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はじまりの音  作者: Randa
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第七章 近づくほど、遠くなる

 翌朝、大学へ向かう電車の中で、俺は昨夜のことを考えていた。

 玲子との会話。

 桜子のこと。

 そして、メグミ先輩のこと。

 どれも簡単に答えが出る話ではなかった。

 俺は恋愛が得意じゃない。

 いや。

 たぶん、苦手になった。

 以前は、好きになった人がいるなら、その人に振り向いてもらいたいと思っていた。

 けれど、メグミ先輩との関係を経験してからは、そう簡単には考えられなくなった。

 人を好きになることは、相手を手に入れることではない。

 好きだからといって、相手も同じ気持ちになるとは限らない。

 そんな当たり前のことを、俺は身をもって知った。

 だから今は、誰かに自分の気持ちを伝えることが怖い。

 桜子のことも。

 葵のことも。

 そして、まだ胸の奥に残っているメグミ先輩への憧れも。

 全部、俺の中だけにしまっておけばいい。

 そう思っていた。

「景」

 大学の門をくぐったところで、声をかけられた。

 振り向くと、桜子が立っていた。

「おはよう」

「おはよう」

 桜子はうっすらと笑った。

「昨日、ありがとう」

「何が?」

「メッセージ」

「ああ」

 昨日送った、何気ない一言。

『また今度、一緒に出かけよう』

 それだけだった。

「楽しかったからな」

「……うん」

 桜子は少し俯いた。

 それから、俺の隣を歩き始める。

「今日も一緒に行っていい?」

「もちろん」

「よかった」

 桜子は小さく笑った。

 こういうところが、ずるいと思う。

 何気ない一言。

 何気ない仕草。

 それだけなのに、こっちまで嬉しくなる。

「景」

「ん?」

「今度は、どこ行きたい?」

「俺?」

「うん」

「そうだな……」

 俺は考えた。

「映画はこの前行ったから、今度はどこか遠くに行く?」

「遠く?」

「電車で一時間くらい」

「いいね」

 桜子の顔が明るくなる。

「じゃあ、調べてみる」

「任せる」

「え?」

「桜子、こういうの好きだろ」

「……うん」

 桜子は少し複雑な顔で笑った。

「じゃあ、私が探す」

 その姿を見ていると、俺は思う。

 桜子は本当に可愛い。

 それは否定できない。

 もし俺が何も知らなかったら。

 もし俺が、もう少し単純な人間だったら。

 この笑顔を見て、好きになっていたのかもしれない。

 でも。

 俺の心には、すでに別の誰かがいる。

 葵。

 合宿で一緒に過ごした時間。

 練習で音を重ねた時間。

 疲れた夜にくだらない話をした時間。

 あの1つ1つが、俺の中に残っている。

 桜子といる時間が穏やかなら、葵といる時間はもっと生々しかった。

 楽しかった。

 嬉しかった。

 そして、もっと一緒にいたいと思った。

 その違いに、俺自身が気づいてしまっている。

「景?」

「ん?」

「どうしたの?」

「いや」

 俺は笑った。

「何でもない」

     *

 その日の昼休み。

 俺が食堂へ向かう途中、葵を見つけた。

「葵」

「あ、景」

 葵は手を振った。

「一緒に食べる?」

「うん」

 二人で並んで食堂へ向かう。

「そういえば、今度の日曜」

「ん?」

「この前言ってた買い物、行ける?」

「ああ。大丈夫」

「よかった」

 葵が笑った。

「何時にする?」

「景に合わせる」

「じゃあ、10時くらい」

「うん」

 それだけの会話なのに、俺は妙に嬉しかった。

 そんな自分が少しイヤになった。

 俺は、葵が好きだ。

 もう、認めるしかない。

 それでも、言わない。

 今はまだ。

 言ってしまえば、何かが変わる。

 変わってしまったら、今の関係には戻れないかもしれない。

 だから、今はこのままでいい。

「景?」

「ん?」

「なんか嬉しそう」

「そう?」

「うん」

 葵が俺の顔を覗き込む。

「何かいいことあった?」

「別に」

「怪しい」

「何もないって」

 葵は笑った。

「じゃあいいけど」

 その横顔を見ながら、俺も笑う。

 この時間が好きだった。

 誰にも邪魔されたくない。

 そんなことを思った瞬間。

「おーい!」

 遠くから声がした。

 玲子だった。

「何してんの、二人とも!」

「昼飯」

「見れば分かる」

 玲子は俺たちのところまで来ると、葵を見た。

「葵ちゃんだよね?」

「うん。赤坂さん?」

「玲子でいいよ」

「じゃあ、玲子ちゃん」

「ちゃん付け?」

「嫌だった?」

「いや、別に」

 玲子は笑った。

 それから俺を見る。

「景、ちょっと来て」

「何で?」

「いいから」

「今から飯なんだけど」

「桜子が待ってる」

「桜子?」

「そう」

 その一言で、俺は玲子についていくことにした。

 食堂の入口に桜子がいた。

「玲子、何してるの?」

「何って、景を連れてきた」

「景?」

 桜子が俺を見る。

「一緒に食べようと思って」

「……うん」

 桜子の顔が嬉しそうに緩む。

 俺は少し困った。

 葵を見る。

 葵は何も言わずに笑っていた。

「じゃあ、4人で食べる?」

 玲子が言った。

「わかった」

 葵が答える。

「桜子もいい?」

「うん」

 こうして、四人で昼食を取ることになった。

 妙な組み合わせだった。

 桜子は俺の隣。

 葵はその向かい。

 玲子は二人を眺めるような位置に座っている。

「そういえばさ」

 玲子が言った。

「桜子、日曜に景と出かけるんでしょ?」

「えっ」

 桜子が反応する。

「何で玲子が知ってるの?」

「昨日聞いた」

「言ったっけ?」

「言った」

「……そうだった?」

 桜子は困ったように笑った。

 葵が俺を見る。

「景、日曜って予定あるの?」

「ある」

「そっか」

 葵の声が少しだけ小さくなった。

 その変化に、俺は気づいた。

 でも何も言えなかった。

 玲子も気づいたらしい。

 ただ、何も言わない。

 桜子だけが饒舌に話している。

「今度、景と遠くに行こうって話してるの」

「へえ」

 葵は笑った。

「楽しそう」

「うん」

 桜子は本当に嬉しそうだった。

 俺はその顔を見て、少し胸が痛んだ。

 俺が曖昧な態度を取っているせいで、桜子は期待している。

 分かっている。

 それでも。

 この笑顔を壊す勇気がなかった。

     *

 昼食後。

 玲子が俺を呼び止めた。

「景」

「何?」

「ちょっといい?」

「また?」

「また」

 二人で人気のない廊下まで移動する。

「葵ちゃんのこと」

 玲子が言った。

「何?」

「あの子、景のこと好きなんじゃない?」

 心臓が跳ねた。

 けれど、俺は顔に出さなかった。

「さあ」

「……あんた、自分のことになると本当にカタいね」

「そうかな」

「そうだよ」

 玲子は呆れたようにため息をつく。

「でも、桜子も景のこと好き」

「知ってる」

「じゃあどうすんの?」

「……わからない」

 俺は正直に答えた。

「今は、何も決めたくない」

「逃げてるだけじゃん」

「そうかもな」

 玲子は少し黙った。

「景」

「ん?」

「桜子を傷つけないで」

「わかってる」

「それだけ」

 玲子はそれ以上何も言わなかった。

 俺は玲子を見る。

「お前、本当に桜子のこと大好きなんだな」

「当たり前じゃん」

 玲子は即答した。

「親友だから」

 その言葉には、迷いがなかった。

「だから、景のこともちゃんと見てる」

「俺を?」

「桜子を任せられる男かどうか」

「厳しいな」

「当然でしょ」

 玲子は笑った。

「大事な親友なんだから」

 その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。

 玲子は俺を好きだから近づいているわけじゃない。

 あくまで桜子のため。

 それなら、俺も余計なことを考えなくていい。

 このときの俺は、本当にそう思っていた。

     *

 その日の帰り。

 桜子が1人で教室に残っていた。

「桜子?」

「景」

 机の上にはノートが広げられている。

「勉強?」

「うん」

「真面目だな」

「景に言われたくない」

「俺だってやってるよ」

「ほんと?」

「……まあ」

 桜子が笑った。

「ねえ、景」

「ん?」

「日曜日、楽しみ」

「ああ」

「映画のときも楽しかったけど」

 桜子は少し考えてから言った。

「2人で歩いてるだけでも、楽しい」

 俺は何も言えなかった。

「……ごめん」

「何が?」

「いや」

 桜子は不思議そうに俺を見る。

「景、最近変だよ」

「そう?」

「うん」

「どこが?」

「優しい」

「前からだろ」

「そうかな」

 桜子は笑った。

「でも、最近は特に」

 その言葉に、俺は胸が痛んだ。

 優しくしているつもりはなかった。

 ただ、傷つけたくないだけだ。

 でも。

 傷つけたくないから優しくすることが、相手を期待させることもある。

 それは分かっている。

 分かっているのに。

「桜子」

「うん?」

「……日曜日、楽しもう」

 それしか言えなかった。

「うん!」

 桜子は嬉しそうに笑った。

     *

 日曜日。

 待ち合わせ場所に現れた桜子を見て、俺は思わず言葉を失った。

「どう?」

 桜子は少し恥ずかしそうに、その場で一回だけ回ってみせた。

 普段の大学で見る姿とは少し違う。

 派手ではない。

 むしろ、桜子らしい控えめな服装だった。

 淡い色のワンピース。

 肩から小さなバッグを下げ、長い黒髪はいつもより丁寧に整えられている。

「……似合ってる」

「本当?」

「ああ」

「よかった……」

 桜子は胸元で小さく手を握った。

 その仕草が可愛くて、俺は少し笑う。

「何?」

「いや」

「笑った」

「可愛いなと思って」

「……っ」

 桜子の顔が一気に赤くなった。

「景、そういうこと急に言わないで……」

「本当のことだろ」

「そうだけど……」

 桜子は俯いたまま歩き始めた。

 耳まで赤い。

 俺はその隣を歩いた。

 楽しかった。

 本当に。

 桜子はよく笑った。

 何かを見つけるたびに俺を呼ぶ。

「景、見て」

「ん?」

「あれ可愛い」

「本当だ」

「ね?」

 そんな会話を繰り返す。

 昼食を食べて。

 買い物をして。

 喫茶店で休憩して。

 帰りの電車では、桜子が少し眠そうにしていた。

「疲れた?」

「ちょっとだけ」

「寝ていいぞ」

「でも……」

「俺が起こす」

「……じゃあ」

 桜子が目を閉じる。

 しばらくして。

 小さな頭が、俺の肩に触れた。

 俺は動かなかった。

 桜子の寝息が聞こえる。

 こんなに近くにいると、改めて思う。

 この子は、俺のことを本当に好きなのかもしれない。

 それなのに。

 俺の胸に浮かぶのは、葵の顔だった。

 そして、それと同時に。

 メグミ先輩の顔も浮かんだ。

 俺は目を閉じた。

 どうして、恋愛というものはこんなに面倒なんだろう。

     *

 駅に着く頃には、桜子も目を覚ましていた。

「……ごめん」

「何が?」

「肩」

「別に」

「重かったでしょ」

「全然」

「本当?」

「本当」

 桜子は安心したように笑った。

「今日はありがとう」

「俺も楽しかった」

「また行こうね」

「ああ」

 桜子は少し迷ってから。

「……約束」

 小指を差し出した。

「子供かよ」

「いいから」

 仕方なく、俺も小指を絡めた。

「約束」

「うん」

 桜子は笑った。

 その笑顔を見ながら、俺は思う。

 俺は、この子を傷つけたくない。

 でも。

 このままでは、いつか傷つけてしまう。

 それだけは分かっていた。

     *

 その夜。

 玲子のスマートフォンに桜子からメッセージが届いた。

『今日は楽しかった』

 続いて写真。

 そこには、少し照れた顔で笑う桜子が写っていた。

 玲子はその写真を見て、思わず笑った。

「よかったじゃん」

 親友が嬉しそうにしている。

 それだけでいい。

 そう思った。

 そのとき、別の通知が届く。

 葵だった。

『今日は景と一緒じゃなかったんだね』

 玲子は少し考える。

 そして返信する。

『桜子と出かけてたよ』

 しばらくして。

『そっか』

 それだけ返ってきた。

 玲子は画面を見つめる。

 葵も。

 桜子も。

 そして景も。

 みんな、それぞれ何かを抱えている。

「……ほんと、面倒くさい」

 玲子はスマートフォンを伏せた。

 自分は桜子の味方。

 それだけは変わらない。

 景にだって、まだ腹が立っている。

 桜子を傷つけた男。

 メグミ先輩に入れ込んで、桜子の気持ちに気づきもしなかった男。

 そんな男を好きになるなんて、桜子はどうかしている。

 玲子はそう思っていた。

 だから。

 景のことをもっと知ろうと思った。

 桜子がどうして、あんな男を好きになったのか。

 その理由を知りたかった。

 そして。

 もし本当に桜子を幸せにできない男なら。

 自分が何とかして、桜子を景から引き離す。

 それが親友としての自分の役目だと思っていた。

 まだ、このときは。

 玲子自身も、その気持ちに少しも疑問を持っていなかった。

     *

 翌週。

 サークルの練習が終わったあと、俺は葵と二人で片付けをしていた。

「景」

「ん?」

「この前のことなんだけど」

「何?」

「日曜日、楽しかった?」

 一瞬、答えに詰まった。

「ああ」

「そっか」

 葵は笑った。

 でも、その笑顔は少し寂しそうだった。

「葵?」

「何でもないよ」

「……そう?」

「うん」

 葵は譜面を片付けながら、ぽつりと言った。

「私も、景とどこか行きたいな」

 心臓が跳ねた。

 俺は葵を見る。

 葵は顔を上げない。

「……今度行こう」

 俺がそう言うと。

「本当?」

「ああ」

 葵が顔を上げた。

 その笑顔を見て。

 俺は確信した。

 やっぱり、俺はこの子が好きだ。

 ただ。

 その気持ちを口にする勇気は、まだなかった。

 メグミ先輩のことを完全に忘れられない自分。

 桜子の気持ちを知っている自分。

 そして、葵の気持ちすら確信できない自分。

 いくつもの感情が絡まり合って、俺は1歩を踏み出せずにいた。

 その様子を。

 少し離れた場所から玲子が見ていた。

「……なるほどね」

 玲子は小さく呟いた。

 桜子だけじゃない。

 葵も、景を見ている。

 そして景も。

 葵を見る目が、他の誰かを見るときとは少し違う。

「……桜子」

 玲子は小さく息を吐いた。

 親友を応援したい。

 でも。

 景の気持ちまで無理やり変えることはできない。

 それは、玲子自身が一番よく分かっている。

「どうしたらいいんだろ」

 誰に聞くでもなく、呟く。

 答えは出なかった。

 ただ1つだけ。

 この恋愛模様は、もう玲子1人の力ではどうにもならないところまで動き始めている。

 そんな予感だけがあった。

 そして玲子はまだ知らなかった。

 この先、自分自身がその輪の中へ入り込んでいくことを。

 今はまだ。

 桜子の親友として。

 景を警戒する、1人のギャルとして。

 ただ、それだけだった。


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