11 若過ぎる二人と子守のドラゴンと
六翼の黄金龍「愛」は、ハディージャとアフマドを乗せたまま大気圏外へと速度を増した。戦闘の末に荒れ切った惑星アクサルの大地は、既に遥か眼下にあった。
「だんだん空気が薄くなっています……私たち、このまま大気圏の外へ出て行くのですか?」
ハディージャはマイナス四十度の寒さと酸欠に震え、息も絶え絶えにドラゴンへ問いかけた。ドラゴンは、不安に満ちた声を耳にしても「何をいまさら」と言わんばかりの態度で応える。
「ああ、そうだな……」
「僕たち、宇宙空間では生きていけません! 大気圧のある空気の中でないと、体中の水が沸騰してしまうんです」
アフマドとハディージャが懸命に訴え、ようやくドラゴンは事態の深刻さに気づいたらしい。
「そ、そうか……そうだったな……我々にとっては逃げ場となる荒野でも、人類にとっては死の領域だったな」
「そう、そうです!」
二人がホッとして声を上げたのを横目で見ながら、ドラゴンは嘆くようにつづけた。
「そうか......人類とはそんな存在だったな......さてさて」
ドラゴンは大気圏外へ脱するコースを外し、成層圏へと高度を下げた。しかし、それでも高高度ゆえの低気圧と極寒は変わらない。凍える指先を合わせ、身を寄せ合っても、二人の震えは止まらなかった。ハディージャの唇はすでに紫に変わり、アフマドも自分のことで精一杯になりながら、彼女の肩を強く抱きしめることしかできなかった。
「ゴフッ、グフッ!」
ハディージャの肺が悲鳴を上げ、乾いた咳が漏れた。アフマドは震える手で自分の上着を脱ぎ去り、ハディージャの肩へ強引に羽織らせた。そのまま背後から抱きしめ、自分の体温を分け与えようとする。けれど、彼女の震えは止まらず、それどころか、アフマド自身の意識さえも冷気に浸食されつつあった。
「さ……む、い……」
思考が凍りつき、独り言のような弱々しい声が漏れる。
その時、優雅に翼を広げていたドラゴンが、ようやく背中の二人の異変に気づいた。
「この程度の気圧低下と冷気で、そこまで弱り果てるのか!?」
それは驚きというより、純粋な困惑だった。ドラゴンは、我々の想定以上に人類という種は脆いものらしい、と独りごちる。
ドラゴンは即座に反応した。背中の周囲を四枚の透明な翼で分厚く覆い、真空を遮断する繭を作り上げる。急速に温度が安定するのを感じる間もなく、ドラゴンは残る二枚の翼を強烈に打ち下ろした。世界が歪むような加速とともに、彼らは一気に漆黒の宇宙へと突き抜けていった。
暫く飛行してから、ドラゴンは疑似声音上でため息をついた。
「人類はもろい存在だ......啓典の主は何故に人類を塵からおつくりになったのか......あまりにもろい.......心も体も......それなのに、我々御使いたちが嫉妬してしまうほどに啓典の主から愛されているとは......」
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ドラゴンは、かつてシムーン33が集結していたラグランジェポイントへと針路を取った。視界の先には、巨大な人工構造物が浮かんでいる。惑星アクサルからでもその輪郭を視認できるほどの巨体。それは、まるで漆黒の宇宙にへばりつく幾本もの触手をうねらせた巨大な蛸を思わせる姿だった。砲塔らしき兵器は見当たらない。だが、その悍ましい形状そのものが、アフマドたちに「あれこそが敵である」という本能的な恐怖を突きつけていた。
「あの巨艦たちは、70000メートル超級の補給艦だろう……補給を行った後に空となって打ち捨てられたのだろうな......エネルギーはもうないだろう......ただし、宇宙艦隊の一員であったから、宇宙空間航行用の何かシャトルかカプセルのようなものがあると思うのだが.......」
ドラゴンが言うように、巨大な補給艦船群は、遥か前方に漂うように見えた。
「不思議ね……あの巨艦たちは、惑星に落ちていくことがないのかしら......」
ハディージャが不思議そうに周囲の巨艦たちの威容に圧倒されながら、疑問を口にした。アフマドはそんなハディージャに自慢するように声をかけた。
「このあたりは、ラグランジェポイントだからね!」
アフマドはここぞとばかりに知的な顔を作った。だが、即座にハディージャの素朴な問いかけが続いた。
「で、それって何なの?」
アフマドの顔面はみるみるうちに蒼白になっていく。空中でその様子を見ていたドラゴンは、思わず小さく鼻を鳴らした。人類という種は、死の際でもこうして背伸びをするものらしい。
「あら、なによ! 知ったかぶりして!」
ハディージャの鋭い追及に、アフマドは言葉を詰まらせ、完全に居心地が悪そうに身をすくめた。
「あのな、あの辺りに巨艦たちが漂っているのは、ラグランジェポイントと言って、複数の天体の引力や遠心力がちょうど釣り合う場所だからだよ」
「……うん、知ってたよ!」
アフマドは顔を真っ赤にして即座に被せた。しかし、ハディージャは鼻で笑う。
「嘘よ! さっき名前を聞いた時、釣り合うなんてことすら知らなかったくせに! いい加減なこと言って私を煙に巻こうなんて、最低!」
「ち、違うってば!」
二人のちょっとした口論が熱を帯び始めたところで、ドラゴンは翼を大きく揺らし、二人の注意を前方の巨艦たちへ引き戻した。
「二人とも、よく見ろ。砲塔がないのは補給艦である証拠だ」
ドラゴンはそう言って、翼をわずかに動かした。
「補給艦が七万メートル超級の巨体である以上、魔族はこの障害物のない空間に、天を覆い尽くすほどの大艦隊を集結させていたはずだ」
「大艦隊……確かにアクサルを幾度も蹂躙した敵ですから……ですが、本当にこの宙域に?」
アフマドの疑問に、ドラゴンは静かに応じる。
「あの艦隊の打撃艦ですら三千メートル級だ。それらを支える巨体補給艦がこれほど多数放置されている状況を見れば、ここに大艦隊が滞留していた事実は動かしがたい」
「う、うん……」
アフマドもハディージャも、押し黙った。圧倒的な規模の記録を目の当たりにし、自分たちがどれほど世界について何も知らなかったかを、冷徹に突きつけられた気分だった。
二人は戦慄に押し黙っていたが、ドラゴンは淡々と解説を続けた。
「あの宇宙艦の形態をよく見てみろ。無数に伸びる脚と、その付け根に穿たれた巨大な『口』……あれは単なる船ではない。征服した人類の艦船や居住施設から、中身だけを効率よく吸い出すために進化した『捕食器官』なのだよ」
ドラゴンは疑似声音に冷ややかな響きを混ぜた。その後、ドラゴンは宇宙空間を亜光速で移動しながら、目の前に広がる様々宇宙空間の光景を説明しつづけた。そんな疑似声音がシェイベットを通じてアフマドやハディージャの頭の中に響いていた。
どのくらい飛び続けたのだろうか、ドラゴンはラグランジェポイントに行き着いたところだった。彼らの周囲には、無人のまま乗り捨てられたように漂っていた。やがて、ドラゴンは一隻の蛸足型宇宙艦へと近づいて行った。
その巨体は、ドラゴンが近づくほど全体が見えなくなった。その代わりに蛸足に囲まれた口のような位置に、出入り口が見えてきた。
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「食べ物はあるのかな?」
アフマドは無邪気にそう言った。彼の楽観的な見通しに、ドラゴンはたしなめるように声を出した。
「あまり期待しない方がいいぞ……奴らは人類を襲い続けて......その場その場で人類を犠牲にして命をつないで生きていたのだから、食料という特別なものは初めから用意していないだろうさ」
「そんなあ.......ハディージャなんかさっきからお腹が鳴っていて、とっても気になるんだよ」
アフマドの指摘に、ハディージャは顔を真っ赤にさせた。
「アフマド! わざわざそんなことを指摘しなくてもいいわ」
「だって、あんまりグーグーなっているから、大変だなあと思ってさ」
無邪気に振り返ったアフマドの視線の先には、羞恥と怒りで真っ赤になったハディージャがいた。ドラゴンのチカから見れば微笑ましい光景だが、当のアフマドにすれば、眼前の少女は猛獣にも等しい。
目が泳ぎまくるアフマドを見て、ハディージャの怒りが臨界点を超える。
「『大変だなあ』って、どういう意味よ!」
「い、いや……音が大きいから、その、心配で……あっ」
アフマドは口を滑らせたことに気づき、顔を青ざめさせる。しかし、時すでに遅し。
「へえ、『音が大きい』ね! さっきから私を馬鹿にしてるでしょう!」
「いや、馬鹿にしてないよ!」
「ドラゴンのチカはいつも優しく接してくれているのに......」
「僕だって、気を使っているよ!」
ドラゴンのチカは、背中の二人のやり取りを少し可笑しく思いながら聞いていた。死と隣り合わせの空間で、こうして他愛のない喧嘩ができることは、人類という種が持つ不思議な強さかもしれない。
だが、アフマドの無神経な一言が、ハディージャの逆鱗に触れた。
「『気を使っている』って、どういう意味よ!」
ハディージャの鋭い追及に、アフマドはますますパニックに陥る。
「だって、怒ると怖いから……あっ」
「へえ、私が怖いわけ?」
ハディージャの瞳に宿る冷ややかな光を見て、チカは思わずため息をついた。これは、しばし長引きそうである。
「ああ、そうか。怒ってるんじゃなくて、ただの不機嫌か。空腹でイライラしてるだけなんだね」
「……そんな言い方、しなくてもいいでしょ」
「だって事実だろ? 女の子なのに、年中お腹を空かせてるなんて」
アフマドは屈託なく笑って、ハディージャの複雑な心境には全く気づいていない。
「……女の子だから何よ」
ハディージャは努めて声を荒らげた。本当は「どうして私の気持ちを分かってくれないの」と言いたかった。けれど、強がれば強がるほど、アフマドとの間には冷たい距離が生まれていくようで、胸が締め付けられる。
「いや、僕の知ってる女の子たちは、もう少しこう、可憐というか……まあ、手のかからない子たちだったかな」
無神経に放たれた言葉が、ナイフのようにハディージャの心を刺した。
「そうよ、私はアフマドの知ってる『可憐な女の子』じゃないわよ!」
ハディージャの声は湿っぽくなった。チカは心配そうに二人を振り返った。他方、アフマドは調子に乗っていた。
「あ、だって、年中お腹が減っているじゃないか?」
「そんなことないもん!」
「いや、そうだ」
「そうかもしれないけど......でも、私今成長期だから」
ハディージャが反論する気も失せたのか、すっかり声の調子を落としてしまった。この時、不思議なことに、アフマドが慌てたように声の調子を変えた。同時に、彼は急に顔を真っ赤にしてハディージャから顔をそむけた。
「うっ......わかった......ハディージャ……あのう......成長しているのは.......わかったから......そんなに体をくっつけないでくれないか」
アフマドは引き攣った声でそう言った。ハディージャの体温が、冷え切った宇宙空間の中で妙に熱く、彼を追い詰める。
「え!」
ハディージャの体がぴくりと跳ねた。彼女もまた、自分たちの身体が信じられないほど密着していることに今さら気づき、心臓が早鐘を打つ。離れようとすればするほど、閉ざされた空間の中で互いの意識が絡まり合い、逃げ場を失っていく。
「あの......僕を困らせようとして、体をくっつけに来たのか? そ、それは困る....」
「そ、そんなつもりはないわ」
この時になって、二人はようやく、二人を包んでいるドラゴンの身体がどんどん小さくなっていることに気付いた。
「二人の愛情の在り方で、私の身体は大きくも小さくもなるんだよ」
チカは溜息混じりにそう付け加えた。
「こういうのもなんだが....…あまり本気でけんかをしないでくれるかなあ...…二人とも......愛し合い許し合う間柄の仲にあっても、互いに遠慮や限度というものがあることを知ってくれないか? 『親しき仲にも礼儀あり』だぞ」
こういうと、ドラゴンのチカは航行速度を上げた。
(……二人の甘酸っぱい空気に当てられるのは、この身には少々刺激が強すぎる......)
かつていくつもの時代を見てきた古強者のドラゴンでさえ、この年頃の人類が抱える熱だけは、いつも持て余して、苦労させられてきたのだった。
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「……寒い」
ハディージャの呟きは、凍てつく艦内ではすぐに白く霧散した。吐く息が瞬時に氷の粒となって舞うほどの冷気。睫毛にまで霜が降り始めている。広大すぎる艦内は静まり返っており、二人の靴音だけが、まるで墓標の中を歩いているかのように寂しく響いた。
格納庫、艦橋、居住区――艦内の至る所を調べたが、どこを巡っても、あるのは無機質な機械の残骸と、吸い込まれるような闇だけ。魔族の気配は消え失せ、残されているのは彼らが惑星へと向かったことを示す無言の痕跡だけだった。
「シャトルはあったけど、あとは何もないよ」
「もう、歩けない……」
アフマドの声も震えていた。ハディージャは極限の疲労と冷気で、すでに意識が朦朧としている。
(人類というものは、これほどまで脆いものか)
チカは溜息とともに、冷え切った二人の体を優しくシャトルの中へと運んだ。ドラゴンにとっては児戯に等しい冷気も、彼らにとっては命を削る凶器だ。
チカは自らの巨大な体躯を外郭のように広げると、シャトルを囲い込んだ。黄金の鱗が熱を帯び、凍てつく艦内に小さな「命の繭」を作り出す。二人はその温もりに導かれるように、深い眠りへと落ちていった。
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「あの、これはなんだろうか?」
目覚めて外へ出たアフマドが見つけたのは、巨大な倉庫の横に設けられていた調理台のような装置に取り付けられたパイプの集合体のようなものだった。それ等の設備は、調理台のように見えた台に、何かを配送して排出するものに見えた。その中で彼らの目を引いたものは、それらの設備の傍らにあったプレートの文字の羅列だった。
「ナシュ・ヴラディカ! ティポズナフシィ スタドヌユプリロードゥ リュジェー スゴニャーエシ イフヴォエディーノ パスョーシイフ スローヴナスコート イ イスポリズエシ イフプロチ イドゥーフ ヤヴリャーヤ ヴトム モシスヴォユ オグラジ イヴェジナス クレプコ! クレプコ! クレプコ! デルジ ナスフ スヴォエイヴォレ......」
二人の声が重なった瞬間、艦内の空気が重く澱んだ。
馴染みのある祈りのフレーズとして記憶していたはずの言葉が、鋼鉄の艦内に吸い込まれ、波紋となって広がる。直後、足元の床が低く唸りを上げた。かつて神殿で感じた「神聖な補給」の気配とは明らかに違う、油分を含んだ冷たい機械音が艦内を反響する。
「……動いた?」
「……どうしよう。私たちが唱えたから、反応したの?」
ハディージャの顔から血の気が引いた。アフマドもまた、調理台から距離を取ろうと足を引きずるが、機械の吐き出す駆動音は次第に高まっていく。
「これって、詠唱の言葉がつづられたプレート....ここは、ブーバル族の神殿で見たことのある補給ポイントに似ている」
「あの言葉は......確か人類の言葉では、『「われらが守護神よ、人間を雷同させて導き、人間を飼い、人間を活用し、それにより力を現わされる守護神よ、強く、強く、強く守り導き給え』という意味だったはず......」
アフマドとハディージャが調理台から離れつつ調理台を観察していると、そこには人間だった頃の面影を歪なまでに失った、乾燥した塊が転がり出て来た。
それを見た途端、ドラゴンのチカが激高した。黄金の翼が逆立ち、弾かれたようにその設備ごと火炎で焼き払う。猛火が艦内を照らし、あの「干物」が断末魔のような音を立てて灰へと還っていく。
「……チカ?」
ハディージャの震える声に、ドラゴンは静まり返った艦内で、絞り出すように答えた。
「あれは、魔族たちがお前たちのような人類を搾取した結果物だ……生命エネルギーを保持した人体そのものを真空下で凍結乾燥させ、兵糧に変えていたのだ......魔族たちは、人間たちの生命エネルギーに彼ら独特の何かを合わせて活用していたと見える.......口にもしたくないものだが、「渦動」もしくは「禍動」と呼ばれるものだ……それ等は摂取されて使われると、「輪廻」とよばれる蘇りを経て作り返し使い回される」
ドラゴンは、苦々しく感じながら説明をつづけた。それを聞いたアフマドが、顔をハッとさせて声を上げた。
「僕、知ってる……! 確か、生命維持のためのシステムのことだよね」
アフマドは、必死に記憶の糸をたぐり寄せる。
「体の中に、エネルギーを取り込んで外へ出す仕組みがあって……その内部の『エントロピー』を一定に保つもの……確か、すごく小さな場所に詰め込まれた、エネルギー生産工場みたいなものだって教わった気がする」
ドラゴンの瞳が、驚きに細められた。
「そうだ、アフマド、鋭い洞察だな......少なくともお前たちは、啓典の主から賜る『息吹』によって、それらのシステムを維持しているはずだ」
ドラゴンがアフマドをほめたので、ハディージャがアフマドに対抗するようにに、手を挙げてドラゴンにアピールした。
「啓典の主から賜る『息吹』は、私たちにとって絶えず魂を新たにしてもらうために必要なものですね……それが彼らと彼らを支配する存在には、余計なものになるのでしょ?」
「ハディージャ、その通りだ……だが、魔族たちは違う。彼らは生命の『息吹』を持つ代わりに、『禍動』という呪いを回し続けているのだ」
ドラゴンは吐き捨てるように言った。
「殺戮、色欲、貪欲、そして嫉妬、それら負の情動こそが『禍動』なのだよ……彼らにとっての『輪廻』とは、『渦動』をなんとか活性化させ、絶え間なく続く負の情動を再利用しているに過ぎない……だからこそ彼らは亡き先祖たちから使い切った『渦動』を何とか引き出して活性化するために、複雑に入り組んだ呪文を様々に組み合わせて唱え、人類の若々しく清らかな生命エネルギーを喰らって『渦動』を活性化させる……彼らはこのようにして、この凍りついた空虚の中で、あの「干物」を乾物のように貪り食うのだ」
ドラゴンと二人は、その後、呪文の代わりに「啓典の父より賜わる日々の糧に感謝」という短い祈りの言葉を一言唱えると、後は沈黙して目をつぶった。
沈黙の中で唱えた短い祈りは、冷え切った艦内の空気を震わせ、かすかな光を生んだ。
空腹の極限で幻視した啓典の主の姿――それは弱き人間の姿で苦難を受け、そして復活したという、彼らの信仰の根源だった。その光景が脳裏を過った瞬間、二人の空腹と絶望は、言い知れぬ安らぎへと昇華されていく。まるで、凍てついた鋼鉄の牢獄が、一瞬だけ聖なる神殿へと書き換えられたかのような静寂があった。
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しばらくすると、ハディージャのシェイベットが淡く輝いたかと思うと、その空間に不思議なビスケットが現れた。コエンドロの刺激臭が鼻をくすぐる。それは決して華やかな料理ではなかったが、二人はそれが「啓典の父」から差し出された慈悲であることを直感し、震える手で口にした。
一口。たったそれだけで、乾ききった身体の奥底までが、奇妙な熱と満腹感で満たされていく。それは、単なる栄養摂取を超えた「命のつなぎ」であった。
わずかな量で満腹を覚えた二人に、ドラゴンは再びシャトルの中へ入るように促した。
「アフマド、ハディージャ、二人とも、よく聞いてくれ......この近くの生存可能な星系へ向かおうと思うのだが、シャトルでは無理だ.......他方、この巨艦にはほとんど推進エネルギーが残っていない......つまり、この巨艦を亜光速で航行させて、目的の星系へと向かおうと思っている.......ただ、最低でも数百年ほどの年月を要する見込みだ......だから、二人はこのシャトルの中でしばし冬眠してもらおうと思っている……不安に感じることはない。シェイベットが二人の傍らにある限り、それと私が、必ず二人を守り抜く」
ドラゴンはそう約束すると、二人をシャトルの奥深く、安全な繭へと誘導した。
ドラゴンは、二人をシャトルで冬眠させると、そのまま巨体補給艦を動かして最も近くにある星系へと動かし始めた。やがて、巨艦が深宇宙の航行を開始する。1000年という気が遠くなるような時空の旅。しかし、二人が眠るシャトルはドラゴンの鱗に守られ、時を止めたまま静かに流転する。
ドラゴンもまた、二人と同じ揺りかごの中で目を閉じた。アンスロラス星系の未来へ向けて、三つの命を乗せた鋼鉄の揺りかごは、暗黒の海を静かに滑り出していった。
彼らが向かったアンスロラス星系は、後に「アンスロピグモス(anthropigmos)星系」と呼ばれるようになる種族Ⅰ型の主系列恒星系であり、その第4惑星アンスロラスは人類たちの惑星だった。彼らが出発した時点では、そうだった。




