人間が住んでいたわ」
アフマドが手に取った工具は、見知らぬ形状をしていながらも、その機能性において彼らの村のものと血の繋がりを感じさせるものだった。
しかし、都市の中心部へ進むにつれ、その空気は一変した。
道路には骨組みだけになった焼失した車両が放置され、一角は無残に爆破されていた。さらに衝撃的だったのは、建物の壁面を埋め尽くす落書きだ。
そこには、故郷のブーバルで目にしたものと酷似した紋章が刻まれ、憎悪に満ちた言葉が踊っていた。
「……私の知る言語に近いわ。どれも、狂気じみている」
ハディージャが震える声で読み上げる。
「『こいつらは仲間ではない。存在を許してはならない』……『我らの理想と紋章のために、奴らを血祭りに捧げよ』……それに『追い出してやった』という記述も」
「同族抗争の跡だ。……この紋章を掲げた者たちが、同じ人間を蹂躙したんだ」
そこには、高度な文明を築き上げた者たちが、思想という名の偶像に囚われ、衆愚と化して自滅していく過程が、生々しい傷跡となって残されていた。暗澹たる光景を前に、二人は言葉を失った。
都市の一角に、不自然なほど開けた広場があった。その中央には、この都市の人々が奉じていた偶像を祀る祭壇が鎮座している。
目を疑った。そこに作られていたのは、魔族の神殿都市を模した小さな祠だったからだ。作り手は、間違いなく人類である。
「なぜ、自分たちを支配していたはずの魔族を、自ら奉じているの?」
「神殿の中にブーバルの紋章がある……スローガンも同じだ! 『存在を許すな』『血祭りに捧げろ』『これこそが救いの道だ』……」
アフマドは戦慄した。衆愚と化した人間たちが、支配者である魔族を模した偶像を立て、それに同族を捧げることで己の生存を正当化していたのだ。二人は、導かれるように祭壇へ歩み寄った。そこには、数え切れないほどの鋭い刻印が刻まれている。
アフマドとハディージャは、その傷跡が何を意味するのかを理解していた。
「……人類は、ここで同族を犠牲として捧げていたのね。魔族への供物として」
「反対勢力を排除し、その命を魔族の機嫌をとるための道具にしたんだ。こんなところで……」
祭壇から少し離れた場所に、その答えがあった。そこは墓地などではなかった。虐殺の果てに捨てられたゴミ捨て場だ。捧げられ、魔族によって消費され、あるいは衆愚の熱狂によってただ廃棄された屍の山が、異様な静寂の中で重なっていた。
二人は都市の最深部、すなわちかつて家畜として飼い慣らされた人類たちの居住区へと足を踏み入れた。そこには、かつての栄華と、それが衆愚へと堕ちていく過程が剥き出しになっていた。対立し、魔族を神と崇め、ついには自ら家畜の檻へ歩み寄った歴史――。それは、二人を育てたブーバル族の星で見た忌まわしい記憶と、あまりに酷似していた。
「ここには、私たちが夢想だにしなかった高度な文明があったのね」
ハディージャは、無数の空中回廊が交差する遺跡の頭上を見上げ、呆然と呟いた。
「……ああ。見つけることができた人類の遺構は、ここが最後かもしれない。高度に発達した文明が、衆愚という泥沼に沈んで消えていく……そんな結末だったなんて」
アフマドは、崩れ落ちた巨大な建造物の残骸に手を触れた。冷たい石の感触が、千年の時を隔てて問いかけてくる。
「ドラゴンのチカなら、この結末を最初から知っていたのかもしれない......彼が見てきた数多の星系の中で、我々と同じように、人類が自らその翼を折る光景を」
「で、この保存状態は良すぎるわ……いくら寒い場所と言っても……」
「とすると、まだ誰かがこの辺りを使っているのか?」




