第八章 同じ場所、違う時間
大学生活というのは、思っていたよりも忙しい。
講義に出て、課題をこなして、友人と昼飯を食べて。
その合間にサークル活動が入る。
気がつけば一日が終わっていて、帰宅してからようやく、自分が何を考えていたのかに気づくこともある。
最近の俺は、特にそうだった。
桜子のこと。
葵のこと。
そして、まだ完全には消えていないメグミ先輩への想い。
どれも、答えを出そうとすればするほど、余計に分からなくなる。
だから俺は、考えるのをやめることにした。
少なくとも、今は。
「景」
大学の門をくぐったところで、後ろから声をかけられた。
振り返る。
「おはよう」
「おう、崇」
大森崇だった。
「今日、一限?」
「ああ」
「俺は二限から」
「じゃあ、なんでこんな時間に来てるんだ?」
「お前と朝飯食おうと思って」
「朝から?」
「悪いかよ」
「別に」
2人で大学近くの店へ向かう。
コーヒーを飲みながら、崇は講義の話や最近の課題の話をする。
いつものことだった。
「そういや」
崇が何気なく言った。
「桜子、最近忙しそうだな」
「そうなのか?」
「ああ。授業の課題とか、いろいろあるみたいだ」
「へえ」
「お前はどうなんだ?」
「俺?」
「桜子と」
「……何が?」
「いや、別に」
崇は笑って誤魔化した。
*
昼休み。
講義が終わって食堂へ向かう途中、桜子を見つけた。
「桜子」
「あ、景」
桜子は振り返ると、柔らかく笑った。
「お昼?」
「ああ」
「一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
二人で食堂へ向かう。
「そういえば」
桜子が言った。
「この前の日曜日、楽しかったね」
「ああ」
「また行きたい」
「いいぞ」
「……本当?」
「なんでそんなに驚くんだよ」
「だって……」
桜子が俯く。
「景と二人で出かけるの、好きだから」
俺は少しだけ困った。
桜子は、こういうことを時々さらっと言う。
本人にとっては、たぶん大したことではない。
でも。
俺にとっては、そうでもない。
桜子が俺に特別な感情を抱いていることは気づいている。
だからこそ、何気ない言葉にも意味を考えてしまう。
「じゃあ、また行こう」
「うん」
桜子は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、やっぱり可愛いと思う。
派手なタイプではない。
むしろ、目立たないようにしている。
けれど、こうして近くで見ると、整った顔立ちをしていることがよく分かる。
長い黒髪が肩から背中へ流れている。
笑うと目元が柔らかくなる。
そして何より、嬉しいときに、それを隠しきれない。
そんなところが桜子らしい。
「景?」
「ん?」
「また考え事?」
「いや」
「最近、多いよ」
「そうかな」
「うん」
桜子は少し心配そうに俺を見る。
「無理してない?」
「大丈夫」
「ならいいけど」
その優しさが、少しだけ胸に刺さった。
その後崇が合流し、いつもの昼食になった。
*
夕方からはサークルだった。
音楽室に入ると、葵が譜面を確認していた。
「あ、景」
「早いな」
「景が遅いだけ」
「まだ開始時間前だぞ」
「でも私のほうが早い」
「はいはい」
楽器を準備する。
いつものように音を合わせる。
弦の音が重なっていく。
練習が始まれば、余計なことを考えなくて済む。
俺は音楽に集中した。
葵も真剣な顔で譜面を追っている。
練習の合間。
「ねえ、景」
「ん?」
「今度の日曜日、暇?」
「日曜?」
「うん」
「特に予定はないけど」
「じゃあ、一緒に買い物行かない?」
俺は一瞬、桜子とのことを思い出した。
でも、それとは別だ。
「いいよ」
「本当?」
「ああ」
「よかった」
葵が笑った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
俺は、葵が好きらしい。
その事実を、もう否定するつもりはなかった。
ただ。
誰にも言うつもりはない。
まだ。
*
その週の土曜日11時。
俺はメイツ馬場101号室の前に立っていた。
「景くん」
ドアが開く。
「どうも」
「待ってたよ」
涼子さんが笑った。
「今日は手巻き寿司だからね」
「聞いてます」
「いっぱい食べてね」
「はい」
部屋へ入る。
テーブルの上には、すでに色とりどりの具材が並べられていた。
刺身。
卵焼き。
きゅうり。
大葉。
ツナ。
納豆。
いくらまである。
「すごいですね」
「ちょっと張り切りすぎちゃった」
「ちょっとじゃないだろ」
隣から崇が言う。
「俺も手伝ったんだからな」
「崇も来てたのか」
「俺、隣だぞ」
「そうだった」
「忘れるなよ」
その横では、静ちゃんが皿を並べていた。
「こんにちは、景くん」
「こんにちは、静ちゃん」
静ちゃんは中学2年生。
まだ制服姿のほうが見慣れているせいか、私服姿を見ると少し新鮮に感じる。
「手伝ってたの?」
「うん」
「偉いな」
「これくらい普通だよ」
そう言いながらも、静ちゃんは少し嬉しそうだった。
「景くん、何食べる?」
「俺? マグロかな」
「やっぱり。マグロこっち」
静ちゃんが皿を近くへ寄せてくれる。
「ありがとう」
「うん」
静ちゃんが笑った。
その様子を見ていた涼子さんが、くすっと笑う。
「静ちゃん、景くんのことよく見てるね」
「お母さん!」
静ちゃんは少し頬を膨らませた。
俺は笑う。
「静ちゃん、ありがとうな」
「……うん」
静ちゃんの顔がまた少し明るくなった。
中学生らしい、素直な反応だった。
*
「じゃあ、乾杯」
グラスを合わせる。
「いただきます」
それぞれ好きな具材を巻いていく。
「崇、それ何?」
「納豆、イカ、ネギ」
「絶対まずい」
「うまいって」
「俺は遠慮する」
「食わず嫌いはよくないぞ」
「お前が言うな」
笑い声が広がる。
静ちゃんも楽しそうに笑っていた。
「景くん」
「ん?」
「これ、美味しいよ」
静ちゃんが作った手巻き寿司を見せてくる。
「何入ってる?」
「卵とツナときゅうり」
「いい組み合わせだな」
「でしょ?」
「じゃあ、一個もらおうかな」
「うん」
静ちゃんが嬉しそうに頷く。
「いただきます」
「どう?」
「美味しい」
「よかった」
静ちゃんは満足そうに笑った。
涼子さんがその様子を見ている。
「静ちゃん、嬉しそう」
「お母さん、もういいから」
「はいはい」
涼子さんが笑った。
それから俺の隣へ移動してくる。
「景くん、これも食べる?」
「何ですか?」
「サーモンとアボガド」
「それは美味しそう。いただきます」
「はい」
涼子さんが俺の皿へ乗せてくれる。
そのとき。
肩が触れた。
「……」
俺は少しだけ固まった。
「どうしたの?」
「いや」
「顔赤いよ?」
「暑いんですよ」
「ふふ」
涼子さんが笑う。
「可愛いね、景くん」
「からかわないでください」
「からかってないよ」
そう言って、涼子さんが俺の肩を軽く叩く。
まただ。
涼子さんは、時々こうして距離が近い。
俺が意識してしまうことを、本人はわかっているのかいないのか。
「涼子さん、ちょっと近いです」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、少し離れる」
そう言いながらも、笑っている。
崇が呆れたように俺を見る。
「景、お前本当に弱いな」
「うるさい」
「何が?」
涼子さんが聞く。
「何でもないです」
「そう?」
涼子さんはまた笑った。
*
食事が終わる頃には、全員かなり満腹になっていた。
「食べすぎた」
俺が腹をさする。
「景くん、甘いもの食べる?」
「まだあるんですか?」
「プリン」
「食べます」
「はい」
涼子さんが冷蔵庫からプリンを出してくれる。
静ちゃんも一緒に食べる。
「静ちゃんは学校どう?」
「普通」
「部活は?」
「今は忙しい」
「中学生も大変だな」
「そうでもないよ」
静ちゃんは笑った。
「でも、勉強は嫌」
「それは分かる」
「景くんも?」
「俺も」
「大学生なのに?」
「大学生だって勉強するんだよ」
「へえ」
「なんだよ」
「ちょっと意外」
静ちゃんが笑う。
俺も笑った。
なんとなく、こういう時間が心地よかった。
恋愛とは関係ない。
大学とも関係ない。
ただ、同じアパートに住んでいる人間同士で飯を食って笑っているだけ。
それだけなのに。
妙に楽しい。
*
帰り際。
「景くん」
静ちゃんが玄関まで来た。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「また、こういうのやろうね」
「ああ」
「約束だよ」
「分かった」
静ちゃんは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、静ちゃん」
ドアが閉まる。
俺は自分の部屋へ戻ろうとした。
「景くん」
今度は涼子さんだった。
「はい?」
「今日は楽しかったね」
「はい」
「また来てね」
「もちろん」
「約束」
「分かりました」
涼子さんは笑った。
その笑顔には、どこか大人の女性らしい余裕があった。
俺は少しだけ目を逸らした。
涼子さんとの関係は、相変わらず曖昧だ。
近い。
近すぎる。
でも。
俺はそれも含めて仲本親子との関係性を好ましく思っていた。
*
自分の部屋へ戻る。
しばらくすると、隣から崇が訪ねてきた。
「なあ、景」
「ん?」
「お前さ」
「何?」
「本当に何も気づいてない?」
「だから何が?」
崇は頭を掻いた。
「……いや、いい」
「なんだよ」
「そのうち分かる」
「意味分からない」
崇は苦笑した。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
崇が戻っていく。
俺は1人になる。
今日もいろいろあった。
大学。
桜子。
葵。
アパート。
それぞれ違う場所なのに、全部が俺の日常になっている。
少し前まで。
俺は恋愛なんて、自分には関係ないと思っていた。
メグミ先輩への憧れだけで精一杯だった。
でも。
今は違う。
桜子がいる。
葵がいる。
そして、涼子さんや静ちゃんもいる。
自分の周りにいる人間が、少しずつ増えている。
その一人一人が、自分にとって違う意味を持ち始めている。
俺はベッドに横になった。
目を閉じる。
すると、葵の笑顔が浮かんだ。
その次に、桜子の笑顔。
そして、メグミ先輩。
「……参ったな」
涼子さんたちと濃密な時間を過ごしたせいで、逆に大学の人間関係に思いが向く。
今はまだ答えはまだ出ない。
出すつもりもない。
だが。
いつかは、ちゃんと向き合わなければならないのだろう。
そのとき、自分はどう選択するのか。
まだ忘れからない。
わからないけど。
今は。
明日また葵と会えることが、少し楽しみだった。
そして。
来週、桜子とまた出かける約束をしていることも。
そんなふうに。
俺の毎日は、少しずつ賑やかになっていた。




