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はじまりの音  作者: Randa
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9/15

第九章 重なる音、重ならない想い

 気づけば世間はすっかり秋の様相を呈していた。

 大学も夏休み気分がすっかり抜け、日常を取り戻していた。

 講義。

 昼休み。

 サークル。

 そして、帰宅。

 合宿という濃密な1週間を経験したあとだと、以前と同じ毎日が妙に薄く感じられた。

 けれど。

 そんな日常の中にも、以前とは少し違うものがあった。

「景」

 講義が終わって教室を出ると、廊下の壁際に桜子が立っていた。

「待ってたのか?」

「うん」

 桜子はいつものように控えめに笑う。

「お昼一緒に食べない?」

「ああ」

 それだけのことで、桜子の顔が少し明るくなった。

 俺たちは並んで歩き出した。

「今日の講義、難しかったね」

「途中から先生が何言ってるか分からなくなった」

「景も?」

「俺だけじゃなかったのか」

「ふふ」

 桜子が笑う。

 こういう何でもない会話が、最近は増えていた。

 以前なら、桜子と二人で歩くと少しだけ意識していたかもしれない。

 今は違う。

 気を遣わない。

 沈黙しても苦しくない。

 桜子が何か話せば聞くし、俺がくだらないことを言えば笑ってくれる。

 とても居心地のいい関係だった。

「景」

「ん?」

「この前、一緒に出かけたときの写真なんだけど」

 桜子がスマートフォンを取り出した。

「これ、見て」

「……いつ撮ったんだよ」

「景が飲み物買ってるとき」

「勝手に撮ったのか?」

「だって、景が珍しく笑ってたから」

 画面には、紙袋を片手にこちらを振り返っている俺が写っていた。

「消していいぞ」

「嫌」

「なんで?」

「気に入ってるから」

 桜子はそう言ってスマートフォンを胸元へ引き寄せた。

 その仕草が妙に可愛らしく見えて、俺は何も言えなくなった。

「……じゃあ、好きにしろ」

「うん」

 桜子はほんのり笑った。

     *

 昼食のあと、桜子と別れてサークルへ向かった。

 教室では、すでに何人かが楽器を準備していた。

「景、お疲れ」

「お疲れ」

 俺もケースを開く。

 合宿を経験してから、練習の雰囲気が少し変わった。

 以前よりも互いの音を聴くようになった気がする。

 特に俺自身、周囲の音に意識を向けるようになっていた。

「景」

 葵が声をかけてきた。

「今日、少し早く来たんだね」

「ああ。葵も?」

「うん」

 葵は譜面台を立てながら笑った。

「この前のところ、もう一回合わせてみない?」

「いいよ」

 合宿以来。

 俺と葵は、以前よりも一緒に練習することが増えていた。

 特別な約束をしているわけではない。

 練習が終わったあと、自然と残っている。

 誰かに頼まれたわけでもないのに、互いの音を確認する。

 そんな時間が当たり前になっていた。

「じゃあ、ここから」

「うん」

 音を出す。

 葵の音を聴く。

 自分の音を重ねる。

 少しずれる。

「今、俺が早かった?」

「ううん。私が遅れた」

「いや、俺だと思う」

「じゃあ、もう一回」

「ああ」

 また弾く。

 今度は合った。

「……今の」

 葵が顔を上げる。

「よかったね」

「ああ」

 その瞬間。

 言葉では説明できない何かが、ぴたりと重なった気がした。

 音楽をやっていて、たまにこういう瞬間がある。

 自分が相手に合わせるのではない。

 相手が自分に合わせるのでもない。

 ただ、二人の音が自然に一つになる。

「景と弾くと、合わせやすい」

 葵が言った。

「俺も」

「本当?」

「ああ」

 葵は少し照れたように笑った。

「じゃあ、これから上達するかもね」

「そうだな」

「一緒に」

 その言葉が、なぜか胸に残った。

     *

 それからしばらく。

 俺と葵は、練習のたびに一緒にいる時間が増えていった。

 音楽の話をする。

 好きな曲の話をする。

 演奏の癖を話す。

 時には大学の講義の愚痴まで言い合う。

 気づけば、音楽以外の話も自然にできるようになっていた。

「景ってさ」

「ん?」

「一人でいるの好き?」

「まあ、嫌いじゃない」

「私も」

「そうなのか?」

「うん。でも」

 葵は少し考える。

「好きな人と一緒にいる時間も好き」

 俺は一瞬、言葉に詰まった。

「……そう」

「うん」

 葵はそれ以上何も言わなかった。

 俺も聞かなかった。

 聞いてしまえば、何かが変わってしまいそうだった。

     *

 そんなある日の昼休み。

「景!」

 廊下から桜子の声がした。

「ん?」

「一緒に食べよう」

 桜子が弁当を持って立っていた。

「いいぞ」

 俺が立ち上がると、桜子は嬉しそうに笑った。

「今日は私が作ったんだ」

「弁当?」

「うん」

「珍しいな」

「いつも作ってるよ」

「そうだったか?」

「景が気づいてなかっただけ」

「……そうなのか」

「そう」

 桜子が笑う。

 中庭のベンチで弁当を広げる。

「はい」

「何?」

「卵焼き」

「俺に?」

「うん」

「いいのか?」

「もちろん」

 一つもらって食べる。

「うまい」

「本当?」

「ああ」

 桜子が嬉しそうに笑う。

「よかった」

 それだけなのに、桜子は本当に嬉しそうだった。

「また作ってくるね」

「無理しなくていいぞ」

「無理じゃないよ」

 桜子は箸を動かしながら、少しだけ俯いた。

「景に食べてもらえるなら」

 俺は何も言えなかった。

 桜子は顔を上げる。

「……嫌だった?」

「いや」

 俺は首を振った。

「嬉しいよ」

 桜子の顔が赤くなる。

「……なら、よかった」

     *

 その日の講義終了後。

 玲子が桜子を迎えに来た。

「桜子、帰るよ」

「あ、うん」

 玲子は俺を見る。

「景」

「何?」

「今日も一緒だったんだ」

「ああ」

「ふーん」

 以前なら、そこに露骨な警戒心があった。

 けれど最近は、それほどでもない。

「何だよ」

「別に」

「言いたいことがあるなら言えよ」

「……あんたさ」

 玲子は腕を組んだ。

「桜子のこと、ちゃんと大事にしてる?」

 突然の質問だった。

「大事にしてるつもりだけど」

「つもり?」

「……できるだけ」

 玲子は少し考えた。

「まあ」

 そして小さく息を吐いた。

「前よりは信用してもいいかなって思ってる」

「前は?」

「最低男」

「ひどいな」

「だって桜子泣かせたじゃん」

「……それは」

 言い返せなかった。

 玲子はそんな俺を見て、少しだけ笑った。

「でも、あんたって意外と逃げないよね」

「何から?」

「面倒なことから」

「逃げたいけど」

「でも逃げないじゃん」

「……まあ」

「そこはちょっと見直した」

 玲子はそれだけ言って、桜子の腕を取った。

「じゃ、またね」

「ああ」

 桜子も手を振る。

「また明日」

 二人が歩いていく。

 俺はその背中を見ながら、玲子の言葉を考えていた。

 信用してもいい。

 それは、たぶん以前なら絶対に言われなかった言葉だ。

     *

 その夜。

 大学から帰る途中、駅で涼子さんに会った。

「あら、景くん」

「涼子さん」

「お疲れさま」

「涼子さんも」

 隣には静ちゃんがいた。

「こんばんは、景くん」

「こんばんは、静ちゃん」

「今日も大学?」

「ああ」

「大変ですね」

「まあな」

 静ちゃんは少しだけ笑った。

 涼子さんが俺の顔を覗き込む。

「なんだか疲れてる?」

「ちょっとだけ」

「じゃあ、帰ったらちゃんと休まなきゃ」

 そう言いながら、涼子さんの手が俺の腕に触れた。

「……涼子さん?」

「何?」

「いや」

 距離が近い。

 前からそういう人ではある。

 分かっている。

 分かっているのに、慣れることはない。

「景さん」

 静ちゃんが俺を見る。

「お母さん、近い」

「あら」

 涼子さんが笑った。

「そう?」

「近い」

「そうかしら」

 静ちゃんは少し呆れた顔をする。

 けれど、その表情にはどこか楽しそうな色もあった。

「じゃあ、景くん。またね」

「ああ」

 涼子さんと静ちゃんは先に歩いていった。

 俺はその背中を見送る。

 相変わらず、楽しくて優しさに溢れる人たちだった。

     *

 そして。

 俺にはもう1つ、誰にも話していない関係がある。

 メグミ先輩との関係だ。

 以前の俺なら、先輩と会えるだけで舞い上がっていた。

 今は違う。

 先輩が俺を恋人として見ていないことは分かっている。

 それでも。

 2人で過ごす時間は、以前より増えていた。

 先輩の方から連絡が来ることも多くなった。

『今日、少し会える?』

 そんなメッセージが届く。

 俺は迷いながらも会いに行く。

 2人きりになれば、先輩は以前より自然に俺へ触れてくる。

 俺もそれを拒まない。

 ただ。

 もう、それを恋だとは思っていなかった。

 先輩にとって俺がどういう存在なのか。

 その答えを、俺はもう知っている。

 それでも先輩と過ごす時間は、俺にとって特別だった。

「景くん」

「はい」

「最近、よく笑うようになったね」

「そうですか?」

「うん」

 先輩は嬉しそうに笑う。

「その方がいいよ」

「先輩のおかげかもしれません」

「そう?」

「はい」

 それは嘘ではなかった。

 恋人にはなれなくても。

 俺は先輩から、たくさんのものをもらった。

 恋をすること。

 誰かを好きになること。

 そして。

 好きでも、手に入らないものがあること。

 それを知ったからこそ、今の俺がいる。

「景くん」

「はい」

「また会おうね」

「……はい」

 先輩が笑う。

 俺も笑った。

     *

 翌週。

 サークルの練習が終わったあと、俺と葵は2人で音楽室に残っていた。

「もう一回だけ」

「まだやるの?」

「あと1回」

「それ、3回目」

「じゃあ、本当に最後」

「ふふ」

 葵が笑う。

 俺たちは楽器を構えた。

 音を出す。

 互いの音を聴く。

 呼吸を合わせる。

 そして。

 最後の音が静かに消えた。

「……今の、好き」

 葵が言った。

「俺も」

「なんか、合宿のときよりずっと合うようになったね」

「ああ」

「練習したからかな」

「それだけじゃないと思う」

「じゃあ、何?」

 俺は少し考えた。

「相手のことが分かるようになったからじゃないか」

 葵が黙った。

「……そうかも」

 その声は小さかった。

 窓の外を見ると、夕焼けが大学の建物を赤く染めていた。

「景」

「ん?」

「これからも一緒に弾こうね」

「ああ」

「ずっと」

 その言葉に。

 俺はすぐに答えられなかった。

 ずっと。

 そんな約束をしていいのだろうか。

 桜子のこと。

 メグミ先輩のこと。

 そして、自分自身の気持ち。

 全部を整理できていない俺が。

 それでも。

「……うん」

 俺は答えた。

「これからも一緒にやろう」

 葵は笑った。

 その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。

     *

 帰り道。

 スマートフォンが震えた。

 桜子からだった。

『明日、一緒にお昼食べない?』

 俺は少し考えてから返信する。

『いいよ』

 すぐに返事が来た。

『よかった』

 たったそれだけ。

 なのに。

 俺は少し笑ってしまった。

 その直後、別の通知が届く。

 葵だった。

『今日はありがとう。楽しかった』

『俺も』

 送信する。

 さらに数分後。

 メグミ先輩からもメッセージが届いた。

『また時間ができたら会おうね』

 俺は画面を見つめた。

 桜子。

 葵。

 メグミ先輩。

 そして、涼子さんや静ちゃん。

 少し離れたところには玲子や崇もいる。

 気づけば俺の周りには、以前よりずっと多くの人がいた。

 その中で。

 それぞれが違う形で、俺の人生に関わっている。

 俺はまだ、誰を選ぶのか決められない。

 いや。

 決めようとしていないのかもしれない。

 怖いのだ。

 一人を選べば、他の誰かを傷つける。

 だから今は。

 このままでいい。

 そう思っていた。

 ただ。

 少しずつ。

 俺の中でも何かが変わり始めていた。

 音楽を通して、葵といる時間が増えていく。

 桜子との時間も、穏やかに積み重なっていく。

 メグミ先輩との関係も、まだ終わってはいない。

 玲子も、俺を見る目を少しずつ変えている。

 何も決まっていない。

 だからこそ。

 これから何が起きるのか、俺自身にも分からなかった。

 秋の風が吹く。

 俺はスマートフォンをポケットにしまった。

 そして。

 明日もまた大学へ行く。

 いつもの講義。

 いつものサークル。

 いつもの仲間。

 その「いつも」の中で。

 きっとまた、何かが少しずつ変わっていく。

 そんな気がしていた。


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