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はじまりの音  作者: Randa
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第六章 誰のための嘘なのか

 その日の昼休み。

 景が教室を出ると、廊下の窓際に桜子が立っていた。

 いつものように、長い黒髪を背中へ流している。

「あ……景」

 桜子がこちらを見つける。

 そして、ほんの少しだけ頬を緩めた。

「お昼、一緒に食べない?」

「いいけど」

 その返事を聞いた瞬間、桜子の表情が明るくなる。

「本当?」

「そんなに驚くことか?」

「だって……最近、景忙しそうだったから」

 そう言って笑う。

 その笑顔を見ていると、景はなんとなく断れなくなる。

 二人で向かったのは、中庭に面したベンチだった。

 春の風が吹いている。

 桜の花びらが一枚、桜子の髪に落ちた。

「動くな」

「え?」

 景は手を伸ばして、それを取った。

「あ……」

 桜子の顔が赤くなる。

「髪についてた」

「……ありがとう」

 小さな声だった。

「景くん」

「ん?」

「この前、玲子さんと話してたよね」

「ああ」

「……仲良くなったの?」

 何気ない質問。

 けれど、桜子の指が弁当箱の端をぎゅっと握っていることに、景は気づかなかった。

「いや。あいつ、最初は俺のこと嫌ってるみたいだったし」

「そう……だよね」

 桜子は少し安心したように笑った。

「玲子、景のことを誤解してたんだ」

「誤解?」

「うん」

 桜子は箸を置いた。

「景って、もっと……冷たい人だと思ってたみたい」

「実際、冷たいだろ」

「そんなことないよ」

 即答だった。

 景が思わず桜子を見る。

 桜子は少し恥ずかしそうに俯いた。

「私には、優しいから」

 その一言が、妙に胸に残った。

     *

 放課後。

 桜子は景と並んで歩いていた。

「今日は駅まで一緒に行ってもいい?」

「ああ」

 自然にそう答える。

 最近、こういう時間が増えていた。

 桜子といると、不思議と気を遣わない。

 沈黙していても苦にならない。

 景がくだらない話をすれば、桜子は笑う。

 桜子が学校であった小さな出来事を話せば、景は適当に相槌を打つ。

 それだけなのに。

 それだけだからこそ。

 二人の距離は、少しずつ近づいているように見えた。

 少なくとも――傍から見れば。

「景」

「ん?」

「今度の日曜日……暇?」

「日曜?」

「はい」

 桜子は少し迷ってから言った。

「よかったら……二人で出かけない?」

 景は少しだけ考えた。

 そして、

「いいぞ」

 そう答えた。

「……本当?」

「嘘をつく理由がない」

 桜子は笑った。

 今まで見た中でも、一番嬉しそうな笑顔だった。

「楽しみ」

「ああ」

 その様子を、少し離れた場所から見ている人物がいた。

 玲子だった。

「……何よ、あれ」

 腕を組みながら、玲子は二人を眺めていた。

 桜子があんな顔をする。

 その理由は、考えるまでもない。

「……まあ、そりゃそうか」

 玲子は小さく息を吐いた。

 桜子は昔からそうだった。

 一度好きになったものには、驚くほど一途になる。

 だから玲子も知っている。

 桜子がどれだけ景を大切に思っているのか。

 だからこそ――。

「……あたしがどうこうする話じゃないよね」

 そう呟いて、玲子は踵を返した。

     *

 翌日。

「ねえ、玲子」

 桜子が声をかけてきた。

「ん?」

「景って、あんな感じだった?」

「あんな感じって?」

「なんていうか……落ち着いてるというか」

「あー……」

 玲子は少し考えた。

「確かに、あいつ妙に落ち着いてるよね」

「でしょう?」

 桜子が嬉しそうに笑う。

「普通ならもっと慌てたり、格好つけたりするじゃない」

「わかる」

「でも景はそういうのがなくて」

「……まあね」

 玲子はそこで言葉を止めた。

 実際、玲子自身も同じことを感じていた。

 最初は嫌いだった。

 桜子を振った男。

 それだけで十分だった。

 最低な奴だと思っていた。

 ところが。

 実際に話してみると、景は玲子が想像していた男とは違った。

 言い訳をしない。

 媚びない。

 自分を大きく見せようともしない。

 何を言われても、妙に静かに受け止める。

 それが玲子には、少しずつ気になり始めていた。

「……なんなのよ、あいつ」

「え?」

「いや、なんでもない」

 玲子は笑った。

「それよりさ」

「はい?」

「日曜、デートなんでしょ?」

「……デートじゃない!」

 桜子の顔が一気に赤くなる。

「ただ、一緒に出かけるだけ」

「はいはい」

「本当にそうなんだって」

「わかったって」

 玲子は笑いながら、桜子の肩を軽く叩いた。

 そして心の中で思う。

 ――頑張れ、桜子。

 あんたが幸せになるなら、それでいい。

 …それでいいはずだ。

     *

 日曜日。

 桜子と景は二人で街を歩いていた。

 映画を見て。

 昼食を食べて。

 その後は、特に目的もなく街を歩いた。

「楽しいね」

「そうか?」

「うん」

 桜子は笑った。

「景と一緒だから」

 景は返事をしなかった。

 ただ、少しだけ桜子を見る。

 桜子は気づいていない。

 いや。

 気づいているのかもしれない。

「景」

「ん?」

「また……こういう日があってもいい?」

「ああ」

「……よかった」

 桜子は胸の前で小さく手を握った。

 その横顔は、どう見ても恋する女子だった。

     *

 一方。

 玲子は一人で駅前の喫茶店にいた。

 偶然、桜子から届いた写真を見ていた。

『今日は楽しかった』

 そこには、景と並んで歩く桜子の姿が写っていた。

「……よかったじゃん」

 玲子はスマートフォンをテーブルに置いた。

 なのに。

 なぜか胸の奥が少しだけざわつく。

「……あたし、何考えてんのよ」

 景が誰と一緒にいようと関係ない。

 桜子が幸せなら、それでいい。

 そう思っている。

 なのに。

 頭に浮かぶのは、数日前に景と話したときのことだった。

『玲子、お前は桜子のことを大事にしてるんだな』

 そう言われた。

 ただ、それだけだった。

 けれど、その言葉が妙に残っていた。

「……ほんと、嫌な奴」

 玲子は苦笑した。

「そういうところが、ずるいのよ」

     *

 そして、その日の夕方。

 景は一人で街を歩いていた。

「景くん」

 後ろから声がした。

 振り返る。

「……メグミ先輩」

 そこにいたのは、メグミ先輩だった。

「久しぶり」

「どうしたんですか?」

「たまたま見かけたから」

 メグミ先輩は柔らかく笑った。

「少しだけ、一緒に歩かない?」

 景は迷った。

 けれど、断らなかった。

 二人は並んで歩いた。

 昔の話。

 学校の話。

 最近の話。

 そして――昔の2人の話。

「景くん」

「はい」

「私、まだ諦めてないから」

 景は足を止めた。

「……先輩」

「困らせたいわけじゃないの」

 メグミも立ち止まる。

「ただ、後悔したくないだけ」

 静かな声だった。

「もう一度だけ、あなたの隣に行きたい」

 景はしばらく何も言わなかった。

 そして。

「……先輩」

「うん」

「俺も……」

 その先の言葉を、景は飲み込んだ。

 それでも。

 メグミには十分だった。

 二人の距離が、ゆっくりと近づいていく。

     *

 その光景を。

 居合わせた玲子が見ていた。

「……え?」

 足が止まった。

 メグミ。

 そして景。

 二人の距離は、明らかに友人同士のものではなかった。

「……嘘」

 玲子の胸がざわつく。

 けれど、すぐに別の考えが浮かんだ。

 ――桜子。

「……そうだ」

 玲子は自分に言い聞かせる。

「あたしは、桜子のために……」

 景がメグミを選べば。

 桜子が傷つく。

 それだけは嫌だった。

「だったら……」

 玲子は拳を握った。

「だったら、あたしが止めればいい」

 それは正義感だった。

 少なくとも、玲子自身はそう思った。

 桜子のため。

 全部、桜子のため。

 そうでなければ――。

 自分がこんなに胸を痛める理由など、説明できなかった。

     *

 夜。

 玲子は景の前に立っていた。

「……玲子?」

「ちょっと、話がある」

「こんな時間に?」

「いいから」

 玲子は景をまっすぐ見つめた。

「桜子のこと、どうするつもり?」

「……桜子?」

「そう」

 声が少し震える。

「桜子、あんたのこと本気で好きなんだよ」

 景は何も言わなかった。

「なのに、あんたは……」

 玲子は唇を噛む。

「メグミ先輩と……」

「玲子」

「何よ」

「お前、桜子のために怒ってるのか?」

「当たり前でしょ」

 即答だった。

 けれど。

 景は何も言わない。

 その沈黙が、玲子には怖かった。

「……何よ」

「いや」

「言いなさいよ」

「玲子自身はどうなんだ?」

 その瞬間。

 玲子の心臓が、大きく跳ねた。

「……何言ってんの」

「俺には分からない」

「分からなくていい」

 玲子は景に近づいた。

「これは桜子のためだから」

 もう一度。

 自分に言い聞かせる。

「桜子のため」

 だから。

 この気持ちは違う。

 景を気にしてしまうことも。

 景のことを考えると胸が苦しくなることも。

 メグミと一緒にいる姿を見て、嫌だと思ったことも。

 全部。

 全部、桜子のため。

「……そうじゃなきゃ、あたしがこんなことする理由なんてないじゃん」

 玲子はそう呟いた。

 景は黙っていた。

 その沈黙の中で、玲子は自分の答えを決めた。

 それ以上のことは、言葉にはしなかった。

 ただ、その夜。

 二人の間にあった距離は、これまでとは違うものになった。

 翌朝。

 玲子は一人、窓辺に立っていた。

 カーテンの隙間から差し込む光を見ながら、何度も自分に言い聞かせる。

 ――桜子のため。

 ――全部、桜子のため。

 そうでなければ。

 自分が景を求めたことの意味を、説明できない。

 けれど。

 その言葉を繰り返すほど。

 玲子自身が、一番分かっていた。

 それはもう――言い訳にすぎないのだと。

 そして同じ頃。

 桜子は景から届いた一通のメッセージを見て、嬉しそうに微笑んでいた。

『また今度、一緒に出かけよう』

 桜子は胸にスマートフォンを抱きしめる。

「……はい」

 誰も知らない。

 この日を境に。

 3人の関係が、もう元には戻れないところまで進んでしまったことを。

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